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2024.10.09

ウクライナの農地問題の現在

 ウクライナは「ヨーロッパのパンかご」として知られるほど豊かな農業資源を持つ国である。しかし現状、その広大な農地が外国資本や新興財閥の手に渡り、小規模農家が厳しい状況に追い込まれているようだ。ここで紹介する、2023年にオークランド研究所(The Oakland Institute)によって発行されたレポート『戦争と窃盗:ウクライナの農地の乗っ取り』(War and Theft: The Takeover of Ukraine's Agricultural Land)には、あまりメディア報道されることがない、この問題の詳細な背景と影響が分析されている。ブロガー視点で気になった点をまとめおこう。

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まとめ

  • マイダン革命後、ウクライナの農地の多くが外国資本や大規模企業に管理され、土地改革により外資が農地にアクセスできるようになった。
  • ウクライナの農業生産の50%以上を担う小規模農家は支援不足で困難に直面している。
  • 西側諸国からの条件付き支援がウクライナの農業と産業の民営化を促進し、農地の支配が一部企業に集中するリスクが指摘される。

 

ウクライナ農地の集中と外国資本
 ウクライナには、約3,300万ヘクタールの耕作可能な土地があり、うち430万ヘクタールが大規模農業に利用されている。さらにそのうち、約300万ヘクタールは、十数社の大規模アグリビジネスによって管理されており、企業が外国資本によって運営されている。Kernel社は約58万ヘクタールの農地を所有し、その登記はルクセンブルクにある。UkrLandFarmingは約40万ヘクタールを所有し、その登記はキプロスにある。
 ウクライナでは、今回の戦争が開始される前年、2021年に大規模な土地改革が実施されたが、この改革は、2014年のマイダン革命以降、西側の金融機関や欧州連合(EU)の支援を受けた構造調整プログラムの一環として実現されたものであり、これによりウクライナの土地の民営化と市場の開放が大きく進められた。外国投資家がウクライナの農地にアクセスできるようになり、結果、海外資本が扱いやすいように土地の集約が加速した。多くのウクライナ国民はこの土地改革に反対していたとも見られるが、ウクライナのマイダン革命政府は海外からの経済的支援を得るために改革を強行した。結果として、2022年末までに約11万件の土地取引が行われ、合計26万ヘクタール以上が売買された。

外国からの支援と小規模農家への影響
 事実上のウクライナ農地の海外開放後、欧州復興開発銀行(EBRD)、欧州投資銀行(EIB)、国際金融公社(IFC)などの投資機関は、ウクライナの大規模農業企業に対して約17億ドルの融資を行い、これにより、これらの海外企業はさらにウクライナ土地を取得し、農業の支配力を強化することができた。例えば、欧州復興開発銀行はウクライナの大手企業に対して10億ドル以上の融資を行っており、企業の拡大を後押ししている。
 他方、ウクライナの小規模農家に対する支援は極めて限定的である。世界銀行の部分信用保証基金はわずか540万ドルに過ぎず、この支援の不均衡がウクライナ農業における不平等を助長している。現状、ウクライナの農業生産の50%以上を小規模農家が担っており、特にジャガイモや野菜、乳製品など国内消費向けの作物生産において重要な役割を果たしているが、資金不足に悩む農家が多く、経済的困難に直面している。レポートでは言及していないが、戦時下、EUはウクライナ支援の一環として、2022年6月4日から同国産農産物への関税賦課を停止したところ、ウクライナから安価な農産品が陸路で欧州に大量に流入し、近隣国の農家(政治的な力を有する)の反発が収まらず、EU加盟国間で不協和音が発生した。この背景には外資導入されたウクライナ農業問題もあるだろう。

条件付き援助とその代償
 ウクライナは現在、西側諸国から、軍事支援以外にも各種の援助を受けているが、厳しい条件もまた付されている。これらの援助は、結局のところ、ウクライナ国家の産業構造調整プログラムの一環であり、社会的安全網の削減や主要産業の民営化などの緊縮政策を伴う。例えば、2022年にはアメリカから1,130億ドル以上の経済援助を受けたが、その多くは軍事支援(不正の温床でもある)や経済改革に条件付けられていた。欧州連合(EU)からの援助にも、公共サービスの縮小や規制緩和といった厳しい改革が求められた。これらの改革は、ウクライナ国内の多くの市民にとって生活の質の低下をもたらすリスクがあり、特に小規模農家や低所得層には深刻な影響を与える。
 国際通貨基金(IMF)もまた、ウクライナに対して、主要な国営企業の民営化を含む一連の条件を提示しており、これによりオリガルヒ(経済の民営化を通じて社会資本から富を蓄積した特権階級)や外国企業が、ウクライナの重要な資産を手に入れる機会が拡大している。これらの西側からの条件付き援助は、すでに軍事支援で危機的に見られているように、ウクライナ国内での権力の集中や汚職の増加を招くリスクをはらんでおり、社会的不安定を助長する要因となっている。例えば、IMFの条件によりエネルギー料金の値上げが実施された際は、一般市民の生活費が大幅に増加した。ウクライナは、戦禍に覆われているが、こうした西側由来の改革からも多くの家庭が経済的に厳しい状況に直面している。

ロシア侵攻の影響と農業の現状
 ロシアによるウクライナ侵攻も、当然ながら、農業に甚大な影響を与えている。戦争により、肥料、種子、燃料の不足が生じ、さらにインフラの破壊や農地の地雷設置といった問題も発生している。国連の報告によると、2022年のウクライナの農業生産量は戦前の水準から30%以上減少しており、これは主にロシアの侵攻に伴うインフラの破壊と農地の汚染が原因である。特に、インフラ破壊により輸送手段が断たれたことで、農産物の国内外への流通が大幅に制限され、農家の収入が減少しているが、これも先に述べた欧州販路の問題に関連している。
 ウクライナの農地に対する戦闘の影響は深刻さを増し、今後は地雷や未爆発弾の撤去が必要とる。復興時にも、農業生産は遅延し、安全に耕作できる土地が限られているという問題が発生する。現状でも、農地の汚染と戦闘による被害は、特に小規模農家に深刻な打撃を与えており、多くの農家が農業を続けるために最低限の資源でやりくりしている。
 対して、西側資本の大手企業は、この戦争の混乱を利用してさらなる土地の集積を図っており、農業の集中化が効率よく進んでいる。レポートは、これらの企業は戦争中にもかかわらず土地を拡大し、ウクライナの農業資源をますます支配するようになっている様子を描写している。特にウクライナ小規模農家は、資金不足や人手不足の中で、日々の生活を維持することさえ困難な状況に追い込まれているが、国際的な援助も、結局は大手企業に偏重しているため、小規模農家への直接的な支援は乏しい。

戦後復興と民営化の懸念
 ウクライナは戦時下ではあるが、すでに戦後復興計画は伸展しており、その際に国際金融機関や外国の利益がウクライナの公的セクターのさらなる民営化と農業の自由化を求めていくことになる。欧州復興開発銀行と国際通貨基金(IMF)は、戦後復興のために7,500億ドルの支援を提供する一方で、ウクライナ政府に公営企業の民営化や農業市場のさらなる自由化を求めている。このような動きに対し、ウクライナ国内の農家や市民社会からは、戦争中および戦後の土地市場の取引停止と土地法の見直しを求める声が上がっており、彼らは、戦後の復興においてオリガルヒや外国の利益ではなく、ウクライナ国民の利益が優先されるべきだと強く訴えている。

 以上、レポート『戦争と窃盗:ウクライナの農地の乗っ取り』は、政治イデオロギー的着色がない分、公平にウクライナ農業の未来に対する懸念を示し、農業改革が公正かつ持続可能な形で進む必要があることを主張している。レポートでは、国際的な支援は外国資本ではなく、ウクライナの小規模農家と国民の利益を守るために使われるべきだと強調しているが、現実には難しいだろうとも思われる。それがより可視になっていくとき、ウクライナ国民は本当に西側の体制をよしとするのだろうかという疑問も生じた。

 

 

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2024.10.08

『ゲーム・オブ・スローンズ』を通して学ぶ英国史

『ゲーム・オブ・スローンズ』はその複雑なストーリーラインとキャラクターの深みで多くのファンを魅了してきたが、その背景には英国史から多くのインスピレーションを受けた要素が多く存在する。作者のジョージ・R・R・マーティンは英国史のさまざまな出来事や人物に基づいて、壮大なファンタジーを作り上げたようだ。この記事では、英国史における重要な出来事を『ゲーム・オブ・スローンズ』のエピソードと比較しながら、ファンがどのように英国史を学べるかまとめてみよう。

