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2020.09.11

[書評] オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり(門田隆将)

 先日とあることで、麻原彰晃の錯乱についてふと思うことがあり、そういえば、読もうと思っていたままにしていた本書『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり』を思い出し、読んだ。2018年12月28日の刊だから実質、2019年の刊行と見てよいだろう。まだ令和ではない年だ。というか、オウム事件は令和のために精算されたのだろう。
 本書に私が期待していたのは、死刑となった井上嘉浩の獄中の思想であった。こういうのも変かもしれないが、井上の「謝罪」や事件の証言、真相といったものはあまり期待していなかった。獄のなかで二十余年も過ごしたのだから、どのような宗教観・思想を持つようになったのだろうか。それと、決せられている死にどうそれが向き合っているのかも気になっていた。
 本書読後の感想としては、そうした内容はほとんどなかった。著者・門田からはそうした側面が見えなかったというより、長期獄中生活の井上自身に独自の宗教観の深化というべきものはなかったのだろう。もちろん、それで私が、がっかりしたというわけでもない。他方、獄中の彼の宗教心というか信仰というものが大谷派の一女性僧侶に支えられていたという逸話は興味深くは思った。
 本書は前半、井上のパーソナル・ヒストリーが語られる。これに麻原のパーソナル・ヒストリーが加えられ、小説でも読んでいるような気持ちになる。
 読みながら自分にとっては特段に新しい情報はないなと思いつつ、麻原の教団が、のんきなありがちなサークルから殺人集団に変遷していく過程で井上が微妙に取り残されていく様子は興味深かった。それは、著者・門田の描き方によるものだ、というものでもなく、井上からは教団がそのように、つまり、「どうしてこうなったか?」と疑問のつく違和感の対象と見えていたのだろう。それも興味深かった。
 井上が麻原に重用されたのは、本書の前半でもわかるが、オウム真理教のハタ・ヨガ部分での実演者という面が大きかったのだろう。サーカスの演者のようなものだ。麻原からの信頼が特に扱ったというものもなさそうだし、獄中での思いから描かれているとはいえ、麻原の思想を彼が理解していたようでもなかった。
 そして、言うまでもなくというべきか、実は、井上はオウム事件の殺人に直接関わってはいない。むしろ、そこが井上にまつわる一種の謎だ。井上は、彼らのいう金剛乗の修行には加えられていない。あるいは井上からは隠されたオウムの側面があったか。両方だろう。その意味で、彼の一審の無期懲役は妥当なところで、本書も二審の死刑判決に疑問を投げている。
 加えて、本書を読んでしみじみ思ったのだが、オウム裁判を決する「リムジン謀議」を井上の証言が支えているのだから、これで司法取引として見てよいのではないか。雑駁な言い方になるが、オウム裁判での死刑判決の問題点は井上の扱いに象徴されている印象はある。
 井上の目から描かれている麻原については興味深く思ったことがあった。オウム真理教の転換だが、1988年7月のカギュ派カール・リンポチェとの面会の挫折とそれゆえの反動があったのだろう。
 私は同時代人として、オウムの全盛期を多少知っているというか、書店で見かける関連書を時折手に取るくらいは知っているのだが、あるとき、あれ?と思った。いつのまにか、彼らが、インドのハタヨガからチベット密教に鞍替えしていた。私も当時ヨガをしていたので(アイアンガー・ヨガ)、また中沢新一の『虹の階梯』なども読んでいたし、Theos Casimir Bernardなどにも関心があったので、記憶に残っている。麻原はケチャリ・ムドラを試みて失敗していた。彼らの教団はもうヨガではなくなりつつあるなと当時思った。連想して思い出すのだが、当時の麻原は漢文の参考書も出版していた。あれはなんだったのだろう。
 麻原自体のヨガがどのようなものであったかについては、とんと関心を失っていたが、基本はクンダリニー・ヨガだった。本書では、その外的な儀礼として「シャクティパット」が出てきて、奇妙な懐かしさを感じた。
 その関連とも言えるのだが、法廷での麻原と井上のいわば対決で、井上の証言によれば、麻原がトゥモという呼吸法で、井上に念を送っていたとある。そういえば、獄中でも初期の時点では、麻原はヨガ、特にクンダリニー・ヨガを実践していたようだ。冒頭、麻原彰晃の錯乱についてふと思うことと書いたが、あの錯乱は彼のクンダリニー・ヨガの帰結(末路)ではなかったか。
 さて、本書でオウム事件を多少なり振り返って、あるうんざりした思いにかられるのは、閉じられた集団のなかでも性の狂乱である。連合赤軍でもそうだった。ホッブズは人間の自然状態を全人闘争としたが、おそらく人間の自然状態というのは、性の狂乱なのだろう。そそうしてみると、なんだか奇妙なことをいうようだが、井上嘉浩はずっと童貞だったのだろう。そのことで、その狂乱から守られていたとも言えるかもしれない。あるいは、本書からは見えない、もっと深い彼の性の内面の問題はあったのかもしれない。

