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2024.10.11

AIと人間の共生における知能の退化は避けられないだろう。

ジェフリー・ヒントンの警告
 AIと人間の共生における知能の退化は避けられないのではないだろうか。ジェフリー・ヒントンのエピソードから話を切り出したい。2024年にノーベル物理学賞を受賞したヒントンは、AIの安全性や人間の知能の衰退に対する深い懸念を示していた。彼は、教え子でもあるサム・アルトマンが主導するOpenAIが営利目的に傾倒し、AIのリスクを軽視していると批判し、その危険性を強調した。彼の懸念は、AIが持つ高度な操作能力が人間の心理に深刻な影響を与え、人々がAIに依存しすぎることで、自らの意思決定能力や批判的な思考力が失われることにあった。
 この懸念は、単なる技術のリスクにとどまらない。AIの進化によって、私たちの社会がどのように変貌し、私たち人間自身がどのように変化していくのか、より深い問題に根ざしている。特に「AIと人間の共生」というテーマを考えるとき、そこには大きなリスクとして「人類の知能の退化」という影がつきまとう。AIによって人間の知能が支えられる一方で、その知能が徐々に衰退していくことは、避けられないディストピア的な未来の一部であると考えざるを得ない。

技術と知能の歴史的な変遷
 人間の知能が技術の進歩によって衰える現象は、新しいものではない。計算機が普及した時代には、計算能力が顕著に低下した。ワープロやスペルチェッカーの台頭により、手書き能力やスペルの知識も衰えていった。日本人は漢字を書くことも苦手になってしまった。そして、AIがもたらす現在の変化もまた、同じ流れに位置づけられる。
 AIの普及により、複雑な問題に向き合う機会が減少している。AIは膨大なデータを瞬時に解析し、質問に対して最適な答えを提示する。これは便利である反面、私たちがその過程で学ぶ機会や考える機会を奪うことにもなる。例えば、簡単な質問に対してもAIに頼りがちになり、それが日常生活の意思決定能力の低下を招く恐れがある。
 技術進化が人間の思考に与える影響は、個人の知能の低下にとどまらず、社会全体の知的な成熟にも影響を及ぼしつつある。AIは私たちの生活をより便利にしている一方で、私たちが自ら考える必要のない環境を作り出している。このような傾向は、残念ながら、反論も多いとはいけ、若い世代において顕著であるように見受けられる。彼らの問題解決能力や創造的な思考が養われる機会は減少してく。技術が進化することで、私たちはますます機械に頼り、思考の過程を省略しがちである。こうした急速な変化が実感されないのであれば、それ自体がすでに、AI化する社会の問題なのである。

AIによる教育への悪影響
 教育現場においても、AIは多くの変化をもたらしている。好ましい面がないわけではないが、現実はといえば、学生たちはAIを使ってレポートを自動的に生成し、自分自身で文章を練り上げる必要がなくなりつつある。このような使い方が一般化すれば、論理的思考力や創造力、さらには独自の表現力も失われていくだろう。語学学習の場面では、AI翻訳ツールの普及によって、言語を学ぶ意欲が低下するという問題も起きている。これにより、異文化理解の深まりや、言語の微妙なニュアンスを学ぶ機会が大幅に減少している。大学はこの問題に禁止といった態度で及んでいるが、現実的には不可能だろうし、そもそも、これらからの人類社会における知は、AIとの共生によるものだから、馬と人間が同じレースで走ってなんの意味があるだろうか。早く進むには、馬に人が乗って走るだけである。
 AIの「便利さ」は、教育の質そのものを蝕んでいる。学生が自分で調べて考える機会を奪い、AIに頼ることで知識の表層的な理解に留まることが増えている。結果として、独立した学びの姿勢や深い知識の探求が薄れていくリスクがある。それはもう仕方がない結果なのである。
 AIの影響は教育の場を越えて、私たちの社会全体にも広がっている。教育という分野は変革を好まないことや、老齢化した教師の雇用を守ることから、社会においてもっとも変革が遅い区分にあるが、それでもAIによって自動化された教育ツールは、教師の役割を徐々に奪いつつあり、学びのプロセスにおける人間同士の交流が減少している。人間の教師から受ける直接的な指導やフィードバックは、学生が深く学び、成長する上で重要な要素であるが、AIに依存する教育環境では、こうした「人間的な要素」が失われ、学生たちは機械的に学ぶことが常態化していく。このことは、教育の質の低下だけでなく、学習に対する情熱や興味の喪失にもつながりかねないが、奇妙なことに「人間的な要素」こそがAIによって実現可能なのである。このことは各人が学生であったころの教師の顔を思い浮かべても納得できるだろう。