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アングロサクソン時代の王国と七王国時代

『ゲーム・オブ・スローンズ』における七王国は、歴史的な英国のアングロサクソン時代の王国を彷彿とさせる。5世紀から10世紀にかけてイングランドには、ウェセックス、マーシア、ノーサンブリアなどの独立した王国が存在し、それぞれが地域的な支配権を持っていた。同様に、『ゲーム・オブ・スローンズ』の七王国もそれぞれが独自の文化と特徴を持ち、互いに争いながら徐々に統一へ向かう流れが描かれている。

また、この物語の初期には、スターク家が支配する北部やラニスター家の影響力が強い西部など、各地域が異なる勢力に支配されている状況がアングロサクソンの時代の英国を想起させる。イングランドが徐々に統一され、最終的に一つの王国になる過程は、ウェスタロスにおける戦いと王国の統一のテーマと共鳴している。

ハドリアヌスの長城とウェスタロスの壁

『ゲーム・オブ・スローンズ』に登場する「壁」は、英国史におけるハドリアヌスの長城(122年頃築造)に強くインスピレーションを受けている。ハドリアヌスの長城は、ローマ帝国がスコットランドからの侵攻を防ぐために築いたもので、北の境界を守る役割を果たしていた。同様に、「壁」はウェスタロス北部を野人やホワイト・ウォーカーから守るために存在し、その象徴的な役割はハドリアヌスの長城と共通している。

クヌート大王とウェスタロスの統一

英国史におけるクヌート大王(1016年即位)は、イングランド、デンマーク、ノルウェーの広大な領域を統一したことで知られている。彼の治世は、異なる文化をまとめ上げ、安定した統治を行った点で特筆される。『ゲーム・オブ・スローンズ』におけるウェスタロスの統一も、異なる文化や地域の統合を目指す点でクヌートの治世と類似している。異なる背景を持つ勢力を一つにまとめる試みが、ウェスタロスとクヌート大王の治世に共通するテーマだ。そういえば、クヌート大王は『ヴィンランド・サガ』でも印象深く描かれている。

ノルマン・コンクエストとターガリエンの征服

英国史の最大事件ともいえるノルマン・コンクエスト(1066年)は、ウェスタロスの歴史と多くの共通点がある。ウィリアム征服王がノルマンディーからイングランドを征服し、新たな支配者層を形成したように、『ゲーム・オブ・スローンズ』ではターガリエン家がドラゴンの力を借りてウェスタロスを征服し、新しい王朝を築いた。

ノルマン・コンクエスト後のイングランドでは、新たな貴族層が土地を支配し、旧来の支配者層と摩擦が生まれた。これは、ターガリエン家の征服後に各地の領主たちが新しい支配者に順応していく姿と類似している。征服者としてのウィリアムと、征服王エイゴン・ターガリエンには、異なる文化や力を背景にしながらも新しい秩序を築こうとする共通の目的が見られる。

薔薇戦争とウェスタロスの内戦

『ゲーム・オブ・スローンズ』におけるラニスター家とスターク家の対立は、英国史における薔薇戦争(1455–1487年)を強く彷彿とさせる。薔薇戦争は、ランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)の間で行われた王位継承を巡る内戦であり、イングランドの政治的混乱と不安定さが続いた。この内戦は、ラニスター家(名前すらランカスター家に類似)とスターク家(ヨーク家に類似)との権力闘争のストーリーにインスピレーションを与えている。

薔薇戦争との類似点でいえば、『ゲーム・オブ・スローンズ』でも貴族同士の対立が激化し、数多くの戦いが繰り広げられることも挙げられる。内戦の中で登場人物たちは忠誠心を試され、時には家族や同盟を裏切るなど、実際の歴史と同様の複雑な人間関係が描かれている。このように、英国の内戦時代のリアルな権力闘争が、ウェスタロスの動乱を通して再現されている。

十字軍とウェスタロスにおける信仰の対立

英国を含むヨーロッパ全体で11世紀から13世紀にかけて行われた十字軍は、宗教的な熱意に基づく遠征であり、政治と信仰が深く結びついた出来事だった。『ゲーム・オブ・スローンズ』にも宗教的な対立や宗教的情熱が政治に大きな影響を与えるシーンが数多く描かれている。

例えば、七神正教を信奉する「雀聖団(スパロウズ)」が政治的権力を握り、王族に影響を及ぼす姿勢は、十字軍の遠征に見られるような宗教的信念が国家や権力構造に大きな変化をもたらす様子と似ている。宗教と政治が複雑に絡み合うことで、争いが激化し、新たな秩序が模索される状況が共通して見られる。

マグナ・カルタとウェスタロスにおける諸侯の力

1215年に制定されたマグナ・カルタは、イングランド王ジョンが貴族たちに対して王権を制限するために認めた憲章であり、貴族たちが王に対して力を持つことを示した。同様に、『ゲーム・オブ・スローンズ』でも、諸侯たちが王に対して独自の権力を持ち、王権を制限しようとする動きが見られる。

ウェスタロスにおける諸侯の権力闘争は、貴族たちが自らの領地を守るために団結し、王に対して要求を突きつける姿勢と非常に似ている。たとえば、北部の領主たちが独立を主張し、王に対して自らの権利を守ろうとする姿勢は、マグナ・カルタ時代のイングランドの貴族たちの動きに共通している。

宗教改革とウェスタロスにおける宗教対立

16世紀の英国では宗教改革によりカトリックとプロテスタントの対立が激化し、国家全体に大きな影響を与えた。『ゲーム・オブ・スローンズ』では、七神正教と炎の神など、異なる宗教が政治に影響を与えるシーンが多く見られる。宗教が人々の信仰や行動に与える影響が、政治的な権力争いにどう関わってくるのかが巧みに描かれている。

たとえば、宗教団体である「雀聖団(スパロウズ)」が王都で勢力を持ち、王族に対して影響力を行使する姿は、宗教改革期における宗教勢力の増大と国家権力との摩擦を思わせる。信仰の違いが権力に影響を与えることで、政治と宗教の絡み合いが一層複雑になる点が共通している。

スチュアート朝の亡命とターガリエン家の王位請求

英国史の中で、スチュアート朝のチャールズ2世やジェームズ2世は、国外追放後に王位の奪還を目指した。『ゲーム・オブ・スローンズ』のデナーリス・ターガリエンもまた、幼少期に亡命し、成長してからは奪われた王座を取り戻すことを目指す。

デナーリスの「奪われた故国を取り戻す」という強い意志は、スチュアート家の亡命王たちが王座を取り戻そうとする努力と重なる。亡命生活の中で支援を集め、再び自らの正当な権利を主張しようとする姿は、歴史的な王位請求者たちの物語と共鳴している。

薔薇戦争の終結とウェスタロスの統一

薔薇戦争の終結後、ヘンリー7世がチューダー朝を創設し、イングランドを統一したように、『ゲーム・オブ・スローンズ』でも多くの内戦を経て新たな王朝が成立し、王国の安定がもたらされる。特に、複数の勢力が戦いの果てに統一され、平和が訪れる過程は、薔薇戦争後のイングランドの再建とよく似ている。

最終的に、ターガリエン家やラニスター家、スターク家といったさまざまな家の間で繰り広げられた戦いが終息し、新たな統治者が登場することで、長い内戦に終止符が打たれるというテーマは、チューダー朝の確立によるイングランドの平和への道筋と重なる。

スコットランドとの相克とウェスタロスにおける異民族の対立

英国とスコットランドの関係は、長年にわたる相克と緊張によって特徴づけられている。英国によるスコットランド支配は、抑圧と反乱、植民地化を通じて複雑な歴史を形成した。このような相克は、『ゲーム・オブ・スローンズ』におけるウェスタロスの「北の自由民」(野人)と「壁の南の七王国」との対立に類似している。

北の自由民は壁の向こう側に住む異民族として、七王国からしばしば脅威と見なされ、抑えつけられてきた。しかし、自由民たちには彼らなりの文化や独立した生活があり、七王国に支配されることを拒んでいる。この対立構造は、さらにスコットランドに加えアイルランドが、イングランドからの独立と自決を求めた歴史的な抵抗運動と似ている。壁を超えた世界と壁の内側の世界との対立は、長年にわたる英国とスコットランドやアイルランドの複雑な関係を暗示していると言える。

まとめ

『ゲーム・オブ・スローンズ』は単なるファンタジーではなく、英国史のさまざまな要素を巧みに取り入れて物語に深みを与えている。七王国の分裂と統一、征服王による新たな秩序の確立、宗教と権力の絡み合い、貴族の独立性と王権の対立など、これらのテーマは英国史における重要な出来事や変化と密接に関連している。こうした点に注目すれば、物語を楽しみながらこれらの歴史的背景に触れることで、英国史の複雑さやその背後にある人間関係のドラマを学ぶことができる。

 

