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2024.07.29

7月29日のTwitterのつぶやきからブログの記事を生成し、今回は手を入れてみた

 昨日に続いて、7月29日のTwitterのつぶやきからブログの記事を生成してみた。が、自分の考えと違うまとめかたをしているので、今回は、手を入れてみた。

目次:
1. 書と書道をめぐる考察
2. 手話という言語の捉え方
3. 気候変動に関する疑問
4. ウクライナ情勢をめぐる思惑

書と書道をめぐる考察
 Twitterで「相田みつを」化という言葉を見かけた。相田みつを的な人生訓のような文章(「にんげんだもの」といった)がTwitterで好まれるのを問題視したようだった。しかし、私は、相田みつをについては、こうした「相田みつを化」とは、かなり異なる印象をもっている。
 きっかけは、相田みつをの書(書道)が「読める書」を求めたものだったことを知ったことだ。書道のありたかとしても、考えさせられた。今日の書道展示会における、書道作品は読めなくてもいい、芸術として感じればそれでよい、という風潮に問題を感じていたからだ。この風潮は、難解・難読な禅語の掛け軸あたりから始まったのだろうか。禅の教えを伝える言葉は、もともと難解なものが多い。それを芸術的な書の形で表現することで、文字の意味よりも、書かれた文字そのものの美しさや力強さに価値が置かれるようになったのかもしれない。
 書道の書は読めるべきか。この問題に向き合って、読める書を追求した横山淳一のような書家もいる。視覚芸術的ではあるが、読めない書道が主流になりつつある中で、あえて読みやすさにこだわる。それは、書の伝統を守りつつ、新しい表現を模索する試みとも言えるだろう。相田みつをの書の場合、読めることの意味が重要視されるのは、彼自身が詩人でもあるからだが、書家として、言葉と書の両方で表現を追求した結果であるだろう。
 デジタルメディアの時代になって、書かれた言葉の意味に注目が集まりがちである。文字はデータとしてすぐに転写され、SNSで拡散される。文字が手によって書かれる点には二の次となり、書かれた書は視覚的なインパクトが重視される。だが、本来、書は言葉と一体であるはずだ。文字の形に作者の思いが込められ、言葉と呼応し合って初めて、書の魅力が完成する。
 したがって、書家にとって問われるべきは、言葉の中身と、それがどのように表現されているかということの両面なのだ。読める書を追求することと、読めなくてもいい書を生み出すこと、その両極の間で、書家は表現の可能性を模索すべきだろう。時代と共に書のあり方は変化を遂げる。言葉と向き合い、書と対話する姿勢には新しい変化が求められる。

手話という言語の捉え方

 手話は、英語で sign language、つまり「記号言語」と呼ばれるが、単なる記号の集まりではなく、身体全体を使って表現する一種の芸能でもあると私は考えている。30年以上も前だが、ろう者の話芸を見る機会があったことがきっかけだ。その手話の話芸は、手の動きだけでなく、表情やリズム、視線の誘導など、驚くほど表現力豊かなパフォーマンスだった。手話を使う人たちの中には、手話を話芸のように洗練させ、観客を魅了する人もいるのだと知った。
 身体の部位を叩いてリズムを刻んだり、手と口と視線の動きを巧みに組み合わせたり、聞こえる人には想像もつかないような表現方法で、浄瑠璃でも見るような物語が紡がれていた。それは、声を使わずとも、言葉の持つ力を最大限に引き出す術を、ろう者たちが長い歴史の中で培ってきた証なのかもしれない。
 一方で、手話を言語学的に捉えるのは難しい面もある。音声言語を母語とする聴者の視点から見ると、手話は音声言語の文法体系にはめ込みにくい部分が多い。例えば、手話には、聴者の言語でいう「主語」や「目的語」に相当する概念がないとも言える。それらが同時に出現することもある。手話では、動作主と対象を身体の向きや視線、表情などで表現するため、聴者の言語とは異なる文法体系を持っている。
 現在、選挙公報などで見かける、聴覚障害者の便宜のために開発された人工的な手話と、ろう者コミュニティで自然発生的に生まれた手話とでは、言語としての体系は大きく異なるだろう。人工的な手話は、音声言語に翻訳しやすいように音声言語の文法に合わせて作られている、いわば音声言語のコピーである。だが、ネイティブによる伝統的な手話は、それがまだ現存するなら、ろう者たちが長い年月をかけて、独自の文化の中で育んできた表現方法であり、容易には言語に翻訳できない。
 手話に関する私の理解は、20代の大学院生以降継続していないので不十分だが、手話は現在、ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)への組み込みなどを通じて、その位置づけは少しずつ変わりつつあることは知っている。CEFRはもともと音声言語の熟達度を測る基準として作られたものだが、そこに手話が加わることで、手話の言語としての地位が国際的に認められつつある。また公的な学習指針ができることで、手話の普及や教育も進んでいくだろう。
 手話を含め、多様なコミュニケーションの在り方を知ることは、言語観を問い直すきっかけにもなる。 各国の音声言語を基準に考えるのではなく、手話やその他の非音声言語も、それ自体が独自の体系を持つ言語であると認識することが大切だ。お互いの言語の違いを理解し、尊重し合うこと。そこから、新しい言語観、コミュニケーション観が生まれるのではないだろうか。