AI依存社会がもたらす未来
 AIが社会の各方面で深く浸透するにつれ、AIに依存することが常態化する社会が生まれる。このような社会では、私たちが自らの意思で何かを決定する機会がますます減少し、AIの提案に従うことが常識となる。AIは、人間の心理を理解し、巧妙に説得する能力を持ち始めており、それによって私たちの意思決定のプロセスがAIに取り込まれていく危険性がある。ヒントンはこの側面も深く懸念していた。しかし、この懸念の背景にあるのは、AIの高度化というより、人がそもそも自らの意思で何かを決定する機会を好まないからなのである。そんなことはないと反論する人もいるかもしれないが、現実を見渡してみればわかることではないか。意思決定というのは、実際には重たいコストなのである。トロッコ問題が茶化されるのも人は意思決定を好まないことが基本にある。
 この未来の中で、人間は自ら考える必要のない存在になる。AIの指示通りに行動することで満足感を得るようになる。ありきたりのAIディストピア論をなぞるようだが、これは『三体』のような想像を要するSFの物語でもない。退屈な事実認識にすぎない。人は、AIが提示する選択肢に従うことで、一時的な安心感や効率性の追求が満たされるようになる。不思議に思わないのだろうか。テレビや無料とされる情報につきまとう、明るいプロモーションは、人の選択を停止させることで消費行動行動を心地よく支配している。
 個々の人間の知能は退化し、社会全体がAIに依存する方向に向かう。私たちの知能が退化することは、AIによって代替される。そこには、失われていく「人間らしさ」ある。まさかね。それこそが、「人間らしさ」の、人類の次の段階のありかたなのだ。
 AI依存社会では、個人の独自性や創造性が失われるが、それは人間にとっては、あたかも独自性や創造性が発揮された結果のように意識される。AIに2+2=4と計算させて、人間は2+2=5と主張することに独自性や創造性を感じるようなものだ。私たちは、『2084』を書くべきだろう。
 AIが提供する効率的な選択肢に頼ることで、私たちは実際には、自分自身で新しいアイデアを考え出す必要がなくなる。創造的な思考や新しい価値を生み出す力が失われ、社会全体の文化や科学技術の進歩にも影響を及ぼす。AIは、過去のデータを基に最適解を提供するが、それはあくまで過去の延長線上にあるものであり、革新的な発想や未知の領域への挑戦を促すものではない。プロペラ飛行を改良してもジェット飛行機は生まれない。

偽の希望を語ることは誠実ではない
 AIがもたらすディストピア的なビジョンに対して、「AIは所詮道具であり、その正しい使い方を教育によって改善すれば問題を解決できる」というアイデアがよく提唱される。しかし、それは偽の希望に過ぎない。具体的にそのような教育の有効な方法論は存在せず、AIのリスクを真に克服する手段がないのが現実である。
 AI教育に関しては、その理想的な使い方を教えることでリスクを低減しようとする試みがなされているが、技術の進化速度は教育の取り組みを追い越してしまう傾向がある。AIの使用に関する倫理教育や批判的思考の育成は重要であるとされているが、実際にその教育がどの程度効果を上げるかはまったく明確ではない。AI技術は多くの人々にとってブラックボックスのような存在であり、実はその専門家ですら、その仕組みを完全に理解することは難しい。ヒントンはこのことをよく知っていた。教育によってAIのリスクを完全に制御することはほぼ不可能なのである。
 AIに依存し共生することで、人間の知的能力が退化していく教育の改善だけでは、AIによってもたらされる便利さに対抗することは難しい。結局のところ、AIが人間の意思決定を肩代わりすることで、人々はその便利さに慣れ、自ら考える能力を放棄する傾向が強まっていく。AIのリスクを教育のみで克服することは現実的ではなく、むしろAIの進化とともに人間の知能が退化するディストピア的な未来が進行している。
 AIのリスクを克服するには、単なる教育以上の取り組みが必要である。社会全体でAI技術の使用に対する規制や倫理的ガイドラインを策定し、AIに対する依存を最小限に抑える努力が求められる。しかし、技術の進化とその普及速度を考えると、これらの取り組みが実効性を持つかどうかすら疑問が残る。私たちが直面する現実は、AIの便利さに引き寄せられ、その影響下で知能が退化していく未来であり、それを食い止めるための有効な対策が見つからないまま、私たちはAI依存の時代に突入しつつあるのである。というか、すでに突入している現実を認識するか、認識しないかだけの差である。

 

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