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2023.03.17

書評 『ヨーロッパ文学の読み方――近代篇』(沼野充義・野崎歓)

前回放送大学学部の『世界文学の古典を読む 』を聴講し、そのテキストを紹介したが、その続きで、『ヨーロッパ文学の読み方――近代篇』を聴講した。テキストはアマゾンなどでも販売されている。今見たら、残り一点とあるので、ここでその1点がはけて枯渇すると中古本プレミアム価格になりかねない。放送大学テキストは他書店でも販売しているが、放送大学に問い合わせても販売しているし、なにより最寄りの学習センターも販売しているので、そっちをあたったほうがいいかもしれない。

 

講義およびテキストでは、扱う作品は国ごとに分けられている。

第1回 スペイン 
セルバンテス『ドン・キホーテ』

第2回 イギリス(1)
シェイクスピア『ロミオとジュリエット』

第3回 イギリス(2)
スウィフト『ガリヴァー旅行記』

第4回 イギリス(3)
ブロンテ『嵐が丘』

第5回 ドイツ(1)
ゲーテ『若きヴェルターの悩み』

第6回 ドイツ(2)
トーマス・マン『トーニオ・クレーガー』

第7回 フランス(1)
ルソー『告白』

第8回 フランス(2)
バルザック『ゴリオ爺さん』

第9回 フランス(3)
プルースト『スワンの恋』

第10回 ロシア(1)
ドストエフスキー『罪と罰』

第11回 ロシア(2)
トルストイ『アンナ・カレーニナ』

第12回 ロシア(3)
チェーホフ短編小説『せつない』『ワーニカ』『かわいい』と戯曲『かもめ』

第13回 アメリカ(1)
ホーソーン『緋文字』

第14回 アメリカ(2)
ジェイムズ『ねじの回転』『密林の獣』『黄金の盃』

どれも名前は聞いたことがあり、読んだことがあるものが多く、その分、筋立ては知っているだけというのもある。こうしたなんとなく馴染んでいる作品を、あらためて大学の授業として学ぶと得るところは意外に大きかった。特にイギリスの回では、フェミニズムやカルチュラル・スタディーズの視点が組み入れられているのだが、こうした視点を敬遠していた自分でも納得する点は多かった。あと、『黄金の盃』は関心事だったので、よかった。

受講しながら、青春に読み残した小説や、再読してみたい小説がいろいろ浮かび、これを機会に、ネットを使った読書会もやってみたいと思うようになった。というわけで、とりあず、『トニオ・クレーゲル』を課題にはじめてみた。参加は自由なので、よろしければ。

finalvent読書会 会場

finalvent読書会案内とコラム

さて、この放送大学の講義なのだが、テキストには言及がないが、これは、過去のテキストもあった。2007年『世界の名作を読む』である。

第1回 セルバンテス『ドン・キホーテ』前篇

第2回 セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇を読む

第3回 エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

第4回 ドストエフスキー『罪と罰』

第5回 チェーホフ『ワーニカ』『可愛い女』『犬を連れた奥さん』

第6回 ハーマン・メルヴィル『書写人バートルビー』

第7回 マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』

第8回 プルースト『失われた時を求めて』

第9回 プルースト『失われた時を求めて』

第10回 ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

第11回 カフカ『変身』

第12回 カフカ『断食芸人』

第13回 イタロ・カルヴィーノ『魔法の庭』『楽しみはつづかない』

第14回 イタロ・カルヴィーノ『ある夫婦の冒険』『ある詩人の冒険』


これが、放送大学の講義ルーチンの4年である、4年後に改定される。2011年の『世界の名作を読む 改訂版』である。

第1回 セルバンテス『ドン・キホーテ』(一)

第2回 セルバンテス『ドン・キホーテ』(二)
 
