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2020.07.30

[映画] ヱヴァンゲリヲン新劇場版(序破Q)

 この夏見るつもりだった『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』がコロナ騒ぎでふっとんでなんとなく宙ぶらりんだったが、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の3部作(序破Q)をオンデマンドで見た。見たのは初めてある。そう言うとエヴァの初心かのようだが、いちおう事実だけ言っておけば、私は、『新世紀エヴァンゲリオン』とその関連映画は見ている。同時代的に見ているわけではない。NHKが再放送したのをきっかけに見た。すでに世の中には解説が溢れているので、既放送分の謎の全貌がわからないわけではないが、結末が意味不明であり、つまるところ、それゆえに作品としては全体としてのは意味不明という感じが残り、まがりなりにも完結したコミック版も全巻持って、当然いくどか読み返した。
 コミック版はアニメのキャラデザの貞本義行によるコミカライズでアニメ版よりも少し先行して1994年12月から『月刊少年エース』に連載されていたものだが、完結は2013年の6月で、実は私より先行してアニメのエヴァまわりを読んでいた長男が最終巻だけ買っておいたので、私が残りを大人買いした。なんだかんだいっても、エヴァンゲリオンは日本のサブ・カルチャー史の大作であり、個人的にも思うことがあり(自著にも書いたが私は新約聖書学を若い頃学んでいた)、cakesの連載の対象にしようとも思っていた。が、これも当然ではあるが、新劇場版を含めないとまとまりがわるような気がしていた。
 さて、以上くだくだ書いたが、そうしたエヴァについての部分は、機会があればまとまって書きたいとは思うし、繰り返すが『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を待っていた。
 最終は、いずれにせよ今年の冬には見られるのではないかとも思い、まとめて序破Qを見た。先行していて見ていた長男は、Qが飛んでいて驚くとの話をしていた。そこはなるほどとは思った。
 『序』はよくできていた。率直に言って、1990年代のアニメは絵があらく表現が私の青少年期アニメ(『うる星やつら』とか)に近く、ケロロなどのギャグもの以外は見る気がしないのだが、そうした懸念もなく、いいクオリティだった。私はアニメ版のエヴァンゲリオンの彩色が好きでもない。
 『破』もあれでいいだろうと思った。コミック版がいい注釈的な位置にもある。で、『Q』だが、意外と違和感がなかった。よくできていると思った。
 さすがに設定部分の14年の空白には、現在アニメの1期分の内容が省略されているが、ここはさほど多様な読みもなく、謎とも言えない。一種のパズルのようで、実際、Qはそうしたパズル要素が強い。特に槍に関する部分に。
 ただ、作品としては、『Q』によってより明瞭になっているとも思った。そもそも、新劇場版のリブートは庵野氏の個人的な創作情念(ああいう世界が見たい)というのが大半だが、文学的なコアは、14歳の少年の世界と他者への畏怖であり、そのことが同性愛的に生み出す鏡像の問題であり、これがカオルに結実している。フロイト・土居理論的には、前エディプス期の「甘え」の問題であり、これが「エディプス」を回避していく、現在人類の心象に対応している(吉本隆明の『共同幻想論』の帰結にも近い)。その点でいえば、もうネタバレでもないとも思うので書くが、カオルの死、つまり、シンジの代わりの死はエディプスの罪の、フロイト・土居理論的なもう一つの帰結だろう。あと加えれば、カオルの神話的な位置づけはプロメテウスだろうが、このあたりは、作品のコアというより謎解きパズルの一環にも見える。

 

 

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