気候変動に関する疑問

 昨今の急激な気温上昇と気候変動の関係について、科学者の間でも議論があるようだ。世界各地で記録的な猛暑や豪雨が報告され、「温暖化の影響ではないか」という声も上がっている。確かに、地球の平均気温は確実に上昇しており、それが異常気象を引き起こしている可能性は高い。
 しかし、気候変動モデルの正確さについてはまだ疑問の余地があるという。気候システムは非常に複雑で、実際には他分野にわたり、そのすべてを正確にモデル化し評価するのは困難だ。日々、新しい知見が加えられ、モデルの精度は上がっているものの、予測と実際のデータの間にはまだギャップがある。
 もともと、単年度のデータだけで気候変動を断定するのは難しいという指摘もある。気候は長期的なトレンドを見るべきものであり、一時的な変動を気候変動の証拠とするのは適切ではない。自然の変動幅を超えた変化が、長期的に継続して観測されて初めて、気候変動と言えるのだ。
 昨今の気温上昇が地球温暖化に関係するのは確かであるとしても、それだけでは説明がつかない部分もあるらしい。例えば、北極圏の気温上昇は、地球全体の平均よりもはるかに速いペースで進行している。これは、海氷の減少によって太陽光の反射率が下がり、熱が吸収されやすくなったことが原因だとも考えられている。温暖化が温暖化を加速させる多様なメカニズムが働いているのだ。
 こうした複雑なメカニズムを解明し、より正確な予測モデルを構築するには、まだ多くの研究が必要だろう。同時に、気候変動の影響は既に世界各地で現れており、すぐにでも対策を講じなければならないという課題もある。科学的な不確実性を理由に行動を先送りするのではなく、予防原則に基づいて、できることから着実に取り組んでいくことは求めらていれる。
 気候変動の問題は、科学だけでなく、経済、政治、社会などあらゆる分野に関わる複雑な問題でもある。利害の対立を乗り越え、地球規模で協力していくことが不可欠だ。一人一人が自分にできることを考え、実行していくこと。そうした地道な努力の積み重ねが、気候変動という大きな課題への第一歩となるという原点が揺らぐというわけではない。

ウクライナ情勢をめぐる思惑
 ウクライナがロシアに対して仕掛けようとしている秘密裏の特殊な軍事作戦について、ロシアが察知し、米国を通じて思いとどまらせようとしているというNYTの報道があった。内容の詳細は明らかになっていないが、ウクライナの内情をロシアが監視していることは間違いない。おそらく、衛星画像などの情報源を駆使して、ウクライナ軍の配備状況を把握していることに加えて、スパイ網などもあるのだろう。
 ロシアがこの問題で、わざわざ米国を仲介役に立てているのは、ウクライナへの配慮とようより、米国への配慮があるのかもしれない。米国は、ウクライナを軍事支援する一方で、ロシアとの全面対決は避けたい構えである。そのため、米国はウクライナが過激な行動に出ないよう、一定の歯止めをかけている。だが、それに米国が把握できず、ロシアが把握できる事態が生じているということなのだろう。
 ウクライナ側が米国に情報を隠しているか、ウクライナの政府意思が分裂しているか、そもそも今回の特別作戦がロシアが重視するほど効果を持つのかどうかは不確定だ。ウクライナとしては、ロシア内に不意のダメージを与えることができれば、有利かもかもしれないのだが、米国にも知られていない秘密行動は国際的に予想外の結果をもたらす可能性があり、ロシアはその憂慮を米国に伝えているのだろう。
 米国としても、ウクライナの軍事行動が泥沼化することを懸念しているのかもしれない。ロシアとの長期戦や、NATOの本格介入は、米国経済にも大きな負担となるし、同盟国との関係悪化を招くリスクもある。かといって、米国はウクライナを見捨てるわけにもいかないので米国は、外交と軍事の両面で、微妙なバランスを取ろうとしているのだろう。
 ウクライナ情勢をめぐる思惑は複雑に絡み合っている。当事者であるウクライナとロシアはもちろん、米国や欧州諸国、さらには中国なども、それぞれの利害に基づいて行動している。戦争の帰趨は、軍事的な勝敗だけでなく、こうした駆け引きの行方にも左右される。一刻も早い停戦と平和的解決が望まれるが、そのためには、関係国の利害の対立を乗り越える仕組みが必要とされている。

