2024年衆議院議員総選挙後の国民民主党への懸念
2024年の衆議院総選挙で、自民・公明の連立与党は単独過半数を失い、国民民主党がキャスティング・ボートを握ることとなった。自民党は191議席(前回から57議席減)、公明党は24議席(前回から8議席減)を獲得したものの、与党合計の215議席では過半数の233議席に届かず、28議席(前回から21議席増)を得た国民民主党の協力なしには政権運営が困難な状況に陥っている。一方、野党では立憲民主党が148議席(前回から52議席増)、日本維新の会が43議席(前回から2議席増)、れいわ新選組が9議席(前回から6議席増)、日本保守党が2議席(新規)を獲得している。立憲民主党もまた与党以外の勢力をまとめたいところだが、基本的に左派政党である同党が右派的な政党をまとめることは難しい。なにより今回の選挙は、懐かしい昭和時代的な左派ポピュリズムの結果でもあり、これを裏切るような動きを同党は取れないだろう。
だが、今回の選挙結果は日本の政治のある構造の変化をもたらすかもしれない。その際、目の上のたんこぶ的なものが、国民民主党がキャスティング・ボートを握ることだ。これがかつて政治のキャスティング・ボートを握った公明党のような存在になれば、それはそれで陳腐な収束点となるのだが、私は、国民民主党の玉木雄一郎代表の政治手法には深刻な懸念を抱いている。原点は、彼の森友学園や加計学園に関連する疑惑に関する態度である。私はこの問題は蜃気楼のようなもので、しかも日本のポピュリズムの問題が露呈した醜悪な事態だと認識しているが、玉木氏はまさにその反対の極にいた。しかし、今回の懸念は、彼の政治家の資質ではない。政治の構造的な問題である。
同党は「改革中道政党」を標榜し、リベラルと保守の対立を超えた政治を掲げているが、これを考える際、欧州の中道政党が歴史的に築いてきた歴史が参考になる。キャスティング・ボートの陳腐な光景があるのだ。
【外国の事例と日本の現状】
キャスティング・ボートを握る政党の存在は、議会制民主主義において必ずしも特異な現象ではない。全体として好印象のように取られるのがドイツの事例である。ドイツでは、2010年代から2020年代にかけて、自由民主党(FDP)が連立政権において重要な役割を果たしてきた。FDPは市場原理を重視する明確な政策理念を持ち、財政規律の維持や経済的自由の擁護といった一貫した主張を展開した。また同じポジションにあった緑の党も、環境保護や再生可能エネルギーの推進という具体的な政策課題を掲げ、それを実現するための詳細な工程表を示した。両党とも、単なる「中道」という曖昧な立場ではなく、明確な政策的アイデンティティを持って連立交渉に臨んでいて、それなりに展開していた。だが、ウクライナ戦争以降、理念型の対応ではすまされない、主にエネルギー事情からの圧迫によって、次第に政策の意思決定、あるいは決定変更が不明瞭となり、あるカオス的な状況に陥った。日本がこれから陥る政治状況はこれに近いものになるだろうが、日本の場合、エネルギー事情に加えて、差し迫る軍事脅威が存在する。
イスラエルの政治状況は、より複雑な様相を呈しているというか、三人いれば五つの政党ができるのがイスラエルである。1990年代以降、宗教政党が頻繁にキャスティング・ボートを握り(これはロシアや東欧移民が多く保守的)、しばしば政権の命運を左右してきた。これらの政党は、ユダヤ教の価値観に基づく教育政策や徴兵免除といった具体的な要求を持ち、それを実現するために政治的影響力を行使してきた。その結果、少なくとも明確な理念に基づく政治的な対立であっただろうが、イスラエルの政治は不安定化した。不安定化が安定化した。そして、その行き着く先が国家意思とポピュリズムと宗教的妄想のアマルガムであり、内政のために国際世界の視点が見えない独善国家にまで成り下がった。不安定な政権が極端に走るつまらない典型である。日本の場合、さすがにイスラエルのような状況にはならないだろうが、軍事的な脅威が高まったときは、日本のポピュリズムが国家主義的な傾向に振り切れないとも言えないだろう。
