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2020.06.30

[アニメ] 響け! ユーフォニアム

 なんとなく今はいいかなあと思ってパスっていた京アニの『響け! ユーフォニアム』だが、2つのシーズンを見た。そして、現在2周目で、2シーズン目の途中。これは4周くらいしそうな気がする。なお、『リズと青い鳥』も見たのだが、それはまた。
 すごい作品だった。アニメとして、ここまで繊細な作品というのはあるのだろうかと思った。その繊細さというのは、それが見える人には見えるようにできている。押し付けがましさはない。どう見てもいいし、その一例でいうなら、ごく凡庸な物語として見ることもできるだろう。ストーリーも、繊細さのなかにスリルがあるが、そうでなければ、日常の物語である。しいていえば、花田十輝さん的には、『やがて君になる』の先駆的な意味合いもあるのだろうが、それがこの作品の本質というものでもない。
 吹奏楽、広義に音楽のアニメとしても秀逸で、というか、秀逸すぎて、あー楽器練習しようかあ、という気になる。音も美しい。
 個人的にはロケーションもツボだった。私は宇治が好きで4回くらい行っている。私の好きな道元のゆかりというのもある。子供も連れて行った。あの宇治川の風景が好きだ。
 アニメとして、主人公の黄前久美子の声優・黒沢ともよも良かった。『宝石の国』のフォスフォフィライトも彼女以外が想像できないが、黄前久美子についてもそう。微妙に覚めた投げやりなモブ感が違和になる微妙な声は彼女だけのものではないだろうか。
 作品としては、音楽というある超越的ななにかが、私たちの凡庸な日常を横切るとき、どうしてもある何かを残すということではある。それはそのまま超越性といってもそうなのだが、それでも無駄なトートロジーだ。アニメの群像は、絶えず、その超越性を音のなかに聞き取り会い、それを繊細な人間関係の視線のなかに返していくのだが、その細い線が生の意味と、ある意味、絶望を織り上げていく。
 これがアニメでなければできない作品なのかというと、おそらくそうなのだろう。京アニというのはすごいものなのだと改めて思った。

  

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2020.06.29

最近読んだ医療関係の本、4冊

 比較的最近読んだ医療関係の本、4冊について。どれも比較的新しい本。

『世界中の医学研究を徹底的に比較してわかった最高のがん治療』勝俣範之、大須賀覚、津川友介

 

 物々しいタイトルで、それだけ見ると、いかがわしい本じゃないかという印象もあるが、内容はそのまったく正反対で、ようするに、標準医療がもっともすばらしいことである。その含みでいうなら、がん治療を求めているなら、定評のある病院の標準治療を受ければよく、民間療法や代替医療はやめたほうがいい(なぜなら最高ではないから)ということである。おかしな医療に騙されないようにという趣旨でもあり、賛同する人も多い。
 がんの患者さんで周りからへんてこな治療法や健康法を勧められて辟易となっている人が、そういう人に「これ読んでね」と手渡せる本でもある。
 内容について特に批判はないが、現実問題として、勝俣範之先生のような腫瘍内科の専門医を配備している病院がすべてというわけでもないので、そのあたりの実態との乖離とかはどうしたものかなあというのと、津川友介先生の担当部分は別書で尽くされている感もあるので、本書とのコンセプトがずれている印象はあった。むしろ、緩和ケアのプラクティカルな話題と検診についてを具体的な指針を充実させてほしいと思った。次作も期待したい。


『〈いのち〉とがん 患者となって考えたこと』坂井律子

 

 昨年の2月の刊行なので、それほど新しい本ではないが、『世界中の医学研究を徹底的に比較してわかった最高のがん治療』とは異なり、徹底した患者目線で書かれた本。
 私の率直な思いでいうなら、『世界中の医学研究を徹底的に比較してわかった最高のがん治療』は読まなくても、『〈いのち〉とがん 患者となって考えたこと』は読んだほうがいい。こういうとやや言い過ぎの感もあるが、従来にない、がん闘病記である。というか、ここまで徹底した闘病記というのは、読んだことがなかった。圧倒的だった。


『やってはいけない がん治療 医者は絶対書けないがん医療の真実』岩澤倫彦

 

