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2020.08.31

[書評] ヘンデルが駆け抜けた時代(三ヶ尻正)

 先日、「ヘンデルは、ハンデルなのか?」(参照)という記事を書いたあと、もう少しヘンデルとその時代背景について知りたいと思い、その名前のとおりの本書『ヘンデルが駆け抜けた時代』を読んだ。あとから気がついたが、著者の三ヶ尻正氏は、これも先日書いた記事『[書評] ミサ曲・ラテン語・教会音楽 ハンドブック』(参照)の該当書の著者でもあった。ヘンデル協会の人でもあった。
 本書の内容なのだが、本書の説明書きがわかりやすい。

あるときは敵対勢力の情勢を探るエージェントとして、またあるときは民心を操る名プロデューサーとして、スペイン継承戦争に翻弄されるイタリアやジャコバイト問題に揺れるイギリスなど権謀術数の渦巻くヨーロッパを渡り歩き、数々のオペラやオラトリオを残してきた音楽家ヘンデルの実像に迫る!

Handel 

 というわけで、ちょっと意外なヘンデルの実像、ということだが、著者がヘンデル協会の人であることからわかるように、むしろ、こちらのヘンデル像のほうが音楽界的にも標準のようだ。
 というわけで、ヘンデルにまつわる政争を含めた時代が面白く、世界史が好きな人には楽しめる。また、ヘンデルの曲も、そうした時代と政争に文脈化されているのも興味深い。というか、ヘンデルのメサイアの由来は知らなかったので、驚かされた。
 とはいえ、個人的に知りたかった、ヘンデルの個人史、とくに恋愛事情といったものの最新研究のような内容はない。つまり、評伝的な重さはなかった。研究が難しいのだろう。
 個人的には、一般知識のレベルで驚いたことがいくつかあった。一番びっくりしたのは、オーストリアの宮廷の公用語がイタリア語だったことだ。

 オーストリアについて触れておかなくてはならないのがその「イタリア政策」である。オーストリアはフランスや新興国プロイセンとの関係で見られがちだが、以前からイタリア進出も狙っていて、

 まあ、そこまでは、知ってる。ヘタリア的な話だ。問題はその先。

宮廷内の公用語までイタリア語だった。イタリア音楽(すなわちオペラ)の中心地はイタリア本土のどこでもなくウィーンであり、イタリア人作曲家が目指した最高の地位はウィーンの宮廷音楽長だった。

 いや、薄々そうだったと思っていたのだった。特にヴィヴァルディの生涯を調べたとき、晩年ウィーンに期待をかけていたのが気になっていた。まあ、『皇帝』がカール6世なんで神聖ローマ帝国との関わりは明白でもあるのだけど。むしろ、その衰退がカール6世でもある。
 あと、びっくりというのもないが、再確認したのは、「1701年王位継承法」である。ウィキペディアを借りると。

・王位継承者は、ステュアート家の血を引く者に限る。
・イングランド国教会信徒のみが王位継承権を持つ(カトリック信徒は王になれない)。同様に、その配偶者も国教会信徒でなければならない。

 ということで、外国のハノーファー選帝侯が選ばれたのだが、この対立であるジェームズ老僣王との関わりがもろにヘンデルに関係してくる。
 ヘンデルと限らないが、西洋音楽家はいろいろ西洋史そのものに関連してくる。そのあたり、いわゆる高校世界史的な観点だと、文化史の小項目になってしまうが、むしろ、音楽家から世界史が見渡せることもある。

  

 

 

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2020.08.30

ヴィニエット(Vignette)はなぜヴィニエット?

 「実践ビジネス英語」で英会話の部分は「ヴィニエット」と呼ばれている。先日、「あれ、なぜ、ヴィニエット、というのか?」と娘に聞かれ、返答に窮した。
 言われてみれば、気にはなっていたが、意味が不明瞭ということもなく、特に調べていなかった。迂闊であった。
 当初の違和感は覚えている。「ette」は「小さい」ものを示すフランス語由来の接尾辞だから(もとはイタリア語ではないかな)、それに比して大きな「Vign」があるはずである。というか、そりゃ、普通にある。「葡萄」である。つまり、vignetteは「小葡萄」であるはずだ。が、それがなぜなのか?
 いや他にも違和感はあったのだった。
 写真の加工でも「ヴィニエット」や「ヴィニエッティング」がある。縁側から暗くして焦点を明示するエフェクトだ。これもなぜ、vignetteなのか?
 さらに欧州で、自動車のフロントガラスにペタこら貼ってある証明シールも vignette である。
 どういう意味の派生になっているのか?
 そのヒントはたぶんあれだ。ブックデザインで表紙や扉とかにつける装飾的なフレームや挿絵が vignetteと言われている。あれだ。
 みなさんのお手元の岩波文庫があれば、どれでもいいから改めて表紙を見てほしい。縁に模様が付いているでしょ。何の模様か? 見ればわかるように、葡萄の模様である。つまり、これがヴィニエットの原義のようだ。ということで、「小葡萄」は、葡萄の実の小ささより、葉や弦を指しているのだろう。

Vignette
 ちなみに、新潮文庫の表紙も見てほしい(裏表紙も)。こっちは縁ではないけど、やっぱり葡萄の装飾画が付いている。以前の河出文庫もそうだった。なお、角川文庫や講談社文庫などは葡萄ではない。
 この葡萄柄縁取りの起源だが、ざっと調べると、書籍には中世からあったらしい。なぜ、中世でそれが採用されたのかは、よくわからない。
 そして写真加工の「ヴィニエット」だが、岩波文庫の表紙のように縁が葡萄模様のようになっているのが、その縁を暗くしたという比喩からのようだ。
自動車のフロントガラスに貼る証明シールが vignette と呼ばれる理由はよくわからない。フロントガラスの縁取りをするからだろうか? あるいは貼ってあるあの四角の紙に縁取り模様(というか罰金表記)があるからなのか。理由は、おそらく後者っぽい。

Vignet2
 ところで冒頭にもどって、英会話例のようなちょっとしたお話がなぜ、「ヴィニエット」なのか。はっきりとはわからないが、新潮文庫のように、ちょっとした印刷物の表紙に葡萄模様があることから、ちょっとしたお話という意味の延長のようにも思われる。
 語源辞書(etymonline.com)にはこう。

Meaning "literary sketch" is first recorded 1880, probably from the photographic sense.

 ほかケンブリッジ辞書にはこうある。

vignette
a short piece of writing, music, acting, etc. that clearly expresses the typical characteristics of something or someone:
 She wrote several vignettes of small-town life.

 そういうえば、英会話の例を昔はなんて言ってたかと思い出すに、「スキット」だったように思う。こちらの語源はと、調べると、これも意外に複雑そうだった。直感的には、Sketch comedyのようにも思うが、語源辞書には別の説明があった。

 

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2020.08.29

[映画] キャッツ

 映画館で見るつもりだった映画『キャッツ』だが、どたばたしているうちにコロナ騒ぎになり、忘れていた。オンライン・コンテンツに上がっているかと検索したらあったので、コロナ騒ぎが続くなか見た。よかった。
 それほど前知識なく見たので、映画向けに舞台物とは違ったストーリーとかになるかと不安な感じもしたが、そういう違和感はなく、なんだろ、こういうのもありかという安心感で見られた。つまり、お馴染みの曲ばかり、なのだが、"Beautiful Ghosts"は新曲なので、誰が作ったか調べたら、アンドルー・ロイド・ウェバーとテイラー・スウィフトらしい。ということで、色物というものでもなかった。
 さて、「よかった」には違いないのだが、とても妖しい作品だったと思う。もともと舞台でもけっこう怪しさがあるのだが、映画でCGばりばりにかけた半人半猫の肉体の美しさはちょっと常人の美観を超えるものがありそうに思えたというか、音楽につられてちょっとそっちに踏み込ませる倒錯感があったが、見慣れてくると、たまらん感に代わり、背徳感にときめくというか。特に、フランチェスカ・ヘイワードのバレエはやばいくらい美しく陶酔感のあるものだった。バレエとしてのはどっちかというと、古典的な動きなのだが、モダン・バレエの印象も受けたというか、この路線ってもっと極められるのかもしれない、でへへ、おっと。
 あと、個人的には、イアン・マッケランがつぼだった。なにやらしてもうまい爺さんだなあと思う。
 歌については、ミュージカル・ベースだし、これで十分いいのだろうけど、個人的にはもうちょっと保守的な歌い方のほうがよかったというか、ミュージカル的な点では舞台の良さがあるなと再確認もした。手軽なコンテンツでは、アンドルー・ロイド・ウェバーが手掛けた1997年アデルフィ劇場(参照)のがいいと思う。

 