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2024.10.07

着床前診断をどう考えていくべきか

 生殖医療技術の発展に伴い、着床前診断(Preimplantation Genetic Diagnosis: PGD)の利用が増加している。この技術は、遺伝的リスクを抱えるカップルが、健康な子どもを持つ機会を広げるために用いられている反面、PGDの普及は多くの倫理的な問題を浮き彫りにしている。どこまでその使用を認めるべきかという議論は、日本のみならず、すでに世界中で展開されている。

まとめ

  • 着床前診断は体外受精によって作成された胚から細胞を採取して、遺伝的異常を検査する技術であり、本来は遺伝性疾患を回避するために用いられる。
  • 着床後の検査との違いとしては、着床前診断は胚が母体に着床する前に異常を確認でき、中絶のリスクを回避できるため、心理的負担が少ないとされる。
  • 着床前診断の普及には倫理的懸念が伴い、各国で規制や議論が異なる。日本でもその利用拡大が進む一方、倫理的な議論が必要とされている。

着床前診断とは何か

 着床前診断(PGD)は、体外受精(IVF)によって作成された胚から細胞を採取し、その遺伝情報を解析することで特定の遺伝的異常の有無を確認する技術である。遺伝性疾患のリスクが高いカップルにとって、将来生まれてくる子どもが健康であるかどうかを確かめる重要な手段となっている。

 PGDの具体的な手順としては、まず体外受精でいくつかの受精卵を作り、その受精卵がある程度成長した段階で一部の細胞を取り出し、遺伝的検査を行う。その結果、異常がないと確認された胚のみが子宮に移植され、妊娠を目指す。このプロセスにより、遺伝的疾患を回避する可能性が高まり、特定の疾患を持つリスクが大幅に低減する。

着床後の検査との違い

 着床前診断は、胚がまだ母体に着床する前に遺伝的異常を検査できる点で、着床後の検査とは大きく異なる。胎児診断や新型出生前診断(NIPT)などの着床後の検査では、胚が子宮に着床し、妊娠が成立した後に胎児の遺伝的異常を確認する。着床後の検査で異常が見つかった場合には、妊娠を継続するか中絶するかという重い決断を迫られることが多く、心理的な負担が大きい。

 一方、PGDは着床前に異常のある胚を排除できるため、妊娠後に中絶の選択を避けることができる。このため、倫理的な観点からも一定の支持を得ており、中絶に対する懸念が強い社会では特に注目されている。しかし、それでも生命を「選別」する行為であることには変わりなく、倫理的な問題は避けて通れない。

日本における着床前診断の現状と課題

 日本では、着床前診断の導入は他の先進国と比べ比較的遅れているとも言われ、現在でもその利用は慎重に行われている。日本産科婦人科学会は、着床前診断の利用を厳しく審査しており、2023年には過去最多の72例が審査された。そのうち58例が承認され、3例は条件を満たさず不承認となった。

 この背景には、2022年には、PGDの対象となる遺伝性疾患の定義が拡大されたことがある。従来は「成人になるまでに日常生活に深刻な影響を与える病気」が対象だったが、この定義が「原則」として柔軟に解釈されるようになり、成人後に発症する疾患も対象に含まれるようになった。これにより、より多くのカップルがPGDの対象となる可能性が広がったものの、倫理的な基準は依然として曖昧であり、審査基準の客観性と透明性についての改善が求められている。

 加えて、日本におけるPGDの認知度はまだ低く、情報が十分に行き渡っていないのが現状である。PGDを知らないカップルも少なくなく、選択肢として考慮することさえできないケースもあるという。この情報不足が原因で、あるカップルは遺伝性疾患のリスクを知らずに子どもを授かり、後悔の念を抱くという悲劇的なケースもあるようだ。

他国の状況と比較

 世界各国におけるPGDの取り扱いは、それぞれの国の文化や倫理観、法制度によって大きく異なる。こうした各国の状況は今後の日本での議論にも参考になるだろう。以下に、主要な国々のPGDに関する状況を紹介しよう。

アメリカ

 アメリカではPGDの利用が非常に広範に認められている。遺伝的疾患の予防だけでなく、性別選択など親の希望に基づく目的でも利用されることがある。アメリカ社会は個人の自由を重視しているため、親が望む特定の遺伝的特徴を選ぶことも可能であり、技術の商業化も進んでいる。しかし、この自由度の高さから、「デザイナーベビー」(受精卵の段階で遺伝子操作や精子バンクや着床前診断などによって親が望む外見や知力や体力などを備えた子ども)の懸念が生じ、遺伝的特徴を選別することが不平等を助長するリスクが指摘されている。

イギリス

 イギリスでは、PGDはヒト受精および胚培養局(HFEA)によって厳格に管理されている。利用には事前にHFEAへの申請が必要で、特定の重篤な遺伝性疾患に限ってPGDの利用が許可される。この規制により、技術の乱用が防がれつつも、遺伝的疾患の予防に対する適切な活用が進められている。また、HFEAは情報の透明性を確保することで、社会的な信頼を築く努力を続けている。

フランス

 フランスでは、PGDは厳格な法規制のもとで行われており、重篤な遺伝性疾患を回避する目的に限って許可されている。倫理委員会の審査を経て個別に判断され、公平性が重視されている。さらに、公的医療保険が一部適用されるため、経済的なハードルが比較的低い点も特徴だ。フランスでは、命の選別や技術の不平等性に対する社会的な議論が盛んであり、政府も倫理的な側面に対して非常に敏感に対応している。

ドイツ

 ドイツでは、PGDに対して非常に慎重な規制が敷かれている。2011年に連邦憲法裁判所がPGDの一部利用を認めたが、それでも許可されるのは重篤な遺伝性疾患のリスクがある場合に限られている。ドイツにおいては、過去の優生思想に対する強い反発から、生命の選別に対する倫理的な懸念が根強く、社会的に慎重な姿勢が取られている。

北欧諸国

 スウェーデンやデンマークといった北欧諸国では、PGDに関して比較的厳しい規制が設けられているものの、遺伝的疾患のリスクが高い場合には一定の許可が下りることがある。これらの国々では、社会的支援や倫理的な審査が非常にしっかりしており、医療制度が充実しているため、技術の利用は公正かつ慎重に進められている。

PGDを禁止している国

 スイス、オーストリア、イタリアなどでは、PGDが禁止されている、もしくは非常に厳しい条件下でのみ許可されている。これらの国々では、生命の選別に対する倫理的懸念や宗教的背景が強く影響しており、技術の利用に対する社会的な支持が限られている。特に、命の選別に対する懸念や家族のあり方に関する議論が深く関わっており、技術の普及が進みにくい状況だ。

展望

 着床前診断の利用は、世界各国の動向から日本でも要望が高まり、今後広がる可能性が高い。その利用がどこまで許容されるべきか、倫理的な議論は困難を極める。PGDは遺伝性疾患の予防に大きな貢献をしている一方で、命を「選別」する行為に対する抵抗感も依然として強い。この記事は市民ブローがによる視点でまとめたものだが、医療技術の進展と倫理的な枠組みのバランスを保ちながら、日本社会でも広く議論を興していく必要があるだろう。

 

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2024.10.06

新型コロナワクチン追加接種をどう考えるべきか

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のパンデミックが始まってから約4年が経過し、mRNAワクチンの導入から3年以上が経った今、日本における新型コロナ対策は長期的な対応を踏まえる局面を迎えているはずだ。2023年5月、日本政府は新型コロナウイルス感染症を季節性インフルエンザと同様の第5類感染症に分類し、厳格な隔離措置や全数把握を不要とした。しかし、一部で無料のワクチン接種は継続され、高齢者や基礎疾患を持つ人々には追加接種が推奨されている。2023年時点ですでに一部の国民には6回目または7回目の接種が提供されており、ワクチン接種の進展により新型コロナに対する懸念は薄れつつあるものの、追加接種の必要性については疑問の声も上がっている。
 ここでは、関連研究を踏まえ、日本における新型コロナワクチンの追加接種の必要性について考えなおしてみたい。特に、「ハイブリッド免疫」と呼ばれる現象に注目し、ワクチン接種と自然感染の両方を経験した個人の免疫応答について再考した。