  基調は、『世界中の医学研究を徹底的に比較してわかった最高のがん治療』と同じで、標準治療を推進させたいという趣旨の内容。専門家ではなく、医療ジャーナリストの視点で書かれている。特徴的なのは2点。①近藤誠医師批判、②がん検診批判である。
 内容的には、医学・医療的に正確に書かれていると思った。書籍として興味深いのは、近藤誠医師批判である。著者自身が検診でがんの疑念があるということで、近藤医師のセカンドオピニオンを求めたルポが興味深い。読むに、なるほど、近藤医師も問題だなということがよくわかる。ただ、近藤医師を弁護したいわけではないが、著者のような事例では、近藤医師のいうように5年生存率は高いと見てよいのではないだろうか。もう2、3の事例を見たいとは思った。

 

『「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信』大脇幸志郎

 

 こう説明されていて、まあ、そのとおり。

「健康」から生活をまもる』というタイトルからも想像がつくとおり、この本は「医学の本」ではない。とはいえ、「アンチ医学の本」でもない。サブタイトルに「最新医学と12の迷信」とあるように最新の医学 情報をふんだんに取り込んでいる。

 しいていえば、健康とは何かということの再考を促す書籍である。つまり、健康であることが最高の価値でもないだろう。不健康だと理解したうえで不健康を選ぶ人生もあるだろうと受け取ってもよいだろう。
 というわけで、医療と健康の論点を、医学知識を個人の判断に帰着させている。が、医学知識は、医療のもつ公共性にも依存しているのだが、そうした側面は本書には含まれていない。

 

 以上、4冊。『〈いのち〉とがん 患者となって考えたこと』(坂井律子)は強くお勧めしたい。

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2020.06.28

日本語の「やってる」の意味がよくわからない

 私は日本語ネイティブなのだが、実のところ、日本語がよくわからない。ネイティブというものはそういうものなのだろうが、それにしても、日本語という言語の文法の本質も語彙・語用もよくわからない。
 例えば、「やってる」の意味がよくわからない。
 先日、コロナ疲れして、エスニック料理店でディナーにしたかった。気になったのは、お店がやっているかどうかだ。電話してみた。店長・店員は外国人で日本語がたどたどしいところがあるが、問題はないだろうと思っていた。電話が通じると、私はこう言った?

 「やってますか?」

 相手がしばらく沈黙していた。その沈黙で、あれ?と自分でも思ったのだ。「やってますか?」で通じるものなのか? 自分でもプチパニックして、言葉を継いだ。

 「7時に予約できますか?」

 ここで、相手が「予約」という言葉に反応して、事なきを得た。久しぶりのエスニック料理はおいしかった。
 さて、「やってる?」ってなんだろう?
 「お店、やってる?」である。ごく当たり前の日常語だと思うのだが、言語的にどうなのだろう?

 お店はやっていますか?

 DeepLにかけてみた。

 Do you have a store?
 Do you run a shop?
 Are you in business?

 ついでにGoogleもやってみると、run a shopだった。まあ、間違いではない。
 なんで、この意味が「やっている」から出てくるのだろうか?
 ちなみ、これはどうだろう?

 やつは、やってますかね?

 Is he doing it?
 Is he doing this?
 Does he do that?

 さらにこれはどうか?

 やってけませんね。

 I can't do it.

 ネイティブとしては微妙に違うかなという気がする。そもそも、「やる」からどうしてこういう意味が出てくるのだろうか?
 辞書なども見たがよくわからない。日本語教育関係の論文もあたってみたが、よくわからない。

 

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2020.06.27

Duolingoを使った中国語の学び方

 Duolingoに日本語から学べる中国語のコースができたが、率直なところ簡単過ぎて学習にならないなと思い、英語から中国語を学べるコースに変えた。日本語でのコースと比べると学習量が3倍から4倍ある。また徐々に難しくなるので、けっこう勉強になり、そうなると、とりあえずツリー制覇を狙いたくなる。これがようやく達成した。

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 当初はただ普通に学んでいたのだが、一巡ツリーが終わってレベル2の制覇となると、もうちょっときちんと中国語を学びたいというか、レッスンごとにレッスン意図がわかるように学びたいものだと思い、個々のレッスンの前に Tips を参照するようにした。振り返ってみると、きちんと Tips を使ったことは他の言語でもなかったように思う。

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 やり方はこう。なお、コースは分野ごとに多数のレッスンに分かれていて、1つのレッスンは3つくらいのバイト・サイズレッスンに分かれている。バイト・サイズレッスンは「一口サイズ」とも言われているが、以下は、バイトとする。