第3回 昔話:シャルル・ペローとグリム兄弟
 
第4回 ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』
 
第5回 シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』
 
第6回 ドストエフスキー『罪と罰』
 
第7回 チェーホフ『ワーニカ』『可愛い女』『犬を連れた奥さん』
 
第8回 ハーマン・メルヴィル『書写人バートルビー』
 
第9回 マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』
 
第10回 ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』
 
第11回 フローベール『ボヴァリー夫人』
 
第12回 フローベール『純な心』
 
第13回 フランツ・カフカ(一)『変身』
 
第14回 フランツ・カフカ(二)『断食芸人』
 
第15回 女性と文学-ヴァージニア・ウルフとコレット

大きめな変更としては、イタロ・カルヴィーノがフローベールに入れ替わった感じである。で、このテキストには朗読CDがついているのが特徴である。

この2011年版が一般書籍かされている。『世界の名作を読む 海外文学講義 (角川ソフィア文庫) 』である。作者は、講師陣がならんでいる。工藤庸子、池内紀、柴田元幸、沼野充義という並びを見ただけで買いでしょう。Kindle Unlimitedにも入っている。

 

「放送大学でロングラン9年の大人気講義」とあるが、こうして比べてみると集大成感はある。

1. セルバンテス 『ドン・キホーテ』 (工藤庸子)
2. 昔話――シャルル・ペローとグリム兄弟 (工藤庸子)
3. ダニエル・デフォー 『ロビンソン・クルーソー』 (工藤庸子)
4. シャーロット・ブロンテ 『ジェイン・エア』 (工藤庸子)
5. ドストエフスキー 『罪と罰』 (沼野充義)
6. チェーホフ 『ワーニカ』『かわいい』『奥さんは小犬を連れて』 (沼野充義)
7. フローベール 『ボヴァリー夫人』 (工藤庸子)
8. フローベール 『純な心』 (工藤庸子)
9. ハーマン・メルヴィル 『書写人バートルビー』 (柴田元幸)
10. マーク・トウェイン 『ハックルベリー・フィンの冒険』 (柴田元幸)
11. ジュール・ヴェルヌ 『八十日間世界一周』 (工藤庸子)
12. フランツ・カフカ 『変身』 (池内紀)
13. フランツ・カフカ 『断食芸人』 (池内紀)
14. 女性と文学――ヴァージニア・ウルフとコレット (工藤庸子)
15. マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』 (工藤庸子)
16. イタロ・カルヴィーノ 『魔法の庭』『楽しみはつづかない』『ある夫婦の冒険』 (工藤庸子)

というわけで、これは「買い」として、最初の現在の講義である『ヨーロッパ文学の読み方――近代篇』との異同はどうかというと、作品としては同じである『ドン・キホーテ』『失われた時を求めて』が異なっていて、また、沼野充義先生の講義も若干変わっている。全体的に、一般書籍は軽い印象はある。

ところで、こうした世界の名作というか、西欧の近代文学の古典は、一種の教養の一部のようにみなされているわりに、実際にはどのくらい読まれているかというと、意外と読まれてはないだろう。ただ、光文社の新訳はそれなりの評価を得ているとは思う。

今回、講義を聞いてまた、書籍化された『世界の名作を読む』も読んで思うのだが、こうした作品は現代からはなんらかのガイダンスがないと読みにくいだろう。定評ある学者によるまとまった入門書はとてもヘルプフルだし、そこから原典を読んでみると、なるほど面白い。

あと、現代の大学では、教養学部でこうした世界文学の講義はあるのだろうかとも思った。私の大学時代では、講義でも指摘されていたが「原語主義」で翻訳書は扱われなかった気がする。おかげで 、Paradise Lostも原典で読まされたし、Bertlebyも。

 

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2023.03.03

書評『世界文学の古典を読む 』(村松真理子・横山安由美)

