« 2020年10月 | トップページ | 2021年1月 »

2020.12.19

[書評] 不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学(森本あんり)

 現代という時代をどう特徴つけるかという問題はむずかしいが、誰もが納得する一つの特徴は、人々が不寛容になったことだろう。「こんなやつは許せない」という情念による悪意はネットに溢れている。他罰的な正義によってしか自分や連帯を維持できない人々に溢れているのは、こうしたネットの世界が顕著だが、現実の世界も同じようになってきた。そして、それらが生み出す全体図は、結果としては不合理で不毛な緊張と争いでしかない。どうすればいいのか。
 一つには、18世紀啓蒙主義者ヴォルテールの言葉とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という格律が有効であるかのように思える(余談だが、この言葉の典拠は本書にも言及があるが不明である)。そして、森本あんりの新著『不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学』はこう謳われている。
《こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。不寛容だった植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、そのしたたかな共存の哲学を読み解く。現代でこそ役に立つ「キレイごとぬきの政治倫理」。》
 その意味は、現代という不寛容の時代に「役立つ」ための「寛容」の哲学が、植民地時代のアメリカで生まれたものとして現代に再考する意義がある、と受け取れる。それで間違いでもないが、ではなぜそれが、『寛容論』ではなく、『不寛容論』なのだろうか。むしろ、そこに本書の現代的な意義がある。端的に言えば、『寛容論』の射程は現代に届かない。かつての『寛容論』が社会に届かなくなっている現状が、不寛容な社会そのものでもあるだろう。
 本書の立ち位置は、結論を先取りするようだが、少しアイロニカルにも思える。というのも、「寛容」を現代的に捉えようとする思索的な試みに素朴な懐疑を投げかけているからだ。まず、本書では、旧来の『寛容論』に見られる「寛容」の理解を「中世的」とし、それを脱しようとした「新しい寛容」を対比させるが、その「新しい寛容」が現実を捉えていけないと認識されている。少し長くなるがエピローグからその核心を引用しよう。
《本書が「中世的」と表現してきた寛容理解は、ごく大ざっぱに言うと、寛容論の分野で「伝統的な寛容」と呼ばれるものにあたる。この意味での寛容は、相手をしぶしぶ認めることである。相手を是認せず、その思想や行為に否定的であり続け、できれば禁止したり抑圧したりしたいが、そうもいかないので、しかたなくその存在を認める、という態度である。そういう寛容は、相手側にも好まれない。寛容にされるということは、自分の価値を見下されることであり、二級市民として扱われ、その上に恩を着せられるということだからである。
 最近の学界では、こうした伝統的な寛容理解に対して、相手を承認し敬意をもって抱合的に扱う態度を「肯定的寛容」「強い寛容」「認知としての寛容」「水平的寛容」などと呼んで区別する論者が多い。それらの主張もわかるのだが、ふりかえって自分の足元を見れば、それが常に可能というわけではないことに気付かされるだろう。》
 例えば、中絶の是非の議論がある。本書では、《こういう場合》としてその対立を示している。なお、この議論が主題となるのは主に米国社会であって、欧州や日本や中国など他文化圏では様相が変わる。本書はこうした論争的な話題における「現代的な寛容」の限界を率直に認める。
《こういう場合に現代的な寛容を説くことは、どちらの立場の人にも自分の信念への妥協を強いたりすることになる。伝統的な寛容論は、そういう要求をしない。自分の信念を割り引いたり偽ったりすることではなく、それを暴力的な発言や行動に移さないよう求めるだけである。自分の信念は信念のとして堅持したまま、自分とは根本的に違う価値観を持つ「他者」と、なんとかして平和裡に共存する道を模索する。寛容論に可能なのは、そこまでである。》
 だから、「不寛容」なのだ。「不寛容」でよいとするあり方を、本書は、新しい視点から再考しようとする。そして「不寛容」を肯定的に捉えるために「礼節」という命題を加え、本書はさらに、その大きな模範として、ロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)の思想と実践をその時代の文脈の中で見ていくことになる。彼は、ジェームズ1世下のイングランドに生まれた神学者であり、政教分離原則の提案者として歴史的に有名だ。
 さて、本書の私の印象だが、私が興味深く思ったのは、現代世界の地平での「不寛容論」よりも、ロジャー・ウィリアムズの簡素な評伝であった。ごく単純に言えば、ロジャー・ウィリアムズというのは、とてつもなく「変な人」なのである。むしろ、礼節を持った「変な人」であることは、あたかも「不寛容」とも見えるということにも思えた。
 その意味で、本書は、日本の現代思想にありがちな短兵急な新着想のレパートリーとして読むより、ジェームズ1世下のイングランドや、米国の国家の起源の物語として読まれても面白いだろう。
 一点、気になったこともあった。広義に「寛容論」を論じるのであれば、セバスチャン・カステリオン(Sebastian Castellio)への言及がないことが不思議に思われた。というのも、本書では、「ちなみに」として引かれた文脈であるが、カルヴァンによるセルヴェの処刑は、ウイリアムズと対論者であるコントとの関連で引かれているように、ここは思想的議論の要所ともいうべきところである。セルヴェとカルヴァンを「寛容」で論じるなら、カステリオンは欠かせないのではないか。本書の推薦として帯にある宇野重規も彼に注視しているし、渡辺一夫も展開したその議論も著者が知らないはずもない。カトリックにおける寛容論も展開されている文脈でも重視されているようには見られなかったが、中世的な寛容論から現代的な寛容論の過渡的な変異として捨象されてるのかもしれない。