 

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2020.09.04

日本の子供が自分を不幸だと感じているのはもしかして……

 ユニセフは3日、38か国を対象に7年ぶりに実施した子供の幸福度調査を発表した。それによると、日本は38か国中20位。他方、健康分野では1位だった。というニュースが流れた。どうやら、日本の子供は身体的には健康だけど、精神的には幸福ではない、ようだ。
 というわけで、教育評論家の尾木直樹氏はブログでこう言っていた(参照)。

このパラドックス(逆説)は何を意味するのでしょうか?

② 最大の要因は日本の学校における『いじめ地獄』です、海外の研究によると50歳になっても社会的、経済的影響は残り人生そのものを幸福にしないようですから重大事態ではないでしょうか?

 へえと思った。前回2013年の調査では、31か国を対象にし、日本は全体で6位だった。つまり、対象国が増えたとはいえ、7年間で6位から20位に転落したのは、この間、特段に「いじめ地獄」が進んでいないと、尾木説は矛盾する。まあ、矛盾しているだろう。調査はコロナ騒ぎに重なるので、基本的にはコロナ騒ぎが日本の子供をいかに不幸にしたかという意味もあるのでは。
 さて、原典をざっと読んでみた(参照)。
 2点、びっくりした。というか、調査国のなかで、ダントツに日本の子供(青少年)を区別するデータを見て、驚いた。

1 デブが異常に少ない
 日本人の子供にデブがいない。明らかになんだこれというくらい少ない。

Unicef1

 理由がわかりそうでわからない。実は栄養失調なんじゃないか。いや健康は総合的に1位なんで、つまり、とっても健康だから、デブが少ないということなんだろう。
 もしかして、デブが増えるともっと幸福を感じる子供が増えるっていうことはないんだろうか。

 

2 殺人事件が異常に少ない
 他に少ない国もある。ルクセンブルクとか。しかし、こうしたデータでルクセンブルクと比較して意味あるんだろうか? スイスやノルウェーも少ないがそれでも日本はその半分以下。なんなんだこれ。

Unicef2

 というわけで、日本の子供はデブが少なく、殺人事件が少ない。どうも、内的な規律性が高いから、と考えるのが妥当だろう。とすると、内的な規律性が高いと、それほど幸せは感じられないんじゃないか。

 

追記(同日)
 このアーティクルはどっちかというと、自分なりに驚いたファクトをネタにしたくらいで、そのファクトを解明したいというものでもなかった。ので、さらっと矛盾したことを書いていたが、気になる人もいそうなので、追記しておく。
 矛盾は、内的な規律性が高いと不幸になる、として、それがこの7年間の変化はどうか。つまり、7年前はそれがどちらかといえば幸福の要因だった。なのに、現在は不幸の要因に変わったのか? 
 実はそう考えている。特にコロナ騒ぎのせいはあるだろうと。ただ、それだけのせいでもないようには思う。まさに、この7年間で同じ要因が、幸福と不幸を変えたのではないか? たぶん、コミュニケーションのあり方だろう。実は該当レポートにはいじめと幸福感のデータもある。とはいえ、どこの国がいじめが多いとかではない。いじめがあっても、幸福でいられるかという内的な特性を問うているものだ。
 あと、もう一つ。子どもたちの幸福・不幸の感覚をあくまで外的な要因による(たとえば長期デフレとか)と、そう考えたい人がいるのだなと思った。しかしねえ、そういうのは、そもそも子どもたちの内的な規律性の否定を前提とした議論になっている。それって、けっこうぞっとする思想だ思うんだけど。

 

 

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2020.09.03

英語の "thorough" の発音はなぜめちゃくちゃなのか?

