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2020.10.19

[書評] 自閉症は津軽弁を話さない リターンズ

 本書『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ ---コミュニケーションを育む情報の獲得・共有のメカニズム』は、本書でも当然触れているが3年前に出された『自閉症は津軽弁を話さない 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く』の続巻とも言える。内容は、この現象、つまり、自閉症は方言を話さないという現象についての、学際的な広がり、実態報告、実証研究などであり、さらに、方言を話す自閉症についても言及されている。小説ではないので、ネタバレにもならないだろうが、本書の結語とも言えるのは、《自閉症と方言、解くべき謎はまだ残されているようです》ということだろう。この領域に関心を持たざるをえない私としても、全容はつかめていないように思えた。

  


 まず、もっとも重要であり、議論の前提となるのは、「自閉症は方言を話さないという現象」である。前著に研究経緯があり本書でも言及されているが、概ね実証レベルでその現象がまずもって存在するということだ。そこで、当然、なぜ自閉症は方言を話さないのか?という問題提起になる。
 本書では、音声認識のレベルの議論もあるにはあるが、大半は心理学的なアプローチと社会言語学的なアプローに分かれるとしてよいだろう。前者としては、概ねではあるが、ASDの知能で方言とその運用が理解を超えるという枠組みになっている印象を受けた。後者では方言というものの社会言語学的な意味づけに力点が置かれるが、総じてその方言が喋れないということは、一般的な知能の限界でないにせよ、社会的な知能の限界に集約されるようだった。
 さて、私が「この領域に関心を持たざるをえない」というのは、まさに私自身が方言を話さないという実体験を持っているからだ。もともと東京生まれ、東京育ちの私に、いわゆる方言はないし、両親ともに長野県人ではあるが、長野方言は他地方からはなかなか認識しづらい微妙なものでもあり、そもそも両親もさほど長野方言を使わない。父母の間で地域差があったせいもある。
 私の場合は、方言というより、そもそも、方言が内包する親密な言語を使わないのである。親との会話でも、成人になるまでNHKのアナウンサーのような喋りをしてきた。友人関係でもそうである。いわゆる、タメ口というのが使えない。本書では、そもそも自閉症は方言を理解していなのではないかという考察もあるが、私については、親密な会話表現やタメ口は理解しているが、使わない。なぜ使わないかというと、恐怖感が起きるからだ。端的にいえば、人工的な言語で、両親や他者との間に言語による距離感が設定されていないのと他者が怖いのである。
 このことのもたらす被害は内的には甚大で、まずもって恋愛というのができない。恋愛の親密性に到達できないのである。友人間でもそうである。友情が成立しない。まあ、逆にだから成立する面もあるが。
 ただ、その困難性への自覚は高校生時代からあり、自分のなかで、タメ口的なものをさらに人工的に再構築してきた。この経緯は非常に意図的なものだった。結論だけいえば、私は幼児期に落語をうんざり聞いていたので、ある程度江戸弁が使えたため、それをくだいて親密性の言語をモデル化したのである。べらんめえ的な発音やリズムを再構築した。よくわからないのだが、幼い頃から、自分には言語音声の模倣にはある種の能力があるらしく、それなりに英語の発音もよかった(もっとも後に言語学・英語学を学び、その点から見れば、私の英語発音はひどいものであるが)。
 自分語りのようになったが、私がこの領域に関心を持つのは、方言のような親密性の言語が与えられている人と、私のように親密性の言語が心理的な禁忌となっている人がいて、後者は存外に大きな問題であり、本書はそうした問題への手がかりになればよいと思っている。
 さらに踏み込めば、親密性の言語が構築できずに大人になった人間はどのように親密性の言語を再教育していくかという問題でもある。話が前後するが、親密性の言語が獲得できない大人というのは、育児にも影響を及ぼす。概ね、女性の場合は、赤ちゃんとのつきあいで赤ちゃん言葉を使える人が多いが、私のような人間にはかなり困難をもたらす。「お父さんはね、うんたらなんだよ」的な会話ができない。反面、私の事例でいうなら、4人の子供がほぼ成人してみると、子供との会話において、もともとも親子的な親密性の会話が欠落しているので、逆に現在は話やすいという面もある。
 本書では指摘されていないが、こうした経緯をもつ私としては、もう一つ直感を持っている。言語と脳内の言語プロセスが分離していることだ。極端な言い方をすれば、意識を維持するのに言語がまどろこっしい。言語を介さずに思考する癖がついているし、さらに方言のような親密性の言語側に吸引されるのは、思考にとって不快なのである。おそらく、この感覚は、ASDにも見られるのではないかと思う。
 私のような関心からこの本、あるいはこの領域に関心を持つ人は少ないのかもしれないが、本書で提示されている現象自体、非常に興味深いものであり、教育関係者などにもっと知られて良いようには思う。