イタリアの事例は、ある意味ヒューモラスな示唆に富んでいる。2000年代以降、北部同盟やイタリア同胞党といった地域政党や中道小政党が、しばしば連立与党の命運を左右してきた。これらの政党は、地方分権や移民政策といった明確な政策課題を持ち、それを実現するために政治的影響力を行使してきた。そのため、政権の不安定化を招いても自省もなく、各党の政策的立場は地中海の空のように明確であり、有権者はその主張を理解した上で投票行動を決定することができた。それが意味するところは、中世のイタリア半島を連想させるような何かである。日本にこのような図が現れるとしたら、日本維新の会の延長の絵であろう。
さて、日本。国民民主党だが、その政策的立場は、私には極めて不明瞭に見える。玉木代表は「手取り増加策」や「教育国債による子育て支援」など、耳触りの良い政策を掲げているが、その財源や実現可能性についての具体的な説明は乏しいというか、ないだろう。森友・加計学園問題への対応においても、単なる政治的な駆け引きの道具として使われているようにしか見えなかったが、国民民主党が掲げる「中道」という立場の実質的な意味は、つまり、政局の道具だということだ。欧州の中道政党が、社会民主主義と新自由主義の間で明確な政策的位置取りを示してきたのに対し、国民民主党の「中道」は、政局に都合よく使い回せる単なる曖昧さの別名に過ぎない。労働政策では左派的な主張を展開しながら、財政政策では保守的な立場を取る。その場その場で都合の良い政策を選択している。その場その場では、正しいのかもしれない。その点、似たような自民党石破首相と意気投合する、アンパンマンと食パンマンみたいな絵が映されても、驚くこともない。ただ、最悪なのは、キャスティング・ボートの政党は基本的に政策結果には無責任でいられることだ。
【うっとうしい日本政治の未来】
国民民主党がキャスティング・ボートを握ることは、日本の政治にとって決して好ましい事態ではない。与党は国民民主党の協力を得るために様々な譲歩を強いられるだろう。それは必ずしも建設的な政策形成につながらない、ということは、どうでもいい。政策の一貫性が損なわれ、場当たり的な対応に終始する可能性が高いがそれもしかたがない。政局の不安定化はむしろそうした生存状態に適した環境である。国民民主党次第で政権運営が左右される状況は、政策決定の遅延や非効率を招くリスクが高いが、それこそが日本らしさとでも言うべきものだろう。
欧州の事例が示すように、キャスティング・ボートを握る政党が最低限の建設的な役割を果たすためには、明確な政策理念と具体的な実行計画が不可欠であるが、幸いにしてか、国民民主党にそれが備わっているとは、私には到底思えない。
日本の野党勢力は、一党支配的な政治からの脱却は望ましいと煽る。だが、ポピュリズムに映る一党支配とは、実際には些細な党内運営費用の工面程度への怨嗟でしかない。国政は今後多くの妥協が迫られるが、それでも、政策理念が明確で、実行力のある政党によって担われるべきものである。しかし、一見政治理念に見えるような「正論」しか吐けない石破首相が、すでに、この衆院選挙という失態を、すでに、もたらしているのである。このような情勢で国民民主党がキャスティング・ボートを握る状況は悪夢というよりジョークである。
現実政治は、矛盾した利害調整を行っていかなくてはならない。ダーティ・ハンドから逃れることはできない。だからこそ、長期的な国家戦略を立案し実行する主政党が必要であり、極論すれば、汚かろうが能力が劣っていようが、主政党は、長期政権を見据えて国策を提示しなければならない。それは正しいあるべき姿なんかではない。あるはずもない。国民の手もダーティ・ハンドから逃れることはできない。だからこそ、誰もが「汚れた」政治の主体にならなくてはならない。だから、キャスティング・ボート的な政治ポジションを目論むような政党は整理していくべきなのだ。昭和テイストな左派政党は、日本に一定層存在する左派政党は高齢化の進展で自然消滅するだろうが、歴史の挿話程度になる。今日本の政治に求められるのは、国策の共通項でまとまらない中道ポジションの政党を政局祭りで舞台に乗せるのではなく、静かに実質的に、解体していくことである。
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