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2020.08.27

新潮社の雑誌『波』2020年8月号に中島真志著『アフター・ビットコイン2』の書評を書きました

 連絡が遅れてしまいましたが、新潮社の雑誌『波』2020年8月号に掲載した、中島真志著『アフター・ビットコイン2』の書評がネット公開になっていました。『奇っ怪なマネーの世界』(参照)です。
 同書については、先日ブログにも書評的なものを書きましたが、『波』のほうは、一般向けに書いた比較的短い文章なので、よろしかったらお読みください。というか、該当の『アフター・ビットコイン2』はお勧めです。

 

   *  *  *

 現時点での余談のような話を以下に追記的に書きたい。
 本書『アフター・ビットコイン2』は、副題の《仮想通貨vs.中央銀行 「デジタル通貨」の次なる覇者》にも示されているように、各種の仮想通貨と各国政府の中銀行デジタル通貨の争いということで、民間と国家に大別される各種のデジタル通貨の便覧的なまとめとして読むことができる。
 が、本書は、そうした各種のバラエティをフラットにカタログ的に記述するのではなく、時代の潮流を変えた象徴としてのリブラを基軸に、そこに内包された重要性から、体系的に描いている。つまり、デジタル通貨原理から描かれているので、その本質がわかりやすい。そこが本書の真価であろうと思う。
 また著者はこの決済分野の実務経験が豊富なこともあり、いわゆるデジタル通貨技術という側面に加え、実際に決済として利用されたときの、大口と小口の関連についても詳細に描いている。端的に言えば、デジタル通貨という大きなくくりよりも、その運用面である決済に利用される大口と小口とい運用の差からデジタル通貨の実際を理解することも重要である。
 とはいえ。『波』掲載の書評では、あえて現在のデジタル通貨の薄暗い側面を中心に捉えた。この部分の興味深い点は、端的に言えば、特にビットコインの投機性である。
 デジタル通貨が決済手段であれば、価格が安定していることが望ましく、その安定性からドルなどと連動する「ステーブルコイン」が活用されるはずだ。が、現実には、投機性の高いデジタル通貨は投機の過程での一時退避・蓄積として「ステーブルコイン」が使われているようだ。
 あたかも、各国の金融規制から逃れるようにマネーが動く側面において、現在の民間のデジタル通貨が利用されている実態がある。
 これが、近未来、各国の中央銀行デジタル通貨の登場によって、一掃されるか、整理されるか。
 本書はそうしたダークサイドへの踏み込みは抑制的だ。にもかかわらず、こうした投機性の背景に、香港が重要な意味をもっているだろうことがかなりきっちり暗示されていて興味深い。
 あまり陰謀論めいた関心をひっぱりたくはないのだが、国家安全法をめぐる香港の動向の裏で、香港の金融、特にデジタル通貨の背景はどのようになっているのか、なにかしら薄暗いものはありそうだ。
 また、本書はまさに、デジタル通貨への大変動気の過渡期に書かれたことも、結果的に特徴となっている。すでに今月に入って、中国のデジタル通貨は香港を含め、グレーターベイエリアでの運用も視野に入てきている。中国デジタル通貨の動きは、西側諸国が新型コロナ騒ぎに囚われているなか、実に着実に進められている。
 日本のジャーナリズム的にはどうか。奇妙な期待論が浮かんでいる。香港は一連の騒動で金融センターの競争力を失い、そうした機能は東京に移るのではないかという期待論である。
 こうした話題をふかしたい気持ちもわかるが、東京が国際的な金融センターとなるとき、デジタル通貨の扱いの面で、どのように想定されているのか、像が結ばない。
 7月に経済財政諮問会議で示された『骨太方針の原案』にもデジタル通貨の記載が含まれているが、具体的なイメージはわいてこない。
 おそらく骨太は、7月の日銀の『中銀デジタル通貨が現金同等の機能を持つための技術的課題』(参照PDF)を背景にしているのではないか。そのわりに、同書は基本的にスマホベースの小口の技術論のように見え、日本政府や日銀動向からは金融センターとの関わりは見えてこない。この点はまさに、同書の結語の曖昧さが暗示的だ。

CBDC を巡っては、本稿で取り扱った決済⼿段という視点だけではなく、その発⾏が⾦融システムや⾦融政策に与える影響も含め、検討すべきテーマが多岐にわたる。社会の中銀マネーに対するニーズを的確に汲み取り、デジタル社会に相応しい中銀マネーのあるべき姿について、様々な視点から議論を深めていく必要がある。

 その必要性は、象徴的な言い方になるが、本書『アフター・ビットコイン2』が方向性をすでに示しているのである。

 

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2020.08.26

英語の "That sure is"文について

 「実践ビジネス英語」の例文に次の文があり、これ文法的にどうなっているのだろうかと、けっこう考えこまされた。

That sure is a big change from the belief that businesses serve the owners of capital.

 意味はさほど難しくない、というか、聞いただけで意味は受け取れるのだが、問題は、この"That sure is"文の文法がよくわからないのである。
 というか、これ比較的よく耳にするのだが、文法的によくわからない。気になっていた。この機会にググってみたのだが、よくわからない。とはいえ、考えるきっかけになったのは、Yahoo知恵袋の次の話題である(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13106147013)。質問者の文章はミスを修正して引用する。

This sure is your lucky day.という文がありました。これは元の文はIt is sure that this is your lucky day.ということでしょうか?倒置がおきてSure is this your lucky day.なのかとも思いますが、thisとisの間にsureが入るのはどういうことなのかわかりません。
そもそもの考え方が違っているのかもしれませんが解説をお願いします。

 回答はひとつあった。

 というより、sure に 文全体を修飾する副詞としての、ほぼ surely と同じ使い方がある、ということです
 ジーニアス英和大辞典によるとこれはアメリカ英語の略式の使い方とのことですが
  She's sure pretty.
 彼女は本当にかわい子ちゃんだ
 という例文がありました ちなみに She's a sure pretty girl. とはいわない ともあります あくまでも文全体の修飾ですね
 参考にしてみて下さい

 説明になっているのだろうか?
 surelyと同じなら、She's sure pretty.は、She's surely pretty.なのだろうが、これだと、Be動詞に後置しているから、該当の質問の答えてになっていないだろう。
 関連して、質問者の、It is sure that this is your lucky day. だが、これは基本的には英語では言えないようだ。sureではなく、certainなら言える。ただし、これも何故かはよくわからない。
 一般的には、I'm sureのように主語は人間であるべきだという説明はある。これを応用するなら、こうだろうか。

 That sure is a big change from the belief that businesses serve the owners of capital.
→I'm sure that it is a big change from the belief that businesses serve the owners of capital.

 しかし、これでは英語の文法的な説明にはなっていない。変形が理由付けできない。
 前後するが、surlyを使うなら、be動詞の後ろにくるはずだ。

→That is surely a big change from the belief that businesses serve the owners of capital.

 似た構文に "It sure is"がある。ロングマンではこう説明されている。

4 EMPHASIZE American English informal used to emphasize a statement
  It sure is hot out here.

 これはよく見かける。 It Sure does! などでも。
 構文的には、That と It は同じように見える。もともと口語なので文法の例外なのかもしれないが、なんらかの文法説明は可能だろう。
 いろいろ考えたが、わからない。考えていくうちに、このsureは後置の形容詞なんじゃないかという気がしてきた。something goodみたいな。

 

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2020.08.25

bellumという言葉

 こういう言い方はネットでは嫌われるだろうが、それなりに読書人というか教養人なら、一度くらいはこの格言を聞いたことはあるだろう。

汝平和を欲さば、戦への備えをせよ。

 ラテン語では、こう。

Si vis pacem, para bellum.

 si は 英語なら if (もし)。vis は velle (望む)の単数2人称。pacem は女性名詞 pax(平和)の単数対格。para は、第1変化動詞 parare の命令法2人称現在単数。bellum は中性名詞の対格(主格と同形)。
 シンプルに訳せば、こう。

君が平和を望むなら、戦争の用意をしなさい。

 意味については私はさほど関心がないが、ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ(Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne)の洒落が面白い。

Tout le monde connaît l'adage [...] Si Napoléon avait été une autorité en latin, il l'aurait probablement inversé en Si vis bellum para pacem (« Si tu veux la guerre, prépare la paix »).

