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2020.07.31

14歳で出会ったもの

 漫画家の田中圭一さんが、ツイッターで、《オトコって14歳の時「なにに興奮したか」でその人の性癖が決まるような気がする》と呟いていて、そういえば、自分は、14歳のとき、何に出会って、その後人生、影響受けただろうかと思った。
 ふっと、3つ思い浮かんだ。

14歳で出会ったもの、シャガール
 どういうきっかけで出会ったのだろうか。シャガールに出会い、夢中になった。
 たぶん、モネ、ルノワールやゴッホが好きで画集を買い出したころだっただろうと思う。その一環で、シャガールにあったのではないか。
 シャガールの何に惹かれたか? ベラとシャガールがモデルの空飛ぶ恋人、羊がいて、フィドルで踊る貧しいユダヤ人村、脱天使、その色彩。ファンタジーというより、ある具体的な、ユダヤなるものに心奪われたということだった。

14歳で出会ったもの、ドストエフスキー
 『罪と罰』を読んだ。『カラマーゾフの兄弟』は、以前も書いたが、箕浦訳の未完に合わせて頓挫した。
 実際のところ、ドストエフスキーに出会ったというより、『罪と罰』に出会ったというべきかもしれないが、振り返るに、『カラマーゾフの兄弟』は大きかった。自分をアリョーシャに重ねた。

14歳で出会ったもの、万葉集
 これははっきり覚えている。ラジオで毎回、犬養孝先生の講座を聞いていた。先生は本当に万葉集が好きで、朗詠されていた。万葉集は謡いなさいと言っていた。歌った。高校生の授業で万葉集を学んだおり、読めというから、朗詠したら、先生も含めて唖然とされた。
 中西進先生のNHK市民大学講座で万葉学も学んだ。岩波新書赤の茂吉の『万葉秀歌』もほとんど朗詠して暗記した。
 後年、20代の終わり、取り憑かれたように飛鳥を散策した。

 ほかに?
 ほかにもあるなあと、思い出した。

14歳で出会ったもの、亀井勝一郎
 最初に読んだのは、『愛の無常について』だったか。これ、実に中2向けである。文章がきれいだし。それをきっかけに、阿部次郎、和辻哲郎とか三木清なども読んだ。当時は、文庫本でそんなのがいっぱいあった。ショーペンハウエルとかもついで読んだ。
 一番読んだのは、『親鸞』と『大和古寺風物誌』である。後者はそれもって高校生のとき斑鳩を旅した。
 高校生になるにつれ、しかし、亀井勝一郎は読まなくなった。小林秀雄に夢中になった。

 

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2020.07.30

[映画] ヱヴァンゲリヲン新劇場版(序破Q)

 この夏見るつもりだった『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』がコロナ騒ぎでふっとんでなんとなく宙ぶらりんだったが、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の3部作(序破Q)をオンデマンドで見た。見たのは初めてある。そう言うとエヴァの初心かのようだが、いちおう事実だけ言っておけば、私は、『新世紀エヴァンゲリオン』とその関連映画は見ている。同時代的に見ているわけではない。NHKが再放送したのをきっかけに見た。すでに世の中には解説が溢れているので、既放送分の謎の全貌がわからないわけではないが、結末が意味不明であり、つまるところ、それゆえに作品としては全体としてのは意味不明という感じが残り、まがりなりにも完結したコミック版も全巻持って、当然いくどか読み返した。
 コミック版はアニメのキャラデザの貞本義行によるコミカライズでアニメ版よりも少し先行して1994年12月から『月刊少年エース』に連載されていたものだが、完結は2013年の6月で、実は私より先行してアニメのエヴァまわりを読んでいた長男が最終巻だけ買っておいたので、私が残りを大人買いした。なんだかんだいっても、エヴァンゲリオンは日本のサブ・カルチャー史の大作であり、個人的にも思うことがあり(自著にも書いたが私は新約聖書学を若い頃学んでいた)、cakesの連載の対象にしようとも思っていた。が、これも当然ではあるが、新劇場版を含めないとまとまりがわるような気がしていた。
 さて、以上くだくだ書いたが、そうしたエヴァについての部分は、機会があればまとまって書きたいとは思うし、繰り返すが『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を待っていた。
 最終は、いずれにせよ今年の冬には見られるのではないかとも思い、まとめて序破Qを見た。先行していて見ていた長男は、Qが飛んでいて驚くとの話をしていた。そこはなるほどとは思った。
 『序』はよくできていた。率直に言って、1990年代のアニメは絵があらく表現が私の青少年期アニメ(『うる星やつら』とか)に近く、ケロロなどのギャグもの以外は見る気がしないのだが、そうした懸念もなく、いいクオリティだった。私はアニメ版のエヴァンゲリオンの彩色が好きでもない。
 『破』もあれでいいだろうと思った。コミック版がいい注釈的な位置にもある。で、『Q』だが、意外と違和感がなかった。よくできていると思った。
 さすがに設定部分の14年の空白には、現在アニメの1期分の内容が省略されているが、ここはさほど多様な読みもなく、謎とも言えない。一種のパズルのようで、実際、Qはそうしたパズル要素が強い。特に槍に関する部分に。
 ただ、作品としては、『Q』によってより明瞭になっているとも思った。そもそも、新劇場版のリブートは庵野氏の個人的な創作情念(ああいう世界が見たい)というのが大半だが、文学的なコアは、14歳の少年の世界と他者への畏怖であり、そのことが同性愛的に生み出す鏡像の問題であり、これがカオルに結実している。フロイト・土居理論的には、前エディプス期の「甘え」の問題であり、これが「エディプス」を回避していく、現在人類の心象に対応している(吉本隆明の『共同幻想論』の帰結にも近い)。その点でいえば、もうネタバレでもないとも思うので書くが、カオルの死、つまり、シンジの代わりの死はエディプスの罪の、フロイト・土居理論的なもう一つの帰結だろう。あと加えれば、カオルの神話的な位置づけはプロメテウスだろうが、このあたりは、作品のコアというより謎解きパズルの一環にも見える。

 

 

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2020.07.29

[書評] カール・シュミット ナチスと例外状況の政治学(蔭山宏)

 なぜ、カール・シュミットなのか? この問いは、自明な人にとっては自明すぎるが、他方、まったく問い自体が成立しない人もいる。
 むしろ、この状況(カール・シュミットの意義が問われない)がなぜ、あるのか? 逆に言えば、なぜ、現在の日本でカール・シュミットが問われなくてはならないのか、という問題意識がそれほど生じていないかに見えるのか。もちろん、カール・シュミットの思想にアクチュアリティがないというのなら、それでいいだろう。ビザンチン帝国についての諸研究にアクチュアリティがないというのは、普通に納得できる。
 つまり、カール・シュミットがアクチュアルな問題であるという前提が、現在の日本の知的状況ではほとんど成立していない。
 そうした状況では、知は2つの路を取るしかない。①思想をコンテクスト化してアクチュアリティを問うこと、②いずれアクチュアリティが問われるときのために基礎を用意しておくこと。
 本書は、②である。そしてそこに至る標識は、「最大の政治思想家か、それとも批判すべきナチのイデオローグか―」という釣書で示されている。が、その釣書自体がすでに矛盾せざるをえない。矛盾は明らかだ。カール・シュミットは明白にナチズムの圏内にあるが、同時に、そのことがカール・シュミットの思想的な意義を損なうことがない。この一見、矛盾に見える状態もまた、冒頭に示したような日本の知的状況に循環してしまう。
 しかし、①も射程に込められている、というか、著者には意識されている。あとがきより。

 本書のもとになる原稿は一年前にはほぼできあがっていたが、何かとぼんやりしているうちに完成が遅れ、新型コロナウイルスの世界的流行という人類史的大事件のまっただなかに出版される見込みとなった。シュミットのいう例外状況の発生である。コロナ問題をつよく意識した内容に書き改めようという誘惑を感じないではなかったが、結局変更せずもとのままで出版することにした。シュミットの長い生涯を一面化するのはシュミットに対して公正さを欠くことになると考えたためである。

 どういうことか。この本は、「コロナ問題をつよく意識した内容に書き改め」ることが可能なのように書かれているということだ。そのことは、現在の状態が「シュミットのいう例外状況の発生」であるということである。
 そして他方、そのように書き改められなかったのは、本書が「シュミットの長い生涯」をその思想面において簡素に忠実に捉えられているからだ。特に、後期思想はきれいに描かれている。
 その意味では、本書は、本当に、カール・シュミットという思想家の入門書なのである。そしてゆえに、中公新書からの出版の意味もあるだろうし、いずれ10年しても、本書は正確に読まれるだろう。
 では、「思想面において簡素に忠実に捉えられている」なら、本書という入門書は読みやすいか。率直に言って、どちらかというと、読みにくい。というか、日本の現在の状況を問うのに、「読みやすさ入門書」であってはならないだろう。一番簡単な読みやすさは何チズム批判に落とし込めばいい。あるいは、特定の側面だけ、例えばホッブズとの関係を強調しつつ思想史や同時代史を図解的に示しても、わかりやすい。
 読みにくさの遠因は、カール・シュミット自身が単純ではないどころか、矛盾しているとしか捉えられないからだ。

 …思想家の全体像を描こうとする場合、シュミットはなかなかに難しい人物である。

 …シュミットの全体像を描きにくくにしているのは、これらがあたっているにもかかわらず、現実のシュミットはそれらの規定のいずれからも絶えず逸脱しているからである。

 うがった見方をすれば、その「逸脱」こそが現代の知の地平なのである。シュミットから今が問われていることを意識するから、単純な枠組みでは済まない。
 ここで私は、本書に示されているカール・シュミットの射程を具体的な問いで描いてみたい誘惑にかられる。
 新型コロナ問題という具体的な政治的決断を要する問題と国民の過剰反応ともいえる空気。あるいは、アニメ『PSYCHO-PASS』が示す、技術と法と「病気」の関係。護憲法派が改憲を適しすることで、シュミットのいう政治的な領域が、それ以前の政治的な状況に還元され、憲法の根幹にある制定権力が不可視化されること。中国という新しい全体主義の台頭。
 ほかにも、と、考えて、その先のアクチュアリティがもたらす現在のネットの空気を思う。それはどこかしら、シュミットの後年の引退的な生活の共感につながる。

 

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2020.07.28

報道で知った3人の死

 もう最近とも言えないのだが、女子プロレスラーの木村花さんというかたの死が報道やネットで話題になっていた。私は彼女のことをまったく知らないので、その死もピンとこなかったが、報道やネットなどを読むに、テレビのリアリティ番組をきっかけに誹謗中傷を受け、それを苦にして、死んだというストーリーが語られていた。このストリーからすると、「自殺」が暗示されるが、いくつか報道を当たってみたが、「自殺と見られる」的な間接表現はあるが、自殺だとした報道はなかった。そこから得られることは、私には彼女が自殺かどうかわからない、ということと、人々は、自殺かどうかわからないのに、世の中ではストリーが進んでいくことだった。
 三浦春馬さんも亡くなった。私は彼については、NHKの『世界は欲しいモノにあふれてる』で見てなんとなく知っている程度で、他の活動についてはほとんど知らない。そして、例によって、「自宅マンションには自殺をほのめかす遺書が見つかった」といった感じの間接表現で報道で語られ、ネットで話題になったが、やはり、自殺だとした報道はなかった。つまり、私には、彼が自殺したかどうかはわからない。
 自殺についての報道にはWHOの『自殺予防 メディア関係者のための手引き』(参照)というものがあり、そこでは、「自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと」などが明記されているが、木村花さんも三浦春馬さんも、そもそも、報道では、自殺かどうかはわからなかった。というより、自殺かどうかわからない報道であれば、ただ、死の事実だけを報道すればよく、自殺のほのめかしや、自殺を暗黙の前提とする話題を展開することのほうも手引などで抑制したほうがいいだろう。
 もう一人気になった死は、明確に自殺ではない。ALS患者の林優里さんの死である。嘱託殺人として捜査が進められている。ネットや報道では、嘱託殺人の医師らが優生思想の持ち主であったかや安楽死といった間接的な話題が盛んだった。安楽死議論については、そうしたことを求めるような社会が間違っているといった正論も見かけたが、そうした正論は現実に安楽死を願う人々の対話のチャネルを失っているようにも思えた。
 林さんの死で気になっていたのは、身体がある程度自由な自殺したのではないかということで、いや、身体がある程度自由なら希望が持てるかもしれない、あるいは、遺書がなければそもそも自殺とも言い難いなどとも思っていた。その後の報道では、自身の死後の手続きを記した父親宛ての「遺言書」を作成していたようだ。安楽死の委託もなされ死後についても意志が明示されていたなら、自殺に近いようには思われた。が、もちろん、自殺ではない。
 私たちは、自殺から目をそむけようとしたり、巧妙な修辞で関心を表明したりする。それでいいのか悪いのかはわからない。そういうものなのだなということが心に引っかかっている。

 

 

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2020.07.27

トンチンについて

 「トンチン年金」というのがある。なにか? 大辞泉はこう説明している。

1 出資者が死亡すると、その年金を受け取る権利が生存している出資者に移される終身年金制度。長生きするほど多くの年金を受け取れる。17~18世紀にヨーロッパで行われた。名称は、17世紀にこの手法をフランスのルイ14世に提案したイタリアの銀行家ロレンツォ・トンティ(Lorenzo de Tonti)に由来。
2 低解約返戻金型の個人終身年金保険のこと。解約時や死亡時の返戻金を低く設定することで、年金原資を増やし、長生きする加入者に支払う年金を確保する仕組み。生きている間ずっと年金を受け取れるが、一定の年齢を超えないと、受取総額が支払総額を大きく下回るリスクがある。