ハイブリッド免疫の重要性
 「ハイブリッド免疫」とは、ワクチン接種後に自然感染を経験することで獲得される強力な免疫応答のことを指す。この免疫状態では、通常のワクチン接種のみでは得られない、より高い中和抗体価や幅広い免疫応答が観察される。2024年に大阪歯科大学や兵庫医科大学の研究者らによって発表された論文「mRNAワクチン接種後の新型コロナ感染に伴う抗体価の増加と時間的変動:追加接種の意義に関する考察」(DOI: 10.1002/ccr3.8953)では、ハイブリッド免疫を獲得した個人の抗体価の長期的な推移が報告されている。
 この研究によると、事例件数は少ないものの、ワクチン接種後に新型コロナに感染した患者が、感染後6ヶ月以上にわたって高い抗体価を維持していることが確認された。具体的には、40代の女性医療従事者のケースでは、3回のワクチン接種後に感染を経験し、その後6ヶ月以上にわたって高い抗体価が維持された。また、70代の夫婦のケースでは、4回目のワクチン接種後に感染し、1年間にわたって高い抗体価が持続した。
 さらに注目すべきは、2023年2月時点で日本の人口の42.3%がN抗体(感染経験を示す抗体)を保有していたという事実である。これは、日本の多くの人々がすでに新型コロナの自然感染を経験していることを示唆している。2022年初頭には日本人の70%以上が2回目のワクチン接種を受けており、2023年5月までに累積感染者数は約3400万人に達していたことを考慮すると、日本では多くの感染者がワクチン接種後にオミクロン株に感染していると推測される。
 これらのデータから、日本人の大半がワクチン接種と自然感染の両方によるハイブリッド免疫を獲得していると考えられるのではないだろうか。このような免疫状態にある個人に対して、頻繁な追加接種が本当に必要なのかという疑問も生じてくる。

個人差と基礎疾患の影響
 ハイブリッド免疫の効果は個人によって異なり、年齢、性別、基礎疾患、遺伝的要因などが影響を与えることが知られている。特に、免疫機能が低下している患者や基礎疾患を持つ患者では、ワクチン接種後の抗体応答が弱くなる傾向がある。
 例えば、透析を受けている患者や血液疾患患者では、新型コロナワクチン接種後の抗体価が低いことが報告されている。このような患者群に対しては、追加接種の必要性が高いと考えられる。一方で、健康な成人やハイブリッド免疫を持つ人々に対しては、抗体価の維持が確認されている場合、必ずしも頻繁な追加接種は必要ではない可能性がある。
 また、新型コロナワクチンの接種により、血液悪性腫瘍患者においてワクチン関連高代謝性リンパ節症(VAHL)が誘発されることがあり、スパイクタンパク質に対する抗体価が高いほどVAHLの発症率が高くなるという報告もある。このような副作用のリスクを考慮すると、ハイブリッド免疫によって高い抗体価が維持されている場合、追加接種には慎重な判断が必要となる。

変異株への対応と長期的な免疫応答
 抗体価が高く維持されているとしても、新たな変異株に対する防御効果が限定的である可能性は否定できない。新型ウイルスは急速に変異を繰り返していると見られ(これにはまったく異なる観点からの重視すべき異論が存在するが)、新たな変異株に対する既存の抗体の効果は不確定である。この点を考慮するなら、抗体価だけでなく、中和抗体や細胞性免疫の役割についても検討する必要はある。
 中和抗体は、ウイルスが細胞に侵入するのを防ぐ重要な役割を果たし、感染防止に直接的な効果を持つ。一方、メモリーT細胞は長寿命であり、ワクチン接種後8ヶ月経過しても重症化を抑制するのに十分な数が維持されると考えられている。本来なら、これらの免疫応答の長期的な変化を追跡することが、追加接種の必要性を判断する上で重要となるはずだった。

専門家の見解と市民の認識のギャップ
 日本では、感染症専門家がメディアやソーシャルネットワーキングサービスを通じて新型コロナワクチンの接種を呼びかけてきた。しかし、専門家の発言に科学的な根拠が不十分であり、整合性に欠けると考えているという市民の声が高まっている。この認識のギャップは、「マスク食事法」の推奨など、一部の感染対策に対する批判的な意見にも表れている。
 追加接種に関して、市民の間で強い懐疑的な見方が広がっている背景には以下のような要因があるだろう。

  1. 効果の疑問:多くの人々が既にハイブリッド免疫を獲得している可能性が高い中で、追加接種の効果に疑問を持つ声が多い。特に、若年層や健康な成人において、頻繁な追加接種の必要性に疑問を呈する意見が増えている。
  2. 副反応への懸念:新型コロナワクチン接種後の副反応に関する報告が広まり、追加接種によるリスクを懸念する声が大きくなっている。特に、心筋炎などの稀ではあるが重篤な副反応のリスクが、追加接種を躊躇する要因となっている。
  3. 過剰な推奨への不信:日本が世界的に見ても極めて多い回数の接種を推奨していることに対し、その科学的根拠を疑問視する声が上がっている。6回目、7回目といった追加接種の必要性について、明確な説明が不足していると感じる人々が多い。
  4. 情報の不透明性:ワクチンの有効性や安全性に関するデータの公開が不十分だという批判がある。特に、追加接種の必要性を判断するための明確な基準や、長期的な安全性データの不足が指摘されている。
  5. メディア報道への不信:一部のメディアがワクチンの効果を過大に報道し、リスクを軽視しているという批判がある。これにより、ワクチン接種全般に対する不信感が高まっている。

 

 

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2024.10.05

ウクライナの戦争と米国の支援の行く末

 ロシアのウクライナ侵攻は3年に及び、この間、国際社会の力学を大きく変え、特に米国の対外政策においてはウクライナ支援の限界が中心的でありながら、他の中東問題がクローズアップされるなか、微妙に言及しにくいテーマとなっている。米国はこれまで膨大な資金と軍事支援をウクライナに提供してきたが、その支援にはそれなりのメリットがあった一方で、国内外でもう限界にあるとの懸念が浮上している。今後も米国の支援の継続が可能なのか、そして米国が支援を停止した場合、国際社会はどのような影響を受けるかを論じるべき局面である。ここでは、米国のウクライナ支援のメリットとデメリットを整理しつつ、支援停止後のシナリオと、それがもたらす国際社会への影響について考察する。最悪のシナリオでは、ウクライナ全土が占領されることは避けられるものの、ウクライナは軍事力を失い、ロシアの求める新しい国境線が国際社会に受け入れられる状況に至る可能性がある。

まとめ

  • 米国のウクライナ支援は国際秩序維持とロシア抑制に不可欠だが、財政負担や戦争エスカレーションのリスクも伴う。
  • 支援停止後、最悪のシナリオではウクライナが武装解除され、ロシアの主張する新たな国境線が国際社会に受け入れられる恐れがある。
  • 国際社会はロシアの拡張主義に対抗するため、防衛協力や経済制裁を強化する必要があるが困難を極めるだろう。

米国のウクライナ支援の意義
 ロシアの侵攻を受けたウクライナにとって、米国からの支援はロシアに対抗するための最重要な手段であるが、米国が行っている支援は、軍事的、経済的、政治的などの多方面の意味合いを持つとされてきた。米国の提供する武器や防衛システム、経済的な資金援助は、ウクライナがロシアに対抗する上で不可欠なものであり、それなくしてこの戦争の継続はありえない。つまり、その限界が見えるなか、ウクライナの戦争の終結を見据える必要がある。

国際秩序の維持とロシアの抑制
 米国がウクライナを支援した主な理由の一つは、第二次世界大戦以降の国際秩序の維持である。ロシアのウクライナ侵攻は、NATOやEUといった国際的な安全保障の枠組みに対する挑戦であり、米国はこれを座視できない。米国がウクライナに対して強力な支援を続けることで、他の独裁国家に対しても侵略行為が許されないというメッセージを発信している。他方、ロシアとしては、冷戦体制である軍事体制でNATOがロシアに隣接することは受け入れがたい。
 米国としては、ロシアがウクライナの国境線変更の野心で成功を収めれば、その影響は東欧全体、さらには国際社会全体に広がり、他国への侵略行為が正当化される可能性があると見ている。米国のウクライナ支援は、このような事態を防ぐための一手段であり、世界の安定を維持するための重要な政策となっている。

支援における経済的メリットと防衛産業の活性化
 ウクライナ支援には、対外的な側面に目が行くが、米国国内における経済的な利点が大きい。米国がウクライナに提供している武器や装備は、米国国内で製造されており、その製造業を活性化させている。この戦争の期間、70以上の都市で防衛産業が活発化し、多くの雇用を支えることになった。さらに、ウクライナで使用されている兵器や防衛システムは、米国軍にとっても技術的なフィードバックを得る貴重な機会となっている。人命という観点を無視するなら、格好の実戦テストになっている。これは、将来的な軍事技術の開発や改良に役立つものである。

NATOの強化と欧州安全保障の支援
 米国のウクライナ支援は、冷戦終結後その存在意義の根底を問われていたNATOに、新たな存在意義を付与し、かつ内部の結束を強めるという「重要な」役割を果たしている。ロシアの脅威に直面しているとする一部の欧州諸国にとっては、米国の強力な支援は心強いものであり、NATO加盟国同士の連携を促進している。他方、エネルギー協力という面でロシアと融和的な政策をとってきた一部の欧州諸国にとっては、公言したくない困惑の原因となってきた。
 ウクライナ支援を通じて、NATO諸国は共同でロシアに対する戦略を形成し、集団防衛の体制を強化すれば、米国が特に欧州で国際的なリーダーシップを維持し続けるための重要な要素となるのだが、これが、米国とは異なる資本主義ルールを確立しようとしている欧州諸国の動向にとっては、やっかいな問題ともなりつつある。

