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2023.03.03

書評『世界文学の古典を読む 』(村松真理子・横山安由美)

 昨日のブログ記事で、大学院で学んでいた二年間は修論研究に没頭していた、と書いたが、コロナ禍で外出は減ったこともあり、オンラインのメディアはよく見ていた。アニメとかドラマとかである。なかでも修論研究に関連するメディアに関心がむいた。そのなかで、これが一番というのが、イギリスBBC制作の全6回のミニシリーズ・ドラマで、ヒラリー・マンテルの原作『ウルフ・ホール』である。修論関連でいうと、ティンダルは話題に登ったものの人物としては出てこなかったのは残念だったが、トマス・モアはかなり焦点が当てられていた。修論でティンダルとモアの論争を論じたが、そのおりはこのドラマの風景がしばしば思い浮かんだ。
 そんなふうにこの二年間、修論研究の背景的に、英国の百年戦争から清教徒革命までの時代の関心を深めていた。シェイクスピア観も変わった。シェイクスピアの史劇はこの時代なのだという実感である。それまでは四大悲劇など、作品論的に、または文体論的に見ていて、歴史物語とその社会受容の観点はあまりなかった。
 他方、修論研究と関連メディアの鑑賞で、イングランド中世から近代の時代の空気にいまひとつ足りない感じもしていた。具体的には、中英語研究・中世英国文学の主要テーマでもあるチョーサーについてである。指導教官はその側に詳しいのでいろいろ教えてもらったが、特に気になったのは、チョーサーの多様性というか重層性である。彼は中世英国の文学者、と見るより、西欧世界の文化的全体像のなかで見ることが重要である。チョーサーは学者でもあり、その側面もけっこう考えさせられた。そういえば、ダンテも『神曲』の作者として理解されてよいのだが、彼も同時代の一流の学者であった。そして、ダンテとチョーサーをつなぐ地点にボッカチオがいて、しかも、むしろ『神曲』の評価史にボッカチオが深く関わっている。などなど。
 こうした、西欧世界の文化的全体像をどう捉えるべきかは、修論研究の際につらつらと思いつつ、研究の中心課題からそれないように、関心を抑えていたが、さて一通り、修論も終わり、卒業まで実質、春休みという状態になり、放送大学の関連授業を聴講しようと思った。それが、『世界文学の古典を読む 』である。
 なお、大学院の必須単位の授業として『中世・ルネサンス文学 』と『西洋中世史』は受講していた。どちらも優れた講義だったが、『中世・ルネサンス文学 』のほうは、残念なことに、10年前の開講なので現在ではもう講義はなくなった。書籍は購入できるので、関心のある人は購入をお勧めしたい。現状、中古本は格安である。

 

 長い前フリだったが、そんなわけで、春休みとなり、学部の『世界文学の古典を読む 』を聴講した。自分もそれなりに、紆余曲折はあっても、けっこう長いこと人文学に関心をもってきたのだが、抜けは多いものだし、そうした抜けによって、文化の全体像を見失っていることも多いものだと思った。というか、反省した。

『世界文学の古典を読む 』の講義は15回で、最終回のまとめ回を除いて、毎回14個の古典作品を扱う。これらの作品は、単に重要古典というだけでなく、文学における「旅」という全体テーマを持っている。
 当初、これらのリストを見たとき、「あーあれか」という感想と、「なんでこれが」という相反した感想をもった。シラバスを参考に順に自分の印象について言及したい。言うまでもないが、テキストもこの順である。

第1回 古代ギリシア1『オデュッセイア』
『オデュッセイア』は、ギリシャ神話の英雄オデュッセウスの冒険物語だであり、コミック『ヒストリエ』の原型にもなっている。オデュッセウスは、『イリアス』に描かれるトロイア戦争後、10年間の苦難の放浪の末に、故郷イタカに帰還するが、家に帰ると、妻に求婚している大勢の若者たちに追い回され、妻も危機的な状況にある。彼はこの求婚者らへの報復にどう活かされているか、また妻と夫はどのような関係にあるべきか、などを考えさせる。よく知られた物語だが、私は迂闊にも『オデュッセイア』の全体像を見失っていたのだったことに気がついた。『イリアス』の後編くらいに思っていて、つまり、帰還の物語ということだが、実際には、後半の大半は報復の物語であり、愛にまつわる物語でもあった。そういえば、『ユリシーズ』も未読であった。

第2回 古代ギリシア2 『オイディプス王』
『オイディプス王』は、ギリシャ悲劇の代表作品の一つで、物語は、オイディプス王が、自らの運命のとおり、父親を殺し母親と結婚し、盲目となる悲劇である。よく知られた筋書きであり、今更『オイディプス王』かという先入観があったが、講義では叙事詩や他の悲劇作品を参照することによって、ソポクレスが伝説をどう改変したかを検討を含め、作品論が興味深かった。そして、再考するに、これは一種の「探偵小説」になっていることに気がついた。極論すれば、人生というパズルの物語なのであり、物語という原型をもっている。

