[書評] ヤクザときどきピアノ(鈴木智彦)
鈴木智彦さんは、ヤクザの世界の潜入ルポで著名なライターということだが、私はよく知らない。だが、この本が、彼が52歳のとき、突然、ピアノが弾けるようになりと猛訓練をしたという内容だと知って、一も二もなく読んだ。自分に重なるからである。
このブログにも残っているが、私もその年齢のころピアノを試みた。バッハが二番目の妻に贈った『アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳』の、最初の一番簡単なメヌエットがとりあえず弾けるようになった。ピアノというのは、なんだかんだ言っても、指を指示通りに動かせば弾けるのではないかということでやってみた。つまり、楽譜はあまり参照しなかった。そして、その後、続かなかった。そして、あろうことか、弾けなくなった。忘れたのである。そんなものかなと思っていた。
ところが、昨年秋、62歳、またピアノを始めた。SimplyPianoである。今度は楽譜の訓練がけっこうある。順にやっていて、ようやく3か月くらいしてメヌエットが弾けるようになった。というか、SimplyPianoではレッスンは前半だけだったので、後半は譜面を見て弾いた。かつて弾けたときとはずいぶん感じが違う。
SimplyPianoには、毎日続ける最小5分レッスンというのがあり、とにもかくにも毎日それを2つ、10分弾くようにしている。思ったほどうまくならないが、なんだろ、うまくならなくてもいいんじゃないかとも思う。
話を戻す。鈴木智彦さんは、映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィ・ゴー』で流れるABBAの『ダンシング・クィーン』で、なぜか涙腺崩壊を来たし、なにがなんでもピアノでこの曲を弾きたいと思うようになったというのである。
で、どうなったか。どのくらいの期間のレッスンでそれなりに弾けるようになっていたのをYoutubeで見た。大したものだなと思った。本書の表紙絵そのものなのも感動した。なお、書名『ヤクザときどきピアノ』というのは、ヤクザのルポをしつつ、ピアノも練習するということだろう。
読み出して、まず、すごいなあと思ったのは、ピアノをレッスンしてくれる先生に電話で、ABBAの『ダンシング・クィーン』が弾きたい、弾けるようになりますかと、いきなりきいたという話だ。ヤクザ流とでもいうのだろうか。鈴木さんとしては、こうした突拍子もない質問にどう答えてくれるかで、先生を選んでいたそうだ。
そして、選ばれた先生がいた。レイコ先生とある。開口一番、「練習すれば、弾けない曲などありません」と答えたという。その信念がすごいなあと読者である私も思った。うなずきまくりである。
人間はいったん思い込むと、無意識のうち、そうなるように行動しちゃうのよ。
まあ、そうであろう。
身体に動作を叩き込もうとする時、点滴の針を太くしても意味がないのよ。だからこれだけは言える。あまりせっかちにならないで。なにがあっても、短い時間でも、毎日欠かさず練習するのがいい。
そうです。SimplyPiano先生もそう言ってました。
レイコ先生はすごいなと思った。
私はピアノを教えたい。だから歌おう。
それである。というか、私の場合は、逆で、実は、歌うためにピアノをやろうと思ったのだった。62歳で合唱を初めて、譜読みのためにピアノかなと思ったのである。もうちょっとレイコ先生語録を続けたい。
音楽は誰もが生まれながらに喋れる言語なの。
下手でもいいの。そんなこと音楽に関係ない。
そうなのだと思う。というか、本書は、その証そのものではないか。鈴木さんの次の言葉も、がつんとくる。
生徒のそれぞれが一生を通じ、楽しく音楽と付き合っていける、その道標となるのが学校の音楽教育ではないか。
音大という世界にもヒエラルキーがあるようで、頂点は東京藝術大学らしい。権威主義者はどこにでもいるし、俺はもう五十二歳になった。馬鹿に付き合っている時間があるなら、そのぶんピアノを弾いていたい。
それだな。
本書は、ライターさんらしく、ピアノや音楽についてそつなくまとまっている部分もあるというか、参考書も多く読まれたようだ。ただ、私としては、もっと、具体的なピアノ・レッスンの日々の内面が知りたかった。本書では、レッスンの締めとして、発表に出る話もあり、そこはけっこう詳しく書かれているのだが、そういう心情とか、とてもぐっと胸に迫る。
さて、我々は、いつまでピアノを弾き続けるのだろうか。
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