① 1レッスンの前に Tips を読む
② 各レッスンのバイトは飛ばしなしで全部やる
③ レッスンで不明な点があったら Tips に戻る

 考えてみたら当たり前だが、理解して、練習して、わからない点を理解に戻して、とやるのは、学び方としてわかりやすい。それと Duolingo も地味に改良が進んでいるのか、何回か間違った問題は、1レッスンの終わりに復習ができる。これもけっこういい。
 Duolingoの良さはとにかく、小さい単位のレッスンが多いことだ。なんどもなんども繰り返すことができるし、繰り返さないといけない。そこがつらいというのもあるのだろう。
 そういえば、現在私は、ダイヤモンド・リーグというのにいる。今まで他の利用者と競い合うことはしなかったのだが、同じくらいの頻度で勉強する人は自動的にリーグ分けされて、そのリーグで上位になるとさらに上の段階のリーグになる。ダイヤモンド・リーグは最上位である。
 このリーグをやってみてわかったのだが、バカみたいにDuolingoで学んでいる人を発見する。どう考えても、一日5時間くらいやっているのではないかという感じがする。例えば現在ダイヤモンド・リーグのトップの人は昨日1000ポイントだった。Duolingoの通常レッスンの1バイトは10ポイントなので、100バイトをこなしたことになる。1バイトを終えるのに初級だと5分から10分かかる。5分として100なら、500分。だいたい8時間。まあ、一日中やっている算段になる。ちなみにこの人は1年間くらいスペイン語だけやっている。トータルで見ると、90000ポイント。日割りすると、1日250ポイント。まあ、一日3時間から4時間はやっているのだろう。こういう感じの人がDuolingoにはけっこうざらにいる。ちなみに2位の人を見たら、英語だけ学んでいた。ネイティブが何かはわからないが、英語だけを学んでいる人も多い。
 Duolingoでどの程度英語が学べるかはよくわからない。日本語から英語も学べるので、たまに覗くのだが、かなりクオリティが低い。
 そういえば、フランス語のコースだが、どんどんレッスンが追加されている。ツリー制覇もそのたび再挑戦になる。

 

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2020.06.26

植田真理子という人

 このところ、中国語と漢文の関連の情報をネットでさぐっていて、青蛙亭漢語 塾というサイトをなんどか見た。そのトップページ(参照)に、「当サイト管理人 植田真理子さんは逝去されました。重要なお知らせをご参照ください。」という注記があった。同サイトの作者はもう故人なのであろうと、参照先を見る。

当サイトの管理者・植田真理子さん(まんどぅーか/青蛙亭管理者も同一人物)は、2015年3月15日に逝去されました。
生前親しく交友しておりました友人有志にて「植田真理子さんを偲ぶ会」を発足し、当サイトをはじめとするオンラインアカウントにつき、ご遺族より委任いただき、今後の管理を受け持つこととなりました。
ここにご遺族および友人を代表しまして、生前のご厚誼に深く感謝し、謹んでお知らせ申し上げます。
2015年3月22日- 植田真理子さんを偲ぶ会 代表 敬白

 女性で、高齢なかただろうと想像していたのだが、違った。また、『植田真理子さんを偲ぶ会』のページには、写真とともに「とこしえの平安 † マリア・マグダレナ 植田 真理子 姉」とあるので、修道会関連のかたかとも思った。違った。
 なにより、クリスチャン?という疑問があり、関連のページを見ていくと、たった一人で教会を起こしたようだ(キリスト真理自由教会)。そして、「彼女」は性転換した人だった。
 また、見ていくと、パソコンについて「昭和57(1982)年だから、真理子が小5のとき。98は、それまでマイコンと呼ばれて実用的じゃなかった…」とあるので、昭和47(1972)年生まれであろう。43歳ほどで亡くなったのだろう。死因については私は読み取れてないが、晩年は再婚して幸福であったようにも見える。
 言語に関心を持ち、キリスト教に関心を持ち、初期のパソコン通信文化に関連しているとなると、Ascii-NET時代やNifty時代に私との接点があったのではないかと探ると、さすがに年齢差からかなさそうだった。
 彼女がどのようなキリスト教に関心を持ったかについても興味はわいた。特に。