 正確な説明なのだが、今ひとつよくわからないのではないだろうか。世間的には、2の意味で使われているというか、あるいは使われていない。どういうことかというと、保険商品としては、「これはトンチン年金でして」みたいな話にはならない。
 ではどういう話になるかというと、ニッセイのおばちゃんでは、こう。

Grand Age(グラン・エージ)
死亡保障を行わず、将来必要な資金を重点的に準備できる保険です。
特徴
1 死亡保障を行わず、解約払戻金を低く設定することで、お受取りいただく年金の財源となる金額(年金原資)を大きくしています。
2 5年保証期間付終身年金の場合、終身にわたって年金を受取れます。
3 所得税・住民税の金額が軽減される個人年金保険料控除または一般生命保険料控除の対象です。

 Grand Age(グラン・エージ)って何語? それはさておき、これでは、ニッセイのおばちゃんではない。簡単な事例でいうとこう。

50歳男性が「10年確定年金」で毎月2,3424円払うと、70歳から10年間、毎年60万円年金が支払われる。

 どうでしょ?
 簡単に損得で計算すると、アバウトな計算だが、支払額は、5,621,760円。もらえる額は6,000,000円。20年賭けて、38万円くらいのお得。
 で、80歳前に死んだら? だけど、現在の男性の平均寿命は、81.25歳で、まあ、現在50歳以上の平均的な男性はこれよりもう少し生きられる可能性がある。
 それでも、70歳から80歳の間で死ぬと、残りは遺族に行くらしい。ようするに、税控除しつつ遺産にするものなのだろう。
 あるいは、長生きが人生のリスクになる時代になるので、そのリスクヘッジにもなるのだろう。とほほ感があるが。
 さて、なぜ? トンチン?
 大辞泉にあったように、「17世紀にこの手法をフランスのルイ14世に提案したイタリアの銀行家ロレンツォ・トンティ(Lorenzo de Tonti)」に由来している。彼は、1647年のマザニエッロの乱のとばっちりでナポリからパリに政治亡命で移住。彼は、同じくイタリア人ジュール・マザラン(フランス語: Jules Mazarin、イタリア語: Giulio Mazarino)の庇護を受け、財政に取り組む。この際、1653年にトンチン年金が考案された。実現されたのは、1689年。その後、ルイ 15世によって 1763年廃止された。トンティは1684年頃死亡している。息子のアンリ・デ・トンティは探検家となる。
 ということでトンティが注視されるのだが、イタリアにはそもそも、フランシスコ修道院によるモンテス・ピエタティス(montes pietatis)があった。これは、喜捨や遺贈による資金をもとに担保を取るが無利子で融資され、15世紀後半から16世紀に南ヨーロッパ一帯で実施されていた。さらに歴史を探ると、ピエタティス(信仰)のないモンテス(montes)があり、中世以前に遡れそう。
 こうした流れで見ていくと、トンチンは年金と関連付けられるが、現代フランス語で、La tontine (トンチン)というと、La tontine chinoise のことを指すようだ。Taiwan Infoというサイトにはこうある。

La tontine chinoise, ou he-houeï [合會] ou simplement houeï [會], est un moyen commode et fort ancien en Chine de se procurer de l'argent.

 で、これは、民間合會のことだ。MBALIBというサイトにはこうある。

  “合會”(ROSCA),意為“輪轉儲蓄與信貸協會”。它是協會內部成員的一種共同儲蓄活動,也是成員之間的一種輪番提供信貸的活動。按此,這是一種成員之間的民間借貸,是成員之間的資金互助,同時涉及了儲蓄服務和信貸服務。

(「合会」(ROSCA)は「ローテーション貯蓄と信用組合」を意味する。協会の会員にとっては共同貯蓄活動でもあり、会員が輪番制で信用供与する活動でもある。つまり、これは一種の会員間の民間融資、会員間の投資信託支援であり、同時に貯蓄サービスや信用サービスも含まれる。)

 ここで、ROSCAが出てくるが、Rotating savings and credit associationの略で、Wikipediaでにはこう説明されている。

They are also known as tandas (Latin America), chama (Swahili-speaking East Africa), Kameti کمیٹی (Pakistan), ekub (Ethiopia), partnerhand (West Indies), cundinas (Mexico), ayuuto (Somalia), stokvel (South Africa), hagbad (Somaliland), susu (West Africa and the Caribbean), hui, 會 (Chinese communities in East & SE Asia), paluwagan (Philippines), Gam'eya جمعية (Egypt), kye (계) (South Korea), tanomoshiko (頼母子講) (Japan), pandeiros (Brazil), cuchubál (Guatemala), juntas, quiniela or panderos (Peru), C.A.R. Țigănesc/Roata (România), arisan (Indonesia) and dhukuti or dhikuti (Nepal).

 つまり、トンチンは、世界中どこにもあり、日本では頼母子講、無尽である。相互銀行のもとである。

 

 

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2020.07.26

"apprendre"と「知足」

 フランス語の ”apprendre” という単語は、英語だと、apprehend が語源的には対応する。もとは、ラテン語の ”apprehendere” である。英語としては、中英語で採用された語で、当時の英語の形としては、"apprehenden" であり、現代のドイツ語動詞に近い形をしている。dictionary.comにはこう記されていた。

1350–1400; Middle English apprehenden < Latin apprehendere to grasp, equivalent to ap- ap-1 + prehendere to seize (pre- pre- + -hendere to grasp)

 来歴を記したのは、中英語ということでは、この語について具体的には、1350–1400らしい。つまり、ノルマン征服時代のフランス語からの流入やプランタジネット朝での流入より遅い。多少奇妙な感があるので、もう少し調べてみたいと思い、Googleの語源機能を使ってみると、面白い図が出てきた。

late Middle English (originally in the sense ‘grasp, get hold of (physically or mentally’)): from French appréhender or Latin apprehendere, from ad- ‘towards’ + prehendere ‘lay hold of’.

 一見すると、French appréhender と Latin apprehendere の合成のようでもあるし、由来が曖昧であるようにも見えるが、いずれにせよ、2形が存在している。
 etymonline.comに当たってみると、興味深い記述があった。

late 14c., "grasp with the senses or mind;" early 15c. as "grasp, take hold of" physically, from Latin apprehendere "to take hold of, grasp," from ad "to" (see ad-) + prehendere "to seize" (from prae- "before;" see pre- + -hendere, from PIE root *ghend- "to seize, take"). Often "to hold in opinion but without positive certainty."

 "apprehendere"には14世紀では精神的な獲得の意味で、15世紀では身体的な獲得という意味だったらしい。さらにこう記載されている。

The metaphoric extension to "seize with the mind" took place in Latin and was the sole sense of cognate Old French aprendre (12c., Modern French appréhender); also compare apprentice). Specific meaning "seize in the name of the law, arrest," is from 1540s. Meaning "be in fear of the future, anticipate with dread" is from c. 1600. Related: Apprehended; apprehending.

 どうやら、ラテン語自体では身体的な獲得であったものが、12世紀の古フランス語で精神的な獲得という意味になってフランス語に定着したようだ。その後、 16世紀に法的な用語で使われるとある。
 形状的に気になるのは、フランス語では、hが抜けているのに、英語ではhが維持されていることだ。英語の場合、近世においてラテン語復古模倣が起きるのでその際に補われたものなのかもしれないが、フランス語ほうが自然に正書法上脱落したと見てよいだろう。
 さて、以上は本題ではなかった。
 本題は、フランス語の ”apprendre” という動詞の奇妙な振る舞いである。これは、英語と対比するとわかりやすい。

J'apprends le Francais.
 → I learn French.
J'apprends le Francais aux étudiants.
 → I teach French to students.

 フランス語の ”apprendre” という動詞は、途中までは同一のコンテクストであっても、後部の à で、「学ぶ」から「教える」に変わる。
 こが以前から奇妙だなと思っていた。フランス人は混乱しないのかとも。で、NHKのフランス語講座で取り上げられていた。これは、そもそも、”apprendre”の接頭辞の"a" の方向性に関連しているというのだ。
 英語で言えば、toである。つまり、「獲得」の方向性がφ(ゼロ)なら、自分に向けられてて学習になり、他者に向けられると教授になる。
 つまり、「知」が満ちる方向性だとも言える。
 ということで、これって、漢語の「知足」を連想した。現代中国語では「満足」だが。
 ”apprendre”は、つまり、「知足す」なのだろう。こんな中国語はないが、こんな感じなのだろう。

J'apprends le Francais.
 → 我知足法語。
J'apprends le Francais aux étudiants.
 → 我跟他知足法語。

 実際の中国語だと英語のように、こうなる。

J'apprends le Francais.
 → 我学法语。
J'apprends le Francais aux étudiants.
 →我教学生法语。

 不用意に話がごちゃごはしたが、知的な獲得という意味拡張は古フランス語で起きて、英語では、apprehendの形で入ったが、フランス語のほうではそのまま定着したのだろう。
 現代フランス人はこのあたりどう感じているのだろうか? 機会があったら、聞いてみよう。

 

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2020.07.25

7月24日のテグネル博士の見解

 スウェーデン国家疫学官ニルス・アンデシュ・テグネル(Nils Anders Tegnell)の新しいインタビューが UnHerd に掲載されていて興味深かった (参照)。簡単に紹介しておきたい。
 まず、スウェーデンの対応について、隣国との比較で失敗だったという論点については、こう語っていた。

Mortality is hardly an afterthought — so why is Sweden’s mortality rate so high? At around 550 per million of population, it sits just under the UK and Italy but far above neighbouring Norway and Denmark. Dr Tegnell offers a collection of reasons: with its larger migrant populations and dense urban areas, Sweden is actually more similar to the Netherlands and the UK than it is to other Scandinavian countries; he believes the Swedish counting system for deaths has been more stringent than elsewhere; also, countries are at different points in the epidemic cycle so it is too early to compare totals.

死亡率については後知恵というものでもありませんが、スウェーデンの死亡率はなぜこんなに高いのでしょう。人口100万人あたり約550人のスウェーデンは、英国とイタリアのすぐ下に位置しているものの、隣国のノルウェーとデンマークをはるかに上回っています。テグネル博士はいくつか理由を挙げています。スウェーデンは、移民人口が多く、都市部が密集していて、実際には他のスカンジナビア諸国よりも、オランダや英国に似ていること、スウェーデンの死亡者数統計が他の地域よりも厳格であること、さらに、国によって流行の時期が異なるので、合計を比較するにはまだ時期尚早過ぎること、です。

 たしかに、スウェーデンは北欧だから、北欧でまとめて比較したくなるが、重要なのは社会のタイプであるだろう。
 ロックダウンの影響ついては、こう答えていた。

“We don’t know. It would have made maybe some difference, we don’t know. But on the other hand we know that lockdowns also have big other effects on public health. We know that closing schools has a great effect on children’s health in the short and the long term. We know that people being out of work also produces a lot of problems in the public health area. So we also have to look at what are the negative effect of lockdowns, and that has not been done very much so far.”

「ロックダウンするかしないかで、何か違いはあったでしょうが、私たちはわかりません。他方、ロックダウンが公衆衛生に他の大きな影響を与えることはわかっています。学校を閉鎖することは、短期的にも長期的にも子供の健康に大きな影響を与えることはわかっているのです。仕事ができない人たちもまた、公衆衛生分野で多くの問題を引き起こすこともわかっています。ですから、ロックダウンのマイナスの影響についても注視する必要がありますが、今のところあまり行われてはいません。」

 ロックダウンがもたらす問題は、日本でも今後より大きくなっていくだろう。
 日本でも根絶への理想やワクチンへの期待をもっている人が多いが、その点はどうだろうか?

"I don’t think that this is a disease that we can eradicate – not with the methods that we have right now. It might be a disease that in the long term we can eradicate with a vaccine, but I’m not even sure about that. If you look at comparable diseases like the flu and other respiratory viruses we are not even close to eradicating them despite the fact that we have a vaccine. I personally believe that this is a disease we are going to have to learn to live with."

「私は、これは私たちが根絶できる病気だとは思いません。私たちが現在持っている対処法では無理でしょう。長期的にはワクチンで根絶できる病気かもしれませんが、私にはそのような確信すら持てません。インフルエンザや他の呼吸器ウイルスのような病気と比較してみてください。私たちにはワクチンがあるという事実にもかかわらず、私たちはそれらを根絶に近づけることすらしていません。個人的に思うことですが、この病気とは共存を学んでいくべきでしょう。」

 各国で標準となりつつあるマスクについてはどうだろう? 彼はマスクを未だに推奨していない。

“One reason is that the evidence base for using masks in society is still very weak. Even if more and more countries are now enforcing them in different ways … we haven’t seen any new evidence coming up, which is a little bit surprising. The other reason is that everything tells us that keeping social distance is a much better way of controlling this disease than putting masks on people. We are worried (and we get at least tales from other countries) that people put on masks and then they believe they can go around in society being close to each other, even going around in society being sick. And that, in our view, would definitely produce higher spread than we have right now.”

「マスクを推奨しない理由の一つは、社会でマスクを使用するための医学的証拠の基礎がまだ非常に弱いためです。 現在、より多くの国が各種の方法で実施しているのに、新しい証拠は浮上してきません。ちょっとびっくりしちゃいますよね。理由のもう一つは、この病気を制御する方法としては、社会的距離を保つことが、どう見ても、マスクをするより優れているということです。 私たちは心配していることがあります。そして少なくとも他の国からも話を聞きくのですが、人々がマスクを着用すると、人々は密接に関わりながらも社会に出回ることができると思い込んでしまうのです。社会に病気が蔓延しているのにですよ。この事態は、私たちの考えでは、この誤った信念は、私たちが現状思っている以上に、決定的な蔓延をもたらすかもしれません。」

 最終的な予想についてはこうだった。

His belief is that, in the final account, the Infection Fatality Rate will be similar to the flu: “somewhere between 0.1% and 0.5% of people getting infected, maybe … And that is not radically different to what we see with the yearly flu.”