 英語の "thorough" の発音はなぜめちゃくちゃなのか? この問いかけ自体が正しくはないかもしれない。違うのは、英国発音と米国発音の差だけだとも言える。とりあえず、2つある。
 ”The 10 Hardest English Words to Pronounce” (発音がもっとも難しい10個の英単語)という記事には、2番目に挙げられていてこう説明がある。

2. Thorough
With a silent ‘g’ and an excessive amount of vowels ‘thorough’ can confuse even the most experienced English speakers. To make matters worse, this word is also pronounced differently by English speakers in America to those in the UK- making it even more difficult!

(”thorough”という単語には、無音の「g」と過剰に母音字が含まれているので、最も経験豊富な英語話者でさえ混乱する可能性があります。 さらに悪いことに、この単語はアメリカの英語話者とイギリスの話者では発音が異なるので、さらに難しくなっているのです!)

British pronunciation: thur-er
American pronunciation: ther-ow

 近似音でいうなら、英語だと「サラ」、米語だと「サゥアロウ」のようになる。上記事では、英音を「thur-er」としているが、英語では「ur」では「r」の響きはなく("postvocalic R")、後続との関係で「r」が現れる。これは”linking R”と呼ばれているものだ。話者のなかでどう了解されているかはよくわからないが、"intrusive R"という現象とも関係がある。この議論はさておき。
 おそらく英語における認識は、 "tho・rough"で、英語では" "thor・ough"に近いだろう。こういうとスペリング発音のようでもあるが、これはあとで議論する。話を進めると英語で "tho・rough"とすると、"rough"が現れるが、これなら近似音で「ラフ」でもあろうだろう。
 ここで、"ough” というスペリングの音価が気になる。この話は受験生も知っておくといいだろう(が、まあ、こんなブログ、受験生が読んでいるとも思わないが)。Wikipediaの関連項目も参考になる(参考)。以下、仮の分類だが。

二重母音
[aʊ] bough、plough
[əʊ] although、dough、though

長母音
[ɔ:] bought、thought
[u:] through

シュワ
[ə] borough、thorough(英)

ストップ付き
[ɒf] cough、trough
[ʌf] enough、tough、rough
[ʌp] hiccough

 スペリング発音だと、上記のように、8種類以上の可能性がある。さすがに、「サラップ」はないだろうが。
 この混乱は、とりあえず、英国英語と米国英語を分ければいいのだが、日本の英語教育では文科省的にはこの分離の指針はないので少なくとも2つのままなので、逆に言えば、大学入試には出てこない(はず)。
 さて、この混乱は、スペリング発音なのだろうか?
 もしそうなら、英国発音がベースにあり、米国でスペリング発音化したと考えやすい。ただ、米国英語は、清教徒移民の歴史に重なり、古い英国英語の性質を持っているので、米国英語発音が本来の発音に近く、英国英語発音が音変化とも捉えられる。
 で、調べたのだが、わからない。
 語源的には、"thorough"は、"through"から来ている。なので、"through"の"r"が半母音であることから、シュワが挿入されて別単語として意識されたと推測してよいかもしれない。であれば、「サルー」に近いので、米音のほうが古形かもしれない。
 とはいえ、いずれにせよ、スペリング発音が影響しているだろうも思われる。

 

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2020.09.02

[書評] 新装版 タネはどこからきたか? (鷲谷いづみ・埴沙萠)

 ダーウィン『種の起源』 (1959)の12章に、実にダーウィンの人柄を感じさせるこういう話がある。

I took in February three table-spoonfuls of mud from three different points, beneath water, on the edge of a little pond; this mud when dry weighed only 6¾ ounces; I kept it covered up in my study for six months, pulling up and counting each plant as it grew; the plants were of many kinds, and were altogether 537 in number; and yet the viscid mud was all contained in a breakfast cup!

私は2月、小さな池の端で水面下の3つの異なる場所から大さじ3杯の泥を採取した。この泥は乾いた時の重さはわずか6.75オンス(191グラム)だった。私はそれを覆って6か月間書斎に保管し、植物が成長するたびに、取り出して数えた。植物はいろいろな種類があり、全部で537だった。それでも粘性のある泥はすべて朝食用のティーカップに収まっていた!