米国のウクライナ支援に伴うデメリット
 米国のウクライナ支援には、しだいに語られだしたデメリットが存在する。特に、財政的な負担やロシアとの関係悪化、国内政治の分裂である。
 米国はこれまでに1750億ドルもの支援をウクライナに提供している。この膨大な額の支援は、米国国内の財政に大きな負担を与えている。インフレや国債の増加が進行する中で、ウクライナ支援に対する米国国民の支持は大きく揺らぎつつある。国内のインフラ整備や社会福祉に対する予算が削減されていることから、特に共和党内では、ウクライナ支援に対する疑問の声が強まっている。
 もう一つの懸念は、ウクライナ支援がロシアとの戦争をエスカレートさせる可能性である。米国がウクライナに供与している武器がロシア領内で使用されることや、さらに高度な兵器が提供されることがロシアを刺激し、より過激な軍事行動を引き起こすリスクがある。特に、ロシアの核兵器使用に対する懸念が高まっており、米国は慎重なバランスを取る必要がある。この問題は、実際には国際社会にやっかいな意識を覚醒させるかもしれない。そもそも国際連合とは第二次世界大戦後の核保有国大国に特権を与えることで、他の国の核保有を抑制する仕組みであったが、すでに現実は変化しているうえ、冷戦世界における、まるで人類を滅ぼしかねないがゆえに実際には使用不可能に近い核兵器ではなく、実戦に使用可能な核兵器の現実応用を現実化させかねないのである。

国内政治の分裂とウクライナ支援の行方
 ウクライナ支援は米国国内の政治的対立を深めることから、2024年の大統領選挙が近づく中で、ウクライナ支援の是非は大きな争点の一つとなっている。民主党はウクライナ支援の継続を主張している一方で、共和党内では支援の縮小や停止を求める声が強まっており、選挙結果次第ではウクライナ支援の方針が大きく転換する可能性がある。
 では、米国がウクライナ支援を停止した場合、どうなるだろうか。ウクライナはロシアに対抗する手段を失い、戦況は劇的に変化するか、あるいは劇的に変化している現実を受け入れざるをえなくなる可能性が高い。米国の支援停止がウクライナや国際社会にどのような影響を及ぼすかについては、いくつかのシナリオがある。
 まず、米国からの軍事支援が途絶えれば、ウクライナはロシアの軍事的圧力に対抗することが難しくなる。これまで米国が提供してきた兵器や防衛技術がなければ、ウクライナ軍の戦力は大幅に低下し、ロシアが戦場で優位に立つことになるだろう。とはいえ、ウクライナの戦争の現状では、当初のように武器援助でどうなる次元をはるかに超えて、ウクライナ兵士というリソースが実質枯渇しつつある。特に、バルジの戦いを連想させるような、ロシア領土のクルスク侵攻に最後の頼みともいえる戦力を投入した結果、東部戦線が瓦解し、これは、もはやウクライナが望むような、長距離ミサイルや対空防衛システムの認可と補充をもってしても、戦況を覆すことはできない状況にある。
 最悪のシナリオとして、ウクライナ全土がロシアに侵略される事態は避けられるものの、ウクライナは軍事的に制圧され、事実上の武装解除を余儀なくされるだろう。これにより、ロシアが主張する新たな国境線が設定され、国際社会はそれを認めざるを得ない状況に陥る可能性がある。つまり、ウクライナの独立は形式的に保たれつつも、ウクライナとゼレンスキー大統領が仮に修辞的な亡命政府を作成しても、実質的にはウクライナは、ロシアの影響下に置かれることになる。問題はそれが現実的なシナリオであることを国際社会は認識しつつ、新しい修辞の考案に向かう必要がある。

ウクライナ戦後の欧州諸国
 米国がウクライナ支援を停止すれば、その影響は欧州諸国に対しても重大なものとなる。現在、欧州諸国は米国と協力してウクライナ支援を行っているが、米国が撤退すれば、欧州諸国はさらなる負担を背負うことになる。ドイツやフランスなどの主要国は、自国のエネルギー問題や経済的課題を抱えており、ウクライナ支援をこれ以上拡大することは、現実には難しい状況にある。このため、現実と修辞の乖離が進行し、メディアが報道すらしにくい状況になってきた。 ロシアがウクライナで優位に立てば欧州全体の安全保障環境は当然大きく変化せざるを得ない。ロシアが新たな国境線を設定し、ウクライナが事実上制圧されれば、東欧諸国やバルト三国に対するロシアの圧力が強まることは避けられない。ウクライナが行ったと見られるノルドストリーム爆破のような挑発行為は頻発する可能性があり、カリーニングラードへの挑発は危険域に達するだろう。こうしたなか、NATOは防衛強化を迫られる一方で、米国が、イラクやアフガニスタンを撤退したほど明白ではなくても、実質的な撤退が進展すれば、NATO内部の結束も機構の名目だけとなるだろう。このことはしかし、必ずしも問題だともいえない。ウクライナの戦争の前、2017年には、ドイツのシュレーダー元首相はロシア国営ガスプロムの取締役に就任したが、かつてはこのような傾向のなか、欧州は、ロシアとエネルギーと経済の関係を融和的に構築しようとしていたのであり、その路線が復帰すると見ることもできる。

ウクライナ敗戦の日本への影響
 日本にとっても、米国のウクライナ支援停止がもたらす実質的なウクライナ敗戦は、影響をもたらすだろう。米国の国際的なリーダーシップが低下し、アジア地域における安全保障環境にも変化が生じる。中国や北朝鮮との緊張が高まる中で、米国の外交政策がウクライナから離れることは、結果として、中国がより強気の姿勢を取る可能性に結びつく。
 ウクライナ戦争による当面のエネルギー市場の混乱は、日本のエネルギー供給も不安定化する恐れがある。ロシアからのエネルギー輸入が途絶えれば、国内経済に深刻な打撃を与える可能性があり、エネルギーコストの上昇は、日本の製造業や消費者に広範な影響を及ぼすだろう。

 

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2024.10.04

2024年のジョージア議会選挙を巡って

 2024年10月26日に予定されているジョージア議会選挙は、ジョージア国内だけでなく国際的にも注目されている。これは単なる国内選挙ではなく、ジョージアの対欧州・対ロシア政策を左右し、また欧米諸国やロシアからの影響力が交錯する中で行われるものである。特に「ロシア法」として知られる「外国影響力法」を巡る議論が、国内外の情勢をさらに複雑化させている。

まとめ

  • 2024年のジョージア議会選挙は、欧州との統合やロシアとの関係を左右する重要な選挙である。
  • 外国影響力法(ロシア法)が選挙の焦点であり、欧米諸国はこれを批判するが、ジョージア政府は主権保護と主張している。
  • ジョージアはロシアとの貿易を維持しており、経済的つながりが選挙にも影響を与える。
  • 西側諸国もロシアもジョージアの選挙結果を注視しており、地域の地政学的バランスにも影響を与える。

ジョージア議会選挙の重要性と背景
 旧ソ連に所属していたジョージア(グルジア)は、地政学的に重要な位置にある。カスピ海と黒海に挟まれたこの国は、欧州とアジアを結ぶ要衝であり、エネルギー輸送や貿易の重要なルートとして機能している。ロシア、欧州連合(EU)、米国という大国の利益が交差する場所でもある。特に、ポスト・ソビエト時代以降、ジョージアはソ連から開放され、独自の外交政策を展開してきたが、その進路は常にロシアとの関係で国際的な圧力の影響を受けてきた。ジョージアは欧州とロシアの間でバランスを取りながら、自国の主権と独立を守り続けてきたが、2024年の議会選挙はこの外交バランスを再定義する重要な局面となる可能性がある。
 ジョージアの近年の選挙は、欧州との連携を強化する一方で、ロシアとの経済的関係も維持するという難しいバランスの上に成り立ってきた。特に、2003年の「バラ革命」や2008年のロシアとの戦争は、ジョージアの政治的未来に影響を与えている。