 昨日のブログ記事で、大学院で学んでいた二年間は修論研究に没頭していた、と書いたが、コロナ禍で外出は減ったこともあり、オンラインのメディアはよく見ていた。アニメとかドラマとかである。なかでも修論研究に関連するメディアに関心がむいた。そのなかで、これが一番というのが、イギリスBBC制作の全6回のミニシリーズ・ドラマで、ヒラリー・マンテルの原作『ウルフ・ホール』である。修論関連でいうと、ティンダルは話題に登ったものの人物としては出てこなかったのは残念だったが、トマス・モアはかなり焦点が当てられていた。修論でティンダルとモアの論争を論じたが、そのおりはこのドラマの風景がしばしば思い浮かんだ。
 そんなふうにこの二年間、修論研究の背景的に、英国の百年戦争から清教徒革命までの時代の関心を深めていた。シェイクスピア観も変わった。シェイクスピアの史劇はこの時代なのだという実感である。それまでは四大悲劇など、作品論的に、または文体論的に見ていて、歴史物語とその社会受容の観点はあまりなかった。
 他方、修論研究と関連メディアの鑑賞で、イングランド中世から近代の時代の空気にいまひとつ足りない感じもしていた。具体的には、中英語研究・中世英国文学の主要テーマでもあるチョーサーについてである。指導教官はその側に詳しいのでいろいろ教えてもらったが、特に気になったのは、チョーサーの多様性というか重層性である。彼は中世英国の文学者、と見るより、西欧世界の文化的全体像のなかで見ることが重要である。チョーサーは学者でもあり、その側面もけっこう考えさせられた。そういえば、ダンテも『神曲』の作者として理解されてよいのだが、彼も同時代の一流の学者であった。そして、ダンテとチョーサーをつなぐ地点にボッカチオがいて、しかも、むしろ『神曲』の評価史にボッカチオが深く関わっている。などなど。
 こうした、西欧世界の文化的全体像をどう捉えるべきかは、修論研究の際につらつらと思いつつ、研究の中心課題からそれないように、関心を抑えていたが、さて一通り、修論も終わり、卒業まで実質、春休みという状態になり、放送大学の関連授業を聴講しようと思った。それが、『世界文学の古典を読む 』である。
 なお、大学院の必須単位の授業として『中世・ルネサンス文学 』と『西洋中世史』は受講していた。どちらも優れた講義だったが、『中世・ルネサンス文学 』のほうは、残念なことに、10年前の開講なので現在ではもう講義はなくなった。書籍は購入できるので、関心のある人は購入をお勧めしたい。現状、中古本は格安である。

 

 長い前フリだったが、そんなわけで、春休みとなり、学部の『世界文学の古典を読む 』を聴講した。自分もそれなりに、紆余曲折はあっても、けっこう長いこと人文学に関心をもってきたのだが、抜けは多いものだし、そうした抜けによって、文化の全体像を見失っていることも多いものだと思った。というか、反省した。

『世界文学の古典を読む 』の講義は15回で、最終回のまとめ回を除いて、毎回14個の古典作品を扱う。これらの作品は、単に重要古典というだけでなく、文学における「旅」という全体テーマを持っている。
 当初、これらのリストを見たとき、「あーあれか」という感想と、「なんでこれが」という相反した感想をもった。シラバスを参考に順に自分の印象について言及したい。言うまでもないが、テキストもこの順である。

第1回 古代ギリシア1『オデュッセイア』
『オデュッセイア』は、ギリシャ神話の英雄オデュッセウスの冒険物語だであり、コミック『ヒストリエ』の原型にもなっている。オデュッセウスは、『イリアス』に描かれるトロイア戦争後、10年間の苦難の放浪の末に、故郷イタカに帰還するが、家に帰ると、妻に求婚している大勢の若者たちに追い回され、妻も危機的な状況にある。彼はこの求婚者らへの報復にどう活かされているか、また妻と夫はどのような関係にあるべきか、などを考えさせる。よく知られた物語だが、私は迂闊にも『オデュッセイア』の全体像を見失っていたのだったことに気がついた。『イリアス』の後編くらいに思っていて、つまり、帰還の物語ということだが、実際には、後半の大半は報復の物語であり、愛にまつわる物語でもあった。そういえば、『ユリシーズ』も未読であった。

第2回 古代ギリシア2 『オイディプス王』
『オイディプス王』は、ギリシャ悲劇の代表作品の一つで、物語は、オイディプス王が、自らの運命のとおり、父親を殺し母親と結婚し、盲目となる悲劇である。よく知られた筋書きであり、今更『オイディプス王』かという先入観があったが、講義では叙事詩や他の悲劇作品を参照することによって、ソポクレスが伝説をどう改変したかを検討を含め、作品論が興味深かった。そして、再考するに、これは一種の「探偵小説」になっていることに気がついた。極論すれば、人生というパズルの物語なのであり、物語という原型をもっている。

