« アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』 | トップページ | 静かなカタストロフの予感 »

2020.07.17

「ポストコロナ」の感覚

 「ポストコロナ」という考え方は、現代思想などの一群の人々にお任せすればいいことで、医学的にはあまり意味がないだろうと私は考えていたし、ある意味、今でもそう考えているのだが、それでも、昨今、ああ、これが「ポストコロナ」の感覚なのかと思うことがあった。
 きっかけは、ツイッターであるつぶやきを見たときのことだ。誰のつぶやきかはどうでもいいだろう。また、正確な引用ではないのだが、要は、「日本がきちんとロックダウンを継続して新型コロナを徹底的に封じておけば、現在のような第二波はなかっただろう」といった内容である。その含みに、さらなる緊急体制への希求があるのか、絶望感の表明があるのかはわからなかった。
 だがそれを見かけたとき、あれ?と私は思ったのだった。私はまったくそのように考えたことはなかったからだ。では、どう考えていたかというと、世界保健機関(WHO)の緊急対応責任者マイク・ライアン氏が5月13日の記者会見で述べていたのと同じである。「我々の世界に一つの病気のウイルスが加わり、消え去ることはないかもしれない」ということだ。7月12日もマイク・ライアン氏は、世界で根絶や排除などが近い将来に起きる事態はほぼあり得ないだろうとの見解を示している。
 あるいは一定の期間であるとしても、WHOの主任科学者スーミャ・スワミナサン氏が英紙フィナンシャル・タイムズで語ったように「4、5年の期間」だろう。つまり、マクロン仏大統領も述べていたが、COVID-19と共存することが私たちの世界なのである。エイズもインフルエンザも克服できない。私たちはこれらと共存してきた。そういうものだと私は思っていた。
 が、どうやらその感覚はそれほど、人々に共有されていないようだ。ということと、私自身、それで普通ということでもない、ということに気がついた。「行動変容」を甘く見ていたことにようやく気がついた。
 私は、電車に乗るときや店舗に入るとき以外、周りに2mの十分な距離が取れるところではマスクはしない。エレベーターの相乗りはしない。合理的に行動していると思っていた。が、どうやら、持ち合わせのマスクをするのは、合理性ではない。他者への気配り、というか、他者の目線が気になっているのだ。いや、私は他者の目線を気にする人ではないはずが、他者を不安がらせないように配慮しているのである。そのように、私自身が自然に「行動変容」していた。
 それでいいじゃないかとも思えたのだが、それだけではない。できるだけ、そうした場を自然に避けるようになっていた。もともと人嫌いな傾向もある私だが、それがさらに強くなってきた。正確に言えば、人嫌いというのでもない。Zoomの会合などは楽しみにしている。むしろ、見知らぬ人と顔を合わせたくないのだ。
 そして、自然に映画館にも行きたいもと思わない。図書館の廊下で書籍抱えた人とすれ違うときのある共感のようなものも、もういらない。
 私が、変化していた。これはなんなのか? ああ、これが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)でいわれる、倫理(Ethik)と精神('Geist')なのか。つまり、行動習慣(ἦθος)と幽霊('Geist')なのである。
 強迫観念と言っていいだろう。たとえば、新型コロナウイルス感染を避けるために、頻繁に手を洗う、というのは、合理的な行動であり、倫理的な行動だが、これが習慣化してくると、洗うという行動が強迫のように定着し、家にいるときでも、なんども手を洗うという不合理な行動となり、いわば、幽霊('Geist')に取り憑かれたようになる。
 まいったなあと思った。頭でこの呪縛のからくりを理解しても、それがもう克服できそうにない。これが、「ポストコロナ」ということかと思った。
 これから秋が来て、冬が来ると、インフルエンザ流行もやって来る。「ポストコロナ」の幽霊はかなり私たちを防御してくれるだろうが、それでも一定の感染は避けられない。

 

|

« アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』 | トップページ | 静かなカタストロフの予感 »