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2024.10.27

米主要2紙の大統領選挙非支持表明

 2024年の米大統領選挙の終盤がせまる現在、ロサンゼルス・タイムズとワシントン・ポストが候補者支持を見送るという異例の決定を下した。この判断は単なる編集方針の変更以上の意味を持つかもしれない。デジタル時代におけるメディアの役割の根本的な変容を示唆しているように思えるからだ。
 米国ジャーナリズムでは、この問題を早速、イデオロギーを臭わせた旧来のジャーナリズム論から展開しているが、ジャーナリズム論として注目すべきことは、この決定がSNSの台頭やデジタルメディアの影響力増大という文脈の中で行われたことだろう。従来の米国高級紙による「候補者支持」という行為は、限られた情報源から読者が政治的判断を行っていた時代の産物とも言える。現代では、読者はむしろ、多様な情報源から自身の政治的判断を形成することが可能になっている。
 この変化は、メディアの影響力の質的変容も示している。かつて新聞社による候補者支持は、その地域や読者層の政治的方向性を強く規定する力を持っていたが、今日では、読者はSNSやオンラインメディアを通じて、より多様な視点や解釈に容易にアクセスできる。もちろん、そのことがフェイクニュースなどの問題を生んでいるが、いずれにせよこの情報環境の変化は、従来型の「候補者支持」という形式の有効性に疑問を投げかけていることは確実である。
 さらに、この決定は米国メディア界における客観性概念の再定義とも密接に関連している。伝統的に米国ジャーナリズムは、事実報道における中立性と、社説による明確な立場表明を使い分けることで、その社会的役割を果たしてきた。しかし、現代の分断された政治環境において、この二元論的アプローチの限界が露呈してきている。

オーナーシップと編集権の新たな緊張関係
 ジャーナリズムが資本主義体制下にあることも新しく議論されるべきだろう。両紙の決定過程で顕著だったのは、オーナーと編集部門との間に生じた深刻な対立である。ワシントン・ポストのジェフ・ベゾス氏、ロサンゼルス・タイムズのパトリック・スン・シオン氏という、テック産業やビジネス界出身のオーナーたちは、伝統的なジャーナリズムの慣行に対して異なる視座を持ち込んだ。この対立は、単なる経営と編集の相克を超えた意味を持っている。テック産業出身のオーナーたちは、プラットフォームとしての中立性を重視する傾向があるのだ。これは、アルゴリズムによる情報配信を基本とするデジタルプラットフォームの思考様式が、伝統的メディアの運営にも影響を及ぼし始めていることを意味している。
 時流として注目すべきことは、両オーナーが「政治的中立性」を重視する一方で、編集部門が「ジャーナリズムの社会的責任」を強調したという対立軸である。この構図は、現代メディアが直面する根本的なジレンマを象徴している。すなわち、「中立」であることと「責任」を果たすことの新時代での両立という課題である。
 この対立はまた、メディアの商業的成功と社会的使命の間のバランスという資本主義の古典的な問題にも新たな光を当てている。デジタル時代において、質の高いジャーナリズムの経済的持続可能性を確保しつつ、その社会的責任をどのように果たしていくのか。両紙の決定は、この難問への一つの応答とも解釈できる。

デジタル時代における「編集判断」の意味
 従来の「候補者支持」は、米国高級紙が持つ社会的影響力の象徴であり、同時に責任の表明でもあった。しかし、情報環境自体がすでに劇的に変化した現代において、この慣行はどのような意味を持つのか。両紙の決定は、この本質的な問いを投げかけている。重要なのは、「中立」を標榜することが必ずしも「責任放棄」を意味しないという新しい視点だろう。むしろ、より詳細な事実検証や多角的な分析を提供することで、読者の判断を支援するという新たな役割が浮かび上がってきている。この変化は、メディアの「ゲートキーパー」としての役割が、「ナビゲーター」としての役割へと転換していることを示唆している。
 この転換は当然、将来のジャーナリズムの実践にも大きな影響を与える。例えば、両紙は候補者支持の代わりに、より詳細な政策分析や、ファクトチェック機能の強化を打ち出しているが、読者に対して「何を支持すべきか」ではなく、「何を考慮すべきか」を提示するアプローチへの移行を意味する。
 さらに、この変化は「編集判断」という概念自体の再定義も促している。従来の編集判断が「正しい立場の選択」に重点を置いていたとすれば、新しい編集判断は「多様な視点の公正な提示」により注力することになる。これは、メディアの権威が「判断の独占」から「対話の促進」へとシフトしていることを示している。それは、SNSのあるべき姿であるかもしれないし、SNSとの新しい共存の形かもしれない。

メディアの未来像を問う決定
 従来型の「支持表明」に代わる、新しい形の政治的言論の場をどのように構築していくのか。両紙の決定は、この課題に対する一つの回答案を示していると見なすべきだろう。つまりこの決定は、単なる一時的な方針変更以上の意味を持ち、デジタル時代におけるレガシーメディアの生存戦略にも関わる。対岸の火事ではない。編集方針において米国よりはるかに臆病な日本の大手紙やNHKにも、また共同などの報道社にも関わってくる。
 この変化が若い世代の情報消費行動とも密接に関連している点は強調されてよい。各種の調査によれば、若年層は特定のメディアの政治的立場よりも、事実に基づく分析と多様な視点の提示を重視する傾向が強い。両紙の決定は、このような世代間の価値観の変化を反映したものとも解釈できる。この決定が投げかけた波紋は、今後も米国メディア界に大きな影響を与え続けるだろう。特に、2024年の大統領選挙における両紙の報道姿勢は、新しいジャーナリズムの可能性を示す実験場となる。候補者支持に代わる、より建設的な政治的対話の場を創出できるか。その成否は、メディアの未来像を占う重要な指標となる。同時に、この変化は既存のメディア組織に対して、その存在意義の再定義を迫るものでもある。単なる情報の伝達者や政治的立場の表明者としてではなく、複雑化する社会における「意味の媒介者」として、新たな役割を模索することが求められる。その意味で、今回の両紙の決定は、新しいメディアの進化と市民意識との関係における重要な転換点としてジャーナリズム史に記憶されるだろう。

 

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