7月29日のTwitterのつぶやきからブログの記事を生成し、今回は手を入れてみた
昨日に続いて、7月29日のTwitterのつぶやきからブログの記事を生成してみた。が、自分の考えと違うまとめかたをしているので、今回は、手を入れてみた。
目次:
1. 書と書道をめぐる考察
2. 手話という言語の捉え方
3. 気候変動に関する疑問
4. ウクライナ情勢をめぐる思惑
書と書道をめぐる考察
Twitterで「相田みつを」化という言葉を見かけた。相田みつを的な人生訓のような文章(「にんげんだもの」といった)がTwitterで好まれるのを問題視したようだった。しかし、私は、相田みつをについては、こうした「相田みつを化」とは、かなり異なる印象をもっている。
きっかけは、相田みつをの書(書道)が「読める書」を求めたものだったことを知ったことだ。書道のありたかとしても、考えさせられた。今日の書道展示会における、書道作品は読めなくてもいい、芸術として感じればそれでよい、という風潮に問題を感じていたからだ。この風潮は、難解・難読な禅語の掛け軸あたりから始まったのだろうか。禅の教えを伝える言葉は、もともと難解なものが多い。それを芸術的な書の形で表現することで、文字の意味よりも、書かれた文字そのものの美しさや力強さに価値が置かれるようになったのかもしれない。
書道の書は読めるべきか。この問題に向き合って、読める書を追求した横山淳一のような書家もいる。視覚芸術的ではあるが、読めない書道が主流になりつつある中で、あえて読みやすさにこだわる。それは、書の伝統を守りつつ、新しい表現を模索する試みとも言えるだろう。相田みつをの書の場合、読めることの意味が重要視されるのは、彼自身が詩人でもあるからだが、書家として、言葉と書の両方で表現を追求した結果であるだろう。
デジタルメディアの時代になって、書かれた言葉の意味に注目が集まりがちである。文字はデータとしてすぐに転写され、SNSで拡散される。文字が手によって書かれる点には二の次となり、書かれた書は視覚的なインパクトが重視される。だが、本来、書は言葉と一体であるはずだ。文字の形に作者の思いが込められ、言葉と呼応し合って初めて、書の魅力が完成する。
したがって、書家にとって問われるべきは、言葉の中身と、それがどのように表現されているかということの両面なのだ。読める書を追求することと、読めなくてもいい書を生み出すこと、その両極の間で、書家は表現の可能性を模索すべきだろう。時代と共に書のあり方は変化を遂げる。言葉と向き合い、書と対話する姿勢には新しい変化が求められる。
手話という言語の捉え方
手話は、英語で sign language、つまり「記号言語」と呼ばれるが、単なる記号の集まりではなく、身体全体を使って表現する一種の芸能でもあると私は考えている。30年以上も前だが、ろう者の話芸を見る機会があったことがきっかけだ。その手話の話芸は、手の動きだけでなく、表情やリズム、視線の誘導など、驚くほど表現力豊かなパフォーマンスだった。手話を使う人たちの中には、手話を話芸のように洗練させ、観客を魅了する人もいるのだと知った。
身体の部位を叩いてリズムを刻んだり、手と口と視線の動きを巧みに組み合わせたり、聞こえる人には想像もつかないような表現方法で、浄瑠璃でも見るような物語が紡がれていた。それは、声を使わずとも、言葉の持つ力を最大限に引き出す術を、ろう者たちが長い歴史の中で培ってきた証なのかもしれない。
一方で、手話を言語学的に捉えるのは難しい面もある。音声言語を母語とする聴者の視点から見ると、手話は音声言語の文法体系にはめ込みにくい部分が多い。例えば、手話には、聴者の言語でいう「主語」や「目的語」に相当する概念がないとも言える。それらが同時に出現することもある。手話では、動作主と対象を身体の向きや視線、表情などで表現するため、聴者の言語とは異なる文法体系を持っている。
現在、選挙公報などで見かける、聴覚障害者の便宜のために開発された人工的な手話と、ろう者コミュニティで自然発生的に生まれた手話とでは、言語としての体系は大きく異なるだろう。人工的な手話は、音声言語に翻訳しやすいように音声言語の文法に合わせて作られている、いわば音声言語のコピーである。だが、ネイティブによる伝統的な手話は、それがまだ現存するなら、ろう者たちが長い年月をかけて、独自の文化の中で育んできた表現方法であり、容易には言語に翻訳できない。
手話に関する私の理解は、20代の大学院生以降継続していないので不十分だが、手話は現在、ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)への組み込みなどを通じて、その位置づけは少しずつ変わりつつあることは知っている。CEFRはもともと音声言語の熟達度を測る基準として作られたものだが、そこに手話が加わることで、手話の言語としての地位が国際的に認められつつある。また公的な学習指針ができることで、手話の普及や教育も進んでいくだろう。