「ロシア法」(外国影響力法)の成立とその影響

 ジョージア議会が2024年5月28日に成立させた通称「ロシア法」、正式には「外国の影響力の透明性に関する法案」は、国内外で議論を巻き起こしている。この法律は、外国から20%以上の資金提供を受ける団体を「外国の代理人」として登録することを義務づけるものであり、すでにロシアで導入されている「外国代理人法」と内容が類似しているため、反対派から「ロシア法」と呼ばれる。法律の目的は、外国からの影響力を制限し、ジョージア国内の政治や社会運動への干渉を防ぐことであるが、批判者は、この法律が政権に批判的なNGOやメディアの活動を抑制し、表現の自由を脅かすと懸念している。
 この法律が成立する過程では、ズラビシビリ大統領が拒否権を行使したものの、議会の再投票でその拒否権が覆されたという経緯がある。市民の反発も強く、トビリシでは数万人が参加する抗議デモが生じた。デモ参加者は「私たちはロシアではなく、ヨーロッパの一員だ」と訴え、EU加盟への道を求めている。EUや米国から強い批判が寄せられており、EUはこの法律が「EUの価値観に沿ったものではない」とし、ジョージアのEU加盟交渉に悪影響を及ぼす可能性を指摘している。

ジョージアとロシアの複雑な経済的・政治的な絆

 現実的な見地に経てば、ジョージアが完全にロシアとの関係を断ち切ることは現実的に困難であることがわかるだろう。経済的には、ロシアとの貿易が依然として重要な要素を占めており、特にワインや農産物の輸出はロシア市場に依存している。ジョージアは、ウクライナ侵攻後の経済制裁に参加しなかったことで、ロシアとの経済関係がむしろ強化された面もある。ジョージア国内の与党「ジョージアの夢」は、ロシアとの対立が深まることで第二のウクライナになることを避けるべきだという立場をとっている。この傾向は、親ロシアというより、ウクライナのように国土を荒廃させる危険性から生じたものである。
 こうした状況において、ジョージア政府は、ロシアとの経済的つながりを維持しつつ、欧州との政治的・経済的関係を強化するという難しいバランスを取ろうとしており、「ロシア法」の成立も、このバランスをめぐる手段と位置づけられる。

西側諸国とロシアの視点の違い

 「ロシア法」を巡る報道は、西側諸国とロシアのメディアで大きく異なる。西側メディアは、この法律をロシア式の「外国代理人法」と同様に捉え、ジョージアが民主主義から後退しているとの懸念を強調している。特にEUや米国の報道は、ジョージアが欧州統合の道を危うくし、民主的価値観から逸脱しているとする見解が主流である。一方、ロシアや旧ソビエト圏のメディアは、ジョージアの選挙と「ロシア法」を西側諸国による干渉と関連付けて描写している。ロシア側の報道では、西側がジョージアを自らの影響下に置こうとしているとの懸念が強調され、特に選挙結果がロシアにとって不利に働く可能性があることを警戒している。
 このようなメディアの報道の違いは、ジョージアを巡る国際的な対立の縮図となっており、国際社会が中立的に選挙結果を評価する上で重要な視点となる。

「ロシア法」の影響と外国NGOの役割

 「ロシア法」は、特に西側諸国からの資金提供を受けているNGOやメディアに対する規制を強化するものであり、この法律が成立すれば、ジョージア国内で活発に活動している25,000以上のNGOに直接的な影響を与えることになる。ジョージア国内のNGOの多くは、実際のところ、欧米からの資金提供を受けており、これにより政府批判や市民運動を展開している。ジョージア州政府はこれらの外国NGOが外国勢力の影響を受けていると主張しており、その透明性を確保するための法律が必要であると説明している。
 この法律に対する西側の反発は、民主主義や人権の名の下に行われているが、ジョージア政府の立場から見ると、これらのNGOは外国勢力による内政干渉の手段として機能しているとの認識もある。特に米国の外国代理人登録法(FARA)との類似性が指摘されており、西側諸国が自国で類似の法律を持ちながら、ジョージアに対しては批判を行うことの二重基準が指摘されている。

親欧米派と「親ロシア派」という対立の構図

 2024年の議会選挙は、ジョージアの国内政治における親欧米派と親ロシア派の対立をさらに激化させている。与党「ジョージアの夢」は、親ロシア派とされる一方、野党は欧州との関係を強化し、ジョージアのEU加盟を進めるべきだと主張している。この対立は、単に国内の政治的な争点にとどまらず、ジョージアの未来の方向性を決定づけるものとして重要視されている。つまり、与党「ジョージアの夢」を単純に、親ロシアとみなすことはできない。
 以上のように、今回のジョージアの議会選挙は、単なる国内の政治イベントではなく、地域的・国際的な影響を持つ重要な選挙として、国際社会からの注目が集まっている。特に、EUや米国はジョージアの選挙に対する強い関心を示しており、選挙結果がジョージアの欧州統合の進展や、ロシアとの関係にどのような影響を与えるかが焦点となっている。
 選挙結果次第では、ジョージアがEUとの加盟交渉をさらに進める可能性がある一方で、ロシアとの経済的・政治的な関係が再構築される可能性もある。国際的には、ジョージアの選挙結果が地域全体の安定に与える影響が注目されており、特にカフカス地方における地政学的な変動に対して、EU、米国、ロシアの各国がどのように対応するかが重要となる。

 

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2024.10.03

石破茂首相が提唱する「アジア版NATO」構想

 石破茂首相が提唱する「アジア版NATO」構想は、それがパーティー・ジョークの類でないとするなら、日本の安全保障政策における大きな変革を目指しはしているし、御本人としては、存外に当面、いたってその気なのかもしれない。いずれにせよ、打ち出されてしまったこの構想は、大国・日本の将来に関わることなので諸外国に独特の印象を与えるだろう。アジア地域における集団的防衛体制を構築し、中国の台頭や北朝鮮の脅威、そして台湾を巡る緊張に対応することを目的としているとも受け止められる。欧州におけるNATO(北大西洋条約機構)をモデルに、アジアでも同様の安全保障の枠組みを形成するというこの提案は、米国や中国、ロシア、ASEAN諸国をはじめとするアジア各国からもそれなりの反応を引き起こすだろう。その際、NATOの現状やその抱える問題も、アジア版NATOの実現可能性を考える上で重要な示唆を与えてくれる。

まとめ

  • 石破茂が提唱する「アジア版NATO」は、中国の軍事的台頭に対抗するための集団防衛体制を目指しているが、実現には多くの課題がある。
  • 米国はこの構想を一部歓迎する可能性もあるが、主導権の喪失や地域の緊張の高まりを懸念して慎重な立場を取る可能性が高い。
  • ロシアと中国は、この構想の発表を自国に対する軍事的脅威と捉え、反発するだろう。ロシアは、ウクライナ戦争の決着後には、BRICS諸国との新しい世界秩序を模索する立場を強めると予想される。
  • ASEAN諸国は、経済的利益や地域の安定を重視し、中国との対立を避けたいと考える一方で、特定の国々は防衛協力への関心を持つ場合もある。

石破茂の提案の背景

 石破茂首相は、自国の防衛政策を再定義し、より積極的にアジア地域での安全保障に貢献する必要があると強調している。彼の提案は、「今のウクライナは明日のアジア」との警告に基づいており、ロシアのウクライナ侵攻を中国と台湾に置き換える形で、アジアにおける集団的自衛体制の欠如が将来的にこの地域に戦争を引き起こす可能性が高いと彼が見ていることによる。つまり石破は、NATOが欧州においてロシアの脅威に対抗しているのと同様に、アジアでも中国に対抗するための防衛同盟を構築する必要があるとも考えている。あるいは、日本の近年の右派の典型的な思想をなぞっているだけであるかもしれないが。
 とはいえ、石破が好む日本の憲法第9条は戦争放棄を明記しており、集団的自衛権の行使には厳しい制約がある。2016年に施行された安全保障関連法により、日本は限定的に集団的自衛権を行使できるようになったものの、その範囲は「存立危機事態」に限定されているため、NATOのような集団的防衛体制に積極的に関与することには限界がある。また、アジア諸国の多くには、中国との経済関係を重視しする勢力がおり、また軍事的脅威を共有するまでには至っていないことも、その実現を阻む要因となっている。そもそも日本に軍事的なリーダーシップが取れるとは期待されていないし、どの国も内政の不安定要因が大きいものである。

米国の立場は承認か、危険視か?