第3回 古代ローマ1 『アエネイス』
『アエネイス』は、古代ローマの詩人ウェルギリウスによって書かれた叙事詩で、主人公のアエネアスは、トロイア戦争後、イタリアにたどり着くまでの旅を描いている。『オデュッセイア』のパロディのようでもあり、予言、記憶、建国神話、冥府下りなどもあるが、全体の背景はローマのナショナリズムの色合いになっている。講義前には、『アエネイス』については一応の知識は持っていたし、部分的にはラテン語原典にも触れたことがあるが、率直なところ、なんでこれが重要古典なの?カミュの『異邦人』がフランス語中級の教科書みたいに、ラテン語中級の教科書くらいに思っていた。だが、第3巻、第6巻、第8巻に焦点を絞られた講義から、時代背景や文学的な伝統を視野に入れてその価値を自分なりに再評価できた。ちゃんと講義を聞くものですね。

第4回 古代ローマ2 『黄金のろば』
『黄金のロバ』は、2世紀にローマ帝国領であった北アフリカの作家アプレイウスによって書かれた物語である。主人公ルキウスが人間からロバに変身譚で現代人が読んでもラノベ的に面白い。というよりも、古代ローマ時代に流行した小説であり、文学史的にはそもそもが「小説」の起源に関わる。すでに『デカメロン』的な「枠物語」の構成も見られる。個人的には、この作品については、そういうのもあったなあとか、『テルマエ・ロマエ』のルキウスはこのオマージュかくらいの理解だったが、叙事詩との関係を含め、作品として非常にすぐれたものであることが認識できた。

第5回 中国1 『遊仙窟』
『遊仙窟』は、唐代に流行した「志怪小説」と呼ばれるジャンルの伝奇小説である。主人公が河源(黄河の源流)を旅する中で、神仙の家に泊まり、寡婦の崔十娘、その兄嫁の五嫂らと一夜の歓を尽くす。妖怪や神仙といった異世界の存在が登場する。この『遊仙窟』については、荒俣宏の本なので知っていたので、ああ、あれか、という先入観があった。山上憶良の挿話などにもあるし。だが、これが、佚存書ということは知らなかった。つまり、中国では継承されず、むしろ日本文学のなかで継承されていたわけである。驚きであった。内容についても、多面的な解釈に言及されていて面白かった。ちなみに中国人にとっては、タイムマシンによって古代から届けられたようなものだろうか。

第6回 中国2 『西遊記』
『西遊記』は白話小説であり、日本の漢文の歴史からはゆえに外されているが、こういう日本における「漢文」はそれ自体が知識の権力制度なのだ。講義では、インドのハヌマーンとの関係についても触れていた。考えてみれば、当然のことだった。余談だが、日本における西遊記人気は邱永漢によるものではないかと思う。

第7回 スペイン1 『わがシードの歌』
『わがシードの歌』は、カスティーリャ語による現存する最古の文学作品であり、中世ヨーロッパに共通するジャンルである英雄叙事詩の一つである。物語は、スペイン語圏の英雄ロドリーゴ・ディアス・デ・ビヴァルが、王の愛妾との恋愛や、モーロ人との戦い、娘の名誉を回復するといった話が含まれている。プリンテッドな物語以前の、口承文芸の成立過程を示す作品としても興味深い。とのことだが、私はこの作品は知らなかった。ただ、すぐに「そうか」と気がついたのは、『陰の実力車になりたくて』の「シド」が、SidでもshidoでもなくCidであり、「シード」であることである。原作のほうだが、言語はカスティリア語、つまり、現代の標準スペイン語の基盤になった方言である。国土回復運動(レコンキスタ)にしたがってマドリード周辺にまで南下して広がり、11世紀のカスティリア王国とレオン王国の合併、 15世紀末のアラゴン王国との合併から、スペインの公用語、つまりスペイン語になった。このあたりの方言から国民言語の関係は『神曲』に似ている面もありそうだ。

第8回 スペイン2 『ティラン・ロ・ブラン』
『ティラン・ロ・ブラン』は、地中海沿岸のバレンシアで15世紀に誕生した物語で、美女フロル・デリスをめぐる恋愛模様なども描かれているが、その筋書きは当時のスペインの状況を反映し、非常に複雑である。私はというと、この作品も知らなかった。こちらは当地、バレンシア語、つまり、カタルーニャ語に近い。『わがシードの歌』のような口承文学ではなく、ジュアノット・マルトゥレイの1490年の作品であり、すでにプリンテッドな作品であり、原本と刊本がどのような保存や伝播の経緯をたどったかも研究されている。講義で語られる内容では、特にイスラム世界との関連がとても興味深かった。文学史的には、ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』はこの『ティラン・ロ・ブラン』のパロディとも言えるらしい。作品としては1世紀ほどの差であろう。この間の言語状況も興味深いというか、物語が口承からプリンテッドへの変化も大きいのだろう。余談だが、修論のテーマは中世聖書の写本と近世聖書の印刷本の対比があり、印刷がいかに人文学を変えたか実感した。