 洒落になるほどこの格言は有名だが、出典はわからない。フラウィウス・ウェゲティウス・レナトゥス(Flavius Vegetius Renatus)の Igitur qui desiderat pacem, praeparet bellum.を言い換えたものだろうと言われている。
 さて、ブログに書いてみたいなと思ったのは、bellum という単語である。その点で、すぐに連想されるのは、ホッブズのこれだ。

bellum omnium contra omnes

 日本では、「万人の万人に対する闘争」と訳されているが、というか、誰が訳したのかも気になるが、原義は、「みんながみんなに対する戦争」である。
 気になったのは、bellum という字面は、bellus (美しい)に似ていることだ。というか、変化型では一致すらする。まさか、派生語、あるいは、語源が一致しているのだろうかと気になっていたが、調べずにいたので調べた。
 辞書などを引くと、duellum が音変化したらしい。そこで、duellum と聞くと、つい「デュエル」「対戦」とか連想するが、違うようだ。印欧語では、「燃やす」ということらしい。
 奇妙な変遷で、今ひとつ納得いかないこともあるせいか、bellumは日常語の英語語彙にはあまり影響していない。しいていえば、rebellionくらいである。あと、bellicoseやbelligerenceか。難語の部類のようにも思われる。
 だが、奇妙なことに、Antebellum は、日常語とはいえないが、高校卒業したくらいの米人ならみんな知っている。「南北戦争以前」という意味だ。米国史では、南北戦争の前後が大きな時代区分になっていて、その時代区分に使う言葉である。当然、postbellumもそれに対応する。
 不思議なのは、そのわりに、Bellum 自体が南北戦争という意味でもないし、単独では辞書にも載っていない。といった手前、Websterを引いてみると、あった、が、"a Persian-gulf boat holding about eight persons and propelled by paddles or poles"。ペルシア語balam由来の別語であった。
 もう一つ不思議なのは、英語の熟語として、"Interbellum Generation" というのがある。日本語の定訳語は知らないが、字義はすぐにわかる。「戦争の間の世代」である。で、この戦争なのだが、世界大戦を指している。南北戦争ではないのだ。
 "Interbellum Generation"の語源はわからないが、おそらくそれっぽく言ってみたの類ではないかと思うが、むしろ、Antebellum の由来が気になる。語源辞書(etymonline)にあたるとこうあった。

attested in that specific sense by 1862 (it appears in a June 14 entry in Mary Chesnut's diary)

 つまり、メアリー・ボイキン・チェスナット(Mary Boykin Chesnut)の日記である。南北戦争が始まったのは、1861年4月12日だから、一年後ほどだろう。まだ南北戦争は終わっていない。チェスナットがこの語をたまたま日記に充てたのがその後、定着したのか、彼女が別の何かで見かけたかはわからないが、おそらく前者であろう。

 

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2020.08.24

『はたらく魔王さま』の時代 リーマンショック後の1年

 『はたらく魔王さま』を全巻読み終えて、昨日のエントリ書いて、なんかとても大切なことを忘れているなと思った。一晩寝たら、思い出した。時代である。デフレが永遠に続くように思われ、そして東北震災が来ていない時代である。あの時代の、風景や人々の心情をよく描いている、と。
 物語の時間は、一年ほどではないだろうか。ヒロインの一人、佐々木千穂(アニメでは声・東山奈央)は、物語の初めでは、東京都立笹幡北高校2年生、16歳。ウィキペディアを見ると、「8巻で17歳」とある。最終巻近くでも受験生なので、せいぜい18歳くらいか。もっとも物語では回想や未来的な部分もあるが。
 リアルタイム時間では、2010年の第17回電撃小説大賞銀賞の『魔王城は六畳一間!』からなので、魔王が日本にやってきたのは、2009年としてよさそうだ。リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻したのが2008年9月15日。リーマンショックはその少し前から始まっている。ウィキペディアを借りると、日経平均株価も大暴落。9月12日(金)終値は12,214円は、10月28日には一時6,994.90円まで下落。余談だが、経済打撃がこれ以上のコロナ騒ぎだが、株価にはまだ影響が来ていない。リーマンショックで各国政府はインフレ政策を取って金はできるだけ流れるようにはしていた。
 第一次・安倍改造内閣がぶっ倒れたのが、2007年9月26日。福田康夫内閣が約1年、麻生内閣が約1年、終了が2009年9月16日。麻生さんなりに、リーマン対応をして力尽きる。政権交代して、鳩山内閣、菅内閣、野田内閣と、目まぐるしい入れ替わりが終了したのが、2012年(平成24年)1月13日。それから、自民党に戻り、石原伸晃内閣かと思われたが、事実上の麻生さんのクーデターみたいなもので予想外に第二次安倍政権ができたものの、今や日本史史上最長安定政権となり今に至る。
 話を、『はたらく魔王さま』に戻ると、つまり、この世界は概ね、民主党政権にあたる。そして、もう一つのエポックが2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震と福島原発事故。で、こちらは、『はたらく魔王さま』のあとがきにもあるが、扱わなとしている。それは、震災以前というより、震災のなかったパラレル・ワールド日本という含みとして捉えていい。
 つまり、『はたらく魔王さま』には、東北震災という日本史の事件はないのだが、まったくのパラレルではなく、風物はその時代に固定されている。印象深いのが、バスタ新宿のない新宿である。というわけで、この物語の新宿南口の描写はとても郷愁を誘う。とはいえ、バスタの起工は、2006年4月8日。完成までに10年というところだったが、なんだか、当時は永遠に工事してなんあという印象があった。そういえば、新宿駅も中が通り抜けできるらしいが、コロナ籠もりで行ってないな。
 『はたらく魔王さま』の時代背景で特徴的なのは、携帯電話である。ヒロインの一人、遊佐恵美(アニメでは声・日笠陽子)は「ドコデモグループ」のお客様相談センターの契約社員になっている。ここでスマホの歴史を振り返ると、日本でiPhoneが出たのは、2008年(平成20)年のソフトバンクから。ドコモがiPhoneを出したのは、2011(平成23)年。このあたりから、「スマートフォン」の呼称が現れる。つまり、『はたらく魔王さま』はこの過渡期にあたる。
 魔王は日本では、しばらく携帯電話を持っていない。購入したのは13巻で、「ドコデモ」SIMフリーの「スリムフォン」だが、まあ、2011年のスマホでよかったか。再読時に確認したい。なお、魔王の日本の初期設定年齢は20歳。バイトに明け暮れるが、就職氷河期の大学生という世代ではない。
 というわけで、概ね、2010年から2011年の日本の風景を『はたらく魔王さま』はよく描いていた。ラノベはいずれ史料となるのだろう。
 ここでは風俗的なエポックを抜き出したが、史料のメインとなるのは、マクドナルドなどのバイト労働者や、携帯のお客様対応契約社員の生活風景だろう。
 ラノベといえば、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の刊行は、2011年3月18日から2019年11月19日。物語時間は、2011年から始まるとしていいだろう。1年間の出来事だ。リアル日本で言えば、東北地方太平洋沖地震と福島原発事故の世界だが、そうした風景は見えない。携帯電話はガラケーからスマホに以降していく。
 『はたらく魔王さま』とほぼ同時代日本設定だが、こちらが無残な改編アニメ化だったのに対して、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は比較的ラノベに沿って(というか作者が声優指導に入っているらしい)、2020年時点の完結となったので、映像的には風俗が微妙に変化されているようにも感じられる。

 

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2020.08.23

[書評] はたらく魔王さま(全26巻)

 ようするに、『はたらく魔王さま』全26巻を読み終えた。25巻分は読み終えていていたが、最終巻がこの8月7日に出ていることを知らなかった。なにかとしつこく本をお勧めしてくるアマゾンだが、急いで読みたいラノベの次巻の情報などはないものだな。
 今、「最終巻」と書いたが、21巻で終わるとは知らなかった。あと、少なくとも2巻はあるだろうと思っていた。が、20巻が出たのが、2019年1月。1年半ぶりくらい。その前の19巻が2018年10月。実は、打ち切りもあるかなとはなんとなう思っていたので、とりあえず、終わりまで書き上がったことを喜びたい。
 最終巻だが、率直に言って、打ち切り感は拭えない。ただ、放り出した感はなかった。最後の決戦とエピローグが交互に書かれるという構成は、壮大な物語が終わることを考慮していのことだろう。おそらく本来は、メインストーリーとエピローグ巻で分かれるはずだったのではないか。
 物語の未消化感もある。アマゾンの読者コメントを見ると、エンディングに選ばれたヒロインでブーイングがあり、たしかにそれもわからないではないとは思う。ここはネタバレになるので書かないが、この作品のエンディングもありだろうし、理詰めに考えてもそうだろう。というか、おそらく青春を超えた恋というのは、こういうちょっと微妙な男女関係の情感を引きずることがある。自分の一番の理解者が別れた恋人ということもあるものだというか(僕はないけど)。
 私としては、未消化感に思えたのは、なぜ魔王が人間社会で「はたらく」のかという詰めである。そこをきちんとして欲しかった。とはいえ、これは、最終巻まであらかた語られているが、ようするに人間社会の統治形態は分業・勤労によるという単純なことの深淵な意味合いである。
 あと、ファンタジー的には、まぜ魔王が生じたのか、悪魔たちが生じたいのか、については、作者側で練り込んだストリーがあったはずだが、出てこなかった。謎を解く鍵はすべて書かれているが、きちんと書き込んでほしいようには思えた。
 ところで、この作品、メインストーリーの巻と全巻のずれはサイドストーリーになるが、これがけっこう面白い。サイドストーリーはメインなくして存在できないのだが、文学的にはサイドストーリーの短編に佳作が多いように思えた。
 作者としては、もしかすると、トラウマ的にへとへとで終えた作品かもしれない。アニメ化も作者側としては、かなりきつかっただろうと同情する。
 個人的には、メイン側のストーリーよりも、サイドストーリーをもう1巻書いてほしい。アムス・ラムスが17歳になった作品である。なぜそれを期待するかは、この作品を全巻読んだ読者の多くが、説明なく同意してくれるだろうし、たぶん、作者にも伝わるだろう。
 慌てていない。いつか、その物語、17歳の娘が別の女性と暮らす父親をどう思うのか、をもう一つ、読みたい。