 米国は、アジア版NATOの提案に対して微妙な立場を取ると考えられる。米国はインド太平洋地域でのリーダーシップを維持し、中国の台頭を抑止するために、日本との強固な同盟を必要としているのは確かだ。この提案が地域の安全保障を強化するものであるならば、米国にとって歓迎すべき要素も含まれてはいる。特に、中国との競争が激化する中で、アジア諸国が自律的に防衛体制を強化することは、米国の負担を軽減する可能性がある。
 米国はしかし、自国優先でアジアでの軍事的主導権を維持したいと考えており、この構想が「対等な日米関係」を提唱している点については、米国の影響力を削ぐ可能性があると懸念するだろう。米国は、アジアでの軍事力を確保するため、日本や他の同盟国に依存しているが、石破の提案が、冗談の域を超えて進行するならば、米国の活動が制約されるリスク要因になる。また、アジア版NATOが地域の緊張を高め、米国と中国の関係をさらに悪化させる可能性もあるため、段階的に慎重な姿勢を取ることも予想される。

中国の懸念と強い反発

 中国にとって、石破茂の提唱するアジア版NATOは、それが言明されるだけでも直接的な軍事的脅威になる。石破は台湾問題や南シナ海での中国の拡張主義に対抗するために、この防衛体制を構築すると提案しており、これが万が一にでも実現されれば中国の戦略的利益を大きく損なう。特に、アジア版NATOが台湾の防衛を含む形で構築されれば、「核心的利益」と表現し台湾を自国領土と主張する中国にとっては看過できない問題となる。中国は、この動きに強く反発し、地域の緊張を一層高め、段階的に先手を打ってくるだろうし、すでに打っているのが昨今の厚顔な行動かもしれない。
 中国にとっては、アジア版NATOは他のアジア諸国を巻き込んで中国を封じ込める枠組みと映ることは間違いない。中国はすでに、米国が主導するインド太平洋戦略に対して警戒を強めており、アジア諸国がアメリカの側に立って軍事的協力を強化することは、自国の影響力を削ぐ試みとして反発するだろう。その結果、地域全体が軍事的エスカレーションに巻き込まれる偶発的リスクが高まり、南シナ海や台湾周辺での衝突リスクも増加することが懸念される。安全を求めることは、必ずしも安全を実現することにはならない。

ロシアの視点と懸念

 ロシアもまた、アジア版NATOの創設に対して強い懸念を抱く。ロシアは中国と軍事的な連携を強化しており、特にウクライナ侵攻以降、米国とその同盟国に対抗するためのパートナーシップを着実に築いている。アジア版NATOが中国を抑え込むための枠組みとして機能するならば、ロシアはこれを自国の安全保障に対する脅威と見る。ロシアにとっては極東地域での軍事的・経済的な影響力を確保することは、将来的な北海路の維持のためにも重要であり、日本が主導する形で新たな軍事同盟が形成されれば、ロシアの戦略的な立場が脅かされる。
 ロシアとしてはウクライナ戦争に所定の決着を示した後は、同盟国とBRICS諸国との新しい世界秩序を模索したい。ロシアにとって中国はすでにその戦略的パートナーであり、アジア版NATOがこの関係を多少なりとも脅かすものであれば、ロシアは軍事的・外交的に強く反発するだろう。ロシアは、欧州におけるNATOとの対立に加え、さらにアジアでも同様の軍事的圧力に直面する可能性が高まれば、二つの大陸で同時にプレッシャーを受けることになる。そうなれば、まずは脆弱なアジア版NATOに強硬な姿勢を見せるだろう。というか、すでに見せているのではないかという事例が連想される。

欧州NATOの現状とアジア版NATOへの示唆

 欧州におけるNATOは、ロシアの脅威に対抗するために長年機能してきたが、ウクライナ戦争を経て潜在的だった問題を露呈させた。まず、NATO加盟国間での意見の相違が顕著になっている。例えば、トルコやハンガリーといった国々は、NATOの他の加盟国とは異なる外交政策や安全保障上の立場を取っており、統一した対応を取ることが困難になっている。また、NATOはロシアとの対立を激化させる要因ともなっており、ウクライナ危機では、意図的に失念されているむきもあるが、NATOはこの軍事活動に直接介入できないというのが前提であった。
 これらの問題はアジア版NATO実現に示唆する点が多い。まず、アジア諸国間の外交政策や安全保障上の利益が大きく異なることから、統一した防衛体制を築くことが難しい。欧州においてさえ、NATO加盟国間での意見の相違が問題となっていることを考えれば、より多様な文化的・政治的背景を持つアジアでは、こうした相違がさらに顕著になる。
 すでに述べたが、NATOが直面しているようなロシアとの直接的な対立が、アジアにおいて中国との対立を深める結果となる可能性も高い。アジア版NATOが中国を標的とした防衛同盟として機能すれば、中国はこれに対抗するための軍事的対応を強化するほかはなく、地域全体が軍事的エスカレーションに巻き込まれるリスクが高まる。この動向は、いわば中露の「パシリ」を意欲的に買って出る北朝鮮の動向にまず現れるだろう。

インドの立場は非同盟の伝統とバランス外交

 インドは、中国との国境紛争やパキスタン関係、さらにインド洋での影響力争いに直面しているため、地域の防衛協力に当然関心は持っている。が、インドは伝統的に非同盟外交を維持する傾向があり、アジア版NATOのような明確な軍事同盟に参加することには慎重となるだろう。インドの外相も、すでに石破の提案に対して否定的な見解を示しており、アジア版NATOが現実化する場合でも、インドが積極的に参加する可能性は低いと見られている。
 インドは、米国や日本との戦略的パートナーシップを維持しつつ、中国との経済関係も重視し、バランスを取りながら独自の外交政策を追求しているし、そのことが自国の理性的な自己陶酔になるといった奇妙な性格を示している。このため、インドがアジア版NATOに参加するかどうかは、その時折の地域情勢やインドと中国の関係次第である。
 また、インドには隠れた大国主義の傾向があり、変なところを叩けば、斜め上に走り出す懸念もないではない。基本的に予測不能な大国となっていくなかで、グローバルな構想は滑稽な反照を受ける可能もある。

ASEAN諸国の反応と懸念

 ASEAN諸国にとって、アジア版NATOの提案は、撞着表現になるが、単純に複雑な問題である。多くのASEAN諸国は、中国との強固な経済関係を築いており、アジア版NATOのような防衛同盟に参加することは、経済的に重要なパートナーである中国との対立を引き起こすリスクがある。特にインドネシア、マレーシア、タイといった国々の中間上位層は、中国との経済連携を強化しつつ、地域の安定を維持したいといまだに考えており、中国を軍事的に刺激するような動きには慎重な姿勢を取る傾向がある。
 他方、フィリピンやベトナムのように、中国と直接的な領有権紛争を抱えている国々にとっては、アジア版NATOのような防衛上の枠組みは、風向きによっては、一定の魅力を持っている。フィリピンは南シナ海における領土問題で中国と激しく対立しており、近年はアメリカとの防衛協力を強化している。また、ベトナムも同様に南シナ海での中国の動きに強い警戒感を持っているため、石破の提案には一定の支持を修辞的に示す可能性がある。
 結局のところ、ASEANの基本的な反応としては、とりあえず中国との対立を回避しつつ、地域の安定と経済成長を優先するため、防衛同盟への積極的な参加には消極的な姿勢が強い。ASEAN諸国は、独自の地域協力体制を通じて多国間の問題を解決するアプローチを好むので、外部勢力による軍事同盟への参加は、ASEANの中立的立場を揺るがしかねないという懸念を抱いている。

アジア版NATOの実現可能性

 石破茂が提唱するアジア版NATOの実現には多くの課題がある。というかその非現実性を除けば課題しかない。日本自身が憲法第9条による制約を抱えており、集団的自衛権の行使範囲が限定されている。アジア諸国の多くは中国との経済的利益を重視しており、共通の脅威として中国を捉えることが難しい。米国がこの構想を支持するかどうかは修辞を外せば微妙である。ロシアや中国の強い反発が予想される中で、日本周辺地域の安定をどのように維持するという難問に対して、石破茂が提唱するアジア版NATOは、やっかいな先延ばしの口実となるのではないか。

 

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2024.10.02

イランによるイスラエルへの大規模ミサイル攻撃

 2024年10月2日、イランはイスラエルに対して大規模なミサイル攻撃を実行した。この攻撃は、イスラエルによる一連の軍事行動に対する報復であると同時に、イランが自らの「抑止力の確立」を目指したものである。最高指導者アリ・ハメネイの命令により実行されたこの攻撃は、すでに高まっていた中東地域の緊張をさらに悪化させる可能性がある。特に、イスラエルによるヒズボラの指導者ハサン・ナスラッラーの暗殺が、この攻撃の直接的な引き金となったが、イランとしては、この攻撃によって自らの軍事的決意を示すしかなかった。以下では、この攻撃の背景、目的、そして中東全体に及ぼす影響について考察する。

まとめ

  • イランのミサイル攻撃は、イスラエルによるヒズボラ指導者の暗殺を直接の引き金としたが、両国間の長期的な対立と地域的な緊張が背景にある。攻撃によって中東全体の不安定化が進む可能性がある。
  • イランは攻撃を通じてイスラエルへの報復だけでなく、抑止力の強化を狙っており、軍事力の誇示は国際社会や国内に向けた強力なメッセージとなっている。
  • イスラエルは厳しい報復を警告しており、ヒズボラとの対立も一層激化する見通し。米国はイスラエル支援を強調し、中東地域の軍事力を増強する意向を示している。

