[書評] カール・シュミット ナチスと例外状況の政治学(蔭山宏)
なぜ、カール・シュミットなのか? この問いは、自明な人にとっては自明すぎるが、他方、まったく問い自体が成立しない人もいる。
むしろ、この状況(カール・シュミットの意義が問われない)がなぜ、あるのか? 逆に言えば、なぜ、現在の日本でカール・シュミットが問われなくてはならないのか、という問題意識がそれほど生じていないかに見えるのか。もちろん、カール・シュミットの思想にアクチュアリティがないというのなら、それでいいだろう。ビザンチン帝国についての諸研究にアクチュアリティがないというのは、普通に納得できる。
つまり、カール・シュミットがアクチュアルな問題であるという前提が、現在の日本の知的状況ではほとんど成立していない。
そうした状況では、知は2つの路を取るしかない。①思想をコンテクスト化してアクチュアリティを問うこと、②いずれアクチュアリティが問われるときのために基礎を用意しておくこと。
本書は、②である。そしてそこに至る標識は、「最大の政治思想家か、それとも批判すべきナチのイデオローグか―」という釣書で示されている。が、その釣書自体がすでに矛盾せざるをえない。矛盾は明らかだ。カール・シュミットは明白にナチズムの圏内にあるが、同時に、そのことがカール・シュミットの思想的な意義を損なうことがない。この一見、矛盾に見える状態もまた、冒頭に示したような日本の知的状況に循環してしまう。
しかし、①も射程に込められている、というか、著者には意識されている。あとがきより。
本書のもとになる原稿は一年前にはほぼできあがっていたが、何かとぼんやりしているうちに完成が遅れ、新型コロナウイルスの世界的流行という人類史的大事件のまっただなかに出版される見込みとなった。シュミットのいう例外状況の発生である。コロナ問題をつよく意識した内容に書き改めようという誘惑を感じないではなかったが、結局変更せずもとのままで出版することにした。シュミットの長い生涯を一面化するのはシュミットに対して公正さを欠くことになると考えたためである。
どういうことか。この本は、「コロナ問題をつよく意識した内容に書き改め」ることが可能なのように書かれているということだ。そのことは、現在の状態が「シュミットのいう例外状況の発生」であるということである。
そして他方、そのように書き改められなかったのは、本書が「シュミットの長い生涯」をその思想面において簡素に忠実に捉えられているからだ。特に、後期思想はきれいに描かれている。
その意味では、本書は、本当に、カール・シュミットという思想家の入門書なのである。そしてゆえに、中公新書からの出版の意味もあるだろうし、いずれ10年しても、本書は正確に読まれるだろう。
では、「思想面において簡素に忠実に捉えられている」なら、本書という入門書は読みやすいか。率直に言って、どちらかというと、読みにくい。というか、日本の現在の状況を問うのに、「読みやすさ入門書」であってはならないだろう。一番簡単な読みやすさは何チズム批判に落とし込めばいい。あるいは、特定の側面だけ、例えばホッブズとの関係を強調しつつ思想史や同時代史を図解的に示しても、わかりやすい。
読みにくさの遠因は、カール・シュミット自身が単純ではないどころか、矛盾しているとしか捉えられないからだ。
…思想家の全体像を描こうとする場合、シュミットはなかなかに難しい人物である。
…シュミットの全体像を描きにくくにしているのは、これらがあたっているにもかかわらず、現実のシュミットはそれらの規定のいずれからも絶えず逸脱しているからである。
うがった見方をすれば、その「逸脱」こそが現代の知の地平なのである。シュミットから今が問われていることを意識するから、単純な枠組みでは済まない。
ここで私は、本書に示されているカール・シュミットの射程を具体的な問いで描いてみたい誘惑にかられる。
新型コロナ問題という具体的な政治的決断を要する問題と国民の過剰反応ともいえる空気。あるいは、アニメ『PSYCHO-PASS』が示す、技術と法と「病気」の関係。護憲法派が改憲を適しすることで、シュミットのいう政治的な領域が、それ以前の政治的な状況に還元され、憲法の根幹にある制定権力が不可視化されること。中国という新しい全体主義の台頭。
ほかにも、と、考えて、その先のアクチュアリティがもたらす現在のネットの空気を思う。それはどこかしら、シュミットの後年の引退的な生活の共感につながる。
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