第9回 イタリア1『神曲』
『神曲』については、講義では、紹介よりも、作品論が重視されていた。まあ、良質な講義という感じだった。余談だが、『神曲』といえば、これを扱ったダン・ブラウンの『インフェルノ』はコロナ禍の医療問題にも予言的だったなと思った。

 

 

 

題10回 イタリア2『デカメロン』
『デカメロン』は、14世紀にイタリアの作家ジョヴァンニ・ボッカチオによって書かれた作品で、物語は、黒死病が蔓延するイタリアで、男女含めて10人の若者たちが町を逃れて田舎の屋敷で物語を語り過ごした10日間を描いています。各日、10話ずつの計100話からなり、それぞれに異なるテーマが設定され、様々な人間模様が描かれる。『デカメロン』については、物語文学の系譜の問題や、語りの仕組み「枠物語」、読者とテクストの関係などに関する作品論が中心だったように思われる。また、よく言われるようにコロナ禍では特段の思いがあった。文学史的にはこの作品がノベッラ(小説)の起源らしい。

第11回 フランス1 アーサー王物語と聖杯の探索
具体的には、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』からトマス・マロリーの『アーサー王の死』までを繋いでいるが、「フランス」の文脈においているのは、『ブリュ物語』のせいでもあり、実際上、国際アーサー王学会がパリ大学にあるからだろう。講義では、アーサー王物語の歴史的背景や、アーサー王物語に登場するキャラクターたちの冒険や旅立ちの意味について扱っていた。聖杯探索の物語も重視されていた。この分野は日本でもfateを通じてとても盛んだし、いろいろと言及したい話題も多い。

 

第12回 フランス2 『エセー』
モンテーニュの『エセー』がなぜか、ここに来る。物語ではないのだが、なぜ? ということだが、講義でも触れているように、モンテーニュの旅や記録・文学に焦点が当てられている。これも絶妙に面白かった。書籍には地図も掲載されているが、モンテーニュの旅の広域さを考えさせられた。

第13回 イギリス1 『カンタベリー物語』
『カンタベリー物語』は、14世紀、ジェフリー・チョーサーによって書かれた物語で、カンタベリーへ巡礼する旅人たちが、旅の途中で物語を語り合うという「枠物語」の形式で展開されている。物語では、中世英国社会の様々な階層の人々を描き、当時の風俗や人間模様をリアルに描いている。この講義は、まさに、自分が気にかけていたチョーサーについてであり、学ぶことが多かった。あらためて講義から『アエネイス』から『デカメロン』まで総合したパースペクティブがあることにも気が付かされた。チョーサー自身はイングランド人というより、大陸の文化やラテン語文化にも造形が深い大知識心でもあった。

第14回 イギリス2 『妖精の女王』
『妖精の女王』は、16世紀、エドマンド・スペンサーによって書かれた物語で、騎士レッドクロスが、美しい妖精の女王に導かれながら、様々な冒険を経験する様子を描いている。古典的な叙事詩の形式をとりながら、妖精や魔法などのファンタジー要素を盛り込まれ、まさにファンタジー小説ともいえる。スペンサーについては、大学時代の学部でも学んだことがあり懐かしかった。で、この作品なんだが、チューダー朝とアーサー王伝説の関連にあることは知らなかった。チューダー朝の神話がアーサー王伝説というか、アーサー王伝説が当時は史実化していたようだ。これは修論にべたに関係する話題なので、もっと深く知っていたらとも思ったが、知っていたらそれで、研究方向がぶれたに違いない。余談だが、チューダー朝は文献学的にも非常に面白い。文献が途絶えてしまっている。薔薇戦争などの影響もあるのだろうが。当然、このことが英語史にも影響するのだがというあたりも、修論の知的範囲であった。ところで、エドマンド・スペンサーのスペリングにご注意。Edmund Spenserである。Spencerではないのですよ。てな話は今回の講義にはなく、大学時代の思い出である。

 

振り返ってみると、こうした古典知識は、高校生くらいで学んでおきたかった。反省としては、いろいろな情報源で生半可な知識を知っていても、きちんとまとめて講義で学ぶと違うものだなと思う。昨今の世界では、こうした古典作品については、ウィキペディアなどで基本的な知識は手に入るし、実際のところ、ウィキペディアの情報は充実してさえいるが、それらと組織的な知識とは異なる。

 

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2023.03.02

ブログ再開?

