30年ぶりの伊勢参り
約三十年ぶりに伊勢参りに出かけることとなった。かねてより友との約束で再訪を期していた伊勢神宮であるが、その友は幸いにも体調を崩し、同行も叶わずとなった。そして、歳月だけが流れ去ってしまった。いささか奇妙な心持ちではあったが、結局のところ、追悼めいた旅となった。
三十年という歳月は長いようでいて、年を重ねるごとに時の流れは驚くほど速やかになる。前回の伊勢詣でがそれほどの昔であったとは思えない。内宮を訪れてみれば、五十鈴川の風景は昔日のままに変わらず、この伊勢参りを通じて、若い日に抱いていた「日本の古代史を巡る旅」への思いが再びよみがえり、過去の自分との邂逅を果たしたかのような感覚に襲われた。
伊勢に着いて、まずは外宮に参拝することとした。折しも午後三時頃で、神様への御饌が運ばれる時刻であったため、神饌を運ぶ神官たちの儀式めいた参列に興味深く見入った。翌日には内宮に参拝したが、その荘厳な空気感は三十年前と変わらず私を包み込んだ。が、当時と違い、参拝者が非常に多く(そのわりに京都みたいに外国人は多くない)、行列が続く状況であった。賑わいはそれはそれでよいことなのである。
だが、私にとって内宮以上に重きを置いているのは荒祭宮である。荒祭宮こそが伊勢の本質であると感じているからだ。今回は混雑していたものの、三十年前は訪れる人もなかった。青年であった私は、あの大木の間を歩きながら、悠久の歴史を感じるとともに、現代とは異なる時の流れがそこに存在しているように思えたものである。伊勢の自然と神聖な雰囲気が、心の奥底にある何かを揺り動かしてくれるのを感じた。「神がここにいる」という感覚であろうか。荒ぶる心が静まるものであったのだろうか。
古代史への関心と奈良
二十代後半から三十代前半にかけて、奈良を頻繁に訪れていた。法隆寺や斑鳩の里(亀井勝一郎とか和辻哲郎とか)、明日香といった古代の地を巡りながら、万葉集や古事記、日本書紀などの古典に親しみ、飛鳥・奈良時代の歴史に思いを馳せていた。当初は東京から京都を経由し、京都で柿の葉寿司を求めて車中で味わい、奈良へ向かうのが常であったが、やがて名古屋からの近鉄ルートの方が便利と知り、伊勢や松坂を経由するルートも楽しむようになった。新たなルートを辿る中で、伊勢の神々や信仰にも次第に関心が広がり、いつしか本格的な伊勢参りへの思いが育っていったというわけである。
当時の奈良への旅は、自分なりに日本という国をより深く感じるためのものであった。法隆寺の仏像や斑鳩の風景は、古代の人々の信仰心と美意識というより、今は失われた異郷の日本を感じさせてくれた。明日香村では万葉集の世界が重なる。石舞台古墳や古代の遺跡を巡りながら、飛鳥時代の人々がどんな暮らしを営み、どのような未来を夢見ていたのか、まるで幻視するかのようであった。蚊にもよく挿されたたが。奈良の静謐な風景と古代の息吹を感じさせる土地は、若き日の私にとって精神的な故郷でもあった。
壬申の乱と天武天皇の正統性
奈良時代といえば、「壬申の乱」は私にとって最も興味をそそる歴史の一つである。天智天皇と天武天皇とされる兄弟間の王位継承を巡る激しい争いで、一般的には天智天皇が兄で天武天皇が弟とされているが、その関係性については謎が多く、真に兄弟であったのかすら疑念が残る。この争いに勝利した天武天皇は、新たな王朝の基盤を築き、その正統性を伝えるために『日本書紀』が編纂されたと私は考えている。つまり、『日本書紀』は単なる記録ではなく、天武天皇を正当化するための「偽の歴史の構成」でもあるという見方なのである。そもそも史書というものは、事実を伝えるものではなく、政治的な目的を持つためのものなのだが。