 彼の確信するところでは、最終的には、この感染症死亡率はインフルエンザに似ているだろう、いうことだ。「人々が感染は、0.1%と0.5%の間ででしょう。おそらく、それは例年のインフルエンザで見られるものと根本的に異なるわけでもありません。」

 インフルエンザはただの風邪とは言えない重篤な病状も引き起こすが、死亡率の点ではそれらと特段に変わらないだろうということだ。つづけて、他の欧州各国より、スウェーデンでは実質的な免疫が確立しているだろうとも述べている。彼の考えを援用すれば、おそらく日本でも見かけ上の感染者が増えるほうが、社会全体の免疫はより早期に実現できることになりそうだ。

 

 

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2020.07.24

『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』の平塚静先生と「セブンスター」

 アニメ『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』の最終シーズンの前回、平塚静先生の喫煙シーンが出てきて、奇妙な違和感を感じた。
 女性教師が喫煙しているとか、あのシーンのコンテクスト的な意味については、さして気にならない。気になったのは、彼女が吸っていたタバコの銘柄である。"Second Star"と読めたように思えた。という以前に、そのデザインからして、「セブンスター」であることは間違いない。
 なぜ、あのシーンでセブンスターなのだろうか? それほど意味がないのかもしれないという前提はとりあえず置く。ただ、そもそも商品銘柄に意味があるのかといえば、同シーンにおける「マッ缶」が重要な意味を持っていることは明らかなので、そこで「セブンスター」だけさして意味がないとするのも、あまり整合的ではない。
 気になって原作を調べたが、あのシーンでの「セブンスター」の示唆はない。彼女の他の喫煙シーンでそれがあるかは、原作は既読だが、記憶にはない。全検索してみたい気もするが、ないのではないか?
 とすると、先の話と矛盾するが、アニメでの解釈としてのセブンスターとは言えるだろう。それはそれとして、では、なぜ、平塚静がセブンスターとアソシエイトされているのだろうか?
 つまらない妥当な答えは、日本のタバコといえば、セブンスターだからとはいえるだろう。アジア受けもよかった。
 ただ、セブンスターというのは、どっちかというと昭和のタバコで、現代ではもうおっさんしか吸わないだろうし、そもそも売れ筋ではないのでは。
 と、コンビニ売上の上位銘柄をざっとみたら、セブンスターは一位でした。というわけで、普通に「日本のタバコといえば、セブンスターだから」で落ち着いてもよさそうだ。
 ただ、今回、あのシーンを見ながら、原作への解釈として、平塚静先生の若いころ、年長の人を愛した経験のようなものが込められていた、というのがあるだろうか、と思った。原作的に呼応するは、「お互いがお互いの事を想えばこそ、手に入らない物もある…けれど、それは悲しむべき事じゃない。たぶん、誇るべき事なんだろうな」だろう。
 少し距離を置いて『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』という作品を振り返ってみると、この物語の核は、高校2年生の比企谷八幡と30代教師平塚静の恋物語と読めないことはない。『言の葉の庭』と累計というか。
 というか、そういう読みがエンディングのあれに結びついているのだろう。
 余談だが、そうしたある円環が、一色いろはで、平塚静と通底しているのだろう。

 

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2020.07.23

[アニメ] アリスと蔵六

 偶然見たアニメだったが、『アリスと蔵六』はなんだろ、こんなのあり?な感触の作品だった。
 広く知られているコミックが原作のようだが、こんな話である。
 10歳くらいの少女「沙名(さな)」は、想像を具現化できる超能力者で、製薬会社に擬せられた秘密組織にたぶん軍事目的で幽閉されているところを、「外の世界が見たい」ということで抜け出し、追われる身となる。これを匿うのが、蔵六という1943年生まれの花屋の爺さんであり、その孫娘・早苗である。中学生くらい。沙名は万能者といってもいいが、能力の行使にはエネルギーを要するので、お腹がすくと力尽きてしまう。
 物語は第1部は逃亡と戦い。第2部はこの部の主人公である超能力少女・敷島羽鳥との対決。ということで、それなりに、ファンタジーというか、X-menかよ、といった世界観ではあるが、世界観の枠組みは、表題に「アリス」を冠しているように『不思議の国のアリス』(および鏡の国も)が比喩になっていて、世界は最終的に、成長後の沙名の回想に収まりそう。
 物語の軸は、しかし、人情物と言ってよく、世界を知らない少女と、人生の諸経験を積み重ねた実直な老人との心の交流といったところ。で、その部分の暗喩でいえば、沙名は普通に解離性障害の児童と言ってもいいだろう。あるいは、少なからぬ人が有している、この世界に対する違和感と解離性障害的な感覚の、ある帰着点の物語でもある。
 このアニメを見て、そうした、ある繊細な感性と純粋性のようなものに感動しつつも、自分がすでに62歳であり、蔵六に近い側の人間であることに、共感のような戸惑いのようなものを感じた。蔵六にリアリティがないわけではないが、おそらく私があと10年生きても、こうした老人にはならないだろうという、奇妙な確信の感じがある。
 同じことの繰り返しになるが、このアニメには、解離性障害的な世界というものの、ある感覚がよく表現されている。というか、普通の人にあれがわかるのだろうか?とも思った。私ならわかるぞといった上から目線ではなく、それは、ある哀しい感覚である。あまりわかりたくない感覚である。原初的に世界から隔絶されているが、とりあえず、人の世界に馴染んでいくことの宥和というか欺瞞というか。そんな。

 

 

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2020.07.22

”quarantine”という言葉

 ご時世というべきか、”quarantine”という言葉をよく見かけるようになった。研究社新中和辞典をく引くとこうでてくる。

quarantine
(伝染病予防のために)〈人・動物などを〉隔離する; 〈船・乗客を〉検疫する 《★しばしば受身で用いる》.
He was quarantined for a week with dysentery. 彼は赤痢で 1 週間隔離された.

 逐語訳としての意味はそれでいいのだが、フランス語やラテン語系の言語を学んだ人、あるいは英語しか知らないとしても、それなりにラテン語系の語源の勘のある人なら、「なんで40なんだ?」という疑問を持つだろう。
 ちなみに、フランス語で、40という数字は、"quarante"である。イタリア語では、"quaranta"。
 以前にもこのブログで紹介した、Googleでの語源検索を見ると、次のように、出てくる。

Quarantine

 ”mid 17th century: from Italian quarantina ‘forty days’, from quaranta ‘forty’.”ということで、17世紀のイタリア語で「40日」ということである。
 なぜ?
 これも検索するといろいろ出てくる。Science Fridayというサイトにはこうあった。(参照

But to find the origin of the word, we have to look back to mid-14th century Europe.

At the time, the bubonic plague, infamously known as the Black Death, was ripping through the continent. Starting in 1343, the disease wiped out an estimated one-third of Europe’s population during a particularly nasty period of three years between 1347-50. This sweep of the plague resulted in one of the biggest die-offs in human history—and it was an impetus to take action.

 つまり、14世紀イタリアの「黒死病」が関連している。

Officials in the Venetian-controlled port city of Ragusa (now Dubrovnik, Croatia) passed a law establishing trentino, or a 30-day period of isolation for ships arriving from plague-affected areas. No one from Ragusa was allowed to visit those ships under trentino, and if someone broke the law, they too would be isolated for the mandatory 30 days. The law caught on. Over the next 80 years, Marseilles, Pisa, and various other cities adopted similar measures.

Within a century, cities extended the isolation period from 30 to 40 days, and the term changed from trentino to quarantino—the root of the English word quarantine that we use today.

 それで感染予防として、感染がないか確認するために、30日間、船を隔離・停泊させたというのだが、それが30日。あれ? 40日じゃないのというか、30日から40日だったらしい。
 でも、なぜ、40日?
 ということで同記事は、聖書に由来する40日についての話題を取り上げていく。
 他に、オンラインの語源辞書(参照)にあたると、こうある。

So called from the Venetian policy (first enforced in 1377) of keeping ships from plague-stricken countries waiting off its port for 40 days to assure that no latent cases were aboard.

 先の話と年代が少し違っている。どっちが正しいのか、ざっと調べた範囲では決着がつかない。どうやら、quarantineが、14世紀イタリアの黒死病に関連はしていそうだが、なぜ40日なのかは聖書由来だろう、くらいしかわからない。
 意外に正確な知識には到達できないという事例になってしまった。
 ついでに、感染症病院という意味の言葉に、"lazaretto"というのがあるが、これは明らかに、聖書のラザロに由来している。16世紀のイタリアの言葉らしい。

 

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2020.07.21

[書評] ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち(中谷功治)

 我ら(声高らかに)ビザンチン帝国愛好家にとっては好ましいことだが、ビザンチン帝国が、微妙にブームなのである。
 まさかと思う人もいるだろうが、昨年末からビザンチン帝国関連書籍が続出なのである。12月『アレクシアス』、12月『コンスタンティノープル使節記』、1月『生まれくる文明と対峙すること 7世紀地中海世界の新たな歴史像』、4月『聖デメトリオスは我らとともにあり: 中世バルカンにおける「聖性」をめぐる戦い』、7月『歴史学の慰め:アンナ・コムネナの生涯と作品』。まあ、どれも学術書に近い書籍でお値段もそれなりになのだが、それにしても、何が起きているのだろうか? わからない。
 そして極めつけとも言えるが、ジュンク堂書店池袋本店の新書ランキング第1位が、この中公新書『ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち』であった。新書なので一般書と言えるだろう。
 まあ、このビッグウェーブに乗るっきゃないでしょ、ということでもなく、個人的にビザンチン帝国が顧みられるのは、西洋史というある枠組みの再編成の一貫なのではないかという印象がある。

 

 本書『ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち』ではそうした点、つまり、ビザンチン帝国史を現代日本人が学ぶ意義というものをどう自覚しているかといえば、それが縮小を繰り返しながらも生き延びる国家の姿ということらしい。
 たしかに、ビザンチン帝国の歴史というのは、ローマ帝国の長い終わりのようでもある。
 具体的に、一般書として本書はどうか?というと、とてもプレーンであった。中公新書の歴史学にありがちな、おっと、読んでいたらぐっと情念が引き込まれたという、タイプではないと思う。ディテールが整理されてきちんと書かれているのである。もう少し言えば、キリスト教史を踏まえつつも政治史が軸になっている。
 私自身の文脈で言うなら、以前書いた記事『ビザンチン絵画からルネサンス絵画へ』(参照)のように最近は、パライオロゴス(Παλαιολόγος)王朝時代(1261-1453)に関心があり、そのあたりの最近の文化史の学説を知りたいと思った。で、どうか? 本書は歴史記述としては過不足なく書かれているが、文化の内情にぐっと食い込む印象はなかった。
 また、そういえば、ブログに書いたことがなかったが、私はプレトン、つまり、Γεώργιος Γεμιστός ή Πλήθων(1360年頃〜1452年)に関心がある。彼は重要人物なので、本書も2ページ割かれているが、やはりごく基本的な事実の記述に収まっている。つまり、「イタリア・ルネサンスでの人文主義に多大な影響を与えることなる」に留まり、プレトンの思想やイタリアでの発展についての記述はない。イタリア・ルネサンスは本書の射程ではないはいえ、プレトンの思想についてはもう少し詳しく知りたいところではあったし、その重要性もあるだろう。とはいえ、新書としてのバランス上、仕方ないのかもしれない。
 総じて、最新学説がプレーンにまとめられている。そのなかで、感心したのは、イコノクラスムについてである。どうやらこのこと自体が一つの神話のようだった。
 こうした本書のプレーンさというのは、他方、読んでいて楽しいと言える、現在は講談社学術文庫に移った井上 浩一著『生き残った帝国ビザンティン』などを踏まえた上ということがあるようだ。「おわりに」には、本書が「難解と感じた人は」として井上の書籍などを最初に読むように勧めている。
 ある意味、本書は難解とも言えるだろうが、これが売れる日本の読書会は捨てたものでなない。そのこと自体が、まさに日本という国家の存亡の強みですらあるかもしれない。

 

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2020.07.20

「粉飾決算」にはなぜ「粉」が付くのか?

  人によっては簡単な問題というか、愚問に近いのかもしれないが、ご存知?

飾決算」にはなぜ「」が付くのか?