第3回 古代ローマ1 『アエネイス』
『アエネイス』は、古代ローマの詩人ウェルギリウスによって書かれた叙事詩で、主人公のアエネアスは、トロイア戦争後、イタリアにたどり着くまでの旅を描いている。『オデュッセイア』のパロディのようでもあり、予言、記憶、建国神話、冥府下りなどもあるが、全体の背景はローマのナショナリズムの色合いになっている。講義前には、『アエネイス』については一応の知識は持っていたし、部分的にはラテン語原典にも触れたことがあるが、率直なところ、なんでこれが重要古典なの?カミュの『異邦人』がフランス語中級の教科書みたいに、ラテン語中級の教科書くらいに思っていた。だが、第3巻、第6巻、第8巻に焦点を絞られた講義から、時代背景や文学的な伝統を視野に入れてその価値を自分なりに再評価できた。ちゃんと講義を聞くものですね。

第4回 古代ローマ2 『黄金のろば』
『黄金のロバ』は、2世紀にローマ帝国領であった北アフリカの作家アプレイウスによって書かれた物語である。主人公ルキウスが人間からロバに変身譚で現代人が読んでもラノベ的に面白い。というよりも、古代ローマ時代に流行した小説であり、文学史的にはそもそもが「小説」の起源に関わる。すでに『デカメロン』的な「枠物語」の構成も見られる。個人的には、この作品については、そういうのもあったなあとか、『テルマエ・ロマエ』のルキウスはこのオマージュかくらいの理解だったが、叙事詩との関係を含め、作品として非常にすぐれたものであることが認識できた。

第5回 中国1 『遊仙窟』
『遊仙窟』は、唐代に流行した「志怪小説」と呼ばれるジャンルの伝奇小説である。主人公が河源(黄河の源流)を旅する中で、神仙の家に泊まり、寡婦の崔十娘、その兄嫁の五嫂らと一夜の歓を尽くす。妖怪や神仙といった異世界の存在が登場する。この『遊仙窟』については、荒俣宏の本なので知っていたので、ああ、あれか、という先入観があった。山上憶良の挿話などにもあるし。だが、これが、佚存書ということは知らなかった。つまり、中国では継承されず、むしろ日本文学のなかで継承されていたわけである。驚きであった。内容についても、多面的な解釈に言及されていて面白かった。ちなみに中国人にとっては、タイムマシンによって古代から届けられたようなものだろうか。

第6回 中国2 『西遊記』
『西遊記』は白話小説であり、日本の漢文の歴史からはゆえに外されているが、こういう日本における「漢文」はそれ自体が知識の権力制度なのだ。講義では、インドのハヌマーンとの関係についても触れていた。考えてみれば、当然のことだった。余談だが、日本における西遊記人気は邱永漢によるものではないかと思う。

第7回 スペイン1 『わがシードの歌』
『わがシードの歌』は、カスティーリャ語による現存する最古の文学作品であり、中世ヨーロッパに共通するジャンルである英雄叙事詩の一つである。物語は、スペイン語圏の英雄ロドリーゴ・ディアス・デ・ビヴァルが、王の愛妾との恋愛や、モーロ人との戦い、娘の名誉を回復するといった話が含まれている。プリンテッドな物語以前の、口承文芸の成立過程を示す作品としても興味深い。とのことだが、私はこの作品は知らなかった。ただ、すぐに「そうか」と気がついたのは、『陰の実力車になりたくて』の「シド」が、SidでもshidoでもなくCidであり、「シード」であることである。原作のほうだが、言語はカスティリア語、つまり、現代の標準スペイン語の基盤になった方言である。国土回復運動(レコンキスタ)にしたがってマドリード周辺にまで南下して広がり、11世紀のカスティリア王国とレオン王国の合併、 15世紀末のアラゴン王国との合併から、スペインの公用語、つまりスペイン語になった。このあたりの方言から国民言語の関係は『神曲』に似ている面もありそうだ。

第8回 スペイン2 『ティラン・ロ・ブラン』
『ティラン・ロ・ブラン』は、地中海沿岸のバレンシアで15世紀に誕生した物語で、美女フロル・デリスをめぐる恋愛模様なども描かれているが、その筋書きは当時のスペインの状況を反映し、非常に複雑である。私はというと、この作品も知らなかった。こちらは当地、バレンシア語、つまり、カタルーニャ語に近い。『わがシードの歌』のような口承文学ではなく、ジュアノット・マルトゥレイの1490年の作品であり、すでにプリンテッドな作品であり、原本と刊本がどのような保存や伝播の経緯をたどったかも研究されている。講義で語られる内容では、特にイスラム世界との関連がとても興味深かった。文学史的には、ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』はこの『ティラン・ロ・ブラン』のパロディとも言えるらしい。作品としては1世紀ほどの差であろう。この間の言語状況も興味深いというか、物語が口承からプリンテッドへの変化も大きいのだろう。余談だが、修論のテーマは中世聖書の写本と近世聖書の印刷本の対比があり、印刷がいかに人文学を変えたか実感した。