 

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2024.07.28

Twitterの断片的なつぶやきをもとに、LLM(大規模言語モデル)ブログ記事を生成してみた

 久しぶりのブログ記事になってしまった。が、この間、ブログは書かないものの、Twitter(Xと呼ぶのは小っ恥ずかしい)では、日々、くだらないつぶやきをしている。そこで、ふと、この断片的なつぶやきをもとに、LLM(大規模言語モデル)を使って、ブログの記事が書けないものかとやってみたら、それっぽいものになった。まあ、現代のLLMを使うとこんなことができるということである。

以下が生成された記事


日常の洞察:2024年7月27日の、私のTwitterつぶやきから紡ぐブログ記事

現代生活の課題

 現代社会では、私たちはさまざまな課題に直面しているように思う。その中で、個人的な経験から朝5時起きの簡単さについて考えることがある。年齢を重ねるとそれが容易になるような気がするのだが、これは単に体内時計の変化だけでなく、人生の優先順位や責任の変化も関係しているのかもしれない。若い頃は夜型の生活を好んでいたが、年を取るにつれて早起きの価値を少しずつ実感するようになった。このような変化は、年齢とともに習慣や日課が変わっていくことを示す一例だろう。

 こうした個人的な変化を考える中で、「親ガチャ」という概念についても時々思いを巡らせることがある。平和で経済的に安定した時代には、生まれ持った環境の影響が大きくなる傾向があるのではないだろうか。ただ、この概念に固執することにも慎重でありたいと思う。なぜなら、別のリスクを取ることで人生をより面白くできる可能性もあるからだ。例えば、安定した職を離れて起業したり、海外で新しい生活を始めたりするなど、自ら選択してリスクを取ることで、生まれ持った環境の制約を超えられる可能性がある。このように考えると、個人の選択と努力の重要性を強く感じずにはいられない。確かに環境は重要だが、それを乗り越える力も人間には備わっているのではないだろうか。

言語とコミュニケーション

 日々の生活や思考を通じて、言語とコミュニケーションに関していくつかの興味深い側面に気づくことがある。特に、英語学習の経験から、"Would"や"Could"などの助動詞の難しさについて考えることが多い。これらが接続法の迂言形であることが、日本人学習者にとって理解を難しくしている要因の一つかもしれない。日本語にはない概念を表現するこれらの助動詞は、単なる文法規則以上の意味を持つように思える。

 つまり、これらの助動詞は話者の態度、可能性、仮定などを微妙に表現する手段であり、英語文化における丁寧さや間接的な表現の重要性を反映しているのだろう。このような理解は、言語学習が単なる単語や文法の習得ではなく、その言語が話される文化や思考方式の理解につながる可能性があることを示唆しているように感じる。

 言語に関する考察は、自然と文章を書く能力についての個人的な見解にもつながっていく。才能の要素がある一方で、文章の種類によって必要なスキルが異なるようにも感じるのだ。例えば、創造的な文学作品を書く能力と、論理的な学術論文を書く能力は、異なる面があるのではないだろうか。私見だが、一般的な文書はこの両極の中間に位置するように思う。つまり、論理性と読みやすさのバランスが求められるのだ。

 この考えを踏まえ、文書構成に関しては800文字で一見出しというのを個人的なガイドラインとしている。これは読者の集中力と情報の密度のバランスを取るための一つの試みだ。また、デジタル時代においては、文章がスキャンして読まれることも考慮に入れる必要がある。そのため、重要なポイントを強調し、視覚的な階層構造を作ることも、効果的な文章作成には欠かせない要素となっているのだ。

教育と知識

 言語やコミュニケーションについての考察は、自然と教育の在り方への思索へとつながっていく。特に、教育経験の価値について興味深い考察をしたことがある。それは、必ずしも伝統的な意味での優秀な経歴を持たない大学教授のほうが、学生指導に適している可能性があるのではないかという考えだ。

 この考えは、単に学術的な成功だけでなく、多様な経験や失敗からの学びが教育者として重要である可能性を示唆している。例えば、困難を克服した経験を持つ教授は、学生が直面する挑戦をより深く理解し、実践的なアドバイスを提供できるかもしれない。また、異なる分野や産業での経験は、学際的な視点をもたらし、理論と実践を橋渡しする能力を高める可能性がある。このような視点は、アカデミックな成功に関する従来の概念に疑問を投げかけるものだろう。