 しかし、それをふまえたうえでなお、当教会は、「ぎりぎり最後の一線までリベラルな、つまり学問的、理性的な営為によって神をとらえようとする」ことを、信仰のスタンスとします。

**
 
 死をどう見るかは宗教の一大ポイントなのですが、当教会はあえて死生観を強制しません。

**

 聖書は所詮は紀元2世紀までに成立した古代の文書にすぎません。ですから「聖書のみ」を強調することは、現代人を一足飛びに2世紀の世界へとタイムスリップさせて、それ以後の教会の歴史、知的営為の歴史をまるきり否定することになります。
 当教会では、聖書以後に発展した教会の歴史やさまざまな考え方を柔軟に取り入れていきます。
 そして、その一環として、聖書に基づかない諸聖人への信仰を取り入れます。その象徴がマリア信仰であり、それを「真理」にひっかけているのです。

 率直なところを異端性はどうかと思ったが。

当教会では信仰告白文として「使徒信条」を採用します。

 としているので、三一信仰ではあるのだろう。
 いくつか彼女のキリスト教についての思索を読みながら、クリストファー・ドリエ・リーヴ(Christopher D'Olier Reeve)のユニーバーサリズムを思い出した。理性的で寛容なキリスト教が現代人の多くの人の救いにはなるように思う。
 振り返って、今の私はというと、「キリスト教」というものへの知的関心はあるが、信仰的な関心は薄れている。
 植田真理子さんには生前であれば会って話もしてみたいようにも思うが、今の私はというと、よくわからない。
 ただ、彼女は、偉大な人間なのではないかと思った。早世は惜しまれた。

 

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2020.06.25

急就篇と官話急就篇

 現代中国語を意識しつつ、漢文をどのように読むか。読むという場合は、音価と文法の二面がある。さらにいえば、正書法もあるだろう。
 そこでうかつだったのだが、そもそも、中国人は、その時代の中国語と異なる漢文という古代言語をどう学んだのか。その学習伝統について失念していた。で、それは、いわばアルファベットにあたる漢字についての、『急就篇』である。前漢末の史游の作と伝えられる漢字学習書とされている。Wikipediaに指摘があるが、漢字について、学習の便宜で韻をふむように並べてある。漢から唐に至るまで広く使われたらしい。千字文・百家姓・三字経などが使われるようになると急就篇は衰えたともある。だが、その過程は、実際には中古音あるいは読音の体系としての『急就篇』の衰退ではなかった。千字文や三字経ではすでに、それが学ばれるローカルの音価の体系を前提として漢字の、いわば字形と意味の学習が基本になる。
 で、ここで話題がそれるのだが、急就篇に調べていくと、『官話急就篇』に行き当たる。こちらは、これもWikipediaによるが、こうある。

『官話急就篇』(かんわきゅうしゅうへん)は、1904年(明治37年)8月、宮島大八によって善隣書院から発行された中国語会話教科書。タイトルは後に『急就篇』(きゅうしゅうへん)に変更された。

『急就篇』は日常会話を中心に構成され、20世紀初期の北京を中心とする地域の口語中国語がどのようであったかを示している。その内容は現代中国語とは異なっているが、中国語の歴史的変遷を知る上で、きわめて貴重な資料となっている。

 で、該当Wikipedia項目には『よみがえれ急就篇 戦前の名テキストで学ぶ中国語(青蛙亭漢語塾) - 昭和8年(1933年)版『急就篇』および北京官話の解説』があった。青蛙亭漢語塾は昨日の記事で引用した『注音解読法』の同サイトである。
 明治37年の『急就篇』の内容だがこう切り出されている。

では、どんなにすごいテキストだったかというと……、とりあえずは右上のサンプルをクリックしてみてください。
來了麼? 來了。
走了麼? 走了。
 いまの中国語テキストになれた人にとっては、「ありゃりゃ、何だこりゃ」というところでしょう。何の変哲もないこんな問答が並んでいるだけ。しかも漢字の本文のみ。発音説明もなければ文法説明もない。こんなもののどこが名テキストなのか、首をかしげることでしょう。

 現代中国語の会話教本だと、回答では、「來了」はあるが、「來了麼?」は見たことがない。簡体字の問題ではなく、主語の省略である。おそらく、口語の中国語では主語は不要なのだろう。あるいは、現代中国語というのは、主語を置くように文法を規定した一種の人工言語なのではないだろうか?
 たとえば。

你昨天去教堂了吗?

