日本的陪審員制の結果のような印象
2019年4月19日、当時87歳の飯塚幸三被告が運転するプリウスでの暴走によって、青信号の横断歩道を自転車で横断中の母娘を死亡させ、また他の通行人ら9人に重軽傷を負わせる事故が起きた。飯塚被告は自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)の罪に問われたが、東京地裁の裁判では、遺族には謝罪の意を告げたものの、罪状認否では「アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶している。車に何らかの異常が生じ、暴走した」と過失を否認し、弁護士は無罪を主張していた。裁判は9月2日に判決が下り、ブレーキとアクセルのペダルの踏み間違えはなかったとする被告の主張は否定され、「アクセルを最大限踏み込み続けた。ブレーキは踏んでいない」と認定された。この地裁判決を被告が受け入れれば裁判は終わり、禁錮5年の実刑が確定する。彼は控訴するか世間の関心が高まっていたが、今日の報道で、控訴しない意向を固めたと伝えられた。被告と面会した加害者家族を支援するNPO法人の理事長の話では、被告は遺族や被害者に対して申し訳ない、判決を受け入れ、罪をつぐないたいと話しているということだ。これで裁判は終わった。
私はひとつ疑問が残った。飯塚被告自身はアクセルペダルの踏み間違えを認めたのだろうか? 自分が見渡した報道からはその言及はなかった。印象では、彼は踏み間違えを認めてはいないだろう。別の言い方をすれば、死者も出した事故への謝罪の気持ちとして、控訴を断念しただけなのではないだろうか。
これが米国の陪審員制度のような裁判で私が陪審であれば彼の主張を認めたかというと、認めないだろう。プリウスに異常があれば、EDR(イベント・データ・レコーダー)などの装置にその状況が記載されはずである。実際、地裁での判決の事実認定もこれらによっている。ただし、もう一段疑問を深めれば、EDRなどの装置が正常であったというのも認定である。
また気になるのは、裁判において、飯塚被告がペダルの踏み間違えはないとして無罪を主張する弁護戦略は法的には可能だが、それが通る目算はそもそも無理だろう。日本には司法取引はないが、仮に有罪を認めるなら減刑するという取引が可能なら、まさにそうした対象でもあるかもしれない。いずれにせよ、そこまでして飯塚被告が誤操作がないと主張したのは、無罪を得たいというよりも、自身の内面における確証にこだわっただめだろう。さて、この「こだわり」をどう受け止めるべきか。
もし私が彼の立場であったなら、これは簡単な前提として87歳ならそもそも自動車運転はしないのだが、それはおくとして、自身の内面において、「誤操作をしていない・自動車が誤動作をした」という明証があったらどうするか(デカルト的な明証である)。たぶん私であれば、自分の内面にとっては冤罪と確証していても、裁判では罪を認めるだろう。が、自分が冤罪であるという内面を失うことはできないだろう。とまあ、つまらない想定のようだが、自分の内面で冤罪とするか、自分に責があったと認めるのは、私のような人間にとっては、誰が理解してくれなくても、とても重要なことであり、であるからこそ、飯塚被告のそこはどうなのかという関心が残った。そこがわからなかった。
もうひとつ、おまけのように思ったことがある。『週刊文春(2021年9月16日号』の記事「《控訴しない方針》“池袋暴走”飯塚幸三被告90歳に起きたこと 街宣車、脅迫状、爆破予告…」で、飯塚被告への社会制裁のような様子が描かれていた。
「公判などの節目のたびに、マンションの前に街宣車が何度もやって来て、『罪を認めろー!!』『反省しろー!!』と大音量で叫んでいました」(近隣住民)
こうした状況に、飯塚被告の家族は「正直、逮捕してもらいたかった。早く拘束された方が命の心配もない」と話しているという。
こうした状況を結果的に引き起こしていることにも飯塚被告もその親族も耐えられない状態であり、その実質的に唯一の脱出口が、控訴しないことでもあったのだろう。
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