 教育や知識の獲得を考える上で、情報源の信頼性も重要なテーマとなる。個人的に、特に専門的なトピックに関しては、Wikipediaのような一般的な情報源に対して少し懐疑的になることがある。これは、情報の正確性や深度に不安を感じるからだ。そのため、日本大百科全書(ニッポニカ)のような権威ある情報源を利用することが多い。このような専門家が編纂した資料は、より正確で包括的な情報が得られるような気がするからだ。

 ただし、これは情報へのアプローチの一例に過ぎない。重要なのは、複数の信頼できる情報源を比較検討し、批判的思考を通じて情報を評価する努力をすることだろう。デジタル時代において、この能力はますます重要になっているように思う。情報が氾濫する現代社会では、質の高い情報を見分け、適切に活用する能力が、個人の知的成長と社会の健全な発展に不可欠だと考えている。

社会的・政治的観察

 教育や知識についての考察は、より広い社会的・政治的な問題への関心へと自然につながっていく。日々、さまざまな社会現象について考えることがあるが、その一例として「売れない作家」という言葉が最近あまり聞かれなくなったことに気づいた。これは単なる言葉の流行の変化ではなく、出版業界や作家という職業に対する社会の態度の変化を反映しているのかもしれない。

 デジタル化やセルフパブリッシングの台頭により、「作家」の定義自体が変化しているように思える。今や、従来の出版ルートを通さずとも、自らの作品を世に出すことができる時代となった。これにより、「売れる」「売れない」という二元論的な評価基準が曖昧になり、代わりにニッチな読者層を持つ作家や、副業として執筆活動を行う人々など、多様な作家の形が認められるようになってきているのではないだろうか。この変化は、文学や表現の多様性を促進する一方で、品質管理や著作権の問題など、新たな課題も生み出している。

 社会の変化を観察する中で、政治的な側面にも目を向けざるを得ない。例えば、アメリカの大統領制について考えることがある。1期で終わった大統領は往々にして失敗とみなされる傾向があるため、再選への圧力が大きいのではないかと感じる。これは単に個人の野心の問題だけでなく、政策の継続性や国際関係の安定性にも影響を与える可能性がある。

 例えば、環境政策や国際協定などの長期的な取り組みは、政権交代によって大きく左右されることがあるかもしれない。この点で、韓国の大統領制との比較が興味深い。韓国の1期限りの制度では、大統領は再選の心配なく思い切った政策を実行できる一方で、短期的な成果を求めるあまり、長期的な視点が失われる危険性もあるのではないだろうか。

 このような制度の違いは、各国の政治文化や歴史的背景を反映している。同時に、これらの制度がそれぞれの国の政策決定や国民生活にどのような影響を与えているかを考察することは、政治制度の在り方を再考する上で重要な視点を提供してくれるのだ。

個人の成長と意思決定

 社会や政治の観察は、必然的に個人の成長と意思決定についての思索へと導く。個人的な考えだが、決断を下し、その結果を受け入れることが個人の成長につながるのではないかと感じている。人生の多くの決断は確かに確率論的に捉えられるかもしれないが、すべての決断をそのように扱うと、人生が少しつまらないものになる可能性があるように思う。

 例えば、職業選択や結婚などの重要な決断を純粋に確率や期待値だけで判断することは、個人の情熱や価値観を無視することになりかねない。時には、統計的には不利に見える選択であっても、それに賭けることで予想外の成長や満足を得られることがあるのではないだろうか。これは、人生における「計算できないリスク」の価値を示しているのかもしれない。

 同時に、失敗を恐れずに決断を下す勇気も大切だと感じる。失敗から学ぶ経験は、しばしば成功以上に価値があり、個人の成長を促進する可能性がある。この考えは、エビデンスに基づく意思決定の価値を認識しつつも、その限界も理解することの重要性を示唆している。

 データや過去の事例を参考にすることで、より情報に基づいた決定を下せることは確かだ。ただ、エビデンスにも限界があることを忘れてはならない。個人的な経験では、エビデンスは多くの状況に適用可能だが、条件が変わると曖昧になる可能性があることを意識するようにしている。

 例えば、ある戦略が特定の業界で成功を収めたとしても、別の業界や文化圏では同じ結果をもたらすとは限らない。また、急速に変化する現代社会では、過去のデータが必ずしも未来を正確に予測するとは限らないように感じる。

 このため、エビデンスを参考にしつつも、直感や創造性、そして状況に応じた柔軟な思考も大切にしたいと考えている。最終的には、エビデンスと個人の判断力のバランスを取ることが、賢明な意思決定につながるのではないだろうか。この柔軟なアプローチは、予測不可能な要素が多い現代社会を生きていく上で不可欠なスキルとなりうるのだ。

 

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