[書評] オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり(門田隆将)
先日とあることで、麻原彰晃の錯乱についてふと思うことがあり、そういえば、読もうと思っていたままにしていた本書『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり』を思い出し、読んだ。2018年12月28日の刊だから実質、2019年の刊行と見てよいだろう。まだ令和ではない年だ。というか、オウム事件は令和のために精算されたのだろう。
本書に私が期待していたのは、死刑となった井上嘉浩の獄中の思想であった。こういうのも変かもしれないが、井上の「謝罪」や事件の証言、真相といったものはあまり期待していなかった。獄のなかで二十余年も過ごしたのだから、どのような宗教観・思想を持つようになったのだろうか。それと、決せられている死にどうそれが向き合っているのかも気になっていた。
本書読後の感想としては、そうした内容はほとんどなかった。著者・門田からはそうした側面が見えなかったというより、長期獄中生活の井上自身に独自の宗教観の深化というべきものはなかったのだろう。もちろん、それで私が、がっかりしたというわけでもない。他方、獄中の彼の宗教心というか信仰というものが大谷派の一女性僧侶に支えられていたという逸話は興味深くは思った。
本書は前半、井上のパーソナル・ヒストリーが語られる。これに麻原のパーソナル・ヒストリーが加えられ、小説でも読んでいるような気持ちになる。
読みながら自分にとっては特段に新しい情報はないなと思いつつ、麻原の教団が、のんきなありがちなサークルから殺人集団に変遷していく過程で井上が微妙に取り残されていく様子は興味深かった。それは、著者・門田の描き方によるものだ、というものでもなく、井上からは教団がそのように、つまり、「どうしてこうなったか?」と疑問のつく違和感の対象と見えていたのだろう。それも興味深かった。
井上が麻原に重用されたのは、本書の前半でもわかるが、オウム真理教のハタ・ヨガ部分での実演者という面が大きかったのだろう。サーカスの演者のようなものだ。麻原からの信頼が特に扱ったというものもなさそうだし、獄中での思いから描かれているとはいえ、麻原の思想を彼が理解していたようでもなかった。
そして、言うまでもなくというべきか、実は、井上はオウム事件の殺人に直接関わってはいない。むしろ、そこが井上にまつわる一種の謎だ。井上は、彼らのいう金剛乗の修行には加えられていない。あるいは井上からは隠されたオウムの側面があったか。両方だろう。その意味で、彼の一審の無期懲役は妥当なところで、本書も二審の死刑判決に疑問を投げている。
加えて、本書を読んでしみじみ思ったのだが、オウム裁判を決する「リムジン謀議」を井上の証言が支えているのだから、これで司法取引として見てよいのではないか。雑駁な言い方になるが、オウム裁判での死刑判決の問題点は井上の扱いに象徴されている印象はある。
井上の目から描かれている麻原については興味深く思ったことがあった。オウム真理教の転換だが、1988年7月のカギュ派カール・リンポチェとの面会の挫折とそれゆえの反動があったのだろう。
私は同時代人として、オウムの全盛期を多少知っているというか、書店で見かける関連書を時折手に取るくらいは知っているのだが、あるとき、あれ?と思った。いつのまにか、彼らが、インドのハタヨガからチベット密教に鞍替えしていた。私も当時ヨガをしていたので(アイアンガー・ヨガ)、また中沢新一の『虹の階梯』なども読んでいたし、Theos Casimir Bernardなどにも関心があったので、記憶に残っている。麻原はケチャリ・ムドラを試みて失敗していた。彼らの教団はもうヨガではなくなりつつあるなと当時思った。連想して思い出すのだが、当時の麻原は漢文の参考書も出版していた。あれはなんだったのだろう。
麻原自体のヨガがどのようなものであったかについては、とんと関心を失っていたが、基本はクンダリニー・ヨガだった。本書では、その外的な儀礼として「シャクティパット」が出てきて、奇妙な懐かしさを感じた。
その関連とも言えるのだが、法廷での麻原と井上のいわば対決で、井上の証言によれば、麻原がトゥモという呼吸法で、井上に念を送っていたとある。そういえば、獄中でも初期の時点では、麻原はヨガ、特にクンダリニー・ヨガを実践していたようだ。冒頭、麻原彰晃の錯乱についてふと思うことと書いたが、あの錯乱は彼のクンダリニー・ヨガの帰結(末路)ではなかったか。
さて、本書でオウム事件を多少なり振り返って、あるうんざりした思いにかられるのは、閉じられた集団のなかでも性の狂乱である。連合赤軍でもそうだった。ホッブズは人間の自然状態を全人闘争としたが、おそらく人間の自然状態というのは、性の狂乱なのだろう。そそうしてみると、なんだか奇妙なことをいうようだが、井上嘉浩はずっと童貞だったのだろう。そのことで、その狂乱から守られていたとも言えるかもしれない。あるいは、本書からは見えない、もっと深い彼の性の内面の問題はあったのかもしれない。
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