 

 

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2020.08.22

[映画] アナと雪の女王2

 前作が良かったので、続編の『アナと雪の女王2』も見た。
 とんでもない作品だった。何が、メッセージ性がである。ディズニー作品なんて、資本主義のイデオロギーや、甘ったるいリベラルな正義感を売り物にした程度の作品だと思われがちだが、実際には、けっこう過激なメッセージ性を持っていたりする。前作のアナ雪もそういう面がある。が、この作品は、うぁあやっちまった感が、パない。
 実は、最初見出したとき、40分くらい見たのに退屈で睡魔に襲われたので、気を取り直して最初から見直した。ところ、あれ?と驚くようになった。どうも、かなり脚本が練り込まれている。言うまでもなく、映像はかなり美しい。
 この作品は、ありがちな続編かと思っていたのだが、きっちり前作を継いでいる。最初からこういう構想があったのだろうか? 軸になるのは、「なぜ、エルサに魔法の力があるのか?」である。別の、結果的に言えば、アナとは何か?でもある。少し知的に言うなら、王権とは何か?である。
 以下、どうしても、ネタバレを含まざるを得ないので、ご注意。

 主題は王権とは何かであるが、そもそも、近代世界における王権というのは、先住民の駆逐によって成り立っている。いや、正確には駆逐というより、その殺戮や収奪の悔恨の調和と言ってもいい。
 そして、この悔恨は、近代王権が文明化することの鏡像として、被害側の民族は自然との調和として描かれがちだ。
 という点で、この物語は、まさに、ありきたりなテンプレートで成り立っているとも言えるのだが、その調和というものを王権側に引き寄せるとき、さらなる暴力が露出してくるというのが、私の唖然であった。
 露骨に言えば、ダムをぶっ壊せである。それも、暴力的にぶっ壊してしまえというものだ。こんなのありだろうか?
 奇妙な連想だが、この8月、密かに関心を寄せていたのは、三峡ダムの決壊であった。おそらく中国政府にとってコロナ騒ぎでどころではない国家危機なのではないか。で、思ったのはあれが壊れたらどんな世界が出現するのだろう?
 もちろん、ダムは象徴であり、それぞれの王権がそれに類した象徴を持っている。それらを壊すと何が起きるのだろうか?
 このディズニーの物語では、王権が自然と先住民をつなぐ精霊を姉妹として描いていたが、そもそも王権というのは、古代においてはそういう性格を持っていただろう。
 物語の終わりで壊されたダムは破壊的な放水を始める。この物語は新しい調和だから、街を破壊しない。そもそも王権の物語だろう。だが、三峡ダムの崩壊はあの国家を壊すかもしれない。いや、この物語が対中国の暗喩だということはない。
 日本には、天皇がいる。まあ、ぶっちゃけて言えば、天皇は、天災と民を調和させるものだ。東北震災では、上皇が即座に動いた。新型コロナ騒ぎも天災と認識されれば、天皇が動くだろう。私たちの国家も、こうした神話性を未だに内包している。

 

 

 

 

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2020.08.21

[映画] 未来のミライ

 細田守監督のオリジナル作品第5作である。つまらないわけもないだろうと思って見始めたのだが、つまらない。
 少ししたら面白くなるだろうと期待していたが、いつまでたってもつまらない。タイトルともなっている「未来のミライ」が登場してもつまらない。
 幼い子供のいる若い夫婦の生活のディテールの機微のようなものを描いていて、そうしたディテールこそにこの作品の真価があるのだ、ということなのかもしれないが、つまらないことに変わりはない。
 見るのが苦痛になってきて、1時間くらい見て放り出した。
 その後、ふと思い出して、とりあえず終わりまで見るかと、続けて見た。つまらない。が、心に引っかかるものが現れる。ああ、そういうことかと気がつく。
 興味を取り戻して、とりあえず、最終まで見る。さほど感動はない。
 そして、あれだ、翌日、目が覚めて、感動した。
 なんだろ、そうなのだ、あの、胸にギューンとくるあの情感なのである。というだけでは、お話にならない。
 先に書いた「ひっかかるもの」は、根岸森林公園の廃墟である。これが何であるかの明示的な説明は映画にはないが、映像的な指示性は与えらていて、これが過去をつないでいる。仮説的に言えば、あの廃墟は戦前の競馬場の名残であり、そこが主人公の祖父をつないでいる。
 簡単にいえば、人が生きる土地には、土地の記憶というものがある。土地側に人をつなぎとめる記憶があるのだ。この記憶は人々の無意識のなかに風景として自然に入り込んで、人々の生活の営みのなかで意味が反照されて、重ねられていく。
 通常、「私」が家族の物語の構成要素であるのは、家族の歴史が、土地の風景に織り込まれているからだ。そして、これは未来にも続く。この物語の主人公は磯子から未来の東京駅にも辿り着く。
 私たちは得てして、家族の物語や、日本人といった民族の物語で自分を描きたがる。それに郷土史を加えても、それは私たちの家族史を離れて自立するかのように思えることもある。しかし、風景の側の記録は私たちがその土地で生活した記憶そのものなのである。生活するということは、この風景のなかに織り込まれていくことなのだ。
 それはふるさとを愛するというのでもない。私たちの個の意識は、風景の情感のなかで人々に繋ぎ止められている、その情感なのである。
 そのことが、そおらく18歳の少年に芽生えた。細田守本人であろう、52歳の男のなかで、さらに育児体験を通して、その情感が生じたとき、家族の視点が自身に仮託された4歳であった。そこで最初のきずなとして家に結び付けられたのが、未来のミライという兄弟であったのだろう。

 

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2020.08.20

ヘンデルは、ハンデルなのか?

 メサイアで有名な、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel)は通称、ヘンデルというが、こうするとなんとなくドイツ人のようだが、メサイアが英語であることからもわかるように、ヘンデルは英国人なのである。彼は英国に帰化した。で、英国人名に、ウムラウトのついた Händel はないだろう。英個人として、ジョージ・フレデリック・ハンドル(George Frideric Handel)じゃないの、と思っていた。
 どうも微妙に違うとも言えそうだ。
 ヘンデルの来歴を簡単にまとめてみたい。 
 ヘンデルは1685年2月23日、ドイツ中部のハレで生まれた。ちなみに、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が生まれたのは、同年、1685年3月31日、アイゼナッハである。一ヶ月くらいしか違いがない同時代人である。ハレとアイゼナッハはロードマップ的な距離では200キロくらい。東京から静岡くらいの距離だろうか。
 バッハはご存知の通り音楽家の家系だが、ヘンデルの父は外科医兼散髪屋というか当時は外科と散髪は同じだった。ヘンデルはたまたま音楽が好きでかつ得意だったらしいが、領主に音楽の才能を認められて音楽の道に進めた。
 1710年、25歳でハノーファー選帝侯の宮廷楽長となり、初めてロンドンを訪問したことをきっかけに、1712年からロンドンに住み着いた。
 スチュアート朝最後の王であるアン女王が1714年に死去し、ハノーファー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世となる。彼は終生英語が喋れなかった。ヘンデルとは仲が良かったらしく、ヘンデルは1727に英国に帰化した。彼の音楽関連の周りは英語が主流だっただろうが、彼自身はジョージ1世と同じく、ドイツ語話者であありつづけたのだろう。どうやら、そのころ、Händel のウムラウトが英語表記上取れて、ハンデルと呼ばれるようになったが、彼自身はそれを嫌って、Hendel と綴ることもあったようだ。このあたりの裏がいまいち取れないが、おそらく、ヘンデルはヘンデルでよさそうだ。
 ジョージ1世だが、故地はハノーファーなのでなんども出かけ、最期もその旅だったようだ。そこで、ハノーファーのライネシュロス(Leineschloss)に埋葬されたが、第2次世界大戦時英国がここを空爆して破壊した。どういう経緯なのかわからないが、現王家の故地という意識はなかったのだろうか。いずれにせよ戦後、ヘレンホイザールに移葬された。つまり、ジョージ1世が英国に戻ることはない。
 ジョージ1世からジョージ4世までジョージで続くが、英語をしゃべるのは3世かららしい。そして彼が、1815年にナポレオンの影響を廃して、ハノーファー王国を復興している。これが普墺戦争の1866年まで続いていた。明治政府ができる2年前である。
 ジョージ1世の系譜であるハノーヴァー朝は、第一次世界大戦をきっかけにウィンザー家となり、現在も続いている。つまり、ずっとドイツ系の王朝だったが、面白いことにこの間ですら、司法の言語はフランス語が続いていたようだ。
 言語的に見れば、英国の王権や統治機構は庶民と乖離していたので、英国というアイデンティティが形成されたかのようにも見える。