 「粉飾」という熟語の構成は、「電飾」に似ている。この2語が同じ構造で、「電飾」が「色とりどりの電灯をつけて飾ること」というなら、「粉飾」は、「粉をつけて飾ること」のようになりそうだ。
 もちろん、違う。本来は、「扮飾」。
 「扮」の意味は、「装う」ということ。なので、「扮う(よそおう)」「扮る(かざる)」と訓じることもできる。なので、「扮飾」の構成は、「よそおいかざる」である。
 つまり、「粉飾」は「扮飾」とすべきところの、「扮」を「粉」で置き換えただけのことだ。
 別の漢字で置き換えていいのか?
 国語の問題だったら、「粉飾決算」という書き取りはバツじゃないのか?
 「扮飾決算」の「扮」を「粉」にするのは、「代用字」というのだが、これは、1956年(昭和31年)7月5日に国語審議会が示した「同音の漢字による書きかえ」という指針に沿っている。つまり、政府お墨付きの誤字なのである。

「同音の漢字による書きかえ」について(報告)
 国語審議会は,当用漢字の適用を円滑にするため,当用漢字表にない漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして,表中同音の別の漢字に書きかえることを審議し,その結果,別紙「同音の漢字による書きかえ」を決定した。
 当用漢字を使用する際,これが広く参考として用いられることを希望する。

 とはいえ、当用漢字表になければなんでも代用字にしていいかというと、そうもいかないので、いくつか例を挙げている(参照PDF)が、そこに、「扮」の代用字を「粉」とする例がある……と思ったら、なかった! たぶん、報道社などが適当に決めて流用したのだろうが(調べてみると日本新聞協会の指針ようだが)、とすると、「粉飾」が正しい表記であるという国家的な根拠はなさそうだな。
 とはいえ、「当用漢字」は、1981年(昭和56年)に廃止され、代わりに政府から、「常用漢字表」が告示された。で、これで、代用字はなくなったかというと、そうでもない。そもそも常用漢字表に「扮」がない。代用字は続くのだが、さて、この代用字のルールは何に依存しているのかよくわからなくなった。そしてまだ「粉飾決算」が残っているのである。ほかにも、ネットでたまに話題になるが、「日食」と「日蝕」なども。
 常用漢字表は2010年(平成22年)に文化審議会の答申をもとに改定された。新しく、196字が追加された。「扮」はない。「同音の漢字による書きかえ」については、「臆」「潰」「毀」「窟」「腎」「汎」「哺」「闇」の8字が戻ったはずだが、「闇」には「アン」の音がないので、「闇夜」には戻らない。ただ、志賀直哉が1921年(大正10年)から雑誌『改造』に連載した『暗夜行路』も「暗夜」なので、代用字がすでに戦前から普及していたのだろう。
 「扮」は使われていないかというと、普通に見かける。検索したら、映画ナタリーというサイトに《「弱虫ペダル」キンプリ永瀬廉、伊藤健太郎ら扮する総北メンバーを一挙紹介》とあった。
 常用漢字表に従うなら「ふんする」と書くか、あるいは、「粉する」と書くことになるのだろうか。よくわからない。
 「扮」はそれほど使いでのない、どちらかといえば珍しい漢字なのかというと、なんとも言い難い。ちなみに、「紛争」の「紛」は常用漢字表にある。
 「扮」は中国語ではかなり頻度高い。
 「扮」が「粉」になったのは同音だからということだが、中国語では、「粉(fěn)」と「扮(bàn)」 でまったく音は異なる。「扮」の意味は日本語とほとんど同じ。 

 

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2020.07.19

数値から見た今の新型コロナウイルス感染症の風景

 数値データが与えられたとき、人はそこから何を読み取るかという課題に暗黙のうちに置かれがちだ。そしてそこには、なにか読み取るべき真の答えがあるかのようにも感じさせる。これが絵画であれば、何を読み取るかは、つまるところ自由だと言っていい。絵画の知識によって読み取りが深まることはあるだろうし、勘違いが減ることはあるだろうが、それでも、最終的に受け取るものを大きく制約しない。他方、そのある種の自由に至るために、人はそれを、飽くこともなく眺めることになる。というように、数値から見た今の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の風景を3点、眺めてみた。どちらかといえば、死者のいる風景として。

人工呼吸器の風景
 COVID-19の重症の規定は、呼吸困難(呼吸回数や酸素飽和度)や肺滲潤影などによるだろう。が、簡単な視点は人工呼吸器であり、体外式膜型人工肺(Extracorporeal membrane oxygenation: ECMO)だろう。日本救急医学会のサイトに以下のグラフがあった。青が、軽快、黒が死亡、赤が装着中。

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 6月に入ってから比率は安定している。むしろ、この状態が恒常的に続くかのようにも思われる、というところで気がつくのだが、このある種の恒常性というのは、ECMOが外せない、ECMOによって生命が維持されているという状態なのではないか。
 ECMO以外の人工呼吸治療ではどうだろうか。

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 この数日間にやや悪化の傾向が見られるふうでもあり、それが今後の傾向になる懸念はあるだろう。が、これまでの経緯からすれば、ある種の恒常のようにも見える。そしてその意味も、人工呼吸という医療によって生命が維持されている状態である。
 この状態とはなんだろうか? ここから見える風景は、実は、COVID-19の風景とは異なる風景なのではないか。

死者の傾向
 Our World in DataがCDCに依って描いた、死者の傾向。

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 新規の死者が増えているかの傾向を示すものだが、まず、欧州では死者が減衰していく傾向が見られる。都市封鎖をしなかったスウェーデンを考慮すれば、おそらくこの傾向は政策的な対応ではないのではなかという疑念もある。今後もこの減衰傾向にあるのかは、まだよくわからない。ある恒常に至るかもしれない。
 ブラジルと米国は死者が減衰していない。インドは増加傾向にある。が、ブラジルの動向からは恒常値がありそうだ。
 日本と韓国だが、このデータでは日本は減衰傾向にある。が、日本と似た傾向にあった韓国がわずかながらだが増加に転じており、日本もそれに似た動向となるかもしれない。なんとなく思うのは、欧州各国の減衰が恒常になり日本や韓国と同じ傾向を辿りそうだということだ。その恒常があるとするなら、人はそれを何と呼ぶのだろう? 日常?

高齢化との関わり
 COVID-19を死者の関連で見るとき課題となるのは、端的に言えば、高齢者をいかに保護するかということだ。各国の死者の動向を見るとき、もっとも大きな補正的意味を持つのが高齢化率である。これをまとめたデータが札幌医科大学にあった。全世界レベルでプロットしてみると、次のようになる。

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 少人口の国家のデータからはあまり読み取れるものはない。ざっと見わたして奇妙にも思えるのは、高齢化率がそのまま死亡者に比例していないことだ。おそらく、医療体制の高度化が大きな因子になっているのだろう。できるなら、そこを指標にした風景も見たいものだが、見当たらない。
 大雑把に見る。開発途上国での死亡が必ずしも高くないのは、そもそも高齢化率が低いからだろうか。全体傾向としては、とりあえず高齢化率が高いと死亡は増えそうだ。
 そして、実はこの風景で一番奇妙なのは、日本である。まるで日本は、世界に所属していかないのようなところにいる。これはどういうことなのだろうか? 

 

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2020.07.18

静かなカタストロフの予感

 先日、塩漬け株を処分した。バブル崩壊以前から抱えていた。死んだ父にまつわる思い出のある株で、損切するも嫌になるようなものだった。気がつくと、自分は父の享年を超えていた。いつか処分するはずが、ずるずると踏ん切りが付かなかった。
 損切なので大した額になるわけでもないが、さらにどん底になるものもいやだなとは少し思った。そう、どん底が来るなと思った。我ながら、老いて、バブル崩壊もリーマンショックも経験した。あれクラスのが、もうすぐドカンと来るなあという予感がする。
 誤解なきよう。個人的な、なんの裏付けもない予感だ。もうすぐこの世が終わり、最後の審判になると信じている人と似たようなものだ。狂気に近いかもしれないな。
 なので、この予感を多くの人に共有してもらいたいということではない。幸い、あまり人が省みることのないブログに成り果てたので、気楽に書いてみたい。
 先日の散歩で、普段そう通ることもない路地のそば屋が潰れていた。コロナの影響だった。閉店の辞があり、読むと50年にもわたるご愛顧といったことが書かれていた。まあ、50年というのも誇張ではないな。私はその頃を思い出せないでもない。というか、思い出して、なんだろ、郷愁に涙腺が緩んでしまった。
 それはおいしいと私が感じるそば屋さんでもなったが、50年といえば二代は続いたのではないか。コロナと限らず、おいしいほうのそば屋さんももう数年前に閉店していた。おそらくコロナ騒ぎがなくても、閉店したのだろう。
 最後のひと押しか。断崖へずどんと。と、いつもながらに不謹慎なユーモアを想像しつつ、あれもこれも最後のひと押しが来ているなあと思った。アベの10万で食ったるかあと思いついた、好きだった、フランス料理屋も、調べたら、もう閉店していた。
 閉店の風景はあちこちに見えだしたが、これはもっと来るだろうなと思った、というか、むしろ、合理的に考えればそうなるんじゃないか。
 そういえば、ブログには書かなかったが、大学や病院の再編成は、オリンピックの浮かれ騒ぎの影で粛々と進むはずだったのが、これもなんだか、ネジがとんだように見えない。
 それでもなんであれ、ツケは回るだろう。
 新型コロナウイルス感染症も、じりじり各家庭に迫り、感染症事態ではないがろくでもない事態が予想される。
 政府は何しているんだろうと思うが、なんとなく、安倍政権もさすがに脳死状態になっているような感じだ。
 平成を思い出す。バブル崩壊は、ある日どかんと来たわけでもなかった。当時の新聞を見ているとき、株価のバブル崩壊に気がつくには3か月ぐらいかかっていた。それから、金融機関破綻など、どかんどかんと来た。神戸震災があった。オウム事件があった。振り返ると、奇妙な非日常があった。東北震災からまだ10年も経ってないが、日本国レベルで、ドカンということもなくここ数年平和過ぎたように思う。

 

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2020.07.17

「ポストコロナ」の感覚

 「ポストコロナ」という考え方は、現代思想などの一群の人々にお任せすればいいことで、医学的にはあまり意味がないだろうと私は考えていたし、ある意味、今でもそう考えているのだが、それでも、昨今、ああ、これが「ポストコロナ」の感覚なのかと思うことがあった。
 きっかけは、ツイッターであるつぶやきを見たときのことだ。誰のつぶやきかはどうでもいいだろう。また、正確な引用ではないのだが、要は、「日本がきちんとロックダウンを継続して新型コロナを徹底的に封じておけば、現在のような第二波はなかっただろう」といった内容である。その含みに、さらなる緊急体制への希求があるのか、絶望感の表明があるのかはわからなかった。
 だがそれを見かけたとき、あれ?と私は思ったのだった。私はまったくそのように考えたことはなかったからだ。では、どう考えていたかというと、世界保健機関(WHO)の緊急対応責任者マイク・ライアン氏が5月13日の記者会見で述べていたのと同じである。「我々の世界に一つの病気のウイルスが加わり、消え去ることはないかもしれない」ということだ。7月12日もマイク・ライアン氏は、世界で根絶や排除などが近い将来に起きる事態はほぼあり得ないだろうとの見解を示している。
 あるいは一定の期間であるとしても、WHOの主任科学者スーミャ・スワミナサン氏が英紙フィナンシャル・タイムズで語ったように「4、5年の期間」だろう。つまり、マクロン仏大統領も述べていたが、COVID-19と共存することが私たちの世界なのである。エイズもインフルエンザも克服できない。私たちはこれらと共存してきた。そういうものだと私は思っていた。
 が、どうやらその感覚はそれほど、人々に共有されていないようだ。ということと、私自身、それで普通ということでもない、ということに気がついた。「行動変容」を甘く見ていたことにようやく気がついた。
 私は、電車に乗るときや店舗に入るとき以外、周りに2mの十分な距離が取れるところではマスクはしない。エレベーターの相乗りはしない。合理的に行動していると思っていた。が、どうやら、持ち合わせのマスクをするのは、合理性ではない。他者への気配り、というか、他者の目線が気になっているのだ。いや、私は他者の目線を気にする人ではないはずが、他者を不安がらせないように配慮しているのである。そのように、私自身が自然に「行動変容」していた。
 それでいいじゃないかとも思えたのだが、それだけではない。できるだけ、そうした場を自然に避けるようになっていた。もともと人嫌いな傾向もある私だが、それがさらに強くなってきた。正確に言えば、人嫌いというのでもない。Zoomの会合などは楽しみにしている。むしろ、見知らぬ人と顔を合わせたくないのだ。
 そして、自然に映画館にも行きたいもと思わない。図書館の廊下で書籍抱えた人とすれ違うときのある共感のようなものも、もういらない。
 私が、変化していた。これはなんなのか? ああ、これが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)でいわれる、倫理(Ethik)と精神('Geist')なのか。つまり、行動習慣(ἦθος)と幽霊('Geist')なのである。
 強迫観念と言っていいだろう。たとえば、新型コロナウイルス感染を避けるために、頻繁に手を洗う、というのは、合理的な行動であり、倫理的な行動だが、これが習慣化してくると、洗うという行動が強迫のように定着し、家にいるときでも、なんども手を洗うという不合理な行動となり、いわば、幽霊('Geist')に取り憑かれたようになる。
 まいったなあと思った。頭でこの呪縛のからくりを理解しても、それがもう克服できそうにない。これが、「ポストコロナ」ということかと思った。
 これから秋が来て、冬が来ると、インフルエンザ流行もやって来る。「ポストコロナ」の幽霊はかなり私たちを防御してくれるだろうが、それでも一定の感染は避けられない。

 

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2020.07.16

アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』

 アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』のテレビ版を全部見た。面白かった。とにかく、アニメって面白いなあという、昭和の感覚が蘇る感じだった。奇想天外、愛憎劇、中二病全開。ベルばらのような絵柄もだが、ストーリーテリングの上手な少女コミック感もけっこうあった。
 この数年、随分とアニメを見るようになったが、2000年代のアニメはまだ苦手だった。特に、『コードギアス』は、チラ見してもまったく受け付けない状態だったが、さすがにこの手の「古い」アニメにも目が慣れた。
 以前、『ねほりんぱほりん』で、ルルーシュの熱狂的なファンの人を見て、まあ、これは引くわというのと、そこまで熱狂するのかという関心はあった。
 で、感想は、というか、感動したのか?
 それを語るには、ぶっちぎりで、ネタバレになる。
 以下、ネタバレ含む。

 

