[書評] 戦後フランス思想(伊藤直)
私は66歳にもなって自分を大人気なく思う。本書『戦後フランス思想』を読んで、ああ、こういう解説は簡素によくまとまっているけど、あの時代の日本の空気が感じられないなあ、と思ってしまった。ということを書くのも、大人げないが、本書はそんな郷愁をもたらした。と、いうのも、あまり正確ではない。後で触れるが、本書は実はとても現代的でもある。
もう少し、大人げない話をしたい。本書を読みながら、十代の自分が今も自分の中にいることに気がつく。アルベール・カミュは私の少年期そのものだったからだ。なんかもう自殺しようかなと思っていた中二の私は、確か、白井浩司の書いた、フランス哲学風人生論で、カミュを知った。曰く、『シーシポスの神話』を読みなさい、というのだった。読んだ。哲学の問題は今、自殺するかしないかだとする、本書にも引かれているが、その基調は、中二の心を掴んだ。不条理(なんですかコレという笑っちゃうね状況)、それこそが、とりあえず、自殺しない理由になった。1973年。村上春樹の小説を思い出させる年号である。
私は、カミュに傾倒した。中二病は昂じて高二病にもなった。本書で説明されているサルトル・カミュ論争にも入れ込み、カミュに肩入れして、サルトルをバカにしたのだった。許せ、高二病だ。でも、本書読んで、高二病の俺が正しいじゃんかとも思った。
さらに、思い出す。あれは、高一だったな。ある日、死ぬほど凡庸な授業のあと、おまえ、校長室に来い、と言われた。はて? 綾小路清隆のように凡庸を偽装している私が目立つはずなぞないのにと思って教師の後をついて行った。不条理に叱られるのかと思ったが、高校生の作文コンテストで入賞したから高校のほうに通知が来たというのだ。ほへ?なんですかそれ、と思ったが、思い当たることはあった。作文コンテストに投稿したことを思い出した(それまで忘れていた)。人生の希望とかいう、吐きそうなテーマだったかと思う。中二病が悪化している私は、さらっと、人生とは反抗の連続である、みたいな、嫌味な作文を書いて送ったのだった。あれが、入賞かよ? 選者(富島健夫もいたんじゃなかったか)、とても退屈してだんだろうなとも思った。作文の内容は、もう黒歴史といっていいのだが、本書に登場し、解説されているアルベール・カミュの『反抗的人間』のパクリである。コピペではない。いや当時、コピペなんてないのだが、つまり剽窃でもない。高一の頭で理解したカミュ思想だった。つまりパクリだ。それで、そのあとで呼び出しの先生にぼそっと言われた、「あれ、もっとなんとかならなかったのか?」あれというのは私の作文である。うへ、おまえみたいな教師がいるから書いたんだよ。
つまり、そういう時代だった。ベトナム戦争が終わろうとしていた。1975年4月の末日、高二病の私は同じく高二病の友人と、サイゴン陥落と米帝の敗北を見つめていたのだった。僕たちは、うっすらベトナム反戦運動の空気のなかにいた。が、醒めつつもあった。高二病の友人もマルクス主義とベトナム反戦運動の限界を感じていた。僕はいえば、当然、新左翼的な心情だった。が、菅直人元首相のようなヘタレでもあり、黒ヘル的な心情もあった。でも、なんか、アナーキズムというのもダセー(当時そんな言葉はなかった)と思って、なんの矜持もなく、今度はサルトルにすり寄ったりもした。実存主義である。
と、おふざけもこのくらいにしたが、サルトルというのは、あの時代、そういう存在だった。オーウェルが嚆矢であるが、平和運動家のバートランド・ラッセルも、ソ連ってやばいんじゃねという空気の中で、マルクス主義の超克が問われている状況で、サルトルはええ塩梅で中途半端だった。実存主義というのは、知的で反抗的という、空虚な、高二病のような、そういうものだった。
それは当時の日本の状況とも言えるが、フランスの状況でもあっただろう。彼らのアルジェリア戦争は、僕たちのベトナム戦争でもあった。マルクス主義と一定の距離を取る「第二の左翼」こそ、戦後フランス思想の要だろうと僕は思うのだが。その象徴的な核にいたのが、ミシェル・フーコーだった。1977年6月、ソ連のブレジュネフ書記長が来仏した際、彼は抗議集会を開いた。それにクラウス・クロワッサン事件が続いた。そう、ここにフーコーとデリダがそこにいるのだが、本書の「戦後フランス思想」には残念ながら登場していない。まあ、それでもいい。
さて、本書に立ち戻る。というか、筆者さん、お若いのかなと思って生年を見ると、1977年。僕が大学一年生のころだ。若気の至りがあれば、生まれていた子かもしれない年代である。そして、本書の「あとがき」を読む。
ここまでページを手繰ってくださった読者には念押しとなり、「あとがき」からまず入られた手練れの読者には予告となるが、この本は入門書というよりも、紹介書ないしは案内書である。
ガーンである(古臭いなあ俺)。そうだったのか。高二病の俺がまったく本書を勘違いしていたのだった。というか、実は、メルロ=ポンティの章に読み進めたとき、あれ?という感じはしてた。でも「あとがき」を捲ってようやく気がついた。何が言いたいかというと、メルロ=ポンティとバタイユの説明が、すっごく、わかりやすいである。はちみつ垂らそうかなというヨーグルトくらいのプレーンなのである。これでいいんじゃね(なんつう上から目線)。というか、そうして改めて前の章を読みな直してみると、サルトルやカミュの説明もこれでいいんじゃねと、ようやく気がついた。トンチンカンな話をしてすまなかった。今は反省している。
と言って舌の根も乾かぬなかで高二病を再発すると、ド・ボーボワール(ドをつけるところが高二病である)はもう少し現代的な視点で見直されていいだろうし、彼女の現代的な思想の核は、老い、についてあるだろうとも思った。そこは本書には書かれていなかった。あと、バタイユについても、高二病の私は、栗本慎一郎的に言いたいことはあるにはある。けど、ちょっとこれは、さすがに、もういいかな。説明はプレーンだなとは思う。
本書は令和の時代にそった良書なんだと思う。これはいいなあと思ったのは、サルトルやカミュの文学がきちんと全面に出ていることだ。令和の日本人によって、そしてやがて死んでいく1970年の残骸のような僕なんかどうでもいいだけど、彼らの文学は、今でもいきいきと文学になっている。これからもサルトルやカミュ、そしてバタイユの文学は読まれるだろう。そこを本書は令和の日本人にきちんと伝えている。そういえば、吉上亮『PSYCHO-PASS GENESIS』ではカミュの『カリギュラ』が出てくるし、そのテーマを負っている(こっちも映画化しないかなあ)。というか、PSYCHO-PASSには、1970年代の高二病の熱量があるなあ。
そして、思うのだ、このカミュやサルトルの文学的な熱量にこそ、もっとも未来に意味があるんじゃないか。本書は、その紹介書というわけだ。
あと続編的に、本書にちらと言及がある、ジャン=リュック・ナンシーについても、きちんと解説書も書いてもらいたいなあ。ナンシーの思想はとても大切なんだけど、というか、戦後フランス思想をようやく乗り越えたところにあるんだけど、あまり日本では一般的には知られてないっぽいんだよ。
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