ブログ再開?
長い間ブログを休止していた。この間、大学院生であったという理由が大きい。25歳に最初の大学院を中退し、それから40年かけて大学院修士を終えたという感じだ。10年前の著書には、「もう諦めた」と書いたが、子供が4人成人したのをきっかけに修士に再挑戦した。というわけで2年間、放送大学で大学院生をやっていた。ようやく修論が終わり、取得単位もクリアしたので、今月末には卒業ということになる。
この間、修論研究にけっこう専念していた。コロナ禍もあってか、朝から深夜まで研究ばっかりしていたこともある。加えて、大学院の単位取得もそう容易いということでもなかった。40年前の大学院の単位も復活できるかとも思ったけど、手続きミスがあり、諦めた。結果からいうと、それでよかった。認可待ちしていると、大学院の単位の計算が不確定になっただろう。取得単位という点では、結局、学院を2つ出たような感じだが、あれだなあ、学問の風景もけっこう変わった。言うまでもないが、大学院の教養科目はそれなりに学部とはレベルが違ってましたね。
自分が今回、大学院でやっていた研究は、ラテン語から見た中世と近世の英語聖書の文法的特性という内容。『ルカによる福音書』と接続法に限定し、ラテン語との対比とした。当然ながら、この研究には英語聖書の歴史、印刷前の写本の研究、接続法という文法に対する歴史研究とかが関連しているので、全部ひっくるめてたら、最終論文は500ページを超えた。500ページを超える修論は珍しいかと思いますというか、博論でもあまりないかもしれない。まあ、内容については、終わってみると、大したことはないな感で、落ち込みますね。
ここから、博論テーマもいくつかあるのだけど、体力限界。知力も当然限界かな。とはいえ、まだ研究生活の惰性で学術書とかも読んではいますが。
ブログ休止のこの間、コロナにも辟易としてもいたなあ。コロナ禍でまいったことはいろいろあるが、一番まいったのは、世間というものに愕然と直面したことかな。単純な話、なんで戸外でマスクしてんの?とまあ、これね、もう議論に辟易としました。負けた。ウクライナ問題も辟易としたなあ。僕はもともとロシアが好きだし、プーチンもけっこう評価しちゃうという偏向はあるのだけど、自分なりに問題の過程や公平な視点も心がけたいのだけど、まあ、この手の話題はもうブログとかの議論にならないよねという感じ。それでもファクトベースでなんか書くかもしれないが。なので、コメント欄とかも閉じました。Twitterにはいるので、なんかあったら、そっちで連絡ください。
そんなこんなで、ブログはなんとなく再開するかもしれない。しないかもしれないんだが。
試しに少し書評記事とか書いてみた。げろっちゃうと、人工知能の応用も兼ねてである。なんか雑文書かせてみるか、雑文といえばブログだよなあ、で、この記事も、最近のアウトラインプロセッサーでメモ書きして、最初は、Notion AIに書かせてみた。あかん。基本は、あかんなあ。なんか、「この、Notion はすばらしいツールです」っていっているYouTuberのようなポジティブ感に溢れた文章を味もそっけなくもなく、こいつは出力するんだぜ。というわけで、こうした毒々しい文は手書きに限る、といいたいが、人工知能というか、自然言語処理で早晩なんとかなっちゃうでしょう。
ちなみに次の段落は Notion AIに書かせた。
《年齢を感じる瞬間はいろいろある。たとえば、学生時代に好きだったバンドのメンバーが次々と亡くなっていくのを見ると、自分も老いているんだなと感じる。でも、感じるだけでは仕方がない。老化は現実だから、できる限り元気でいることが大切だ。元気でいるためには、食事や運動、睡眠、ストレスマネジメントなどが必要だ。自分自身を大切にし、健康的な生活を送ることが大切だ。》
あほみたい。そんなわけで毒々しいブログは手書きの時代が続くだろうか。
ブログ再開とはいえ、これからはどう書くのかは、なかなか思いつかないが、いろいろ書いていきたい気持ちはある。人気は気にならない。というか、こんなもの誰も読まないでしょ。自分のための備忘録くらいにはなるか(死んだら自動的に削除されるでしょうが)。
ブログを再開するのにあたって、このデザインもどうかと思う。なんせ、20年間このままだしね。アフィリエイトは従来どおりかな。実際のところもうブログでアフィリエイトという時代ではないでしょう。
そういえば、Youtubeもやりましたよ。 finalventラジオとかまだ残っているはず。これも再開するかもしれない。『波よ聞いてくれ』というアニメの影響なんだが。ああ、この間、研究だけしてたのはそうなんだが、声楽といいうか合唱をよくやってました。テノールです。finalventラジオには私の歌声なんぞも(極めてオススメはしないが)。
書いていて、ブログを再開するという気持ちの中には、老化という現実がある。自分の体が衰えてくるのをひしひしと感じる(「ひしひし」ってこういう文章で使うものだな)。60歳になったころは、あれ、けっこう自分って若いじゃんと思った。あれもこれもできた。64歳になって、がくっときた。足もけっこうがたがきて、現在は、杖とかついている。まじ。ただ、あのよく見かけるおじいちゃん杖でもないのだけど。
なんであれ、現実は変わらない。老化は避けられない。自分自身が老化していくのを受け入れるしかない。とかいう気力も、年齢とともに衰えていくのかもしれない。そんな暗い現実も、正直に受け止めることが大切だろう。というのが、今後のブログのテーマだろうか。
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