 昭和テイストの伝奇感というか、オカルト感は嫌いではないし、中二病全開も好きで、なによりストーリーが飽きさせない展開でテンポよく見ていたのだが、実は、まあ、昔のアニメってこんな感じだよね感で、たらっとしていた。が、がぜん、うげっ、すげっと思ったのは、ユーフェミアの虐殺である。やっちまったなあというか。これ、いずれ放送禁止になるじゃないか。
 で、この虐殺なんだが、ストーリー上は、ギアスの暴走だし、ユーフェミアの真意ではないのだけど、まあ、あれです、ユーフェミアの無意識の欲望と言えないでもないなあと思ったのだった。そして、この無意識の欲望は枢木スザクに継がれていく。日本人が日本人に対して抱くこの奇妙などす黒い情念をこの荒唐無稽な物語が暴露していく。しびれる。
 さらに言う。ナナリー・ランペルージというのは、つまり、「天皇」。原爆も出てくる。平和主義も。そして、ルルーシュのエンディングのテーゼは、オウム真理教の「麻原彰晃」。もう、しびれまくり。面白いじゃないか。
 表向きの愉快なピカレスクロマンの裏に、日本人のどす黒いものがこれでもかこれでもかと暗喩されている。
 まあ、製作者たちがそんなことを考えて作ったわけでもないし、ピングドラムのようにそうした示唆を込めたいわけでもなく、面白いという感覚を追求したら、こんなどす黒い無意識が吹き出してしまったという点で、表層的なテリングの裏で極めて無意識的な作品だった。
 機会があれば、以上のとんでもない感想をきちんと評論にまとめたい気もしないではないが、けっこうぶっそうな話にはなりそうなんで、引く。

 

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2020.07.15

[書評] 修道院のレシピ

 結局のところ、子育てのニーズもあったし、もとから食いしん坊だったせいなのか、料理が趣味になり、自分でいうのもなんだが流石に30年以上もやり、しかも、いろいろ勉強もしてきちゃったので、たいした腕前になってしまった。といっても、冷蔵庫あければ、とりあえず、うまいもの食わせてやるぞ系の腕前であり、うんたらという料理ができるものでもないが、それでも、いくつかのうんたら料理では自分のよりうまいの食ったことないなあと思うことはある。ボルシチとか。まあ、そんなことはさておきである。
 もう軽く100冊以上は読んだだろうレシピ本の最高の3冊を選べといえば、必ず入れるのが、これ、『修道院のレシピ』である。ちなみに、もう一冊は、小林カツ代さんのあれ(辞典みたいな)。さらに、もう一冊は、ちょっとブレがあってその時の気分で変わりそう。

 

 で、『修道院のレシピ』を絶賛したいかというと、そうなのだが、ちょっと人にはお勧めできない。これで料理を作るのは、たぶん、普通の人には無理だろうから。
 と、最近もしみじみ思ったのである。さらっと書かれているなかに、エチュベの技法とかあまりに自然に含まれていて、なんというか、この本を活用する前提条件があまりに多すぎる。
 それと、さすがに絶版だろうと思ったら、Kindleであった。ただ、この本は、リアルの本として手元に置きたい本だ。理由は手にしたらわかるよ。
 アマゾンを見て、評を見たら、案の定であった。

この本を見ながら料理をすれば必ず美味しいフランス料理が作れるといったものではないようです
調味料の量の細かい指定はなく、作る人の舌と勘にまかされています
オーブンの温度も高温、低温と書いてあるだけで、細かく何℃とはありません
スープや煮物にいれる小麦粉は少し多すぎるような気がしますし

  ※ ※ ※

あまりにも評価が良かったので購入したのですが、はっきり言って、がっかりです。肝心のオーブンの温度が記載されていないし、材料の日本語訳が多々、間違っているし・・・・。初心者向けというより、オーブン料理にかなり慣れた人でないと、ちょっと無理では?(オーブン料理・ケーキつくりを経験した方なら、このオーブンの温度の表示がない。という事が、どんなに大切さが分かっていただけると思うのですが・・・)個人的には、この本はお勧めしません。

 まあ、そうだと思う。(ちなみに、オーブン料理には基本があるのだけど。)
 他方、ある程度、フランス文化に慣れた人なら、こう。

発売当初、本屋で見つけたときに購入を見送ってしまった。本当に後悔した。趣味でフランス料理に凝りだして以来、本書がいつも頭の片隅にあり、手に入れたいと思っていた。だから新品をAmazonで見つけたときの嬉しさは語りきれない。それぐらい素晴らしい本なのです。ありがとう。

 それ、わかる。
 すごい本だよ。今、たまたま、開いたら、エスカルゴの調理があって、こう。

 ――エスカルゴの殻がとじていない場合は、10〜15日間エサを与えないでおく。

 これが、レシピ本なわけですよ。
 僕はフランスの市場見たことないけど、アテネでしばらく滞在したとき、市場でエスカルゴを見た。樽のなかで、うにょうにょしてた。あれ買ってきて、下ごしらえするなら、こうするのか。
 ほんとすごいレシピ本だと思う。

 

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2020.07.14

[書評] フランス人に教わる3種の”新”蒸し料理(上田淳子)

 先日、山本式調理法について、これは、étuvée だなとブログに書いてから、あれ、そうだったかなと思い直し、少し調べ直しているうちに、『フランス人に教わる3種の”新”蒸し料理(上田淳子)』という本を見かけた。あまり考えずに買って読んだら、étuvée のほかに、vapeur と braiser が載っていた。よくまとまっていて、なかなかの好著だった。

 

 この本では、étuvée を、少量の水を加え、中火・強火でとあり、その点では、当初から弱火の山本式とは違うのかもしれないとも思った。
 ついでに、『フランス人が好きな3種の軽い煮込み』のほうも買ってみた。こちらは、sauté と fricassée と soupe が載っていた。soupe については、これは違うような感じがしたが、他、概ねこれも好著だった。

 

 というわけで、久しぶりにフランス料理の技法を復習しつつ、現実のフランス人はどうしているかなど、探っているうちに、おやま、エスコフィエ『料理の手引き』の全訳がネットに転がっていた。英語版からの翻訳だろうか、よくわらないが、とにかくすごい代物で、すごすぎて私などの実用にならない。とはいえ、étuvée の実例がけっこうある。ただし、étuvée 自体の説明はない。
 こんな説明が面白い。

 昔のフランス料理では、素材に串を刺してあぶり焼きにするローストを別にすれば、どんな料理も「ブレゼ」か「エチュヴェ」のようなものばかりだった。

 というわけで、フランス料理の原形でもあるわけだ。
 考えてみれば、エチュヴェされたものに、ソースというわけで、これがまさにフランス料理の原形だろうな。で、読み進むにソースのルーがスペイン由来という興味深い話が続く。
 ところで、そんなこんなしていて、あれ? étuvée って、étouffée とどう違うんだっけと気がついたが、上述の書籍には解説はなかった。
 そもそも、étouffée でやっかいなのは、英語圏だと、これ、ケイジャン料理名になってしまう。というか、なぜそういうことになったか。すぐにこれは、料理法からの誤解というか、その類だろうと連想は付く。
 料理技法としての étouffée だが、どうも現実的には、étuvée 同じようだ。Wikipediaでも、《On appelle également « étuver » la pratique de ce type de cuisson.》とか書いてあったりもする。ただ、違いを厳密にするという考えもあるのだろう。
 と、étouffée をYouTubeで見てたら、お米のエトフェが出てきて、あれ? これってピラフ? あるいは、普通の炊飯?と疑問が出てきたが、考えてみれば、私たち日本人は、ライスをエトフェしているとも言えるのだろうな。水が多すぎるが。
 話がごちゃごちゃしたけど、この二冊のレシピ本、レシピ本としてよまず、基本的なフランス料理の技法として見るといいと思う。
 おフランスというと、なんだか、日本人から遠いみたいだが、普通に和食に応用できるんで、きちんと学んでおくと便利かと思う。

 

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2020.07.13

[書評] ずっしーのピアノ教室(ずっしー)

 副題が『音楽経験ゼロから大好きな曲を弾けるようになった僕の耳コピアレンジ習得法』ということで、ちょっと魅力的。YouTuberらしく、いくつか動画も見て、これはすごいなあと思った、ので、読んでみた。

 

 曰く、「ピアノ経験ゼロから独学で耳コピ、アレンジまでできるようになったという自身の経験をもとに、ピアノの耳コピ術やアレンジ動画、独自の音楽理論の解説」というので、さぞかし独自、と思ったのだが、批判で言うのではないけど、意外と、普通だった。というか、王道だった。逆に、移動ドから音楽をきちんと説明していて、感動してしまった。
 というか、基本は移動ドの和声でそれから、和音の話になるという道筋は、けっこう理論的、というか、理論がきちんとしすぎていた。本書の趣旨からすると、もう少し具体例がほしいと思った。
 これも批判という意図ではないのだけど、具体的に耳コピをどうするか、ということ。電子キーボードのトランスポーズの活用などもあるのだけど、まず、耳コピだと口付さんで、音を探すのだが、どうやって探すとかなど。
 その次には、それを運指にもってかないとピアノは弾けない、のだけど、運指についての説明はなかった。ある程度基本の運指ができる人向けとも言えるだろう。(運指はけっこう難しいと思う、それこそ練習が必要だから。)
 というわけで、耳コピから運指、それに、ベース音、そして和音というふうに、具体的に数曲練習曲があると実際的かなと思う。そうして数曲演奏できた時点で、理論の説明でもいいだろう。
 ごく個人的な思い出だが、私の中学校の同級生で、なんか曲があると、すぐ耳コピして、ピアノ曲にして奏でてくれるやつがいた。あの放課後の音楽室がちょっと、なつかしい。絵にしたら、BLっぽいかも。

 

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2020.07.12

[書評] 山本式弱火調理法レシピ (山本千代子・監修、山本 智香・著)

 最近、ちょこっとした副菜に「山本式弱火調理法」というのを活用している。便利で、おいしい。
 山本千代子さんという料理研究家が、「約50年間の研究を重ねて開発した、今までの料理の常識を180度覆す、超画期的な低温調理法」とのことで、それだけ聞くと物々しいし、平成9年に特許を取得したというのもすごい。ただ、現状、特許は継続されていないらしい。さて、どんな不思議な調理法なんだろうと思うけど、自分の結論から言うと、フランス料理のétuvéeです。ただ、étuvéeってこんなふうにできるのかというか、フランス料理の枠組みで考えていたので、山本式というのを知ったときは、あれ、そうなんだと目からうろこ感はあった。
 最初、Kindleで『ラクなのに美味しい 驚異の弱火調理法』という本をたまたま買った。あまりレシピが載っていないので、『山本式弱火調理法レシピ (山本千代子・監修、山本 智香・著)』も買ってみた。こっちのほうが体系的だろうか。

  

 で、そもそも山本式弱火調理法とはなにかだけど、ここの動画で人参ソテーというのの作り方があるので見るといい(参照動画)。簡単です。というのもそうなのだが、いろいろ試すと、加熱時間の調整はやや難しい。使っている鍋にもよる。最初ちょっと中火っぽく1分して鍋を温め、それから弱火で2分から4分くらいだろうか。
 意外とお肉がおいしい。そもそも薄切り肉ってそれほど火を通すものでもない。山本式で野菜炒めを作るときは、野菜の上に肉を載せて塩コショウしておけばいい。普通に炒めたときの、水が出てビッチャリ感はなくなる。ただ、肉に焼き目がほしいときは、別途焼き目を付けて山本式調理の野菜と合わせればいいだろう。あと、最近ネットで話題のポテトサラダ系には向かない。デンプン系の調理は高温度で20分近い加熱時間が必要なので。
 ついでなんで、類似の調理法でこの2冊も読んだ。『蒸し器もせいろもいらない フタさえあれば! 極上蒸しレシピ』『フタさえあれば! すごくおいしい フライパンで簡単蒸し料理』。それなりに参考になる。アンリミにも入っている。
 思い出せば、昭和のころ、アルミの無水鍋というのが流行ったことがあったが、こんな感じだろうか。
 くどいけど、ちょっとした野菜の副菜がほしいときに、これらの簡易蒸し炒め料理は便利です。

 

 

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2020.07.11

アベノ10万

 なんとなく自分のところには来ないんじゃないかと思っていたアベノ10万が来た。特別定額給付金事業というやつである。政府から現金をもらうというのは、奇妙な体験だなと思ったが、2009年にはリーマンショックの凹みで定額給付金というのがあったはずだ。1,2000円くらいもらって、たしか焼肉かなんか一回喰って消えて笑ったような記憶がある。小渕内閣のときも地域振興券というのがあったが、あれも喰って消えたんではなかったか。いずれにせよ、大人になってもらった奇妙なお年玉みたいなものだったが、さて何に使うかというほどの金額でもなかった。それが今度は10万円である。何、喰うかなと思ったが、一度焼肉喰って消える額でもない。
 日常使う銀行口座に入れるかと考えて、そうすると、普通の生活費に混ざって、消えるというか意識から見えなくなるだろう。そもそも減税みたいなものだから、あまり意識する気もないが、ただ微妙な感じはある。
 私は浪費癖はたぶんないだろうが、結婚以降、5万円以上のお金を自分勝手に使ったことがないんじゃないか。ああ、語学とかの学費であったかもしれないが、なんとなく、自分勝手というのと微妙に違う。(結婚前は出始めのCDROMドライブ12万円とかほいと買ってたりしていた。)
 で、アベノ10万は自分勝手に使ってみようかと思い、そして、特段に使途が思い浮かばない。楽器を買いたいとか思っていたはずが、いざとなると、自分の演奏能力を顧みて無駄な気もする。まあ、3万円程度の散財を3回もすれば消える額でもあるし、逆にあれもこれも買えるという額でもない。ちょっとした国内旅行が一回できるかくらいか。GoToキャンペーンとやらで更にお得ってことか。さてと困惑した。
 そうこうしてるうちに、昔使っていた財布が出てきた。なんでこれ使わなくなったんだっけと考えて、機能性が低いからだったか。その財布には金も入っていない。以前、似たようなことがあって、ドル札が出てきたことがあったが。と、財布を見ていて、なんとなく、アベノ10万を入れてみた。これだと、いわゆる生活費とは混ざらないかもしれない。我ながら、行動経済学でいう、特定のお金に感情を抱く不合理といえば不合理な感覚で笑ってしまうのだが、楽しくないわけでもない。
 減税だと思えばもともと自分のお金だろうが、政府という他人様にもらったお金と言えないでもない。よくわからない。そういえば、お小遣いというのを親にもらっていたのはいつまでだったか。よく覚えていない。
 さて、意外とアベノ10万は何にも使わず、続くコロナ自粛で来年を超えるかもしれない。いつまでに使うという締日のようなものがあってもいいかとも思ったが、気が重くなるようなのもいやなものだ。
 アベノ10万のような政策が今後もあるとも思えない。令和当初の珍妙な挿話のようなできごとになるのだろうか。

