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2020.07.06

2020年東京都知事選、「リベラル」の迷走

 2020年東京都知事選が終わった。だいたい予想どおりの脱力した結果だった。「リベラル」と見なされることの多い宇都宮健児氏と山本太郎氏については、《いわゆるリベラル票が宇都宮氏と山本氏で割れる。リベラル票の全体は、前回のその全体であった鳥越俊太郎氏を指標にすれば、だいたい20%。》、前回の「リベラル」の《鳥越氏は選挙時にスキャンダル的な話題の影響を受けたので、それがなければもう10%は載せていたかもしれない。》と予想した。結果は25%弱。予想範囲内。
 他方、小池百合子氏については、《今回は増田氏のポジションがなく、小池氏に吸収される。つまり、小池氏が、70%は行く。小池氏圧勝は間違いないだろう。》で、圧勝だったが、結果は60%弱。予想範囲内とも言えるが、ここの10%のブレはなんだろうと選挙結果を見ていくと、維新の小野泰輔の10%弱があり、まあ、概ねそんなあたりだろうとは思った。
 投票率は55%程度で半数を超えたらから、小池都政の信任ということでいいだろう。そうじて、くだらない選挙だった。が、私は投票所には行き、行列の「密」を経験した。それでも、こんな選挙に参加することに意味は感じられなかったというか、これに参加させられることにある種、嫌な強圧的な権力を感じた。
 結果を受けてでのネットの動向だが、ブログには書かなかったが、予想を超えるものはなかった。金子勝先生の香ばしいツイートも見かけたが、あえて引用するまでもないだろう。「リベラル」が極右とみなす桜井誠氏が18万票弱を得たことに危機感を表明するツイートも見かけたが、6年前の田母神俊雄氏の61万票を忘却しているのだろう。ちなみに、このとき宇都宮氏は98万票強。今回は、85万票弱。
 そうした点で、今回の都知事選は、「リベラル」の迷走が際立った。投票日に立憲民主党の党首から「宇都宮餃子」のツイートにつづいて同種のツイートが現れたのは、昭和のドブ板選挙の候補者名連呼の郷愁というか哀愁を感じた。
 「リベラル」の迷走はむしろ、プレジデントに掲載された『小池百合子に清き一票を投じてしまう「普通の人々」はどこにいるのか』(参照)という興味深い記事に暗示されているように思った。論者は、小池氏圧勝は、空虚を中心とする百田尚樹現象と同じだとする。

それは小池にも当てはまる。小池はどこまでも空虚であり、過去の言動をいくら仔細に分析しても、批判そのものが空転する。彼女にとって過去は過去でしかなく、絶対の行動原理は「当選すること」に向けられているからだ。着目すべきは、彼女を支えている人々、言い換えればポピュリズムを支えている人々だ。

果たされる見込みのない公約は、軽薄なキャッチフレーズで打ち出され、その言葉はメディアを通じて流され続け、過去はどうでもよくなってしまう。

昨日の話題がすぐに流れ、忘れてしまうようにSNSのように政治家の発言も流されていく。その結果、空虚な政治家が押し上げられていく。それは決して、変わった人々によってではない。どこにでもいる人々が、そうした政治家を支えている。

それはどのような理由によってか、なぜ忘却は進むのか。これ以上、空虚な政治を望まない人々が向き合うべきだったのは、小池本人の検証だけでなく、彼女を支える「普通の人々」の心情と向き合うことだったのではないか。私は自戒を込めてそう思うのだ。

 つまり、小池百合子氏を支持した普通の人は、目先に囚われ、忘却する、まあ、ぶっちゃけ言うなら「愚民」ということなのではないか。
 この普通の人にいかに向き合うかが、「リベラル」の課題だというなら、まあ、それもそうかもしれない。私もこんな選挙でも必ず行くべきだという「リベラル」な声に、今回ほどうんざりしたことはないくらいの愚民であった。
 しかし、東京都民の普通の人は、目先に囚われ、忘却しやすい人だという認識でいいのだろうか。違うような気もするが、その違和感が「リベラル」の課題になることはないのだろうなとは思った。また、小池氏を支持したのは、男性より女性だったということも、フェミニズムの論点になることもないように思った。

 

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