手話を含め、多様なコミュニケーションの在り方を知ることは、言語観を問い直すきっかけにもなる。 各国の音声言語を基準に考えるのではなく、手話やその他の非音声言語も、それ自体が独自の体系を持つ言語であると認識することが大切だ。お互いの言語の違いを理解し、尊重し合うこと。そこから、新しい言語観、コミュニケーション観が生まれるのではないだろうか。
気候変動に関する疑問
昨今の急激な気温上昇と気候変動の関係について、科学者の間でも議論があるようだ。世界各地で記録的な猛暑や豪雨が報告され、「温暖化の影響ではないか」という声も上がっている。確かに、地球の平均気温は確実に上昇しており、それが異常気象を引き起こしている可能性は高い。
しかし、気候変動モデルの正確さについてはまだ疑問の余地があるという。気候システムは非常に複雑で、実際には他分野にわたり、そのすべてを正確にモデル化し評価するのは困難だ。日々、新しい知見が加えられ、モデルの精度は上がっているものの、予測と実際のデータの間にはまだギャップがある。
もともと、単年度のデータだけで気候変動を断定するのは難しいという指摘もある。気候は長期的なトレンドを見るべきものであり、一時的な変動を気候変動の証拠とするのは適切ではない。自然の変動幅を超えた変化が、長期的に継続して観測されて初めて、気候変動と言えるのだ。
昨今の気温上昇が地球温暖化に関係するのは確かであるとしても、それだけでは説明がつかない部分もあるらしい。例えば、北極圏の気温上昇は、地球全体の平均よりもはるかに速いペースで進行している。これは、海氷の減少によって太陽光の反射率が下がり、熱が吸収されやすくなったことが原因だとも考えられている。温暖化が温暖化を加速させる多様なメカニズムが働いているのだ。
こうした複雑なメカニズムを解明し、より正確な予測モデルを構築するには、まだ多くの研究が必要だろう。同時に、気候変動の影響は既に世界各地で現れており、すぐにでも対策を講じなければならないという課題もある。科学的な不確実性を理由に行動を先送りするのではなく、予防原則に基づいて、できることから着実に取り組んでいくことは求めらていれる。
気候変動の問題は、科学だけでなく、経済、政治、社会などあらゆる分野に関わる複雑な問題でもある。利害の対立を乗り越え、地球規模で協力していくことが不可欠だ。一人一人が自分にできることを考え、実行していくこと。そうした地道な努力の積み重ねが、気候変動という大きな課題への第一歩となるという原点が揺らぐというわけではない。
ウクライナ情勢をめぐる思惑
ウクライナがロシアに対して仕掛けようとしている秘密裏の特殊な軍事作戦について、ロシアが察知し、米国を通じて思いとどまらせようとしているというNYTの報道があった。内容の詳細は明らかになっていないが、ウクライナの内情をロシアが監視していることは間違いない。おそらく、衛星画像などの情報源を駆使して、ウクライナ軍の配備状況を把握していることに加えて、スパイ網などもあるのだろう。
ロシアがこの問題で、わざわざ米国を仲介役に立てているのは、ウクライナへの配慮とようより、米国への配慮があるのかもしれない。米国は、ウクライナを軍事支援する一方で、ロシアとの全面対決は避けたい構えである。そのため、米国はウクライナが過激な行動に出ないよう、一定の歯止めをかけている。だが、それに米国が把握できず、ロシアが把握できる事態が生じているということなのだろう。
ウクライナ側が米国に情報を隠しているか、ウクライナの政府意思が分裂しているか、そもそも今回の特別作戦がロシアが重視するほど効果を持つのかどうかは不確定だ。ウクライナとしては、ロシア内に不意のダメージを与えることができれば、有利かもかもしれないのだが、米国にも知られていない秘密行動は国際的に予想外の結果をもたらす可能性があり、ロシアはその憂慮を米国に伝えているのだろう。
米国としても、ウクライナの軍事行動が泥沼化することを懸念しているのかもしれない。ロシアとの長期戦や、NATOの本格介入は、米国経済にも大きな負担となるし、同盟国との関係悪化を招くリスクもある。かといって、米国はウクライナを見捨てるわけにもいかないので米国は、外交と軍事の両面で、微妙なバランスを取ろうとしているのだろう。
ウクライナ情勢をめぐる思惑は複雑に絡み合っている。当事者であるウクライナとロシアはもちろん、米国や欧州諸国、さらには中国なども、それぞれの利害に基づいて行動している。戦争の帰趨は、軍事的な勝敗だけでなく、こうした駆け引きの行方にも左右される。一刻も早い停戦と平和的解決が望まれるが、そのためには、関係国の利害の対立を乗り越える仕組みが必要とされている。
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