 この実験は誰でもできる。池の泥でなくてもいい。そこいらの土でもいい。というか、どこの土でもいい。子供できる、というか、子供が夏休みの自由研究にやるといい、ということかと、『新装版 タネはどこからきたか?』を見て思った。今年の7月1日の出版である。もとは2002年の出版だから、18年も前。その間、山と渓谷はインプレス下に入ったのだが、再版された。それだけの価値のある本だ。
 ダーウィンの研究は、土壌シードバンクの研究として現代でも研究されている、というか、本書も3章で触れられ、ダーウィンの言及もある。
 とにかく面白い本だ。大人にしてみると、子供のころにいだいた疑問が、そのころの感覚と共に蘇る。
 植物の種を入れたさやは乾くと、ぱちんと弾ける。ホウセンカとか、やらなかっただろうか? で、なぜ、はじけるのか。もちろん、タネを飛ばすためだが、なぜタネを飛ばすことになったのか。広域に広がりたいからだ。本書を読むとさらに、親元では暮らしにくいからだという説明がある。植物も動きたいのだ。三密は避けたい、というか、過密で生存競争を厳しくしたくない。
 風で飛ぶタネもある。たんぽぽとか。私は今でも、ふーっとやるのが好きだ。
 そうしたタネは水辺に落ちる。どってことないようだが、そうしたタネには耐水性があるらしい。それどこか、水に流されてどっかに流れ着くと、タネは、やっと上陸したと知る仕組みがあるらしい。温度変化でさぐるらしい。
 どんぐりもタネだ。ナッツ類とかも。つまり、リスだのの動物が食べる。植物にしてみると食べさせてタネを運んでもらい、あわよくば食べられないタネが芽吹く。食われることの共存は食べる生物に適合する。ちいさな赤い木の実は鳥が見つけやすく、食べやすい。そして、食べこぼしたり、糞で新しい土地に落ちて芽吹く。
 本書でびっくりしたのだが、木の実は動物以外に虫にも食われるのだが、それで食われすぎないように、凶作の年がある。凶作はただ天候でそうなったのではなく、虫を飢えて殺すためらしい。
 果物もタネだ。だが、いったいどの生物が食べる果物かわからないのがあり、そういうのは、もしかすると、食べていた生物が絶滅したのかもしれない説もあるらしい。
 稲も単子葉の雑草からできてものだが、これらの草原の草の実は草と一緒に食われるように進化したようだ。
 すみれとアリの話も面白い。面白すぎてネタバレになるのを避けたい。
 タネの芽吹く時期も興味深い。春とは限らない。秋なら冬を超す。そのためにロゼットになる。冬の散歩でよく見かけるあれだ。何年も眠っていて芽吹くものもある。タネはそうした芽吹くタイミングを感知しているらしい。驚くことに、山火事があると、その後に芽吹くタネもある。
 既読でなければ、お勧めしたい本だ。人生観も変わるよ、きっと。

 

 

 

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2020.09.01

あえて勧める5つのユーミンの歌

 ネットは言論の場としては、けっこうひどいところだ。私も長くブロガーやっているし、いただく反応のなかにも、ひどいこと言うなあというものがある。匿名で誹謗する人が多いが、匿名と限らないし、大学の先生だったりすることもある。ということを確認させられたのが、ユーミンに寄せられた罵倒で、「荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」というのが、ネットで話題になっていた。
 村上春樹もそうだが、ユーミンも、初期作品や中期作品で強固なイメージが作られてしまい、最近の佳作があまり理解されない。特に、ユーミンはそうだなと思う。私にしてみると、ユーミンが長くシンガーソングライターを続けてくれることで、老いと恋の苦悩の美しい曲が聞けて、幸せだなと思う。
 そんな曲を5つ紹介。ユーミンを語るなら聞いてほしいなとも思う。

 

「もうここには何もない」
 2006年『A GIRL IN SUMMER』に収録。最初に冒頭を聞いただけで、僕は号泣した。

灯台の光の帯がもう白む空に消えてゆく頃
思い出に耳を澄ましてただ車のドアにもたれかかった
流れ星があなたの肩のあたりで燃え尽きてた

 1978年、僕が21歳の年、初めて青年っぽい恋をしてた年、その年のユーミンのシングル『埠頭を渡る風』を思い出した。

青いとばりが道の果てに続いてる
悲しい夜は私をとなりに乗せて
街の灯りは遠くなびくほうき星

埠頭を渡る風を見たのは
いつか二人がただの友達だった日ね

 同じ海でもなく、同じ恋人の思いでもないかもしれない。でも、そこは青春の、人生への違和感を抱えた恋の思い出が、その思い出に浸りつつも、「もうここには何もない」それは、「何かを選ぶ哀しさもない」。生きて、老いて、その虚しさが、きちんと哀しみの形なるのをユーミンが歌ってくれたなあと思った。