 

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2020.07.10

中国語には単独の子音は存在しないのではないか

 前回の記事で介音と四呼についても書くつもりだったが、ブログの1記事としては長過ぎるようにも思えたし、書いてみると別の話題にも思えたのでこちらに分けた。
 さて、介音と四呼について考えているうちに、どうもこれは何か変だなという感じがしていた。チョムスキーが昔、アイロニーとしてではあっただろうし、正確な引用ではないが、言語の音声は子音と母音に分けられる、というような説明はそもそも言語学の範疇ではないというようなことを言っていた。とはいえ、言語の音素体系がどのようになっているかというとき、子音と母音の区別はアプリオリな前提のようにも思える。実際にはその境界的な音も存在するが、音素体系としては子音と母音の区別を前提に構造的に記述できる。
 現代中国語音も同様に思える。ローマ字化された拼音を見ていても、台湾華語の拼音として採用されている注音符号を見ても、基本、声母と韻母で分けられていて、声母は子音のように見える。
 だが、中国人 YouTuber の話を見ていて、また、実際の中共・台湾での音声教育を見ていても、声母は介音とセットで発音されている。それにさらに韻母が付くという学習をしているようだ。注音符号の場合、その事実上の別称である「ㄅㄆㄇㄈ」からして、「ボポモフォ」のように介音的な母音を含めて、呼ばれている。
 これらは、印欧語のラテン字母であるABCDを「エービーシーデー」といったように、字母名として理解しがちなのだが(実際その理解でよいのだが)、彼らの幼児教育を見ていると、単に字母名ではなく、介音つきで発話された音声が事実上の字母であり、子音それ自体と区別されていないようだ。
 というあたりで、中国語には単独子音は存在しないのではないかもしれない、という疑問が湧いてきた。そもそも、「ㄓ ㄔ ㄕ ㄖ ㄗ ㄘ ㄙ」では単独でも声帯音を含んでいる。ここがローマ字化では、特にsi などで混乱の元になる。
 中国音の子音の、こな奇妙な特性は、ようするに介音が事実上、子音の付属であることがある、というを暗示しているのではないか(もっとも完全に付属ではないが)。そこを織り込んだ形で、「四呼」の分類法もあるのだろう。ただ、それがローマ字化拼音とうまく整合しているようには見えない。
 そこで四呼だが、これは明代以降の韻母の考えかたで、開口呼・斉歯呼・合口呼・撮口呼の四つに分類することだ。これらは、Palatalization(口蓋化)、Labialization(口唇化)、Labio-palatalization(口唇・口蓋化) であり、構造減額的には音素論に統合されるallophones(異音)なのではないかとも思える。つまり、斉歯呼・合口呼・撮口呼と呼ばれているものは、すべてではないにせよ、子音側の調音(articulation)の影響なのだろう。 -ian が[iɛn]となるのも、、Palatalizationに類する現象だろう。
 具体的に見ていよう。

両唇音 ㄅ ㄆ ㄇ ㄈ
 両唇音のㄅ ㄆ ㄇ ㄈは、b p m f ではあるが、どちらかというと、bo po mo fo である。またこのdistribution(分布)を見ていくと、介母音iは付くが、介母音uと介母音üが付かない。両唇調音時点で、Labializationで 事実上の介母音 u が子音に含まれているのだろう。

歯茎音 ㄉ ㄊ ㄋ ㄌ
 歯茎音のㄉ ㄊ ㄋ ㄌでは、介母音üはnüのみでAssimilation(同化)は見られない。Neutralな ㄜ [ɤ]を事実上の介母音として持っているのだろう。

軟口蓋音 ㄍ ㄎ ㄏ
 軟口蓋音のㄍ ㄎ ㄏでは、介母音iと介母音üが付かないのは、Palatalizationできないためだ。介母音uを持っていると見てもよいだろう。

歯茎硬口蓋音 ㄐ ㄑ ㄒ
 歯茎硬口蓋音のㄐ ㄑ ㄒはそもそも、介母音iを含んでいる。これに対して、そり舌音のㄓ ㄔ ㄕ ㄖは、介母音iが後続しない。介母音iについては、ㄐ ㄑ ㄒとComplementary Distribution(相補分布)なっている。つまり、これらは同一の子音なのではないか。また、これらの分布は歯茎音のㄗ ㄘ ㄙについても同様であり、軟口蓋音とも同関係になる。
 どうなっているのか?
 おそらく歴史的な音変化の経緯からすと、ㄐ ㄑ ㄒは軟口蓋音のㄍ ㄎ ㄏの口蓋化音であろう。いわゆるCentumとsatemが言語境界ではなく同一言語内になっているような現象だ。とはいえ、現在の調音点(point of articulation)の差から同一音素とするのは学習者には混乱するだろう。

 話がごちゃごちゃしたようだが、いくつか簡素に言えそうなことはあるように思う。

① ㄐ ㄑ ㄒ(j q x)は、ㄍ ㄎ ㄏ(g k h)の一種だろう。
  なので、日本語の「九(kyu:kiu)」が、ㄐㄧㄡ(jiǔ)なるのが理解しやすい。

② 摩擦音(fricative)の子音系の対立は、そり舌の有無だろう。
  拼音では、z c sとzh ch shとしているが、このhがそり舌化の直感を示しているかもしれない。
 ところで、このそり舌なのだが、北京語のㄦ化から推測するに、ㄜの強意形であり、もしかすると、介音としてㄦがあるのではないか。

③ 純粋に単独の母音と言えるのは、ㄚ ㄛ ㄝ(a o e)だけではないか。
  つまり、ㄞ ㄟ ㄠ ㄡ(ai ei ao ou)では、いわば、「語末の介音」のような現象なのではないか(ㄦ化も含めて)。

 

 

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2020.07.09

注音とハングル化、及び介音と四呼

 このところ、朝鮮語の学習と中国語の学習に並行して、朝鮮語と中国語の音韻と正書法の関連を調べていたのだが、ようやく注音符号の重要性に気が付き、そうしてみると、ハングルも元来は注音符号だったことに気がつく……はずなのだが、うかつにも気が付かなかった。いや、無意識では気がついていたのだろう、夢に出てきた。朝ぼんやりした頭で思考を続けていた。目覚めて、こんなものどこかにあるだろうとネットにあたる。「ハングル 注音符号」のキーワードでなんか出てくるだろうと思った。意外と見つからない。
 そんなはずはない。なぜ、そんなはずはないか、といえば、ハングルを使う朝鮮人は、ハングルの漢字音で現代中国語の固有名詞を実質音表記してないはず……なのか?
 「北京」を例にすれば概要が見えるだろう。

北京の漢字対応
 北 → 북
 京 → 경 

「北京」が「북경」となっているか検索すると、けっこうヒットする。使われているようだ。日本語風に発音すると、「プッキョン」のようになるだろう。
 で、まあ、そんなはずはない。そんな音では通じないし、そもそも「北京」の中国音がわからない。というか、先の検索過程でわかった。

 北京 → 베이징

 ちなみに、注音符号ならこう。

 北京 → ㄅㄟˇ ㄐㄧㄥ

 つまり、こういう対応があるだろうか?

 北京 → 베이징 ← ㄅㄟˇ ㄐㄧㄥ

 かなり対応しているとも言えるし、中国語の二重母音が、이で分離している時点で、だめじゃんとも思う。というか、そもそも韓国語には、[ei]の音がない。重母音に[e]の系列がない。
 いずれにせよ、「北京 → 베이징」を生み出す規則がどっかにあるはずで、これは、当然韓国政府内にある。あった。「文教部告示第85-11号《대한민국 외래어 표기법(제85-11호)》」である。国立国語院が1986年1月7日に決めたものだ。
 1986年というと、私が28歳のころ。そういえば、いつから、「金大中」が「キム・デジュン」になったのだろうかと記憶を探る。日本の報道が変わったころはいつだったか。調べてみると、全斗煥(전두환)大統領の1984年の来日で彼の意向だったらしい(参考PDF)。韓国からの外圧を、安倍晋三さんの父の安倍晋太郎さんが外相だった政治的に判断したようだ。どうでもいいけど、ネットでは安倍晋太郎についてあまり語られてませんね。
 全斗煥大統領としては、国立国語院の決定を受けてというのは、時期が合わないので、むしろ、日本への外圧をかけてから整合性を取るために「文教部告示第85-11号」ができたかもしれないという疑念は残るが、しかし、基本は対日政策ではなく、対中政策ではあっただろう。
 ここで奇妙なことに気がつく。「東京」である。
 現状では、一般にはこうされている。

 東京 → 도쿄

 漢字音ならこう。

 東京 → 동경

 これが使われているかというと、Wikipediaの「東京」の項目は朝鮮語で「동경 (동음이의)」となっているので、現在でも使っているのだろう。ただ、Wikipediaでは「Tokyo」の項目から、「도쿄 (동음이의)」が出てくる。도쿄というのは、「Tokyo」の対応で、日本語の「東京(とうきょう)」の対応ではなさそうだ。
 ちなみに、韓国が中国語を漢字形ではなく中国語音を基本にしているなら、歴史名称なども入れ替えているのかと気になるが、外国語表記については別途規定されていて(参考)こういうことらしい。

제4항중국 및 일본의 지명 가운데 한국 한자음으로 읽는 관용이 있는 것은 이를 허용한다.
예시
東京 도쿄, 동경 京都 교토, 경도 上海 상하이, 상해
臺灣 타이완, 대만 黃河 황허, 황하

 このなかにすでに「東京」の例があり、しかも、도쿄, 동경ということだった。
 現状の国家間の対応からすると、「上海」が「상하이」なら、整合性を理由に、日本政府としては、「도쿄」ではなく、「도쿄오」とするように示唆するか、日本政府側から、固有名詞のハングル表記の整合的な案を提示していいだろう。
 というわけで、関連して書こうと思っていた「介音と四呼」についてはまたいずれ(ハングルは介音ではなく四呼が基本かもしれない)。

 

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2020.07.08

[書評] ULTRA LEARNING 超・自習法――どんなスキルでも最速で習得できる9つのメソッド(スコット・H・ヤング)

 勉強ができるようになりたいという人は多い。そして、「こうすれば勉強ができるようになる」という本も多い。こうした本のなかにはけっこうベストセラーもある。だが、そのこと自体が、実は、こうした本はあまり意味ないんじゃないかと直感させるものがある。ということが直感されるだろうか? ひねくれた言い方になるが、この直感がある人にとって、本書『ULTRA LEARNING 超・自習法――どんなスキルでも最速で習得できる9つのメソッド』はけっこう面白い。納得できる箇所が多いというよりも、その直感の確信をうまく捉えている。

 

 逆に言えば、勉強法なるもの書籍は、手法的にできる。①例証(とくに著者ひとり)でされているメソッド、②実証されているメッソド。
 たいていはその2つの面の曖昧なアマルガムになるが、この②を最近の知見で、さらっとまとめることもでき、例えば、メンタリストDaiGoの『最短の時間で最大の成果を手に入れる 超効率勉強法』がそれだろう。まあ、よくまとまっているし、個々の知見は参考になるのだが、核心的な直感は欠落している、と私は思った。他方、クイズ界で有名で独自な笑い声で人気のYouTuberでもある伊沢拓司の『勉強大全』は、受験向きであるが、とても普通の勉強法が書かれていた。よい意味で普通なのである。ひねくれた言い方をすれば、高校の授業で普通であることは難しいかもしれないが。
 さて、類書を挙げていけば切りがない。が、本書の直感の核は、同書のウリ文句である「どんなスキルでも最速で習得できる9つのメソッド 」とは矛盾しているのである、当然。
 では、その核心の、留保的な思索はどのようなものか? 例えば、こういうものだ。

 人間の長期記憶の根底にある正確なメカニズムについてはまだ結論が出ていないが、

 そこがわからないのである。そこがわからなければ、そももそも「超自習法」であれ「超学習法」であれば、いわゆるコンピュータ的なモデルとは変わりない。
 その上で、著者は、「忘れる」という人間の脳の特性に関心を持つ。そこからまとめられているのは、4点、間隔反復、手続き化、過剰学習、記憶術、であるが、これは類書の粋を出ない。実際のところ、受験勉強や、習い事(ピアノやデッサンなど)でも特段に変わりはない。しいていえば、記憶術は興味惹かれるところだが、著者は、最終的にそれほどのメリットはないとしている。
 当たり前といえばあたりまえだが、ある異言語を学ぼうとしたら、300語、2000語、6000語といった段階的な語彙の記憶構築が重要になるが、記憶術が対応できるのは、せいぜい2000語圏内だろう。その先は、記憶術で思い出そうとするプロセス自体が言語の運用に邪魔になるからだ。
 実は、確定的に示せる新規な「超自習法」も「超学習法」も存在しない。では、どうするのか、正確に限定的に目標を設定し、学習手順を規定し、その上で、一定期間で組織的に学習をフレキシブルに見直していく、しかない。むしろ、「超自習法」も「超学習法」といったメソッドが邪魔になるのである。
 その意味で、雑多な知識の集まりに見える本書の知見は、そのフレキシビリティーへの洞察の参考になるだろう。そして、本書が上手に指摘しているように、学習がある達成を遂げたとき、学んでいないことが多いことに気がつく、という点が重要だろう。
 本書については、こうした分野に関心あれば、面白い書籍だろうと思う。個人的には、その長期記憶の謎、忘却の謎、さらには、ウルトラ学習者たちの秘密、といったさらなる内的な領域だが、おそらく、人格の構成に由来しているだろう。人は学ぶというとき、なにか知識は技能が自分に加わると考えがちだが、学ぶという行為は、その人自体の変容であり、変容の欲求や変容の受容のありかたである。

 

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2020.07.07

[書評] 筆談で覚える中国語(陳氷雅)

 このところ、中国語の学習をなんとなく再開しているのだが、そのなんとなくのきっかけは、Duolingoで日本語から中国語を学ぶコースができたのを試したことだったからだ。試していると、とても簡単なのである。いちどピンズラーをベースに学んだからかなと思ったが、そうでもない。どういうことかというと、漢字を見れば、答えがわかるからだ。
 当然、こう思った。

 発音の差がなければ、日本語と中国語ってそんな変わらないのではないか?