 は、

去教堂了吗?

 があって、

昨天去教堂了吗?

 となって、深層的(厳密にD構造ではないが)には最後に主語が出てくるのではないか。ドイツ語で動詞が深層で文末が第2語目に出てくるように。

你昨天去教堂了吗?

 そもそも、中国語のこうした「主語」なるものは、むしろ、副詞に近いなにかではないか? これは日本語でも、イタリア語、ラテン語にも当てはまりそうだが。

 それはさておき、こうなると青蛙亭という人に関心を持たざるを得ない。

 

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2020.06.24

中古音による中国語の意味

 昨日の記事「漢字音価の中国語・韓国語・日本語の対比」を書きながら、改めて中古音の重要性に思い至ったわけだが(というのは、現在の中国語・朝鮮語・日本語という文化を考える基礎になるから)、こうした考えはすでにあるんじゃないかとネットを見ていたら、奇妙なものというのもなんだが、考えさせられるアイデアに遭遇した。とはいえ、こうした分野はきちんと学術書を追わないとどうしようないのだろうとも思った。
 で、そのアイデアなのだが、「注音解読法」とされていた(参照)。
 昨日の記事で私が規則としてまとめたものに近い。

 中古音に比べて現代の諸方言は区別が簡略化されています。さしあたりわれわれは漢文を現代北京音で読んでいるので、中古音の特徴が北京音でどのように変化しているかを簡単にまとめておきましょう。
1.入声がない……中古音には「入声」という声調がありました。声調といえば普通は音の上がり下がりの形ですが、入声は「韻尾が短くつまる」形です。中古音では入声は-m、-n、-ngといった鼻音韻尾で終わる字音にのみ存在し、韻尾が短くつまった結果、-p、-t、-kと発音されます。日本漢字音では「フ・ツ・チ・ク・キ」で終わる字音がこれにあたります。-p、-t、-kとはいってもハッキリ破裂する音ではなく、そのような口の形をするだけなので、聞き慣れないとみんな「ッ」という音に聞こえることでしょう。現代諸方言では広東語にはこれがしっかり保存されていますが、上海語ではすべて-ʔに統合されています。北京語では韻尾が母音に変化してしまい、もとからの母音韻尾の字音と渾然一体となったばかりか、中古音との対応がイレギュラーな字が多くあります。
2.-mで終わる音がない……中古音には-mで終わる字音が存在しましたが、北京語では-nに変化し、もともとからの-nと渾然一体となってしまいました。
3.濁音声母がない……現代の北京音のピンインでb-、d-、g-、j-、zh-、z-と書いている音は一見濁音(有声音)に見えますがそうではなく清音(無声音)です。現代の北京音でb-/p-、d-/t-、などという対立があるのは無気音と有気音の対立であり、どちらも清音にすぎません。ところが中古音の声母(頭子音)には清音の無気音と有気音の対立とは別に、濁音が存在したのです(その濁音が無気音だったか有気音だったかは諸説あります)。現代の北京音ではもともとの濁音は清音に変化してしまったかわり、声調にその痕跡をとどめている場合があります。たとえば中古音の平声は、上記声調を表すのところで説明したように、声母が清音だったものは1声に、声母が濁音だったものは2声に変化しました。このように中古音の清濁が声調に転化しているケースが多いので、北京語など清濁の区別が失われた方言でも清濁の区別を無視することはできません。

 ある意味、この問題を考えれば普通に到達する思いではあるのだろう。
 ところで、このページの 当のテーマは、漢文をいかに読むかということである。中古音にするといいとしているようだ。

たしかに中古音どおりの発音をしている地域はどこにもありません。しかし中古音は、諸地域の音の違いをできる限り生かして統合化した音体系なので、どの地域でも通用する便利な音体系になっているのです。
 たとえば現代の北京語では、「課・克・刻・客」はみなkèと発音されます。しかし広東語ではfɔ3・hɐk7・hɐk7・hak8となります。広東語のほうが区別が細かいわけですが、その一方で広東語では「課・貨」がどちらもfɔ3、北京語ではkè・huòというふうに、北京語のほうが区別が細かい部分だってあります。

