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2024.11.25

米国国務省のセラピー問題

 米国国務省で行われたセラピーセッションが、いま物議を醸している。日本ではあまり報道されていないかもしれないが、この出来事は米国の政治文化を映し出す興味深い一面となっている。単なる職場での心理カウンセリングという以上に、アメリカの政治文化や組織の在り方について、多くの示唆を含んでいるようだ。
 2024年の大統領選挙でドナルド・トランプ氏が勝利を収めた後、国務省は職員向けに少なくとも2回のセラピーセッションを開催したという。選挙結果に動揺した職員を支えるための措置だったわけだが、これが思わぬ波紋を広げることになった。前政権の政策が大幅に変更されることへの不安が、組織全体を覆っていたのだろう。実際、トランプ前政権時代には、省内の士気が著しく低下したとの報告もある。このままだと、多くの熟練職員が退職を選ぶかもしれない。
 当然のことながら、この異例な対応は共和党側から厳しい批判を受けることとなった。納税者の資金がこうした精神的サポートに使われることへの疑念や、政府機関としての中立性に対する懸念が噴出したのだ。共和党のダレル・イッサ議員は、ブリンケン国務長官に書簡を送り、セラピーの開催を「不穏」と表現。税金の使い道として適切でないと強く主張している。イッサ議員に同調する声も少なくなく、保守系メディアでは「政府機関の左傾化」を示す証拠として、この問題を取り上げる論調も出てきそうだ。
 このような反応の裏には、トランプ前政権時代の複雑な経緯が隠されている。移民政策や国際関係における強硬な姿勢は、国務省の職員たちにとって大きなストレス要因となっていた。日々の職務の中で、人道的観点から深い葛藤を抱えていた職員も少なくなかったという。例えば、メキシコ国境での家族分離政策の実施過程では、多くの外交官が心理的な負担を訴えていた。国際社会からの非難に対応せざるを得ない立場にあった彼らにとって、この政策の擁護は特に困難な課題だったとされる。そんな彼らにとって、トランプ氏の再登場は、まさに悪夢の再来だった。前政権時代、国務省内では度重なる政策の急転換に振り回される場面が多々あった。パリ協定からの離脱、イラン核合意からの撤退、WHO脱退の表明など、国際社会に大きな影響を与える決定が、時として省内での十分な検討もないまま発表されることもあった。こうした経験が、職員たちの間に深い不安を植え付けることになったのは想像に難くない。
 とはいえ、イッサ議員が指摘する「政治的中立性」という問題も、簡単には無視できない。国務省の職員は、どの政権下でもその政策を誠実に実行する義務を負っている。しかし、個人の信念と職務上の責任との間で葛藤が生じるのは、ある意味で自然なことでもある。一部には「現政権の方針に賛同できない職員は辞職すべきだ」意見も出てきそうだが、20年、30年というキャリアを投げ出すことが、果たしてそう簡単な選択であるわけはないし、そのキャリアが活かせないのや米国国家の損失だろう。
 この問題は、米国の公務員制度の特徴とも深く関連している。米国では政権交代に伴い、約4,000人もの政治任用職が入れ替わる。これは日本の「政権交代(笑)」とは比較にならない規模だ。そのため、政策の実務を担当するキャリア官僚たちは、より直接的に政権の方針転換の影響を受けることになる。また、米国の行政機関では、政治的任用者と career civil servant(キャリア公務員)の間の境界が比較的明確で、両者の関係が時として緊張を孕むこともある。
 そもそも米国の政治システムでは、政権が変わるたびに大幅な政策転換が行われる。前政権で国際協力や環境問題に熱心に取り組んでいた職員が、突如として孤立主義的な政策に従事することを求められる。オバマ政権からトランプ政権への移行期には、パリ協定に関わっていた職員たちが、一転して協定からの離脱プロセスに携わることを余儀なくされた際も、まあ、ひどいものだった。こうした急激な方向転換は、確かに大きな精神的負担となりうるだろう。トランプ前政権時代には、キャリア外交官に対する不信感が公然と表明されることもあった。いわゆる「ディープステート(笑)」という表現で、伝統的な外交政策を支持する職員たちが批判されることもある。このような経験が、職員たちの間に深い傷跡を残したことは想像に難くない。今回のセラピーセッションは、そんな職員たちの苦悩を垣間見せる出来事だったともいえる。
 もっとも、摂関政治と比較しても、この種の組織的なストレスケアが全く前例のないものというわけではない。9.11テロ後、多くの政府機関で職員向けのカウンセリングが実施された。また、新型コロナウイルスのパンデミック初期にも、医療従事者を中心に同様のサポートが提供されていた。といえ、政権交代に際してこのような対応が取られるのは、確かに異例といえるだろう。
 国務省は現在、この問題について公式なコメントを出していない。しかし、このセラピーセッションの一件は、単なる内部サポートの問題として片付けられるものではないだろう。そこには、米国政治における政権交代がもたらす社会的・政治的な不安定さが、如実に表れているからだ。また、この問題は、現代の組織運営における新たな課題も提起している。従業員のメンタルヘルスケアは、民間企業では当たり前のものとなりつつある。しかし、政府機関における同様の取り組みは、常に政治的な文脈での解釈にさらされる。職員の健康管理と政治的中立性の間で、どのようなバランスを取るべきなのか。これは、今後の行政組織運営における重要な検討課題となるかもしれない。
 幸いなことに、日本ではこうした問題は表面化していない。官僚が上手に状況を見越し、日本人特有の機運を管理しているためかもしれない。あるいは、そもそも政治的な変化による影響がアメリカほど大きくないため、同様の状況が起きにくいのかもしれない。確かに日本の官僚制は、政権交代による政策変更を緩和する機能を持っているように見える。実際的な権力と言いたいくらいださ。また、日本の場合、政権が変わっても基本的な政策の方向性が大きく変わることは比較的少ない。
 次期トランプ政権は、この種の、まあ、ぶっちゃけリベラ派的な反動にどう対応するのだろうか。単に一政府機関の人事管理の問題としてではなく、アメリカの政治文化そのものを問い直す契機とすべきなのだろう。政治的な対立が深まる中で、行政機関の職員たちの心理的な負担は、今後さらに増大する可能性もある。セラピーセッションをめぐる今回の騒動は、そうした課題の一端を垣間見せる出来事だったといえるだろう。まあ、米国政治も日本の政治から学ぶべきことは、まだまだたくさんあるのだよ、と言いたいところだ。

 

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