 よく、日本語はSOVだが中国語はSVOだとか言われて、「我爱你」とか出てくるのだが、間違いでもないが、言語を学ぶ上で、あれ?と思うのは、「私は彼が最後に愛したという女性に会ったことがる」とかだと、「我遇到了一个他最后爱过的女人」のようになる。これは、「我が遇ったのは、彼が最后に爱した女人」ということで、日本語に収まってしまう奇妙さである。
 そもそも、漢字というのが、こうした言語差を覆い隠す仕組みだから、むしろ、漢字を並べて意思疎通することを優先したほうがいいんじゃないか、と思い、そんなアイデアは誰も思い浮かぶよなと見ていて、本書を見つけた。

 

 「12時間で中国語がマスターできる」ともしている。「そりゃ、サンマーク出版だからな」とツッコミを入れたくなるし、冒頭、成功体験談が並んでいて、そこで息切れしそうになるが、そうかもと思ったのは、これだ。

 中国語を学ぼうと思ったら発音は「あとまわし」にしたほうがいいのです。

 その先がけっこう衝撃的だった。

 3歳のときから、親の都合で違う言語環境に投げ込まれ、20年間にわたり中国の7種類以上のまったく違う方言とつき合ってきました。

 これ、びっくりしないですか。僕は、びっくりしましたよ。中国語の方言というのは、「方言」とは言い難いなんかですよ。というか、そういう環境にいたら、中国語の核というのが、発音じゃないなという直感が芽生えて当然でしょう。
 本書には極限されていないけど、日本語だって、いずれ中国に統一されるときは、一つの方言になるんですよ(笑)。
 冗談はさておき、そうした観点から考えると、日本人にとって中国語は、英国人にとってのフランス語みたいなもので、発音はわからないが、字面を見ればわかるなんかだ。
 漢字も、簡体字が多少やっかいだが、せいぜい800字(と著者は見ている)。
 日本語話者の人から中国語を見ると。

①名詞に複数形がない
②名詞の格変化がない
③名詞の性別がない
④動詞・形容詞に活用がない
⑤格助詞がない
⑥敬語がない

 まあ、細かく見れば異論もあるかと思うけど、ラテン語とはかなり違う。
 そして、こう。

①動詞文は英語と似ている
②形容詞文にBe動詞が不要
③修飾語と疑問文は日本語構文と同じ

 なるほどね。で、本書はそれを、それなりに体系化していく。
 で、筆談といいながら、かたかなで振り仮名が降ってある。

 イュ ティン ラ チュ シュェ シャウ
 雨  停   了 去  学   校

 言語を学ぶとき、よく振り仮名はやめようと言われるし、中国は特にそう注意されるが、そうでもないんじゃないか?
 ただ、本書の意図であれば、こうして欲しかった。

 ウ テイ リョウ キョ ガッ コウ
 雨 停  了   去  学   校

 さらに言えば、こうして欲しかった。

 雨が止んで行くのは学校。
 雨 止  行   学校
「止→停」、「行→去」

 冗談みたいな話はさておき、筆談とかにこだわらなくても、中国語の構文や主要動詞についてはよくまとまっていて、それなりに、便利な書籍だなと思った。確かに、中国語って、発音にこだわらなければ、筆談するという伝達性より、それなりに読めてしまう可読性はもっと注目されていいだろう。

 

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2020.07.06

2020年東京都知事選、「リベラル」の迷走

 2020年東京都知事選が終わった。だいたい予想どおりの脱力した結果だった。「リベラル」と見なされることの多い宇都宮健児氏と山本太郎氏については、《いわゆるリベラル票が宇都宮氏と山本氏で割れる。リベラル票の全体は、前回のその全体であった鳥越俊太郎氏を指標にすれば、だいたい20%。》、前回の「リベラル」の《鳥越氏は選挙時にスキャンダル的な話題の影響を受けたので、それがなければもう10%は載せていたかもしれない。》と予想した。結果は25%弱。予想範囲内。
 他方、小池百合子氏については、《今回は増田氏のポジションがなく、小池氏に吸収される。つまり、小池氏が、70%は行く。小池氏圧勝は間違いないだろう。》で、圧勝だったが、結果は60%弱。予想範囲内とも言えるが、ここの10%のブレはなんだろうと選挙結果を見ていくと、維新の小野泰輔の10%弱があり、まあ、概ねそんなあたりだろうとは思った。
 投票率は55%程度で半数を超えたらから、小池都政の信任ということでいいだろう。そうじて、くだらない選挙だった。が、私は投票所には行き、行列の「密」を経験した。それでも、こんな選挙に参加することに意味は感じられなかったというか、これに参加させられることにある種、嫌な強圧的な権力を感じた。
 結果を受けてでのネットの動向だが、ブログには書かなかったが、予想を超えるものはなかった。金子勝先生の香ばしいツイートも見かけたが、あえて引用するまでもないだろう。「リベラル」が極右とみなす桜井誠氏が18万票弱を得たことに危機感を表明するツイートも見かけたが、6年前の田母神俊雄氏の61万票を忘却しているのだろう。ちなみに、このとき宇都宮氏は98万票強。今回は、85万票弱。
 そうした点で、今回の都知事選は、「リベラル」の迷走が際立った。投票日に立憲民主党の党首から「宇都宮餃子」のツイートにつづいて同種のツイートが現れたのは、昭和のドブ板選挙の候補者名連呼の郷愁というか哀愁を感じた。
 「リベラル」の迷走はむしろ、プレジデントに掲載された『小池百合子に清き一票を投じてしまう「普通の人々」はどこにいるのか』(参照)という興味深い記事に暗示されているように思った。論者は、小池氏圧勝は、空虚を中心とする百田尚樹現象と同じだとする。

それは小池にも当てはまる。小池はどこまでも空虚であり、過去の言動をいくら仔細に分析しても、批判そのものが空転する。彼女にとって過去は過去でしかなく、絶対の行動原理は「当選すること」に向けられているからだ。着目すべきは、彼女を支えている人々、言い換えればポピュリズムを支えている人々だ。

果たされる見込みのない公約は、軽薄なキャッチフレーズで打ち出され、その言葉はメディアを通じて流され続け、過去はどうでもよくなってしまう。

昨日の話題がすぐに流れ、忘れてしまうようにSNSのように政治家の発言も流されていく。その結果、空虚な政治家が押し上げられていく。それは決して、変わった人々によってではない。どこにでもいる人々が、そうした政治家を支えている。

それはどのような理由によってか、なぜ忘却は進むのか。これ以上、空虚な政治を望まない人々が向き合うべきだったのは、小池本人の検証だけでなく、彼女を支える「普通の人々」の心情と向き合うことだったのではないか。私は自戒を込めてそう思うのだ。

 つまり、小池百合子氏を支持した普通の人は、目先に囚われ、忘却する、まあ、ぶっちゃけ言うなら「愚民」ということなのではないか。
 この普通の人にいかに向き合うかが、「リベラル」の課題だというなら、まあ、それもそうかもしれない。私もこんな選挙でも必ず行くべきだという「リベラル」な声に、今回ほどうんざりしたことはないくらいの愚民であった。
 しかし、東京都民の普通の人は、目先に囚われ、忘却しやすい人だという認識でいいのだろうか。違うような気もするが、その違和感が「リベラル」の課題になることはないのだろうなとは思った。また、小池氏を支持したのは、男性より女性だったということも、フェミニズムの論点になることもないように思った。

 

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2020.07.05

注音符号を学ぼうと思った

 こんとこ、なんとなく中国語の学習を再開しているのだが、だんだん、拼音の体系に疑問を持つようになってきた。そもそも、拼音は便宜で、漢字の発音を覚えてしまうまでのつなぎだと言えばそうだが、それにしても、やっかいな体系だなと思う。不合理とはまではいえない、というか、極めて合理的にできているという点で、拼音の体系はローマ字化としてすぐれているとは思うが、日本人が中国語を学習する初期段階では問題がありすぎる気がしてきた。
 具体的な一例としては、これ。

 huì(会)と wèi(畏)

 中国語を学んだ人なら、こんなの簡単と言うだろうが、表記システムとしてどうなんだろいう疑問が拭いきれない。
 簡易表記の元は、こう。 

 huì(会)← huèi

 これなら、初心者でも発音を混乱することはないのだが、それでも、四声の記号の位置が簡素化で動かざるをえない。ここも間違いやすい。
 さらに、もう一方もこう。

 wèi(畏)← uèi

 拼音は語頭の u を子音のように表すために、見かけ上、wになっている。
 しかも、中国語音韻体系からすると、この u は、介音である。つまり、拼音を使うと介音の意識が抜けやすい。
 この点、注音符号だと、混亂はないし、「ㄨ」が介音であることも認識しやすい。

 会  ㄏㄨㄟˋ (huì)
 畏   ㄨㄟˋ (wèi)

 音の表記体系としては、注音符号のほうがすぐれているとしか、いいようがないと思う。とはいいえ、注音符号は、ローマ字化にもならないし、ハングルのように国際的にもわかりにくい。
 ローマ字化の拼音は、全体としてみればイレギュラーが少ないとも言えるし、イレギュラー的に見える部分は幼児教育で叩き込めば、実用化に耐えるだろう、ということなのだろう。
 というわけで、拼音は明らかに、そうした便宜とそうした合理性からできたのだろうが、どうも変な印象があるので、調べていくと、というか、歴史背景からして、できたのが、1958年の第一回全国人民代表大会第5回会議。それ以前は、注音で、つまり、拼音は注音のローマ字化であって、その実態は注音と見てよさそうだ。
 むしろ、拼音を学ぶ際に、その発音の実体をIPAで確かめるより、注音のほうがよいだろう。
 ということで、むしろ、拼音を学ぶために、注音を学んだほうがいいだろうと、私は考えるようになった。

 

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2020.07.04

「中华人民共和国香港特别行政区维护国家安全法」雑感

 「中华人民共和国香港特别行政区维护国家安全法」(参照)通称、「香港国家安全維持法」または「香港国安法」が6月30日の中国全人代常務委員会で可決され、全文公開期間の間もなく、しかも中国語(普通話)のみで同日午後11時から施行された。このどさくさ感。英文も仏文もないという国際世界無視。これだけでも、すぐに「これはやっべーやつだ」という印象を免れない。西側諸国としても、香港の一国二制度は死んだ、という報道が続いた。
 しかし、たぶん、こういう意味だろう程度のラフな感じではあるが、憶見なく冒頭を読んでみよう。

第一章  总    则

第一条  为坚定不移并全面准确贯彻“一国两制”、“港人治港”、高度自治的方针,维护国家安全,防范、制止和惩治与香港特别行政区有关的分裂国家、颠覆国家政权、组织实施恐怖活动和勾结外国或者境外势力危害国家安全等犯罪,保持香港特别行政区的繁荣和稳定,保障香港特别行政区居民的合法权益,根据中华人民共和国宪法、中华人民共和国香港特别行政区基本法和全国人民代表大会关于建立健全香港特别行政区维护国家安全的法律制度和执行机制的决定,制定本法。

(「一国二制度」、「香港人香港を統治する」、高度な自治の方針を揺るぎなく包括的かつ正確に実施するために、国家安全保障を維持し、国家権力を破壊し、テロ活動を組織し、国家安全保障およびその他の犯罪を危険にさらすことや外国または外国軍と共謀するなど、香港特別行政区に関連する国の離脱を防止、停止、処罰し、香港特別行政区の繁栄と安定を維持し、香港特別行政区の居住者の合法的な権利と利益を保護するために、中華人民共和国の憲法、中華人民共和国の香港特別行政区の基本法、および国家安全保障を維持するための香港特別行政区の法制度と執行メカニズムの確立と完全化に関する全国人民代表大会決定において、この法律を制定する。)

