東川清一著の3冊
教育について各分野でいろいろ論じられる。英語教育、国語教育、数学教育、科学教育など。音楽教育についても、多く論じられてはいるようだが、日本の学校教育はつまるところ、大学受験に収斂するため、音楽教育も音大受験的な枠組みで終わってしまう。だが、現代人が人生のなかで、音楽とどう向き合うとかという問題は、自分のように60歳を過ぎてみると奇妙な問題として立ち現れ、そして音楽教育とはなんだろうかという新しい問いとして浮かび上がってくる。
昨年の春から、ピアノと声楽を学び始めた。まったくの自己流でもない。ピアノは学習アプリを使っている、というか、SimplyPianoである。一通りレッスンを終え、ベートーヴェンの『エリーゼのために』の最初のテーマも弾けるようになった。そのあとは、簡素にアレンジされたバッハの曲を運指の練習がてら弾いているが、運指というより、実際には読譜の訓練のようにも思える。また、声楽というか合唱を始めた。グループでやっていて、指導も受けている。自分にテノールの声がまだ出るだろうかと、やっていると、ハイBくらいまでは出る。これもいろいろと学ぶ面があるが、基本は読譜だなあと思っていた。
というわけで、この年齢で音楽に向き合ってみると、読譜のあり方について考えさせられることが多くなった。その要点をごく簡単に言えば、ピアノは概ね、固定ドである。そもそもそういう楽器だ。他方、声楽はというと、これは諸議論あり、そのなかで移動ド論者の最右翼と見られていそうなのが、東川清一氏の主張のようなので、3冊ほど読んでみた。結論から言うと、驚きであった。固定ドや移動ドという問題はどちらかというと、些末であり、音楽教育はどうあるべきかという問題に直接触れていた。
『よい音楽家とは 読譜指導の理論と実践』東川清一・海老沢敏共編著 音楽之友社 1996
それなりに読書家と言われる人にとって人生の楽しみは、数年に一度出会う「圧倒的な書籍」だろう。文字によって書かれただけなのに読後、世界の感覚ががらがらと音を立てて崩れていくあの快感である。この本がまさにそれだった。
編著であり、東川清一氏の執筆は一部なのだが、その一部にすべての意味が込められているし、全体が調和している。冒頭は、ゾルターン・コダーイによる「よい音楽家とは?」という講演の翻訳である。コダーイという名前からすぐにわかるように、コダーイの思想が簡素に凝縮されているのだが、実際に読んでみると、その芯になっているのは、むしろシューマンである。シューマンは、こんなに偉大な教育家だったのかとため息がでる。その最大のポイントは、これ。
よい音楽家の、4点の判定基準
① よく練習された耳
② よく練習された知性
③ よく練習された心情
④ よく練習された手
一見あたりまえのようにも思えるが、①と②はようするに読譜である。そして、現在音楽教育と見なされているものの大半は、③と④であり、しかも、昨今、いずれ「音楽が聴けなくなる日」が来るといったの警鐘で語られている「音楽」は、ようするにメディアのことである。音楽が聴くメディアであるなら、①や②はようするに「鑑賞」能力になってしまう。シューマンが言っているのはそういうことではない。まったくない。
話が錯綜しがちだが、音楽教育というの基点が読譜にあるなら、それは、初等教育の課題である。が、本書によれば、それは五線譜を読むことではない。
ではそこで、聴くとは何か? 音がわかる(知性)とは何か?という問題が起きる。
これを裏面でいうなら、同書の東川氏の考察にあるように、「ピアノは『読譜』できなくても弾ける」という奇妙な命題に至る。突き詰めれば、ピアノはタイプライターである。実際、clavier である。
さらに、東川氏は「五線譜の指導は音楽自体を教えてから」という命題に移る。「音楽を楽譜から切り離すこと」ともしている。
具体的にどうするのか? 音を聞いて耳コピのようにすればいいのか?というと、そうではなく、ここで、「簡易譜」という概念が出てくる。
私は実に間抜けだったなあとしみじみ思ったのだが、いわゆるコダーイ・システム(コダーイ・メソッド)でハンドサインが出てくるのは、あれが「簡易譜」だったからだ。そして、コダーイ・システムというのは、既存の歌の指導にハンドサインを使うことではなく、そもそもハンドサインという簡易譜で音程の感覚を教育するためのものだった。
そしてその先、音程の教育のために「モデル歌」という概念が出てくる。ここでまたも、私は実に間抜けだったなと思ったのだが、日本の明治以降の唱歌というのは、そもそもがこの「モデル歌」であったのだった。実際明治期には、数字譜が使われてもいたようだった。
東川氏の考察には書かれていないが、日本の音楽教育が、シューマンの伝統から外れていったのは、恐らく私が子供だった、昭和30~40年代のピアノ・ブームではないだろうか。私の小学校の同級生の女子の八割はピアノを持っていたかと思う(私はいわゆる中産階級地域に育ったということでもあるだろうが)。ついで私の私怨を述べれば、小学校の音楽教師がいわば楽器主義ともいうべき女史で、ひどい目にあった。が、その知識面は私は吸収したので、中学校での音楽はなんの苦もなくよい成績を得ることができた。
本書のもう一つの驚きは、第二部のジャン・ジャック・ルソーの「音楽のための新記号案」である。これは、『告白』を読んでいるときにも感じたが、若いルソーはこれに人生を賭けていた。そもそも『告白』は彼の変態的な内面の吐露が目的ではなく、音楽家の自伝として企図されたものであった。
第三部は日本の唱法論争についての議論である。かなり詳しいが、一般人にっては、解結もできない難問だろう。
『退け、暗き影「固定ド」よ! ソルミゼーション研究』音楽之友社 1983
東川氏の単著であり、おそらくこの分野での主要文献になるのだろう。が、読んでみると専門的過ぎて、一般人には理解しづらいかと思う。それでも、トニック・ソルファ法として、事実上、かなり詳細なコダーイ・システムが説明されているのが興味深い。これをきちんと指導すればよいのだろうが、そもそも教師がないのではないか。
『移動ドのすすめ 正しい読譜法と視唱指導』音楽之友社 1985
これは、『退け、暗き影「固定ド」よ! ソルミゼーション研究』の一般向けの書物のようだし、課題も含まれているので、読んで理解し、自習できそうにも思えるが、私には難しかった。
さて、3冊を読み終えて思うのだが、私たちの小中学校での音楽教育は、それがきちんと組織づけられているなら、音楽というものの基礎になるのだろう。特に、唱歌というのをきちんと音楽教育に位置づけていくべきなのだろう。
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