長い間ブログを休止していた。この間、大学院生であったという理由が大きい。25歳に最初の大学院を中退し、それから40年かけて大学院修士を終えたという感じだ。10年前の著書には、「もう諦めた」と書いたが、子供が4人成人したのをきっかけに修士に再挑戦した。というわけで2年間、放送大学で大学院生をやっていた。ようやく修論が終わり、取得単位もクリアしたので、今月末には卒業ということになる。

この間、修論研究にけっこう専念していた。コロナ禍もあってか、朝から深夜まで研究ばっかりしていたこともある。加えて、大学院の単位取得もそう容易いということでもなかった。40年前の大学院の単位も復活できるかとも思ったけど、手続きミスがあり、諦めた。結果からいうと、それでよかった。認可待ちしていると、大学院の単位の計算が不確定になっただろう。取得単位という点では、結局、学院を2つ出たような感じだが、あれだなあ、学問の風景もけっこう変わった。言うまでもないが、大学院の教養科目はそれなりに学部とはレベルが違ってましたね。

自分が今回、大学院でやっていた研究は、ラテン語から見た中世と近世の英語聖書の文法的特性という内容。『ルカによる福音書』と接続法に限定し、ラテン語との対比とした。当然ながら、この研究には英語聖書の歴史、印刷前の写本の研究、接続法という文法に対する歴史研究とかが関連しているので、全部ひっくるめてたら、最終論文は500ページを超えた。500ページを超える修論は珍しいかと思いますというか、博論でもあまりないかもしれない。まあ、内容については、終わってみると、大したことはないな感で、落ち込みますね。

ここから、博論テーマもいくつかあるのだけど、体力限界。知力も当然限界かな。とはいえ、まだ研究生活の惰性で学術書とかも読んではいますが。

ブログ休止のこの間、コロナにも辟易としてもいたなあ。コロナ禍でまいったことはいろいろあるが、一番まいったのは、世間というものに愕然と直面したことかな。単純な話、なんで戸外でマスクしてんの?とまあ、これね、もう議論に辟易としました。負けた。ウクライナ問題も辟易としたなあ。僕はもともとロシアが好きだし、プーチンもけっこう評価しちゃうという偏向はあるのだけど、自分なりに問題の過程や公平な視点も心がけたいのだけど、まあ、この手の話題はもうブログとかの議論にならないよねという感じ。それでもファクトベースでなんか書くかもしれないが。なので、コメント欄とかも閉じました。Twitterにはいるので、なんかあったら、そっちで連絡ください。

そんなこんなで、ブログはなんとなく再開するかもしれない。しないかもしれないんだが。

試しに少し書評記事とか書いてみた。げろっちゃうと、人工知能の応用も兼ねてである。なんか雑文書かせてみるか、雑文といえばブログだよなあ、で、この記事も、最近のアウトラインプロセッサーでメモ書きして、最初は、Notion AIに書かせてみた。あかん。基本は、あかんなあ。なんか、「この、Notion はすばらしいツールです」っていっているYouTuberのようなポジティブ感に溢れた文章を味もそっけなくもなく、こいつは出力するんだぜ。というわけで、こうした毒々しい文は手書きに限る、といいたいが、人工知能というか、自然言語処理で早晩なんとかなっちゃうでしょう。

ちなみに次の段落は Notion AIに書かせた。

《年齢を感じる瞬間はいろいろある。たとえば、学生時代に好きだったバンドのメンバーが次々と亡くなっていくのを見ると、自分も老いているんだなと感じる。でも、感じるだけでは仕方がない。老化は現実だから、できる限り元気でいることが大切だ。元気でいるためには、食事や運動、睡眠、ストレスマネジメントなどが必要だ。自分自身を大切にし、健康的な生活を送ることが大切だ。》