 

|

2020.12.17

[書評] 喧嘩の流儀 菅義偉、知られざる履歴書(読売新聞政治部)

 私だけの感覚だろうか。今年の安倍内閣のことがうまく思い出せない。令和時代最初の内閣であり、一年ほど続いた第4次安倍第2次改造内閣なのだが、あれはなんだったのだろうと、奇妙に遠い過去のように思えてくる。内閣の終焉は、表向きは、安倍晋三が持病に負けたということだが、コロナ騒ぎに潰れたという思いのほうが強い。おそらくその感覚はそう間違ってもいないだろう。唐突な終わり方でもあったせいか、その内閣の路線継続は誰もの脳裏に自然にあり、ゆえに長期安倍政権の内実を担ってきた菅義偉氏が自然に首相となっても違和感はない。そこまでは、いいだろう。だが、だから菅義偉首相のことがわかるかというと、実質安倍政権の継承だろうとは思うものの、なにか私は腑に落ちない。菅義偉内閣のことも、再考すると、実はよくわからない。一つには、彼が本格的な長期政権の軸となるのか、なんらかの権力の移行期間の現象なのか、ということも、よくわからない。
 このもやっとした感覚に本書が答えてくれるだろうか。そういう思いで読んだ。どうだったか。率直に言うと、そこはよくわからなかった。他方、本書は冒頭のある忘却を晴らしてくれた。そうだ、こういうことがあった、とフラッシュバックする。そして見えてきた想起の風景の奥に、呪霊のように見えてくるのが、二階俊博と麻生太郎である。焦点であるべき菅義偉は、その二人の印画にすら思える。
 ということは、本書は焦点を失っているのか。そうではない。二階俊博と麻生太郎と菅義偉いう三者、それに公明党を加えてもいいかもしれないが、このどろっとした感触でこそ、禍々しい日本の政治がよく表現されている。昭和時代の政治の感覚にも近い。そうしてみて、ああと思い当たる。菅義偉という人間の裏に梶山静六を感じ取る。嫌な予感のような何かだ。
 本書は薄暗い何かを暗示させつつ、新聞部らしい明瞭な文体でも描かれている。当然、「菅義偉、知られざる履歴書」というべき部分も描かれているが、私の印象ではさほど「知られざる」というほど踏み込んだ取材はなかった。それは悪いことでもない。驚くようなことがあれもこれも書かれているなら、それは多分に無用なフィクションにすぎないだろうからだ。
 本書の性格は、「おわりに」に端的にあるが、この時代のドキュメントであろう。
《本書を執筆するために取材した首相官邸の幹部の一人から、こんな言葉を聞いた。「官邸には権力や、権力を求める人間が発する独自の匂いがある」。この幹部によれば、官邸内でも首相補佐が詰める4階と、首相や官房長官が執務する5階では、また空気が違う。「息苦しささえ感じる」という5階には、権力の匂いがより濃厚に立ちこめているだろうのだろう。本書は、その官邸を舞台とした人間模様を追ったドキュメントである。》
 私たちは、今、奇妙な時代を生きている。それはなにか、テレビの催眠術師ショーで催眠に掛かった芸能人が、甘いーと叫びながらレモンを齧っているような奇妙さだ。この催眠のようなものは、容易には解けないだろうが、それが描き出す図柄の奇妙さは、本書を読むことで得られる。この本の、まるで異世界のような時間の中に、私たちは菅義偉と一緒に閉じ込められることで、逆説的に、現実という催眠世界からしばし逃れることができる。

 