また。

 このように中古音は、現代・現実に発音されている音ではありませんが、「現代の諸方言のもとになっている音」なのであり、その意味ではまさに「今」音なのです。ですから中古音は、上述のような206韻→106韻といったような簡略化を経ながらもその後もずっと作詩の規範として生き続け、20世紀になって編纂された『辭源』『辭海』などの百科事典も、民国時代のものはこの音体系に基づく反切で音が表記されています。WEB支那漢(=支那文を読むための漢字典)の反切も同様です。

 ここで私は思い出した。「読音」である。漢文は中国人にも読めないというのは、異論もあるが、概ね事実と言っていいだろう。むしろ、漢文を中国人が読むときは、通常の漢字の音価ではなく、読音を使う。『漢文と中国語』というサイトにこう説明されている(参照)。

たとえば、「白」は語音では「bái」と発音します。しかし、読音では「bó」と読みます。詩人の「李白(りはく)」の名前の発音は、「Lĭ Bó」です。彼の名が英語で 「Li Po」と表記されるのは、読音によっているわけです。
 「読音」の例を、ほかにも挙げてみますと、我(語音「wŏ」、読音「ĕ」)、黒(語音「hēi」、読音「hè」)、車(語音「chē」、読音「jū」)、弄(語音「nòng 」、読音「lòng」)、六(語音「liù 」、読音「lù」)、巫(語音「wū」、読音「wú」)、怯(語音「qiè」、読音「què」)、杉(語音「shā」、読音「shān」)、率(語音「shuài」、読音「shuò」)、粥(語音「zhōu」、読音「zhù」)、軸(語音「zhóu」、読音「zhú」)・・・・。これも、かなりたくさんあります。

 読音の考え方からすれば、漢文は読音で読めばいいとなるだろう。
 他方、中古音を再現して、別種の人工現代中国語を作成するというアイデアも面白いのではないかと思う。
 とはいえ、現実的には、現代中国人がそうしているように、普通話の音価で漢文も読むのもしかたないかとも思う。なにより問題なのは、得音でも再構成された中古音でも、speechとしては理解できないからだ。この点、再構成されたラテン語とはまったくことなる。現代ラテン語なら、その音価を使って会話などもできる。
 具体的に、漢文をどう読むか? つまり、どのような音価で。
 話が、循環するが、そもそも、漢文については、「読む」しかないのだから、読むためのテキストに、読音か中古音のふりがなとして、ピンインを付せばよいだろう。
 つまり、読音のピンインは整備してもよいだろう。 
 あと、余談だが、そり舌音などは廃止した中国語の音韻体系を作ってもよいのではないだろうか。

 

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2020.06.23

漢字音価の中国語・韓国語・日本語の対比

 中国語を学んでいて、ある種困惑するのは、それが読めてしまうことだ。例えば。

我认识他。
Wǒ rènshí tā.

我認識他。
我、他ヲ認識ス。
われにんしきた
わ れんし た
Wǒ rènshí tā.

 恐らく、「认识」は日本語であったものが、中国語に入ったのだろう。
 いずれにせよ、この類推は便利なようでやっかいである。しかも、朝鮮語にも類似の関連がある。
 音価についても、日本語の漢字音読みは中国語の「中古音」をもとにしている。中古音は変化したし、また、現代中国語普通話は北京語をもとにしているので、明白な対応はない。が、まったくないとも言えない。
 こうした関係について、どうせなので、まとめてみたい。メモ作成は、東京外国語大学大学院総合国際学研究院 趙義成研究室の例をもとにした(参照)。この例は、漢字の日本語読み(音読み)からハングルを想定するための便宜だが、以下では、日本語の音読みと現代中国音の類推例の材料にしたい。

終声

国 guó 국 コク、学 xué 학 ガク、楽 lè 락 ラク 
石 shí 석 セキ、激 jī 격 ゲキ、式 shì 식 シキ
経 jīng 경 ケイ、明 míng 명 メイ、生 shēng 생 セイ
江 jiāng 강 コウ、峰 fēng 봉 ホウ、風 fēng 풍 フウ
質 zhì 질 シツ、月 yuè 월 ゲツ、末 mò 말 マツ
一 yī 일 イチ、吉 jí 길 キチ、八 bā 팔 ハチ
万 wàn 만 マン、韓 hán 한 カン、本 běn 본 ホン、人 rén 인 ジン、君 jūn 군 クン
葉 yè 엽 エフ、甲 jiǎ 갑 カフ、法 fǎ 법 ハフ、集 jí 집 シフ
三 sān 삼 サン、談 tán 담 ダン、音 yīn 음 オン、心 xīn 심 シン、林 lín 림 リン
雑 zá 잡 ザツ、立 lì 립 リツ、接 jiē 접 セツ、圧 yā 압 アツ