あほみたい。そんなわけで毒々しいブログは手書きの時代が続くだろうか。

ブログ再開とはいえ、これからはどう書くのかは、なかなか思いつかないが、いろいろ書いていきたい気持ちはある。人気は気にならない。というか、こんなもの誰も読まないでしょ。自分のための備忘録くらいにはなるか(死んだら自動的に削除されるでしょうが)。

ブログを再開するのにあたって、このデザインもどうかと思う。なんせ、20年間このままだしね。アフィリエイトは従来どおりかな。実際のところもうブログでアフィリエイトという時代ではないでしょう。

そういえば、Youtubeもやりましたよ。 finalventラジオとかまだ残っているはず。これも再開するかもしれない。『波よ聞いてくれ』というアニメの影響なんだが。ああ、この間、研究だけしてたのはそうなんだが、声楽といいうか合唱をよくやってました。テノールです。finalventラジオには私の歌声なんぞも(極めてオススメはしないが)。

書いていて、ブログを再開するという気持ちの中には、老化という現実がある。自分の体が衰えてくるのをひしひしと感じる(「ひしひし」ってこういう文章で使うものだな)。60歳になったころは、あれ、けっこう自分って若いじゃんと思った。あれもこれもできた。64歳になって、がくっときた。足もけっこうがたがきて、現在は、杖とかついている。まじ。ただ、あのよく見かけるおじいちゃん杖でもないのだけど。

なんであれ、現実は変わらない。老化は避けられない。自分自身が老化していくのを受け入れるしかない。とかいう気力も、年齢とともに衰えていくのかもしれない。そんな暗い現実も、正直に受け止めることが大切だろう。というのが、今後のブログのテーマだろうか。

 

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2023.03.01

書評: オペラ入門(許 光俊)

講談社現代新書「オペラ入門」は、独特なオペラ愛あふれる許氏の個性的なというか許節の評価が盛り込まれたオペラ入門書である。本書は、入門書よろしく、一般的なオペラの歴史をたどることに加え、オペラと聞けば思い浮かぶ数多くの作曲家に触れることで、オペラの世界の広さを示す方向性で書かれている。叙述も、オーソドックスに歴史的な時系列をたどっているため、オペラ発祥のモンテベルディから現代に至るまでのオペラの歴史を学ぶことができるし、このあたりの説明はさすがに音楽の専門家だという知識から学ぶことは多い。

歴史学的な視点も取られ、音楽、オペラの貴族階級の玩具から新興ブルジョア階級へのアクセサリーへの変質がたどられ、オペラがどのようにして現代に至ったかも理解することができる。オペラは、時代の移り変わりに合わせて変化した。18世紀にはオペラが貴族階級の娯楽として愛され、19世紀にはブルジョア階級にも広がった。20世紀には新しい音楽ジャンルであるかのように批評を内包するように変化した。

本書はオペラの魅力について詳しく、その魅力強調ゆえの主観的修辞に溢れて、解説している。オペラは、その豊かな音楽、壮大な舞台装置、豪華な衣装、そして感情的な物語によって、観客は没入感を得ることができるものだ。また、オペラには様々なジャンルがあり、喜劇的な作品から悲劇的な作品まで、多様な魅力がある。

本書は、グランドオペラ、オペレッタなど各種の様式に加え、教科書などよく知らえたブリテンの重要な側面や、『浜辺のアインシュタイン』のグラス、『中国のニクソン』のジョン・アダムスまでも様々な作曲家が取り上げられている。これらの多様な作品に触れることで、オペラの世界の、やや意外な広がりも感じることができる。また、許氏の個人的な思い入れが書き込まれている部分も多く、一般的に知られる古典的なオペラ作品に対する評価が辛辣な一方で、現代オペラに対する深い理解も示している。

本書には、まあ、当然といえば当然だろうが、日本におけるオペラ受容の局面は省かれているため、それについての議論が欠けていると感じるかもしれない。草の根のオペラ活動や、各種の日本語の『源氏物語』オペラなど。これらを論じる許氏の修辞も楽しみたいものではあるが、それでもせめて、新国立劇場の紹介など、少しでも補足してほしかった。頑張ってるしな。

