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2022.12.05

[書評] 存在消滅(高村友也)

 著者の高村友也さんから著書『存在消滅』をいただいた。高村さんは、このブログで私が死の恐怖に絶叫する話を読まれ、共感されたらしい。まあ、そういう人が世の中にはいるのだ。

 本書にも登場するが哲学者・中村義道が哲学者・大森荘蔵に哲学の門を敲いたときも、ようするにこれだった。死の恐怖である。大森は、たしかこう言ったらしい、「あの、お腹のそこにずどーんとくるやつですね」と。正確な言葉ではないが、死の恐怖というものを味わった人間ならたぶんお馴染みだろう。

 私の場合は、ブログにも以前書いたが、世界がぎらぎらしだすというのがある。薄暗い寝室で眠れず、死の恐怖が極まると、世界がぎらぎらと輝き出す。目をつぶる。絶叫することもある。死の恐怖というのは、まじで来るもんだ。高村さんは、本書で「呼吸ってどうするんだっけ」的なことを書かれている。

 これに解決はあるか。

 ない。

 本書が、いい本だなあと思ったのは、そのことがしっかり書いてあるからだ。そのことしか書いてないとも言えるかもしれない。いや、死を介した孤独の問題も深く思考されているが。

 もうひとつ、いい本だなと思ったのは、次のことだ。ネタバレみたいになるかもしれないが、許せ。死の恐怖を知りつつ、生きる人に高村さんはこう言う。

 そうした人たちが、ただ生き抜いてくれるだけで、気が狂うことなく長生きしてくれるだけで、自分にとっては生きる希望なのだ。

 それは、いつでも戸棚のようにあるのだ。いつでも開くと、まじもので発狂しそうなほどの恐怖をもたらす。そういうタイプの人がこの世の中には、千人に一人くらいはいて、今日もかろうじて生きているんだ、と思えることは、希望だと言えるだろう。

 希望といえば、本書のなかで高村さんが「パニック」を克服されるようすを描いているが、それも希望に近いだろう。恐怖に飽きる感覚である。(ただ、飽きることはないだろうと思うよ。)

 本書は、そうした、まじもんの死の恐怖について透き通った文体で考察されているが、なので、アイロニカルな言い方になるが、一人の若者の生き方としても面白いエッセイである(小屋を作って生活するなど)。「面白い」というのは、そうして老人となってしまった僕の目にそう映るということだ。もうちょっと言えば、セクシーなのである。もっと言えば、こんなセクシーな男を女が放っておくわけねーな、その話は書かれてねーな、という感覚である。まあ、僕はそう思うのだ。

 高村さんは、死を純粋に捉えている。哲学的な文脈と、日常の人々(他者)との生き方。そして宗教については、仏教が遡上に載せられているが、やはりストイックな印象がある。普通はそうストイックにいかず、酒や性に溺れて、ぼろぼろになって絶望して老いを迎えるものだと僕は思う。あるいは正義に酔って罰する他者を探し求める人生とかも。しかし、それですら救いといってもいいだろう、あの死の恐怖に直面するくらいなら。

 死の恐怖の薄気味悪さには、おそらく性の問題が潜んでいることがある。やべーことに、あれだけ死が怖い、だけと死にたいと思うこともあるとかうだうだ言っていながら、性的快感の向こうにもぼんやりと死がいるのが見えることだ。『86』的な感じというか。

 生命というのは、3つの様態をとる。生きている、やべー状況を生きようとする、絶望する、である。で、この絶望は、生命にとって、ぎり恐怖でありながら、どこかしら性的な甘美さをともなっていることがある。フロイトが死の本能として見たものがそれだ。高村さんは、そのことは、本書では考察していない。単純に、死の恐怖で共感しあえても、そこは、ちょっと違いますね的な何かかもしれない。

 僕は高村さんのエッセイにかこつけてなんかやべーことを言いたいのだろうか。たぶん、そうだ。僕は、座間9人遺体事件をぼんやりと思っている。誰もがもう忘れたいおぞましい事件だった。でも、あの事件は、死の恐怖と性の不気味さのなにかが、日常のなかにぱくっと開いてしまった。人々は死の恐怖から逃れるように、性と死の不気味さからも逃れるように生きている。気持ち悪いもんな。

 

 

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