[書評] 不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学(森本あんり)
現代という時代をどう特徴つけるかという問題はむずかしいが、誰もが納得する一つの特徴は、人々が不寛容になったことだろう。「こんなやつは許せない」という情念による悪意はネットに溢れている。他罰的な正義によってしか自分や連帯を維持できない人々に溢れているのは、こうしたネットの世界が顕著だが、現実の世界も同じようになってきた。そして、それらが生み出す全体図は、結果としては不合理で不毛な緊張と争いでしかない。どうすればいいのか。
一つには、18世紀啓蒙主義者ヴォルテールの言葉とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という格律が有効であるかのように思える(余談だが、この言葉の典拠は本書にも言及があるが不明である)。そして、森本あんりの新著『不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学』はこう謳われている。
《こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。不寛容だった植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、そのしたたかな共存の哲学を読み解く。現代でこそ役に立つ「キレイごとぬきの政治倫理」。》
その意味は、現代という不寛容の時代に「役立つ」ための「寛容」の哲学が、植民地時代のアメリカで生まれたものとして現代に再考する意義がある、と受け取れる。それで間違いでもないが、ではなぜそれが、『寛容論』ではなく、『不寛容論』なのだろうか。むしろ、そこに本書の現代的な意義がある。端的に言えば、『寛容論』の射程は現代に届かない。かつての『寛容論』が社会に届かなくなっている現状が、不寛容な社会そのものでもあるだろう。
本書の立ち位置は、結論を先取りするようだが、少しアイロニカルにも思える。というのも、「寛容」を現代的に捉えようとする思索的な試みに素朴な懐疑を投げかけているからだ。まず、本書では、旧来の『寛容論』に見られる「寛容」の理解を「中世的」とし、それを脱しようとした「新しい寛容」を対比させるが、その「新しい寛容」が現実を捉えていけないと認識されている。少し長くなるがエピローグからその核心を引用しよう。
《本書が「中世的」と表現してきた寛容理解は、ごく大ざっぱに言うと、寛容論の分野で「伝統的な寛容」と呼ばれるものにあたる。この意味での寛容は、相手をしぶしぶ認めることである。相手を是認せず、その思想や行為に否定的であり続け、できれば禁止したり抑圧したりしたいが、そうもいかないので、しかたなくその存在を認める、という態度である。そういう寛容は、相手側にも好まれない。寛容にされるということは、自分の価値を見下されることであり、二級市民として扱われ、その上に恩を着せられるということだからである。
最近の学界では、こうした伝統的な寛容理解に対して、相手を承認し敬意をもって抱合的に扱う態度を「肯定的寛容」「強い寛容」「認知としての寛容」「水平的寛容」などと呼んで区別する論者が多い。それらの主張もわかるのだが、ふりかえって自分の足元を見れば、それが常に可能というわけではないことに気付かされるだろう。》
例えば、中絶の是非の議論がある。本書では、《こういう場合》としてその対立を示している。なお、この議論が主題となるのは主に米国社会であって、欧州や日本や中国など他文化圏では様相が変わる。本書はこうした論争的な話題における「現代的な寛容」の限界を率直に認める。
《こういう場合に現代的な寛容を説くことは、どちらの立場の人にも自分の信念への妥協を強いたりすることになる。伝統的な寛容論は、そういう要求をしない。自分の信念を割り引いたり偽ったりすることではなく、それを暴力的な発言や行動に移さないよう求めるだけである。自分の信念は信念のとして堅持したまま、自分とは根本的に違う価値観を持つ「他者」と、なんとかして平和裡に共存する道を模索する。寛容論に可能なのは、そこまでである。》
だから、「不寛容」なのだ。「不寛容」でよいとするあり方を、本書は、新しい視点から再考しようとする。そして「不寛容」を肯定的に捉えるために「礼節」という命題を加え、本書はさらに、その大きな模範として、ロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)の思想と実践をその時代の文脈の中で見ていくことになる。彼は、ジェームズ1世下のイングランドに生まれた神学者であり、政教分離原則の提案者として歴史的に有名だ。
さて、本書の私の印象だが、私が興味深く思ったのは、現代世界の地平での「不寛容論」よりも、ロジャー・ウィリアムズの簡素な評伝であった。ごく単純に言えば、ロジャー・ウィリアムズというのは、とてつもなく「変な人」なのである。むしろ、礼節を持った「変な人」であることは、あたかも「不寛容」とも見えるということにも思えた。
その意味で、本書は、日本の現代思想にありがちな短兵急な新着想のレパートリーとして読むより、ジェームズ1世下のイングランドや、米国の国家の起源の物語として読まれても面白いだろう。
一点、気になったこともあった。広義に「寛容論」を論じるのであれば、セバスチャン・カステリオン(Sebastian Castellio)への言及がないことが不思議に思われた。というのも、本書では、「ちなみに」として引かれた文脈であるが、カルヴァンによるセルヴェの処刑は、ウイリアムズと対論者であるコントとの関連で引かれているように、ここは思想的議論の要所ともいうべきところである。セルヴェとカルヴァンを「寛容」で論じるなら、カステリオンは欠かせないのではないか。本書の推薦として帯にある宇野重規も彼に注視しているし、渡辺一夫も展開したその議論も著者が知らないはずもない。カトリックにおける寛容論も展開されている文脈でも重視されているようには見られなかったが、中世的な寛容論から現代的な寛容論の過渡的な変異として捨象されてるのかもしれない。
| 固定リンク