 

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2020.08.19

[映画] 聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会う旅

 私も若い頃、アイアンガーヨガを学んでいた。直接、B.K.S.アイアンガー師に学んだことはないが、インストラクターはみな直に学んだ人たちだった。それ以前に、ヨガ・ナンダに関係するヨガを学んでいたこともある。
 ヨガや初級のインストラクター養成コースも取ったことがあるが、それほど傾倒もせず、今もヨガを続けていない(難病でできなくなった面もあり)。とはいえ、近代ヨガ成立の経緯については関心を持っていて、B.K.S.アイアンガーの師匠、T.クリシュナマチャリアについても知っていたし、彼に由来するヨガのインストラクターから学んだこともある。
 この映画はそのあたりの経緯を整理した内容になっていた。
 物語ではないからネタバレということもないが、結論から言えば、T.クリシュナマチャリア自身にはハタ・ヨガの系譜はないようだった。むしろ、T.クリシュナマチャリアの独創だったっぽい。そして驚くことに、彼に学んだB.K.S.アイアンガーもT.クリシュナマチャリアを継いでいるというよりは、大半が彼の独創だったらしい。つまり、アイアンガーヨガも歴史起源はなく、T.クリシュナマチャリアのヨガも起源はなさそうだ。
 二人は縁故関係にあったようだが、親しいということもなく、むしろ反目しているようだった。
 B.K.S.アイアンガーは、2014年、95歳で亡くなった。映画は2011年に作られたもので、映像も2010年頃だろう。いずれにせよ、アイアンガー師は90歳を超えているのだが、この映像からは矍鑠とした様子が伺える。
 アイアンガーヨガについては、『ハタヨガの真髄』に網羅されてるとも言えるが、今回の映画でも思ったが、実際のエッセンスはどうもいわゆるアイアンガーヨガとして教えられているものと違うようにも思う。緩やかなアサーナの継続で緊張を解くのがけっこう重要で、その感覚が基礎になるようにも思うのだが。そういえば、クリシュナムルティもアイアンガー師にハタヨガを学び、自身も学生に教えていた。かなり繊細な教え方をしていたようだが、詳細がわからない。
 そういえば、『ハタヨガの真髄』や『ヨガ呼吸・瞑想百科』でも、いわゆる八支則についてはあまり詳しく触れられていない。八支則が実際にはどのようなものであったかも、自分なりに探ったことがあったが、わからない。
 とはいえ、私自身、ヨガに関心を失ったものだなというのも、この映画で思ったことだった。

 

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2020.08.18

[書評] なぜ気功は効くのか (岡崎久彦)

 2012年に出版された『生涯現役の知的生活術』という本を読んでいた。まあ、私もどんどん老人になっていくので、参考書にでもなるかなと思ったのである。謳い文句には、「人生の仕上げの黄金時間の極意。達人13人(平均年齢81歳)が明かす、ボケず、ネタまず、
のびやかに生きる1053歳分の知恵!」とある。13人は以下のとおりだが、


三浦朱門(日本藝術院院長)
渡部昇一(上智大学名誉教授)
小野田寛郎(小野田自然塾理事長)
千玄室(茶道裏千家前家元)
東城百合子(『あなたと健康』主幹)
渡辺利夫(拓殖大学総長・学長)
江口克彦(参議院議員)
伊藤隆(東京大学名誉教授)
屋山太郎(政治評論家)
小川義男(私立狭山ヶ丘高等学校校長)
村上和雄(筑波大学名誉教授)
岡崎久彦(元駐タイ大使)
曽野綾子(作家)


 どのくらいご存命か、この機にざっと調べてみた(間違っているかも)。すると。


千玄室(97)、渡辺利夫(81)、江口克彦(80)、伊藤隆(87)、屋山太郎(88)、小川義男(90)、村上和雄(84)、曽野綾子(88)。


 みなさんご健在ということで、正直、すばらしいことだと思う。
 それはさておき、この本を万全と読んでいて、え?と思ったのは、岡崎久彦であった。祖父の岡崎邦輔は陸奥宗光の従弟というサラブレッド感もだが、普通に現代日本の国際政治で重要な人物である。サウジアラビアとタイ王国で特命全権大使を歴任し、また外務省で情報調査局長を務め、国際関係の著作も多い。ただ、いろいろ左派や右派から誹謗に近い批判もされている。
 その岡崎だが、この本で気功の話をしている。なんだそれ?と思った。渡部昇一が真向法で元気というのと、ちょっと次元が違う。オカルト?という印象もあるからだ。
 とはいえ、完全に向こうの世界に行っているわけではない。


 私は日常では、健康の話は問われない限りはお話しないことにしている。


 気功というオカルトみたいなものについて、語ることの問題点は十分理解されていようだ。とはいえ、「近代科学で説明できないこと」「超能力者はいたるところにいる」となると、なんだかなとは思う。本人としては、60歳過ぎて、気功のおかげで、15年風邪も引かない、感染症も患ったことがない、となると、人の関心は向く。
 ので、調べてみると、『なぜ気功は効くのか』という快著があった。怪著というべきかもしれない。
 もう絶版のようで古書で買って読んでみた。
 率直にいうと、大した話はなかった。岡崎先生がオカルトで行っているというわけでもない。
 気功の鍛錬を毎週していたということで、私から見れば、ようは呼吸器系関連で健康に継続的に留意していたら健康だったというだけのようだ。
 それにしてもという思いもあるが、彼が気について傾倒したのは、というか、勧めているのは、藤平光一である。名前だけは聞いたことがあると思って調べてみると、中村天風の弟子筋であった。このあたりの昭和の変な人脈には以前は関心はもったものだった。
 


  

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2020.08.17

ジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)について

 英文法史におけるジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley)については、一応留意はしていたが、ロバート・ラウズ(Robert Lowth)ほどの重要性はないと思っていた。が、言うまでもなく、プリーストリーは化学者として有名で、ふと化学と英文法書の関係が奇妙に思えた。まあ、博学な人であっただろうし、プリーストリーの英文法はラウズとは異なり記述的ではあったしと思っても、考えなおすと奇妙に思えたので、少し調べてみた。意外にもウィキペディアにこってり情報があった。
 まず、プリーストリーについて今高校の世界史で教えているだろうかと気になった。手元に山川があるはずだが、たまたま見つからず。代わりに、山川の英語版があったので索引を見たがなかった。
 ウィキペディアを覗くと、プリーストリーの項目はあり、英文法についての記述もあった。

ダヴェントリー時代の友人らの尽力もあり、1758年にチェシャー州ナントウィッチに移ることになり、以前よりは幸せになった。会衆は彼の異端性をそれほど気にせず、首尾よく学校を開設できた。当時の他の教師とは異なり、生徒に自然哲学を教え、実験器具まで買い揃えた。当時入手可能だった英文法の教科書の質に失望し、自ら The Rudiments of English Grammar (1761年、直訳すると『英文法の基礎』[14])を書いた[15]。独創的な英文法の説明(特にラテン語の文法と切り離した点が重要)により、20世紀の学者に「当時の最も偉大な文法家の1人」と評されることになった[16]。その文法書を出版し、学校も成功すると、1761年、ウォリントン・アカデミー (Warrington Academy) から教師として招かれることになった[17]。

