ジミー・カーター第39代大統領
米国のジミー・カーター元米大統領が12月29日、米ジョージア州プレーンズの自宅で死去した。100歳だった。彼は、ウォーターゲート事件で大統領を辞任したリチャード・ニクソン氏の副大統領から後任となったジェラルド・フォード大統領を破り、1977年に第39代大統領に就任した。私は当時を覚えている。気さくで潔白な人柄に大変な人気があった。そしてその高い期待は、じりじりと失望に変わっていったことも。
ジミー・カーターの大統領在任中、アメリカは1970年代のオイルショックに端を発する深刻な経済問題に直面していた。1973年の第一次オイルショックを引き金に全世界的にエネルギー価格が急騰し、インフレーションが進行した。カーターが大統領に就任した1977年には、この影響が国民生活をすでに圧迫していたので、これに対応すべくエネルギー政策を優先課題として掲げ、「エネルギーは国家的課題」と宣言し、消費削減や再生可能エネルギーの開発を呼びかけた。が、結局は米国民に「犠牲」を求める姿勢として冷淡に受け取られた。カーターの施策はそうまずいものでもなかったが、結果を出すまで時間を要し、目に見える成果が乏しければ支持率が低下するのも当然だった。
1979年の第二次オイルショックがこれに追い打ちをかけた。ガソリン価格の高騰と供給不足が深刻化し、米国民は長蛇の列を成して給油を待つ事態に陥り、政権への不満が一層高まった。危機への対応として、カーター大統領は連邦準備制度理事会(FRB)の新議長にポール・ボルカーを任命し、高金利政策を採用したが、インフレーション抑制に一定の効果を上げたものの、同時に失業率の悪化を招き、経済全体が停滞する結果を生むことになった。
カーター大統領は議会との関係もうまく切り回せなかった。彼は「ワシントンの腐敗した構造」と戦うことを公言して大統領になったものの、同じ民主党の議員とですら協調性を欠いていた。西部地域の水利事業を「不要な公共事業」と名指しして削減を試みた際には、地元選出の議員たちを敵に回し、党内に亀裂を生じさせることもあった。こうした対立が1978年の中間選挙で民主党に壊滅的な敗北をもたらし、さらに議会での影響力を大きく失わせた。
カーターの政治的失敗の根本には、彼の稚拙な理想主義がある。現実的な政治技術や戦略と結びつかなかったのだ。改革への熱意と正義感は賞賛されるべきものかもしれないが、実現のための柔軟性や交渉力を欠いていたため、逆に孤立を深める結果となった。彼の大統領在任期間は混乱と失望の象徴として特徴づけられている。
外交政策の挫折
ジミー・カーター政権の外交政策も、手ひどい失敗で記憶されるものとなった。とはいえ、まったくの成功がなかったわけでもない。イスラエルとエジプト間の和平合意であるキャンプ・デービッド合意を実現したこともある。1978年、カーターはエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相を招き、13日間の交渉を通じて歴史的合意を達成した。この和平協定は中東地域での安定を目指した画期的な一歩であった。だが残念ながら、現在から振り返ればその成果が期待した未来を導いたとはいえない。
彼の外交の最大の失敗はイラン危機を招いたことである。1979年のイラン革命では、長年米国の同盟国だったシャー政権が崩壊し、反米的なイスラム政権が樹立された。この経緯にカーター大統領がまぬけな印象で関わっている。彼がシャーの病気治療のために米国亡命を許可したことが引き金となり、イランの若者たちがテヘランの米国大使館を占拠する事件が発生したのだった。52人の米国人が444日間も人質に取られる事態となった。カーターは外交交渉や軍事作戦で解決を図ったが、これらの試みはことごとく失敗した。特に、1980年4月の救出作戦「イーグルクロー作戦」は、現場でのヘリコプターの衝突事故により失敗に終わり、国際的な恥辱を被った。
ソ連のアフガニスタン侵攻への対応も議論を呼んだ。カーターはモスクワ五輪のボイコットを決定するなど大衆の好みそうな制裁を課したつもりだったが、これが米国国内外での支持を集めたとも言い難い。また、冷戦時代の軍拡競争の中で彼が推し進めた核軍縮交渉もたいした成果を挙げることができなかった。端的に言うなら、大統領に向かない人だった。基本的に米国の大統領というものは、フォード大統領のように玄人筋からの評価を除けば、二期努めて評価されるもので、一期のカーター大統領はそれだけで歴史から忌まわしさ以外では残るべくもなかった。ちなみに、この関連がトランプ次期大統領を必死にさせたものでもあった。
ポスト大統領
ジミー・カーターの評価が高まった最大の要因は、皮肉にも大統領退任後の活動である。1981年にホワイトハウスを去って、ジョージア州プレーンズに帰った彼は、ポスト大統領としての模範的なキャリアを築き、その影響力を国際社会に広げた。ちなみに、米国大統領というのは職を辞したらワシントンを去るのが慣例なのだが、これをしゃらっと破ってのけたのがオバマ大統領だったりする。カーター大統領はその点、職を辞して活動の拠点を移し、カーターセンターを設立した。この非営利組織は、民主化支援、人権擁護、疫病撲滅といった国際的課題に取り組む拠点として機能し、カーター自身も精力的に関与した。また「ハビタット・フォー・ヒューマニティ(Habitat for Humanity)」にも関わった。これは、低所得者向けに適切な住宅を提供することを目的とした非営利団体であり、ボランティアや寄付を通じて住宅を建設し、支援を必要とする家族に販売する活動を行う。この際、住宅の提供は単なる施しではなく、居住者が可能な範囲で建設作業に参加し、自らの住まいに対する責任を持つ仕組みになっている。彼自身、単に資金提供や団体の顔となる役割に留まらず、実際に建設現場に足を運び、道具を手に取り作業に従事もした。大統領を辞してからようやく、「手を汚す」姿勢を獲得した。文字通り汗をかきながら釘を打つなどの肉体労働にも従事したという。
ここまでは美談のレベルだが、ジミー・カーター元大統領の貢献はそれに留まらず、国際的な調停者としての活躍が際立っている。 カーターの調停活動は核戦争の回避に寄与した可能性がある。1994年には北朝鮮の核開発問題が緊迫化し、軍事的衝突の危機が高まる中で、カーターは再び北朝鮮を訪問。金日成主席との直接交渉により、核施設の凍結を含む基本合意を引き出した。この合意は、米朝間で軍事的緊張を一時的に緩和させ、潜在的な核戦争を回避する契機となったと評価されている。冷戦後の不安定な国際秩序の中で、カーターの調停は国際平和の維持に大きな貢献を果たしたと言える。 これらの活動は、2002年のノーベル平和賞受賞の主要な理由となった。
彼のポスト大統領としての行動は、冷戦後の複雑な国際情勢の中で、紛争解決と平和構築を推進する重要な役割を果たしてきた。北朝鮮で拘束されていた米国市民の解放に尽力した事例である。2010年に北朝鮮で不法入国により拘束されていたアメリカ市民のアイジャロン・ゴメスの解放交渉を成功させた。この交渉においてカーターは、国家間の公式な外交ルートではなく、非公式な「市民外交」としてアプローチし、北朝鮮指導部との信頼関係を構築した。彼の行動は、国際的な人権問題に取り組むだけでなく、米朝間の緊張緩和にも一役買ったとされる。
ジミー・カーター大統領は、大統領を辞してから歴史に残る人物となった。「ポスト大統領」の規範を築いたともいえるだろう。悲しむべきことはそこの部分で彼に匹敵する「ポスト大統領」が見当たらないことである。
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