第9回 イタリア1『神曲』
『神曲』については、講義では、紹介よりも、作品論が重視されていた。まあ、良質な講義という感じだった。余談だが、『神曲』といえば、これを扱ったダン・ブラウンの『インフェルノ』はコロナ禍の医療問題にも予言的だったなと思った。

 

 

 

題10回 イタリア2『デカメロン』
『デカメロン』は、14世紀にイタリアの作家ジョヴァンニ・ボッカチオによって書かれた作品で、物語は、黒死病が蔓延するイタリアで、男女含めて10人の若者たちが町を逃れて田舎の屋敷で物語を語り過ごした10日間を描いています。各日、10話ずつの計100話からなり、それぞれに異なるテーマが設定され、様々な人間模様が描かれる。『デカメロン』については、物語文学の系譜の問題や、語りの仕組み「枠物語」、読者とテクストの関係などに関する作品論が中心だったように思われる。また、よく言われるようにコロナ禍では特段の思いがあった。文学史的にはこの作品がノベッラ(小説)の起源らしい。

第11回 フランス1 アーサー王物語と聖杯の探索
具体的には、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』からトマス・マロリーの『アーサー王の死』までを繋いでいるが、「フランス」の文脈においているのは、『ブリュ物語』のせいでもあり、実際上、国際アーサー王学会がパリ大学にあるからだろう。講義では、アーサー王物語の歴史的背景や、アーサー王物語に登場するキャラクターたちの冒険や旅立ちの意味について扱っていた。聖杯探索の物語も重視されていた。この分野は日本でもfateを通じてとても盛んだし、いろいろと言及したい話題も多い。

 

第12回 フランス2 『エセー』
モンテーニュの『エセー』がなぜか、ここに来る。物語ではないのだが、なぜ? ということだが、講義でも触れているように、モンテーニュの旅や記録・文学に焦点が当てられている。これも絶妙に面白かった。書籍には地図も掲載されているが、モンテーニュの旅の広域さを考えさせられた。

第13回 イギリス1 『カンタベリー物語』
『カンタベリー物語』は、14世紀、ジェフリー・チョーサーによって書かれた物語で、カンタベリーへ巡礼する旅人たちが、旅の途中で物語を語り合うという「枠物語」の形式で展開されている。物語では、中世英国社会の様々な階層の人々を描き、当時の風俗や人間模様をリアルに描いている。この講義は、まさに、自分が気にかけていたチョーサーについてであり、学ぶことが多かった。あらためて講義から『アエネイス』から『デカメロン』まで総合したパースペクティブがあることにも気が付かされた。チョーサー自身はイングランド人というより、大陸の文化やラテン語文化にも造形が深い大知識心でもあった。

第14回 イギリス2 『妖精の女王』
『妖精の女王』は、16世紀、エドマンド・スペンサーによって書かれた物語で、騎士レッドクロスが、美しい妖精の女王に導かれながら、様々な冒険を経験する様子を描いている。古典的な叙事詩の形式をとりながら、妖精や魔法などのファンタジー要素を盛り込まれ、まさにファンタジー小説ともいえる。スペンサーについては、大学時代の学部でも学んだことがあり懐かしかった。で、この作品なんだが、チューダー朝とアーサー王伝説の関連にあることは知らなかった。チューダー朝の神話がアーサー王伝説というか、アーサー王伝説が当時は史実化していたようだ。これは修論にべたに関係する話題なので、もっと深く知っていたらとも思ったが、知っていたらそれで、研究方向がぶれたに違いない。余談だが、チューダー朝は文献学的にも非常に面白い。文献が途絶えてしまっている。薔薇戦争などの影響もあるのだろうが。当然、このことが英語史にも影響するのだがというあたりも、修論の知的範囲であった。ところで、エドマンド・スペンサーのスペリングにご注意。Edmund Spenserである。Spencerではないのですよ。てな話は今回の講義にはなく、大学時代の思い出である。

 

振り返ってみると、こうした古典知識は、高校生くらいで学んでおきたかった。反省としては、いろいろな情報源で生半可な知識を知っていても、きちんとまとめて講義で学ぶと違うものだなと思う。昨今の世界では、こうした古典作品については、ウィキペディアなどで基本的な知識は手に入るし、実際のところ、ウィキペディアの情報は充実してさえいるが、それらと組織的な知識とは異なる。

 

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