 概ね十分な説明のようにも思えたし、いわゆる定説でもある。ただ、間違っているというわけではないが、この説明に私はけっこう違和感を覚えている。ちなみに、英語のほうの項目はどうかと見ると、同じ内容だったので、この日本語の説明はおそらく英語項目の和訳なのだろう。
 さて、当のプリーストリーなのだが、一般的には、酸素の発見者として知られている。が、彼はこれを「dephlogisticated air」(脱フロギストン気体)と呼んでいたように、フロギストン説に立っていた。
 プリーストリーの側からすると、1775年に同説"Experiments and Observations on Air" をロンドン王立協会に提出。これを彼は、発見年である1774年にアントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)に話していたらしい。文書については、ラヴォアジエの妻が翻訳したらしい。
 ラヴォアジエは翌年の1775年に、酸化水銀加熱の研究から、これとある気体と結合することで酸が生じるとして、酸を生み出すもの「oxygène」 オクシジェーヌ」を名付けた。この気体自体は、プリーストリーの発見が1年早く、話の経緯からも、酸素の発見者はプリーストリーとされている。とはいえ、スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレ(Carl Wilhelm Scheele)が1773年にこの気体を「傷んだ空気」として先行して発見していたが、論文提出が1775年であった。総じて、酸素の発見者は、プリーストリーとして妥当のようには思われる。異説もあるだろうし、そもそも発見者とは何?というやっかいな問題にもなる。
 ところで、時系列を見るまでもなく、プリーストリーが化学者としての名声を得る以前に文法書が書かれていることになる。どういうことか。
 彼の知的な経緯としては、まず、非国教会で非カルヴァン主義の神学者であった。自然科学的な合理主義と神学の融合だったようにも見えるが、当初の神学的な位置づけはよくわからない。こうした神学者から自然科学の教育者として文法に関わった。
 その後教育者としては歴史学に専念していき、自然科学研究にも専念する。他方、1767年にはリーズに引越し、ミルヒル礼拝堂の聖職者となっている。妻帯である。神学的には、ユニテリアンと見られている。後に彼の神学は、トーマス・ジェファーソンに影響していく。ジェファーソンはプリーストリーが後年米国に亡命したときも支援した。
 1773年にウィルトシャーのカルネに引越。以降は著述家と自然科学実験にも関わり、「酸素」の発見に至る。
 彼のごちゃごちゃした人生で最大の事件は、1791年のバーミンガム暴動だろう。非国教会信者への大衆攻撃で、彼はその被害の中心にいた。フランス革命への反発と見てもいいようだ。そういえばラヴォアジエはフランス革命の影響でギロチンで死刑されている。
 この関連でエドマンド・バークが出てくる。彼の『フランス革命への省察』(Reflections on the Revolution in France)を著したのは1790年で、そこにはプリーストリーへの批判も含まれていた。もちろん、これバーミンガム暴動の直接要因というわけでもないが、クラレンドン法典の廃止めぐる対立などもあった。プリーストリーへの敵対活動は激しくなり、最終的に米国に実質亡命することになった。プリーストリーは、1794年から10年ほどペンシルベニアで暮らし、その地で死去した。
 プリーストリーはいかにも自然科学的な合理主義者であり、合理的な神学者という印象になるのだが、実際には、彼独特の千年王国主義者であり、その到来の兆候としてフランス革命を捉えていた。わけがわからない。素朴な印象を言わせてもらえば、いかれてるんじゃないのという感じがする。

 

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2020.08.16

ディズニー『くるみ割り人形と秘密の王国』と黒人

 ディズニー映画の『くるみ割り人形と秘密の王国』を見た。簡単に言うと、つまんなかった。心になんにも残らなかった。でもないか。すごく美しいバレエもあった。
 とはいえ、これ、子供が見たら、トラウマになるんじゃなないのかと心配になった。CGが過ごすぎて、悪夢レベルだった。というか、悪夢を見ているようなジーンとくる感じがあった。それも面白いと言ってもいいのかもしれない。
 役者はよかった。映像も美しかった。音楽もバレエもよかった。減点法で見ていくと、満点取れそうだし、お金払っただけのもののを見せてくれるのは、いつものディズニーである。ただ、全体的につまんなかっただけだ。
 恐怖以外にもう一つ気になったことがある。黒人である。数は多くはないのだが、黒人が目についた作品だった。
 とはいえ、モーガン・フリーマンについては、特に黒人と思わなかった。というか、まあ、そう思うこと自体少ない。別段、彼がそう呼ばないことを願っているというのに従っているわけではない。見慣れているからだろう。
 ジェイデン・フォウォラ=ナイトについては、ああ、黒人だなと思った。このあたりは、ディズニーの気配りを感じた。ただし、配役上、黒人だからということはなんもなかった。オーディションを公平にしたら、こうなったみたいな。
 むしろ、風景に近いモブ的な登場者にさりげなく黒人を混ぜているのはなんだろうと思い、そして、その瞬間、そういえば、イギリスには中世以前から黒人というか、色の黒い人がいたのだったなと思い出した。高校生のとき、なにかの本(英語だったと思う)で読んだのだった。
 ぐぐると、BBC「あなたが、そしてイギリス人も知らないかもしれないイギリスの黒人の歴史」というのがあり、こうあった。

 「イギリスにはローマ時代から黒人がいたのは分かっている。具体的な事例もある」

 チューダー朝時代には何百人もの黒人移民がイングランドに住んでいた。チューダー朝と言われてピンとこなければ、それは1500年代のことだ。

 このあたりのことを、この映画も考慮しているのかとも思った。が、原作のエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンはケーニヒスベルクに生まれたもので、映画のお城などもそうした背景からだろう。
 さて、一番大切なことを忘れていた。黒人がどういう文脈ではない。ミスティ・コープランドである。圧倒的に美しかったのだ。彼女のバレエだけでも十分ではないかとすら思った。

 

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2020.08.15

[書評] 教養としての世界宗教史 (島田裕巳)

 『教養としての世界宗教史』は、たまたま見かけて手に取ってみた。そのときの思いは、こういう物騒な本を出すのは著者さん、勇気があるなあという思いだった。ぱらぱらと読んでいると、私のような者ですらツッコミどころ満載なので、これはさぞやアマゾン評では荒れているのではないかと思ったら、そもそも星は3つしかなく、評1つだけだった。その評に「宗教本を数多く刊行している著者が、いろいろな自分の著作を再編集してまとめ直した本」とあったが、これは、出版社がまとめた本だろうか。

 

 それはさておき、まあ、ツッコミは野暮だなあと思って読んでいくと、それなりに面白い本だった。なかでも、面白かったのが、仏陀非実在説が説かれていることだった。これ、私も長いネット歴でたまに語ってきたが、非理性的な批判が殺到するネタである。本書では、『新アジア仏教史02』「第2章原始仏教の世界」(並川孝儀)をベースにしている。並川氏が仏陀非実在説を説いているわけではないが、島田の受け止め方は妥当なところだろう。

 最初期の原始仏典において、ブッダということばが、固有名詞ではなく、普通名詞として使われ、しかも複数形でも用いられたということは、並川はそうした言い方はしていないものの、ブッダは実在しなかったと述べているようなものである。仏教という宗教は、ブッダという一人の人間の宗教体験から発しているわけではない。この指摘は、極めて重要で、かなり衝撃的なものである。

 さて、ツッコミは野暮だが、それに非難の意図もないが、気になった点をざっと列挙しておきたい。
 三位一体について。《この教義においては、父と子と精霊が一体であるとされる。だが、三つの異なる存在に聖性を認めるということで、その考え方に多神教的な側面を見出すことができる》。問題は、「三つの異なる存在に聖性を認める」というと、聖性を三つとしてないと、この文脈の意味が通らないことだが、これは、単純に間違いだろうと思う。三位一体というのは、一つの本性(聖性)に三つのペルソナがあるということ。で、むしろ、一神教の基礎になる。まあ、私の理解も違っているかもしれないが。
 ユダヤ教の説明で、創世記が注目され、これをオリエント神話の一形態のように扱っているが、これはトーラーに含まれていることから明白なように、法であり、法源を示すもの。なので、天地創造については、二証言併置されている。が、同書だと、トーラーを字義から「教え」としているので、基本的な誤解があるように思える。

 「創世記」はもちろん、トーラー全体がユダヤ人の神話である。

 それも個人的見解としてはそれでもいいのかもしれないが。
 ユダヤ教はどのようにできたかだが、明確には触れられていなかった。というのも、アンフィクチオニー(Amphiktyonie)について言及がなかった。このあたりは、私は大学で並木浩一先生に学んだあたりで、懐かしくもあった(余談だが、懇意にしていただいた)。
 キリスト教の成立にもほぼ言及がない。パウロ書簡と福音書の関係も、擬似パウロ書簡の言及もなく、ぼんやりした印象を受けた。そういえば、公会議と教義については触れているが、信条についての言及はなかった。
 キリスト教聖職者の妻帯禁止だが、キリスト教全体像のなかで語られると奇妙な違和感があった。史的には第2ラテラン公会議ごろ以降のカトリックの話だろう。
 プロテスタントについては、最初に「宗教改革」を持ってきているので、中学校の歴史的な印象を受けた。とはいえ、プロテスタントをどう記述するかは難しいだろう。
 イスラム教については、細かいツッコミはさておき、イブン・タイミーヤとモンゴルの話は面白かった。これをワッハーブにつなげている説明は、面白いが、私には評価できない。
 大乗仏教については、バランス的にもう少し説明がほしいところだった。特に、ユーラシア史における観音信仰などは重要になるはずだ。が、いわゆる経典ベースの話に終始していた。
 禅の言及もほとんどなかった。特に宋朝の禅は日本への影響も大きいのでもう少し説明があってもよかっただろう。
 インドでの仏教消滅といった話題はあったが、近代においける神智学との関係の言及はなかった。オカルト史のようだがけっこう重要な論点であるだろうと思う。
 ベトナムの仏教についてそれが大乗仏教である指摘はあったが、わずかだった。本書に指摘はないが、ティク・ナット・ハンは臨済宗であったと記憶している。ヴェトナムの仏教はマインドフルネスなどの文脈に置かれているが上座部ではない。
 葬式仏教への言及は島田氏を思うと意外に少なかった。日本の葬式は儒教と言っていいが(位牌とか)なぜそうなったかという江戸時代の文化史的な説明はもう少しほしいところだ。余談だが、なぜ七福神信仰があるのか、現代日本ではわからなくなっているだろう。
 意外にツッコミ的な話が膨らんでしまったが、本書の「おわりに」では、長寿社会における宗教というテーマは興味深かった。別途著作があるのだろうか。