 

 

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2020.10.15

[書評] 超訳ライフ・シフト―100年時代の人生戦略

 言うまでもなく、先月発売された本書『超訳ライフ・シフト―100年時代の人生戦略』は、4年前の『LIFE SHIFT(ライフ・シフト) ―100年時代の人生戦略』の「超訳」である。だから、基本、ベストセラーの前著を読めば十分と言えないでもないが、「超訳」が出てきた理由もわからないではない。一つには、出版側として、読みやすく編集することで、もっと広い層に届けたいというのがあるのだろう。その点ではすでに漫画版もあるのだが、こちらは啓蒙系の漫画にありがちでもあるが、基本エルザさんが原著を講義するということになっている。講義される側は、日本人の若い女性である美咲さん。この点ですでに読者モデルに重ねられている若い日本人となっている。この時点で、「ライフ・シフト」を日本と現代の日本人に重ねたらどうなるかという趣向が期待されることは理解しやすい。超訳が出てくる二番目の理由であろう。
 で、どうか? つまり、その二点が強化されているか。①よりわかりやすく、②日本人の現状に沿っているか? 読後感からすると両点満たされていると言えるだろう。日本の現状について考慮された「超訳」になっている。ローカリゼーションと言ってもいいかもしれない。逆に「超訳」ではあるため、原著からは意外と離れていない。ここには利点と欠点があるがあるだろう。
 率直にいうと、原著は原著として評価したせいもあり、むしろ、日本の現状に重ねると、ちょっと無理があるかなという印象が強くなった。「超訳」としての欠点を批判したいわけでもなく、また原著の枠組みを批判したいわけでもないが、以下、どちらかというと、批判的な印象を書くことになるだろう。
 その前に、本書の意義は前提として認めてよい。現代の先進国の市民は、半世紀以前と比べて格段に健康で生きられる時間が伸びているため、旧来の人生観・人生設計で生きていくことはできない。
 さて、最初の違和感は、原著ではさほど気にならなかったのだが、日本の文脈で長寿化と言われても、実際のところ平均寿命は頭打ちで、おそらく90歳あたりが限界だろう。そして、本書は楽観的に見ているが、健康寿命もまたその10年前で潰えるだろう。総じていえば、平均像としては健康で生きられるのは、75歳まであり、そこから5年くらいは、身体障害者となる。このことは、自身の人生の最終プランの問題でもあるが、それを誰が介護するかという問題でもある。本書では、そうした視点がごっそり抜けている。
 原著のトーンでもあるが、本書の人生観は基本、自分の人生という名の企業経営と同じになっているので、本来の意味でのリクリエーションが描かれていない、というより、意図的にリクリエーションを、人生経営的な「再創造」としている。それをそのまま受け入れる人には、否定的に聞こえるだろうが、人生というのは、別にそれほど生産的に生きるべきものでもない。荷風のように生きたってよい。というか、荷風のような生き方もライフ・シフトの一つのモデルだろう。
 そうした点でいうなら、無形の資産形成というのは、むしろ人生という長い期間を通じて芸術を味わうための学習や経験の積み重ねであってもよいし、本書が大切にしている人間関係も人間的な深みがあってこそのものだろう。
 本書は家族やパートナーとの関係も描かれているが、原著の米国世界は基本、保守的な価値観でもなければ、生涯寄り添うといった結婚のモデルは崩壊しているし、むしろ、離婚は通常の人生計画に自然に含まれているだろうし、それに育児も従属する。このあたり、日本も次第に米国的なものになるのだろうが、むしろ日本では、新しいライフ・シフトにおける、離婚と育児という前提感が醸成されていない。
 老後の資金については、つまるところ、金融リテラシーを高めようとするのだが、基本となるのは年金の設計であり、最大資産である住居の扱いだろう。このあたりは、日本の現状に沿った具体論を書くと、けっこうダークなものなるのではないか。
 本書のようなライフ・シフトがあってもよいだろうが、より現実の日本とその未来を含めた妥当なライフ・シフトがあってもよいだろう。現況、出生率や未婚者が話題になるが、出生率が回復するわけもなく、未婚者が減少することもない。これらは事後の対処としては政治の課題だが、それ自体政治の課題とするのは無理だろう。

  

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