イランによるミサイル攻撃の現状と背景
 イランは今回の攻撃で180発以上のミサイルをイスラエルに向けて発射し、そのうち90%が目標に命中したと主張している。さらに、この攻撃で初めてハイパーソニックミサイルが使用され、イスラエルの防空システムを突破したとされている。 つまり、イスラエル側の防空システムである「アイアンドーム」や「デイビッドスリング」は一部のミサイルを迎撃したものの、テルアビブを含む都市部にいくつかのミサイルが命中し被害が発生した。この攻撃は、イランが自国の軍事力を誇示し、イスラエルの防衛力に限界があることを示したものであり、イランにとって今回の攻撃の成果の一つとなった。
 イランによる今回のミサイル攻撃は、単なる報復にとどまらず、両国間の長期的な対立と中東全体における地政学的な緊張が背景にある。特に、2024年8月以降、イスラエルとヒズボラの間で緊張が高まり、レバノン南部の国境地帯では小規模な衝突が頻発していた。イスラエルはヒズボラの通信設備を破壊し、その指導層に対する一連の攻撃を強化していた。この行動は、ヒズボラの後ろ盾であるイランに対する挑発とみなされ、イランは報復を予告していた。その意味では、予想外の事態ではなかった。

イラン国内外へのメッセージ
 イランが今回の攻撃で見せた戦略は、単なる報復や抑止力を保持していることを明確することに加え、イランによる地域プレザンスを強化した。イスラエルはこれまで、ヒズボラやハマスに対して軍事的な優位性を誇示し、地域の主導権を握ってきたが、今回のイランの行動により、その均衡が大きく崩れる可能性がある。
 このメッセージは、イスラエルだけでなく、ウクライナを支援する西側諸国に対するロシアの対立的姿勢とも通じるものがある。イランは、この攻撃を通じて、米国や欧州諸国に対しても中東における重要な軍事的プレイヤーとしての存在感を示す狙いもあったと考えられる(ロシアが背景にあるかもしれない)。特に、イランが自国の軍事力を誇示することで、米国を含む西側諸国に対する影響力を強化しようとしている点は見逃せない。
 イラン国内でも、今回の攻撃には重要な意味がある。イランは、国内で経済制裁や政治的な不安が続く中、弾圧な姿勢を示し続けているが、一方で国内には大統領選で見られたように民主化を求める声もあり、指導部はこれに対処する必要がある。こうした状況での軍事行動は、国民の結束を固め、政府に対する支持を集めるための手段としてしばしば利用される。

イスラエルの対応と今後の動向
 イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、イランが「重大な過ちを犯した」と述べ、厳しい報復を行う姿勢を示した。すでにイスラエルは、ヒズボラが拠点を置くレバノン南部への地上侵攻を開始しており、この侵攻はヒズボラの軍事力を削ぐことを目的としている。しかし、イランによる今回の攻撃は、イスラエルの計画に予想外の影響、つまり、事態の拡大化と泥沼化の可能性がある。
 当然ながら、米国をはじめとするイスラエルの同盟国も、イランの攻撃に対して迅速に反応している。米国のジョー・バイデン大統領は、イスラエルへの支援を改めて表明し、中東地域への追加の軍事力派遣を計画している。だが、これには米国内に懸念がある。11月に予定されている米国大統領選挙にも影響を及ぼす可能性があるからだ。米国内では、ウクライナの戦争に対する疲労感に加え、イスラエルに対する否定的な意見が大きく台頭しつつある。
 イランとイスラエルの対立の中で、ヒズボラとレバノンが果たす役割も重要である。ヒズボラは、レバノン国内で非常に強力な軍事組織として存在しており、イランからの支援を受けてイスラエルに対抗している。今回のイランによるミサイル攻撃は、ヒズボラの今後の戦略にも大きな影響を与えるだろう。イスラエルがレバノン南部への地上侵攻を進める中で、ヒズボラはこれまで以上に強硬な対応を取る可能性が高い。
 ヒズボラは1982年、イスラエルのレバノン侵攻に対抗するために結成され、それ以来、イスラエルとの戦闘を続けてきた。2006年には、イスラエルとの間で34日間にわたる戦争が勃発し、最終的にはイスラエルを撤退に追い込んだ(イスラエルにとっては悪夢であろう)。これにより、ヒズボラはレバノン国内での影響力を一層強化し、現在に至るまで政治的・軍事的プレイヤーとしての地位を維持している。

 

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2024.10.01

スーダン危機の現状をどのように見るか?

 このブログでは、ダルフール危機に関連して、スーダンの危機について経時的に追ってきた。久しぶりに現況をまとめておきたいと思う。

 スーダンの危機は現在、世界の他の課題と同様、国際政治と呼ばれるものの二面性と矛盾の象徴となっている。さらに言えば、これに「無関心」という深刻な問題も伴っている。現在世界では、一方で平和と人道支援を訴えながら、実際には他方で紛争を煽る勢力を支援している。こうした問題の中心軸となるのは、当然のことのようだが、複数の関係者の利害関係である。なかでも、スーダン危機では米国とUAEの複雑な関係性が軸になりつつある。

まとめ

  • スーダン危機は国際政治の矛盾を象徴し、その現実的な問題は米国とUAEの複雑な関係が中心となっている。
  • 現状、国際社会では、表面上は平和を訴えながらも、実際には紛争を煽る勢力への支援が続いており、人道危機が深刻化している。
  • 国際社会には、包括的な和平協定の策定といった修辞よりも、実現可能な人道支援が求められている。

米国とUAEの立場の違い

 ホワイトハウスは、2023年9月22日、米国のジョー・バイデン大統領とアラブ首長国連邦(UAE)のムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン大統領との二国間会談の概要を発表した(参照)。この会談では、両国の緊密な関係を強調しつつ、スーダンの危機について両首脳が共通の懸念を抱いていることが明記され、軍事的解決はあり得ないとして、残虐行為や戦争犯罪に対する責任追及を求めている。一見すると、この会談での声明は理想的なものであるかのように思えるが、他方、現実に目を向けると、UAEはスーダン紛争の当事者の一方である迅速支援部隊(RSF)を支援していると見られている。当然、この声明の真意が疑われることになる。

 RSFは、複雑な組織構造を持ち、その行動は国際的な懸念の対象となっていて、RSFが安定したスーダンを統治できるような現実的なシナリオは存在していない。複数の国際機関や人権団体からはその残虐行為の報告もある。アフリカ連合や国際連合が数か月にわたって懇願を続けているにもかかわらず、RSFは依然としてダルフール地方の最後の主要人口中心地であるエル・ファーシャーへの攻撃を継続していると見られている。

 UAEは、スーダンの人々に人道支援を提供するという口実で、RSFに武器や資金、ドローンを提供して支援しているとの報道がある(参照)。このような行為は、国際世界、特に赤十字社や赤新月社の信頼性を損ないかねない。スーダンでは現状、数百万人もの人々が家を追われ、民間人が飢餓の危機に直面している。今後数か月の間にさらに多数のスーダン人が飢饉のリスクにさらされる可能性がある。

背景には何があるか

 米国とUAEとの共同声明は、このような状況下で、どのような意味を持つだろうか。米国政府は、表面的には紛争解決を呼びかける声明を出しながら、これまでの調停努力を台無しにしてきた紛争当事者に対して、どのような対応を取ろうとしているのか。

 バイデン大統領は、ビン・ザーイド・アラブ首長国連邦大統領との会談の翌日である9月24日、国連総会で、スーダンの人々への支援を阻止する武器供与を止めさせ、この紛争を終わらせる旨を述べたが(参照)、具体的な行動計画は示されてはいない。もう一方のUAEの行動も矛盾している。表向きは人道支援と平和を訴えながら、すでに述べたように、実態としては紛争を煽っていると見られる。このような二面性は、国際機関や非政府組織(NGO)の活動にも悪影響を及ぼす。人道支援団体の信頼性が損なわれると、真に支援を必要とする人々への対応が困難になる。そもそも、民族浄化や性暴力といった重大な人権侵害を行っていると懸念される組織を支援することが国際的な規範に反している。

国際社会に求められる対応

 このような状況下で、国際社会に迅速かつ効果的な対応が求められるのは当然だが、現実には、依然停滞の状態にある。対応策を表明するなら、結局のところバイデン大統領の修辞と同じようになるのがオチだろう。とはいえ、危機は現実であり、手をこまねいているわけにもいかない。2005年に締結された南北包括和平合意(CPA)のような、すべての当事者が参加する包括的な和平協定の策定は求められる。

 当面の措置であれ、スーダンの人々に対して、特に食糧や医療支援を届けるための安全な人道回廊の確保も必要になる。そのためには、遅きに失する前に国連平和維持軍の派遣も検討すべきだろう。

 

 

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