壬申の乱は、単なる王位継承の争いにとどまらず、東アジア広域に関わる豪族たちの権力関係や宗教的な支配構造が複雑に絡んでいたことであろう。この歴史的な背景を考えるとき、天武天皇が勝利した後に築いた新たな体制が、いかほどの影響力を持ち、その後の日本の歴史にどのような影響を与えたのか。大津皇子の悲劇の物語もその一部なのであり、そしてその姉が最初の斎王であり、伊勢に関わっている。
伊勢神宮と斎王の歴史
今回の伊勢参りで殊に思いを馳せたのは、天皇家の娘が伊勢神宮に奉仕する斎王の存在である。斎王制度は、天皇の娘が伊勢神宮に仕え、国家の繁栄と平安を祈る神聖な役割を担うとされ、この制度は平安時代末まで続いたが、室町時代に自然に廃止され、次第に人々の記憶からも薄れていった。江戸時代にはすでに忘れ去られていたことであろう。
現在の伊勢の斎宮跡には博物館が設けられ、平安時代や中世の斎王制度の歴史や文化を紹介する展示が行われている。殊に特設展の平安時代末期の文化の展示は美しく感動的であった。平安時代の美意識がその後の日本文化の基盤として深く根付いている様子を垣間見ることができた。
斎王の歴史を知ることで、当時の女性の役割や立場についても考えさせられる。斎王に選ばれるということは、天皇家の一員としての責任と、国家の安寧を祈る神聖な役割を負うことを意味していたが、それはつまり、個としての自由を犠牲にすることでもあったのだ。それは天武天皇が支払うべき贄であり、天皇家が支払うべき贄であった。斎王たちは、伊勢という特別な地で国家のために祈りを捧げ続けるのである。その姿は、現代の私たちが忘れがちな「公の贄」としての意識を思い起こさせてくれる。
平城京と長屋王の遺跡
斎宮跡になにもないといえば、奈良時代の平城京跡も同様であったな。若い頃によく奈良を訪れた平城京跡は一面の野原のようであったが、そこに立つだけでかつての栄華の残酷な顛末を感じ取ることができたものである。あれだ、折口信夫の『死者の書』で大伴家持がこんなところまで来てしまったというあれ、いやあれは藤原京だったな。
平城京のその一角で長屋王が謀反の疑いをかけられ、最期を迎える「長屋王の変」が起きた。長屋王の遺跡は保存されているが、その邸宅跡の上に、それからそごうが建てられ、そして今ではそれも閉店。現代との時間のギャップも感じられる。
長屋王の変は、奈良時代の政治的な争い、藤原氏との対立により、謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれたとされているが、単なる権力争いではなかったのではないか。木簡には「長屋親王」と記されており、父・高市皇子は天皇であったのであろう。どの天皇か、それが持統天皇の正体ではないか。持統とは「皇統を持する」ということなのだ。とか言っても珍説と取られる。木簡のほうを信じろと言いたいがな。さて、長屋王の真実から祟りが起きたのだろう。その封じの奈良の大仏の本当の姿なのだろう。が、この珍説におもはや私自身興味を失っている。
鎮魂ということ
今回の伊勢参りは、単なる観光ではなく、ある意味、自分のためにも鎮魂の旅であったが、歴史が現代の文化や価値観にどのように影響を与えているのかも改めて感じさせられた。斎宮で見た、殊に平安時代の美意識は室町時代に再評価され、その後の日本文化の基盤として現代に至るまで深く根付いているが、言い方は悪いが、古き良き文化というのは過去を再創造することであり、本当は起源など存在しないのである。そこにあるのは「野原」であり、かつて何かがあったという郷愁を感じるだけで十分なのだ。その意味で、斎宮はよい場所である。天皇制というもの終わった終焉の姿そのものなのだ。日本人はそれも忘れて、忘れたからこそ、馬鹿騒ぎできるという愚かさを噛みしめるべき聖地なのである。
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