 

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2020.08.05

スマナサーラ師の教えを聞いて

 アマゾン・プライム・ヴィデオにスリランカ僧アルボムッレ・スマナサーラ師の講話が何本か入っているのをたまたま知って、そのときは、こうした宗教物がプライム・ヴィデオに入るのはいやだなと思った。私は宗教宣伝のメディアなど見たくもないからだ。他方、でも、スマナサーラ師についてはネットでも人気だし、世相を知るにはいいかと思って、聞いてみた。一橋大学での数年前の講演だった。
 聞いてみてどうだったか。とても、よかった。宗教ではあったが、宗教臭いということはない。考えてみれば、NHKでもけっこう宗教番組はあるし、こういうものがプライム・ヴィデオに入っていてもいいだろうとは思った。
 それで関心は終わるはずだったが、何か、それもあとから気がついたのだが、何かとても重要なことが心に残った。うまく言えないので、その法話をまた聞いた。やはり、心に引っかる。なんだろうか? 真の仏教? 自分のような人間が信仰心に目覚める? というのではないことはわかった。師の講話には輪廻転生も出てくるが、そもそも無我の仏教で輪廻転生というあたりの話は一見矛盾にも思える。が、師の法話はいわば便法なのだというのもわかった。
 著作はと気になってみたら、率直に言って、山ほどあった。しかも、アマゾン・アンリミが多い。というわけで、手当たり次第に読んでいろいろ、わかったというか、思った。一番、驚いたのは、師が日本で道元の研究を研究をされていたことだ。また、日本語は卑近にユーモラスに語られるが、英語は完璧で、実際、学問的にも仏教学の博士としても優れている。立派な学者さんでもあった。
 さて、その心のひっかかりについては、なんとなくわかったが、あえて今は書かない。書かないで自分でも忘れたらそれはそれとして、それに近い、3つの気になったことをここは書きたい。

1 植物は一切衆生に含まれない
 いくつかの書籍で語られていたが、いちばん明瞭なのは、『ブッダの質問箱』だろうか。仏教では、植物も大切にするが、生命(衆生)という枠には入れないというのだ。
 え?と思った。
 率直なところ、それは私は考えたこともなかった。キリスト教など西洋の宗教では、人間と動物を分けたらり、動物でも魚は別だとか、奇妙なこと言うものだと思っていた。仏教では、一切衆生は、人間と他の動物の差もない。魚も鳥も差もない。そして、当然、植物にも差はなく、さらにいえば、石ころですら差はないというふうに私は理解していた。道元的な考えでは、一切衆生というのは、宇宙の全存在の全体性を指すと理解している。で、個別性は「我」であり、初存在によって「我」の意識は異なるかもしれないが、すべてが相互存在だと理解していた。
 スマナサーラ師は、植物は生命という枠に入れないとしていた。どういう理路なのか、経典的には私には理解できないが、いつくか雑見した印象では、「食ううか食われるか」という視点が強調されていた。つまり、生物というのは、いつ何に食われ死ぬかわからないという恐怖とその苦のなかで生きているというのだ。そして、生物は他を食って生きていもいる。植物は、他を食わないというのだ。
 もちろん、それを別の観点から否定もできるだろうし、植物が生命(衆生)ではないなら、細菌はどうか、ウイルスはどうかという珍妙な話にもなる。が、それでも、植物というのが、諸生命に食われるいわば慈悲のような存在である捉えるのは、少し驚きだった。
 自分については、子供の頃からか、あるいは子供だからなのか、植物の心がわかるような感覚があるので、個人的には、スマナサーラ師のこの説法については感覚に合わないが。

2 仏教は社会の具体的な問いに答える
 スマナサーラ師は、夫婦仲の悪い夫婦の問題に、実用的に答えるとしていた。それだけ見れば、我が邦の寂聴師も似たようなものだが、スマナサーラ師のその思いの裏にあるのは、サンガ(仏教徒集団)は社会の奉仕(つまるところ乞食の原義)で成り立つのだから、恩返し的に社会の役に立たなくてはならない、というのだ。なるほどね。
 そうして僧が社会の諸問題に実用的に答えていく過程で、社会の側から、仏教的な究極的な問いかけがあるとき、それに仏教できちんと答えるというのだ。
 これは、さすがだなと思った。日本の僧侶もそうあるべきなのだろうとも思ったが、特段、日本の僧侶にそれを期待もしない。

3 仏典を疑う
 スマナサーラ師の個人的な特質なのかもしれないが、若くして僧となっても、仏典に疑問点があれば疑っていたという。仏陀の正伝承でも疑問点があれば疑っていたという。そして、疑い抜いて、疑問もなくなったという。率直に言って、すごいなあと思った。
 僕が宗教というのが嫌いな一面は、信じるということだった。信じるというのは、いつも嘘がある。とはいえ、ユングのように「信じる」ではなく「知る」とも言えない。結局、自分については、「信じる」ではなく、「十分に疑いえない」ということになった。まあ、それはさておき。

 あと、まとめ的にいうと、「スマナサーラ師」はお坊さんだなあと思った。タイの社会などを知ると上座部仏教も生臭いものだと思うが、それでも、上座部仏教はお坊さんっぽく、そして、スマナサーラ師はまったくもって、お坊さんだなと思った。そういうお坊さんが日本にいるのか、いるんだろうけど、僕は知らない。

 

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2020.08.04

カルロス1世

 カルロス1世(Carlos I)というと、高校などで学ぶ世界史では、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V)を指す。1500年ちょうどに生まれ、1558年、スペイン、ユステ修道院の離宮でマラリア熱で亡くなった。神聖ローマ帝国皇帝在位は1519年から1556年。退位時に痛風やマラリアがあったらしい。スペイン国王としては、在位1516年から1556年。つまり、当初、スペイン国王となり、1519年に、フランス王フランソワ1世との神聖ローマ皇帝皇位を争って勝利した。
 カルロス1世の父は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇子、ブルゴーニュ公フェリペ、母はスペインの王女ファナである。フェリペは皇位には就かなかったが、カルロス1世の子はフェリペ2世を名乗り、1世がスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)の始祖となった。つまり、ハプスブルク家が分裂した。
 世界史のお話はさておき、現スペインの前国王は、フアン・カルロス1世(Juan Carlos I de España )である。祖父は、アルフォンソ13世。1931年、市民選挙実施という無血革命で第二次共和制が成立すると、彼はイタリアに亡命。1941年、死の直前にローマで王位をファンに譲る。この時点ですでに、フアン・カルロス1世はローマに生まれていた。なお、フアン・カルロス1世の家系はスペイン・ブルボン朝、つまり、ブルボン朝であり、フランス王家カペー家の支流の一つである。
 スペインは1939年内戦を経てフランコ総統による独裁政権となり、彼の死後、彼の意向も反映して、1975年に王政復古して、1948年以降、すでにフランコ総統の下にいた37歳のフアン・カルロス1世がスペイン国王となった。王家としては44年後の期間である。フアンは王位に付かず、1977年に王位請求権も放棄した。1978年の新憲法でスペインは立憲君主国となり、王は象徴的な存在となった。
 2014年フアン・カルロス1世は退位して、1968年にフランコ政権化のマドリードで生まれた長男が、フェリペ6世として王位に就いた。
 さて前振りが長くなったが、前国王のフアン・カルロス1世が3日、事実上、亡命した。理由は、2011年のサウジアラビアから高速鉄道建設に関する多額の裏金が渡されていた疑惑の捜査から逃れるためだが(在位中は免責特権があった)、現国王からも亡命するよう促されたようだ。82歳の父を52歳の息子が国外追放しようにも見える。亡命先はドミニカ共和国サント・ドミンゴらしい。事実上の介護施設ではなかろうか。
 さてこのブログ記事はそれだけの話なのだが、スペイン現代史を見ていると、中世以来の、他国起源の王家や、亡命など、日本人の感覚からは、日本の王家(天皇家)にはなかなか想像しにくい。日本の敗戦時に天皇家が他国に亡命する可能性などおそらく天皇家自身想定もしていなかっただろう。まして、王家自体が、他国との間で裏金の授受といった疑惑すら浮かびそうにもない。
 そういえば、現国王フェリペ6世の妻(王妃)レティシア・オルティス・ロカソラーノはスペインのテレビでは人気の高いジャーナリストであった。また、フェリペ6世との結婚では彼女は再婚でもあった。ここに書くのは控えたくなるような話題もあった。
 日本の右派的な発想では、スペイン王家と日本の天皇家では格が違うとか言うのだろうが、立憲君主制の象徴的な国王という点では同じである。が、その王家へのイメージはけっこう違うものだなと思う。

