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2020.08.21

[映画] 未来のミライ

 細田守監督のオリジナル作品第5作である。つまらないわけもないだろうと思って見始めたのだが、つまらない。
 少ししたら面白くなるだろうと期待していたが、いつまでたってもつまらない。タイトルともなっている「未来のミライ」が登場してもつまらない。
 幼い子供のいる若い夫婦の生活のディテールの機微のようなものを描いていて、そうしたディテールこそにこの作品の真価があるのだ、ということなのかもしれないが、つまらないことに変わりはない。
 見るのが苦痛になってきて、1時間くらい見て放り出した。
 その後、ふと思い出して、とりあえず終わりまで見るかと、続けて見た。つまらない。が、心に引っかかるものが現れる。ああ、そういうことかと気がつく。
 興味を取り戻して、とりあえず、最終まで見る。さほど感動はない。
 そして、あれだ、翌日、目が覚めて、感動した。
 なんだろ、そうなのだ、あの、胸にギューンとくるあの情感なのである。というだけでは、お話にならない。
 先に書いた「ひっかかるもの」は、根岸森林公園の廃墟である。これが何であるかの明示的な説明は映画にはないが、映像的な指示性は与えらていて、これが過去をつないでいる。仮説的に言えば、あの廃墟は戦前の競馬場の名残であり、そこが主人公の祖父をつないでいる。
 簡単にいえば、人が生きる土地には、土地の記憶というものがある。土地側に人をつなぎとめる記憶があるのだ。この記憶は人々の無意識のなかに風景として自然に入り込んで、人々の生活の営みのなかで意味が反照されて、重ねられていく。
 通常、「私」が家族の物語の構成要素であるのは、家族の歴史が、土地の風景に織り込まれているからだ。そして、これは未来にも続く。この物語の主人公は磯子から未来の東京駅にも辿り着く。
 私たちは得てして、家族の物語や、日本人といった民族の物語で自分を描きたがる。それに郷土史を加えても、それは私たちの家族史を離れて自立するかのように思えることもある。しかし、風景の側の記録は私たちがその土地で生活した記憶そのものなのである。生活するということは、この風景のなかに織り込まれていくことなのだ。
 それはふるさとを愛するというのでもない。私たちの個の意識は、風景の情感のなかで人々に繋ぎ止められている、その情感なのである。
 そのことが、そおらく18歳の少年に芽生えた。細田守本人であろう、52歳の男のなかで、さらに育児体験を通して、その情感が生じたとき、家族の視点が自身に仮託された4歳であった。そこで最初のきずなとして家に結び付けられたのが、未来のミライという兄弟であったのだろう。

 

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