「人魚姫の夢」
 2007年のシングル。39枚目になるらしい。出たとき、iTunesで買った。恐ろしい曲で鳥肌が立った。

いつかあなたはやって来る深い涙の底へ
私を目醒めさせるために
やがて薔薇色の朝になり
あなたはささやくのよ哀しい夢だったと

 ごく単純に言えば、恋を叶えることなく、むなしく死を迎えるベッドの上の錯乱である。そんなふうにして人生を終えることがある。狂気といえば狂気だけど、そうした狂気は虚しいけど間違っていたけど純粋な恋がたどり着いたものだった。
 ユーミンは昔から、人魚姫の話が好きで、どこかしらマゾヒスティックな快感をもっていて、それが各種の曲のなかで、ぬっと現れるところがある。
 この曲は、2009年の『そしてもう一度夢見るだろう』にも収録されるけど、リミックスされていて音の感触が違う。どっちがいいとも言えないが、シングルのほうが怖かった。


「ピカデリー・サーカス」
 2009年の『そしてもう一度夢見るだろう』に収録。アルバムのビジュアルがこの曲のイメージ合わせていて美しい。

ピカデリー・サーカスに出れば
バスやタクシーひしめき合い
まるで昔と変わらない夕暮れ心に
書き溜めた歌と胸に刻みつけた炎と
他に何も持ってなかった昔

 若い頃の懐古といえばそうなのだろうが、胸に刻みつけた炎以外他に何も持ってない自分に出会う風景というものがある。ユーミンはピカデリー・サーカスを選んだ。僕は70年代の新宿を思った。人々が活気づいて行き交う街がふと遠く見えて、まるで自分が死者の世界に移されたような思いを持つ。


「ひとつの恋が終るとき」
 2011年の『Road Show』に収録。僕は民放を見ないであまり見かけなかったが、NTTドコモのCMにもなったらしい。
 曲は30代か40代、あるいは50代かもしれない。同棲もしていた男女が劇的なこともなく別れていく夜の街。女が自動車で男を別れの駅へ送っていく。

信号が変わるたび
めくるなつかしい風景
まるでポスター みたいに
破ってしまいたいけれど

 風景をポスターのように破りたいのは、風景がポスターのように見えるからだ。この感覚を歌ってくれるだけで、僕はとても嬉しい。突然、風景がポスターのように、絵のようになってしまって、この世界に取り残されるあの感覚をもつ人がこの世界にいるのだということ。ユーミンは他のなんどもこの凍った風景を感じさせてくれるけど、この曲はその痛みが美しい。


「ダンスのように抱き寄せたい」
 2010年のシングル。映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』主題歌なので、その文脈で聞かれてしまうだろうと思う。僕もこの映画を見たときはその文脈で聞いて、それもいいなあと思った。しかし、この曲は、『RAILWAYS』とは違う。
 端的に言ってもいいのではないかと思うし、松任谷正隆さんもなんかのインタビューでほのめかしていたようにも思うが、ユーミンが惹かれて若くして結婚した相手だが、おそらく夫婦間は、冷めてというのでもないが、次第に友人のようになり、互いの大人の恋心も難しい局面があったのだろうと思うが、それでも老いてより深い友情のような絆になったのではないかと思う。そうした男女の老いの終結という意味ではハッピーエンドな曲だが、私が惹かれたのは、例によって、離人症的なあの風景である。

二度と帰らぬ日々よ
見送ることしかできない列車よ
ああ、傘もささず探す
誰もいないホーム

 誰もいない駅、霧雨に濡れながら、ぼうっと時間を忘れて立ち尽くす。なんども経験した。西武多摩川線とか今でも味わえる。そうして誰を待っているような気がするのだが。探しているような気もする。でも自分は実はもう死んでいるのかもしれない。列車が過ぎ去っていく。あの感覚だ。ジブリ『千と千尋の神隠し』とかに出てくる、あの列車のような。

 ユーミンの曲は、それを受け止める人の心にきちんと哀しいガラスのかけらを差し込む。その静かに血が流れるような感覚のなかで、死との臨界から生の側に引き寄せる。老いることのある絶望ですら。

 

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