 

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2020.08.03

[書評] アフター・ビットコイン2  仮想通貨vs.中央銀行(中島真志)

 書名の確認もあって、アマゾンの本書のページを開いたら、前著『アフター・ビットコイン―仮想通貨とブロックチェーンの次なる覇者』と一緒に購入しませんかという誘いが出てきて、そうだったなと思った。本書『アフター・ビットコイン2  仮想通貨vs.中央銀行』を読むには、この前書の知識はかなり前提になっている。特に、ブロックチェーンの技術面については、前著が体系的に詳しい。
 そして、次作にあたる本書『アフター・ビットコイン2』も、仮想通貨の動向が中央銀行仮想通貨に、必然的に至る過程を、技術面からも体系的に描いている。こうした側面は、いずれ2冊を合本にしたような教科書すら編纂できるだろう。
 教科書的な体系記述以外にも、仮想通貨の現状に至るまでの過程についても詳しく描かれている。大筋で言えば、ビットコインからアルトコイン、ステーブルコイン、そしてデジタル通貨という流れだが、必ずしも直線的に変化していくわけではない。各種のデジタル通貨の詳細も重要になる。またデジタル通貨については、中央銀行デジタル通貨(CBDC)で終わる話ではなく、民間銀行(USC)や民間企業(リブラなど)も関連して現状は三つ巴になっているが、こうした、各通貨を本書はバランスよく扱っている。
 技術的な問題としては、本書は、51%攻撃の問題も扱われているし、さらに時事的な関心からも読み応えがある。なかでもEUの対応や北朝鮮の暗躍や中国政府の動向などが興味深い。
 話が前後してしまうが、こうした具体例の詳細が国際決済を専門とする著者ならではの体系的な記述との関係に置かれているところが本書の秀逸さである。特に、リブラとテザーについてはかなり詳しい。
 リブラについては類書もあり、それなりに長所もあるが、本書の場合は、リブラの技術的(PBFTなど)・運用的(発行量など)な側面が、やがて登場する中央銀行デジタル通貨との関連で描いている点が特徴的だ。この過程で、中央銀行デジタル通貨というのもの性格が印画紙のように写し出されている。
 テザーついては、ステーブルコインというだけにとどまらず、実際には変動していたり、背景にいろいろ薄暗い部分があるなど、かなり踏み込んだスリリングな内容だった。ここだけでも本書の価値があると思えるほどである。このように、ステーブルコインとはいっても、その名前のとおりにはいかない。NuBitsなどは破綻した。
 こうしたデジタル通貨の動向は最終的には、中央銀行デジタル通貨(CBDC)に収斂していく(統一ではない)ことになるが、それがいつ頃かという点について、本書は小口についてではあるが、意外に早期に実現する可能性を見ている(中国は2020年を想定)。日本企業が関連する、トークン型のカンボジアのBakong(バコン)にいたっては、すでに事実上完成しており、コロナ騒ぎが鎮静化すればこの秋くらいに発表される可能性もある。それでも、各種のCBDC自体、トークン型か口座型かなど多様なままの状態は続くだろう。まだ不安定な状態であるともいるし、だからこそ本書の知識が急務になるとも言えるだろう。
 あと本書ついて、別途、新潮社の『波』最新号(8月)にfinalvent名で書評が掲載せれている。Web公開になったおりは、また一報したい。

 

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2020.08.02

8月に入ったCOVID-19についてのいくつかの数値的風景

 東京でCOVID-19の感染者が増えているということなのだが、そう言えば、西浦博教授のモデルを示している東洋経済のサイトに実効再生産数の推移が掲載されていたなと思い出して、見た。

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 0.99だった。東洋経済が西浦博教授のモデルを使って計算しているので、公的機関の発表ではないが、1を割っているのかというのはけっこう感慨深かった。これが今後上昇していくのか、注視したい。
 世界全体の傾向について、Our Word in Dataで死亡率について見ると、欧州におけるスウェーデンの健闘が伺えた。また、意外な印象も受けたが、米国とブラジルと日本で、7月以降はあまり差がない。

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 死者の分布だが依然、高齢者に偏っている。東京都による6月までの死者についても興味深かった(参照)。

それによりますと、ことし6月までの陽性患者6225人のうち、亡くなったことが確認されたのは325人で、死亡率は5.2%でした。
亡くなった325人のうち男性は199人、女性は126人で、男性の死亡率が5.5%で女性の4.8%より高くなっています。
亡くなった人全体の平均年齢は79.3歳でした。
男性199人の平均は77.1歳、女性126人の平均は82.9歳でした。

70代以上が多く、全体のおよそ83%になりました。
年代別に亡くなった人の割合を男女にわけて見ると、90代の男性が最も高く52%、次いで、80代の男性が38.9%となっていて、多くの年代で女性より男性の方が死亡率が高くなっています。

 ということで、COVID-19による東京都の男性の平均的な死亡年齢は、男性は77.1歳、女性82.9歳。
 ちなみに、2019年の日本人の平均寿命は、男性が81.41歳、女性が87.45歳。平均寿命は自著にも書いたが、0歳児の平均余命が平均寿命を示すので、現在の高齢者の寿命には当てはまらないが、仮に近似値だとすると、COVID-19による死亡は、男性で4年ほど、女性で4年半ほど早まるかに見える。しかし、実際は、次のように報道されているように、基礎疾患の有無の影響がある。

亡くなった人のうち、基礎疾患のある人は、ない人よりも男女のすべての年代で死亡率が高くなっています。

 基礎疾患の有無で統計を補正すると、おそらく高齢者でも、COVID-19の死亡者は、平均寿命と大きな差はではないのではないかとも思われる。
 ちなみに、朝日新聞のサイトに年齢とCOVID-19の関連グラフがまとめられていた(参照)。

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 保険マンモスというサイトに男性の死亡率の見やすいグラフがあったので比較用に引用しておく(参照)。

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 基本、自然死の傾向をなぞっているようだが、こうした傾向は、がんなどの疾病でも言える。

 

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2020.08.01

[書評] ミサ曲・ラテン語・教会音楽 ハンドブック

 モーツアルトの Ave Verum Corpus とか歌っているときは、あまり気にならず、これは、教会ラテン語だろうと思っていた。例えば、

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 この ce だが、古典ラテン語のように、「ケ」ではなく、教会ラテン語的に「チェ」としていたのだが、どうやら、これは、教会ラテン語ではなく、ドイツ式ラテン語らしい、と知った。
 ようするに古典ラテン語とドイツ式とは別にあるらしい。それどころか、フランス式もあるらしい。フォーレのレクイエムとか、どう歌えばいいのだ?
 ということで、自分なりに整理したいこともあり、『ミサ曲・ラテン語・教会音楽 ハンドブック』を購入した。類書の『レクイエム・ハンドブック』はもっていて、ワープロ製本のような簡易な書籍だったので、こっちもそうかと思ったら、けっこうぎっちり内容があった。
 目的の、古典ラテン語、教会ラテン語、ドイツ式ラテン語の違いはきちんと書かれていた。フランス式についてはなかった。
 大学でのラテン語教育でも、基本として古典ラテン語の発音でよいだろうが、教会ラテン語の発音もきちんと授業で触れたほうが有益なんだろうと思った。我ながら、曖昧に過ごしていたので反省することしきり。
 というわけで、とりあえず、当初の目的は達したのだが、同書で、ミサ曲を振り返ってみると、なんだろ、けっこう驚いたというか、西洋音楽におけるミサ曲の重みについて、思い知らされた感がある。
 一応、音楽史などの書籍を読んだり、講義もいくつか受けたりして、それなりに基礎知識はあると思っていたのだが、ミサの全体のなかで、西洋音楽のミサ曲を見直すと、圧倒されるものがあった。
 著者は、聖職者ではないとのことで、カトリック的な記述は少ない。同書でその部分の厚みを多くしてほしいというわけではないが、個人的に、ミサというものももっと理解を深めたほうがいいだろうなという、なんだろ、誘惑のようなものには駆られた。
 話は前後するが、比較的小冊子ではあるが、『レクイエム・ハンドブック』も好著で、西洋音楽愛好家なら、むしろこっちのほうは手元に置いてよい本だろう。

  

 

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