第二条  关于香港特别行政区法律地位的香港特别行政区基本法第一条和第十二条规定是香港特别行政区基本法的根本性条款。香港特别行政区任何机构、组织和个人行使权利和自由,不得违背香港特别行政区基本法第一条和第十二条的规定。

(香港特別行政区の法的地位に関する香港特別行政区基本法第1条および第12条は、香港特別行政区基本法の基本規定である。香港特別行政区の組織、組織または個人は、権利と自由を行使するのに、香港特別行政区基本法第1条および第12条の規定に違反してはならない。)

 へえと思ったことがある。まず、中国は、名目上は、「一国两制」「“港人治港」という高度自治的方针を尊重しているというのだ。その上で、香港を使った形で、中国政府を転覆するような危機に備えるためにこうした法を作るのだとしている。そしてその上で、これは香港人にも利益となるという。
 このあたりの中国の言い分は、中国大使館の「香港国家安全立法について知っておくべき六つの事実」(参照)にくどくどと書かれている。
 こうしてみると、中国政府の、けっこう被害妄想的な心象が伺えるが、このあたり、ようするに香港人は他の地域の中国人と同じであるということなのだろう。同じくらいに人権は抑制されるということでもあるが。
 言い方は悪いが、今回の立法で、香港人の人権は絶望的というなら、中国人全体の人権も絶望的ということにはなるのだろう、たぶん。
 二条に読み進めて、さらに、へえと思ったのは、この法律が、香港特別行政区基本法の拡張だという、なんというか珍妙な論理である。NHKの加藤青延・専門解説委員の説明だと(参照)こういうことらしい。

ところが厄介なことに、今回の国家安全維持法は、その香港基本法に付属文書の形で盛り込まれたのです。香港基本法の規定上、中国の全人代はそのようなことができる仕組みにはなっていましたが、高度な自治を脅かすことになりかねないことから極力控えられてきました。しかし今回その仕組みを使うことで、国家安全維持法を香港基本法の中に組み入れたのです。もし香港の法律と抵触する場合は、国家安全維持法の方を優先する形にもなりました。

 こういう中国政府の発想が、日本人にも西側諸国にも奇妙に見えるというふうには、思わないのだろう。というか、ようするに、これは、中国国内問題の意識が先行しているのだろう。
 加藤解説委員はさらにこのからくりが、9月実施予定の香港議会立法会議員選挙で民主派が躍進することを阻止するためだと見ている。

その理由は今回の国家安全維持法が、香港の憲法、香港基本法に付属文書の形で組み込まれた点にこそあるといえます。つまり国家安全維持法は基本法の一部ということになります。立法会の議員になるためには、香港基本法に忠誠を尽くすという宣誓をしなければなりません。その基本法に民主派の人たちがとても受け入れられない法律をあえて組み込むことで、基本法への宣誓を難しくし、結果的に立候補への意欲をそぎ落とす。
あるいは、これまでの主張が香港基本法とは相いれないものだとの理由をこじつけて、立候補自体を認めないという強硬手段に打って出ることも可能になると考えたのではないでしょうか。立候補の受付が今月18日から始まることを考えれば、今この時期に施行に踏み切った事情も読めてきます。

 なるほどねと思う。
 これで、香港議会の民主化は封じられたのだろうか? 中国政府としては封じる仕組みは作った。しかし、実質国家意識を持ち始めた香港市民が中国政府の思惑どおりに従うとも思えない。

 

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2020.07.03

2020年春アニメ感想

 我ながら、さしてアニオタでもないと思う。それほどアニメを見ているわけでもないが、と言いつつ、2020年春アニメもいくつか見た。感想をまとめておこう。
 ついでなんでランキングにしておこう。

第1位 イエスタデイをうたって
 すでに数本記事を書いているが、自分的にはダントツによかった。残念ながら、これがいいと言う時点で、自分が高齢者の部類だろうと思う。
 アニメ作品は、原作に反するということはないが、微妙に違ったものになっていた。それはそれでいいのだろう。
 青春とか恋愛とか、そういうものを回顧的にキュンキュンすると言えばそうだが、それよりも単純に、「愛とはなんぞや」と思った。まあ、そう思う時点で若くはないのだが。

第2位 グレイプニル
 さして興味もなく見ていた。微エロが多いのも、あまり好きではないなあと。さらにミステリー仕立てになっているのだが、話はよくわからない。が、主人公である二人、修一とクレアの感性はわかる。弱さや罪や、世界というものの違和感。そういう感覚に惹かれた。そして、第10話のクレアの命題があまりに決定的だった。

人は誰かのためなら、
それがどんな善良な人であろうとも、
どこまでも残酷になれる。

 ぐへぇ。この言葉に出会うためにこの作品を見る価値がある。
 そして、誰かのためでなく、自分のために生きるなら、それもまた、残酷な選択をするしかない。どうすればいいか。自分のために生きろ、である。

第3位 かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~
 これを上位に推すのは、非常に不本意である。コミックも全巻持っているのだから、オシだろうと言われても、不本意である。しかし、このギャグセンスにはしびれた。コミックにはない、微妙なネタを随所に込めてくるし、シーズン2の最終回は余裕で駄作味も出してくるしというか、この社会を舐め腐った余裕感と、愛の真実とアニメの愛が圧倒的すぎる。

第4位 かくしごと
 いい作品だった。もっと上位に推すべきなんだが、なんだろ、よかったからここ、である。最終回で号泣が待っているかなと思ったが、まあ、個人的にはしんみりにとどめているのがよかった。まあ、いい作品である。1シーズンでよくまとまっている。絵もきれいだ。

第5位 本好きの下剋上 司書になるためには手段を選んでいられません
 2期目である。我ながら、この作品の何がいいのかわからないが、好きである。
 なんだろと思うのだが、これって、子供の頃ひたすら本を読んでいた、ある種の感覚を思い出させる。お話というものが純粋にそこにある感じがするのだ。絵もそれによく合っている。純粋にお子様向けにもなるのがいい。

第6位 乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…
 不覚だった。こんな駄作、2話くらいで見るのやめるだろうと思っていた。でも、面白いと思っている自分がいた。
 『本好きの下剋上』でもそうなのだが、まじこいて、子供心が喚起させられる作品なのである。
 この手の作品をくだらないというのは簡単だろうし、あるいは、なんとかだから面白いというのも容易いが、それ以前に、とても、ピュアな作品なのだなと圧倒される。

第7位 LISTENERS リスナーズ
 順位はここまで。『LISTENERS リスナーズ』は何話まで見ただろうか、意外に面白いなあと思いつつ、脱落した。ディスることになるが、ロックの話がうるさいのである。ロックを熱く語るやつがうるさい、あれだ。


 さて、とりあえず、無難に推しというと、なんだろ。シリーズものは、慣れていないと重いし、『イエスタデイをうたって』は一般向けとも言えないし。そう考えると、『かくしごと』がいいだろうか。難しくないし、構成もいいし、楽しいし、人間感の芯もあるし。

 

 

 

 

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2020.07.02

「娑婆っ気」という言葉

 先日、若い人と話をしていて、ふと、「娑婆っ気」という言葉が口をついて、あれ?と思った。そんな言葉、今の若い人たちは知っているだろうか? きいてみた。案の定である。知らない。知らないからと責めるものではない。そもそも死語ではないかとも思った。
 「娑婆っ気」という言葉は死語であろうか? Twitterを検索してみると、まったくないわけではないが、微妙に意味のずれを感じた。軍隊や死後の世界での感覚を指している例があり、ようするに、一般社会とそれ以外の世界、との対比で出てくる用例が多いように感じられた。
 辞書を引くと、しゃばけ(娑婆気)に同じとあり、娑婆気はこう説明されている(日本語大辞典)。

〘名〙 現世に執着する心。俗世間における、名誉・利得などのさまざまな欲望にとらわれる心。世間体を飾ろう、みえをはろうとする気持。俗念。しゃばき。しゃばっき。しゃばっけ。
※消息(1899‐1900)〈正岡子規〉「時々は娑婆気を起して何やらの本が見たいの、誰やらの句集はないか、と」

 私がTwitterで微妙と感じた用例は、「現世に執着する心」という点では、正用法かもしれないなとも思う。
 ただ、意味としては、「俗世間における、名誉・利得などのさまざまな欲望にとらわれる心。世間体を飾ろう、みえをはろうとする気持。」のほうが近いだろうが、この定義より、もうちょっと軽い感じもする。
 都知事選でいうなら、宇都宮健児さんには、娑婆っ気はなさそうだ。小池百合子さんはけっこう娑婆っ気が強い。娑婆っ気のかたまりのようでもあるが、娑婆っ気というにはちょっと重苦しい。山本太郎さんはよくわからない。娑婆っ気そのものようにも思えるし、そうでないのかもしれないし。総じて、なさそうではある。
 そういえば、冒頭の話の文脈だが、私も若い頃、漱石の『こころ』のKのように生真面目というか求道心みたいな人かと自分を思ったが、娑婆に出たら、けっこう娑婆っ気があるのを知って驚いたという話であった。
 以降、他人を見るときも、この人はけっこう娑婆っ気があるな、娑婆っ気が強いな、娑婆っ気はなそうだ、となど自然に思う。
 それでどうしたというわけでもないのだが、まあ、そういうふうに見る人はもう老人の部類であろうか。

 

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2020.07.01

[書評] ヤクザときどきピアノ(鈴木智彦)

 鈴木智彦さんは、ヤクザの世界の潜入ルポで著名なライターということだが、私はよく知らない。だが、この本が、彼が52歳のとき、突然、ピアノが弾けるようになりと猛訓練をしたという内容だと知って、一も二もなく読んだ。自分に重なるからである。
 このブログにも残っているが、私もその年齢のころピアノを試みた。バッハが二番目の妻に贈った『アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳』の、最初の一番簡単なメヌエットがとりあえず弾けるようになった。ピアノというのは、なんだかんだ言っても、指を指示通りに動かせば弾けるのではないかということでやってみた。つまり、楽譜はあまり参照しなかった。そして、その後、続かなかった。そして、あろうことか、弾けなくなった。忘れたのである。そんなものかなと思っていた。
 ところが、昨年秋、62歳、またピアノを始めた。SimplyPianoである。今度は楽譜の訓練がけっこうある。順にやっていて、ようやく3か月くらいしてメヌエットが弾けるようになった。というか、SimplyPianoではレッスンは前半だけだったので、後半は譜面を見て弾いた。かつて弾けたときとはずいぶん感じが違う。
 SimplyPianoには、毎日続ける最小5分レッスンというのがあり、とにもかくにも毎日それを2つ、10分弾くようにしている。思ったほどうまくならないが、なんだろ、うまくならなくてもいいんじゃないかとも思う。
 話を戻す。鈴木智彦さんは、映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィ・ゴー』で流れるABBAの『ダンシング・クィーン』で、なぜか涙腺崩壊を来たし、なにがなんでもピアノでこの曲を弾きたいと思うようになったというのである。
 で、どうなったか。どのくらいの期間のレッスンでそれなりに弾けるようになっていたのをYoutubeで見た。大したものだなと思った。本書の表紙絵そのものなのも感動した。なお、書名『ヤクザときどきピアノ』というのは、ヤクザのルポをしつつ、ピアノも練習するということだろう。
 読み出して、まず、すごいなあと思ったのは、ピアノをレッスンしてくれる先生に電話で、ABBAの『ダンシング・クィーン』が弾きたい、弾けるようになりますかと、いきなりきいたという話だ。ヤクザ流とでもいうのだろうか。鈴木さんとしては、こうした突拍子もない質問にどう答えてくれるかで、先生を選んでいたそうだ。
 そして、選ばれた先生がいた。レイコ先生とある。開口一番、「練習すれば、弾けない曲などありません」と答えたという。その信念がすごいなあと読者である私も思った。うなずきまくりである。

 人間はいったん思い込むと、無意識のうち、そうなるように行動しちゃうのよ。

 まあ、そうであろう。

 身体に動作を叩き込もうとする時、点滴の針を太くしても意味がないのよ。だからこれだけは言える。あまりせっかちにならないで。なにがあっても、短い時間でも、毎日欠かさず練習するのがいい。

 そうです。SimplyPiano先生もそう言ってました。
 レイコ先生はすごいなと思った。

 私はピアノを教えたい。だから歌おう。

 それである。というか、私の場合は、逆で、実は、歌うためにピアノをやろうと思ったのだった。62歳で合唱を初めて、譜読みのためにピアノかなと思ったのである。もうちょっとレイコ先生語録を続けたい。

 音楽は誰もが生まれながらに喋れる言語なの。

 下手でもいいの。そんなこと音楽に関係ない。

 そうなのだと思う。というか、本書は、その証そのものではないか。鈴木さんの次の言葉も、がつんとくる。

 生徒のそれぞれが一生を通じ、楽しく音楽と付き合っていける、その道標となるのが学校の音楽教育ではないか。

 音大という世界にもヒエラルキーがあるようで、頂点は東京藝術大学らしい。権威主義者はどこにでもいるし、俺はもう五十二歳になった。馬鹿に付き合っている時間があるなら、そのぶんピアノを弾いていたい。

 それだな。
 本書は、ライターさんらしく、ピアノや音楽についてそつなくまとまっている部分もあるというか、参考書も多く読まれたようだ。ただ、私としては、もっと、具体的なピアノ・レッスンの日々の内面が知りたかった。本書では、レッスンの締めとして、発表に出る話もあり、そこはけっこう詳しく書かれているのだが、そういう心情とか、とてもぐっと胸に迫る。
 さて、我々は、いつまでピアノを弾き続けるのだろうか。

 

 

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