 

|

2020.12.16

2020年を振り返って

 ブログは久しぶりになる。この間、ほとんど日々ツイッターでなにかしらつぶやいていたので、多少なり私に関心ある人がいても私の健在は伝わっていたかと思う。ブログを実際上休止していたのは、ブロクを書く気力がなかったことと、来年に向けて準備を進めていることに注力したかったからだ。後者についてはだいたい準備は終わった。来年の方向も見えてきた。何をするかというと、少しアカデミックな研究をしたい。世の中は「独学」がブームのようでもあるし、私も独学的な人であるが、できるだけそうではない方向になるだろう。
 今年を振り返って、もう一つ私事の方向転換で次に心にかかっていたことは、現実に私を取り巻く人々の関連でもあるが、簡単に言えば、4人もいる子育てにそろそろ終止符を打ち、老後の人生に向かうことだ。この夏、63歳の誕生日をきっかけにいくつか年金書類の申請をした。自分が老人になったのだと思った。
 さて、このブログにも関連する世事について、一番の思いは、率直に言って、新型コロナの問題を見誤っていたということだ。年末、世の中がこんなことになっているとは、想像もつかなかった。
 Covid-19がここまで感染を広げるとは思いもしなかった、という意味ではない。私の当初の考えからすれば、感染は十分なレベルにすでに収束している。東洋経済のサイトでの直近の実効再生産数は1.1である。1を超えているという点では収束とは言えないかもしれないが、この春大騒ぎした2.4といった数字ではない。東京の実効再生産数も1.11とさして変わりない。欧米に比べれば感染のもたらす被害はざっと50分の1といったほどで、欧米的な視点からすれば日本のCovid-19はすでに収束したと見ていいだろう。もちろん、今後の感染拡大は厳密にはわからないが、それも実効再生産数1.1の現状がベースとなって想定されるものだろう。もう一点で言えば、いずれ全貌がわかるだろうが、インフルエンザを含めての超過死亡にも例年と大きな変化はなさそうだ。Covid-19は高齢者や基礎疾患のある人を襲いがちだが、それらのようすは、他の疾患を含めた自然傾向を超えそうにはない。そういう意味で言えば、現下の日本の状況は、「コロナ騒ぎ」とでもいうべきもにも思える。
 そうは言っても医療体制は逼迫しているともメディアは喧伝するし、実態は厳しいものだが、すでに知られているように日本の病床数は欧米よりもだんとつに多い。ようは医療体制自体が潜在的に抱えていた問題が、Covid-19感染で顕在化したものだろう。女性の雇用状況も元来労働市場の調整的であったことに由来するだろう。
 そして突き詰めて言えば、SARS-CoV-2のような比較的弱いウイルスはそもそもが根絶できないだろう。ウイルスは私たち生命の遺伝子活動と一体化しているといってもいいはずだ。岩波科学ライブラリー294『新版ウイルスと人間』(山内一也)にも《ウイルスの究極の生存戦略は平和共存である。野生動物の社会では、新たに入り込むウイルスはいずれ、動物とともに進化して共存するようになる》とある。もしかすると、かつてアメリカ大陸とユーラシア大陸との人々の差のように、すでにアジア域ではSARS-CoV-2との共存進化の基礎があったのかもしれない。同書をもう少し引こう。
 《現在のグローバル化した世界は、SARSの時代をはるかに超えたものになっている。そのような環境で、新型コロナウイルスは、発病前の潜伏期から、もしくは無症状感染者などにより、監視網をくぐり抜けて世界中に短期間に広がった。ヒトウイルスとして定着したことは疑いない。》
 ではどうなるか。《これが今後、どのようになるかはわからない。》としながらも、こう続く。《風邪ウイルスのひとつ、コロナウイルスOC43は、一八九〇年頃にウシを介してヒトに感染し、パンデミックを起こした可能性が指摘されている。新型コロナウイルスも、長い年月の後には、OC43と同様に風邪ウイルスに変わっていくのかもしれない。》
 先に見たように、実効再生産数1.1で感染も欧米の50分の1、超過死亡もないだろうとなれば、OC43のようになり、これまで日本社会がインフルエンザを受け入れてきたように、Covid-19も受け入れていくだろう……私はそう思っていた。まったく間違えていた。
 私はこの点でまったく間違えていた。そして、上述のような見解は、ブログに書く分にはさほど読まれもしないこともあり無意味に近いし、同じように考える人もネットなどに散見するが、社会に伝わることはない。それはほぼ絶対と言っていいほど、ありえないことだったのだ。私はこの事態を想定できなかったし、そうした社会の新しいルールに異も唱えないようにこの間、なった。私は社会通念に負けた。ブログを書く気力が減衰していたのはそうした敗北感もある。
 いずれにせよ、私は間違っていた。修辞でもなんでもない。私ができるのは、そもそもが私に可能な私の未来の選択でしかなく、私には社会を超えることはできないし、そうすべきでもないだろう。

 

|

« 2020年10月 | トップページ | 2021年1月 »