本書は入門書として企画されたせいか、許氏特有の悪の強さはだいぶ緩和され、微妙なオブラートにつつまれている。とはいえ、後半には「許」節が色濃くなる。つまるところ、「最後に」はその許節の凝縮された部分でもあり、本書の核心であると言える。この許節が日本の一部のクラシックファンには癇に障るのかもしれないが、彼の個性的な評価は彼のオペラ愛から生まれているものであり、彼ならではの芸風だろう。個人的には、ロマン志向の中二病的なものかもしれないなあ、とも思うが、それこそまさにオペラ愛であろう。

現代オペラへの洞察が優れている許氏ではあるが、本書を通して、古典派のオペラから現代オペラに至るまでの様々な作品を取り上げ、その背景や特徴を比較的、学校の教科書風にも解説している。特に、現代オペラについては、先に触れた、アダムスやグラスなどの革新的な要素について言及しながらも、従来のオペラの伝統を大切にしながら新しい表現方法を模索する作曲家たちの取り組みも紹介している。一般常識の範囲では、作曲家の生涯やその時代背景などを詳しく説明することで、作品の理解を深めるためのヒントが得られるものだ。特に、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニについては、彼らの作品とともに、彼らの人生や時代背景を紹介することで、作品の背景や意図を理解できる。

ワーグナーは、19世紀ドイツの音楽界における最も著名な作曲家の一人である。彼の作品は、現代の多くの音楽愛好家に愛されているだけでなく、彼自身がドイツのナショナリズムを強く意識していたことから、ドイツ音楽に大きな影響を与えたと言える。が、しかし、許氏は、彼の作品に対してけっこう批判的な見方を示しており、ユダヤ人差別的な思想を持っていたことなども指摘している。また、ワーグナーの最大のオペラというか楽劇『ニーベルングの指環』は、その壮大なスケールや物語性から、今でもよく上演されているにも関わらず、本書ではかなりアイロニカルな軽視を受けている。対して許氏は、ワーグナーの初期作品を高く評価するのだが、これがけっこう納得、共感できるところが、「してやられたなあ」感の愉悦がある。まあ、トリスタン和音から現代音楽への系譜など丁寧に論じてほしかった。

ヴェルディは許氏をもってしても欠かせない。彼は19世紀のオペラ作曲家で、その作品は今でも多くのオペラ愛好家に愛されている、どころではない。『椿姫』や『リゴレット』なども、オペラ史上不朽の名作だろう。が、許氏は、彼の作品の中には劣化した作品があると指摘する。これは辛辣というよりけっこう鋭い指摘である。それにより、むしろヴェルディの作品をより深く理解し、客観的に評価するための重要な手がかりを提供している。例えば、ヴェルディ作品には当時の社会情勢に合わせた妥協点が多く見られることがある。これらの妥協点が、その後のオペラ作品にも影響を与えたと考えらるし、こうした傾向自体がオペラ全体の方向性を与えた。政治的信念のオペラへの反映は単純な構成を招きやすい。ヴェルディに戻れば、彼はタリアの統一運動に熱心に参加し、その思想が彼の作品にも色濃く反映されているが、これをオペラの情熱としてよいものかは、本書は再考の機会を与える。

本書でヴェルディに対比されるのはプッチーニである。彼は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したイタリアの作曲家であり、その作品は今でも多くのオペラ愛好家に愛されている。数多くのオペラ作品を残し、その中でも『トスカ』『蝶々夫人』『ボエーム』などは金字塔と言っていい。許氏は、こうしたプッチーニの作品について、しかし、総じて軽薄であり、現代オペラにつながる革新的な要素を欠いていることを指摘している。他方で、彼の作品には、人間の心情描写に深みがあり、感情移入しやすく、観客の共感を得やすいという特徴があるとしている。ぶっちゃけ、許氏はプッチーニに酔う、凡庸なオペラ愛好家の自分もアイロニカルに許容しているのであろう。

オペラ作品を楽しむ上で欠かせないのが、オーケストラであり、劇場である。こうした部分の批評はさすがに許氏を超える批評家は日本にはいないのではないかとも思うが、考えてみれば、欧米におけるオペラ批評では当然にして凡庸な部類なのかもしれない。いや、こういう言い方には棘があるが、許氏の現代オペラの社会批評的な側面と、有名劇場の最高のオペラ講演への高い評価には、けっこう本質的な矛盾が存在しているように思えてならない。

いずれにしても、許氏の『オペラ入門』は、感情を揺さぶられる。これこそがオペラ入門という他はない。

 

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