母音

可 kě 가 カ、馬 mǎ 마 バ、打 dǎ 타 ダ、漢 hàn 한 カン、南 nán 남 ナン
健 iàn 건 ケン、言 yán 언 ゲン、鉄 zhí 철 テツ、先 xiān 선 セン
古 gǔ 고 コ、路 lù 로 ロ、祖 zǔ 조 ソ、温 wēn 온 オン、速 sù 속 ソク、農 nóng 농 ノウ
宇 yǔ 우 ウ、武 wǔ 무 ブ、物 wù 물 ブツ、分 fēn 분 フン、屈 qū 굴 クツ
金 jīn 금 キン、銀 yín 은 ギン、急 jí 급 キフ
美 měi 미 ビ、利 lì 리 リ、地 de 지 チ、引 yǐn 인 イン、室 shì 실 シツ、針 zhēn 침 シン

初音

落 luò 락 ラク、連 lián 련 レン、論 lùn 론 ロン、李 lǐ 리 リ
毎 měi 매 マイ、無 wú 무 ム
文 wén 문 ブン、謀 móu 모 ボウ
難 nán 난 ナン、寧 níng 녕 ネイ
男 nán 남 ダン、努 nǔ 노 ド
安 ān 안 アン、以 yǐ 이 イ、億 yì 억 オク、約 yuē 약 ヤク、腕 wàn 완 ワン

感 gǎn 감 カン、快 kuài 쾌 カイ
技 jì 기 ギ、軍 jūn 군 グン
単 dān 단 タン、択 zé 택 タク
団 tuán ダン、脱 tuō 탈 ダツ
反 fǎn 반 ハン、皮 pí 피 ヒ
部 bù 부 ブ、便 biàn 편 ベン

作 zuò 작 サク、創 chuàng 창 ソウ
造 zào 조 ゾウ、銃 chòng 총 ジュウ
散 sàn 산 サン、氏 shì 씨 シ
城 chéng 성 ジョウ、善 shàn 선 ゼン
漢 hàn 한 カン、希 xī 희 キ
賀 hè 하 ガ、現 xiàn 현 ゲン
電 diàn 전 デン、停 정 tíng テイ
鉄 zhí 철 テツ、添 tiān 첨 テン

 では、暫定的な規則を考えてみたい。

規則1
 入声(音節末子破裂音)は消える。
  式 シキ(shiki) → shì

規則2
 日本語読みで「ン」で終わるなら中国語音は「n」で終わる。
  万 wànマン、本 běn ホン、人 rén ジン、君 jūn クン

規則2補足
 中国語で「ン」のように聞こえても日本語読みが「ン」でなければ「ng」。
  江 jiāng コウ、峰 fēng ホウ、風 fēng フウ

規則3
 日本語読み(中古音)の有声子音は中国語では変化している。(規則的ではない)
  学 xué ガク ga → x
  激 jī ゲキ ge → j
  月 yuè ゲツ ge → y
  人 rén ジン ji → r
  談 tán ダン da → t
  言 yán ゲン ge → y
  文 wén ブン bu → w
  謀 móu ボウ bo → m

規則4
 中古音のpは中国語ではb、日本語読みではh。(例外あり)
  本 běn ホン
  八 bā ハチ

 やはりうまく規則にはまとまらない。だが、中古音からの変化が基点にあることはわかる。

 

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2020.06.22

中国語音韻がどのようにハングルに写るか

 訓民正音は元来は中国語のふりがなの便宜として作られたもので、当時はなんらかの元になる中国語音があったと思うし、その対応の研究もあるだろうが、それとは別に現代中国語と現代朝鮮語の音韻をそのまま比較したらどうなるかと思っていたので、とりあえずまとめてみたい。中国語音韻がどのようにハングルに写るかという観点に立つ。
 まず、訓民正音に立ち返る。訓民正音では、子音について、当時の中国音韻学に合わせて、牙音・舌音・唇音・歯音・喉音の5種類に分類している。つまり、もともとハングルは中国に適合するようにデザインされている。
 子音について、牙音・舌音・唇音・歯音・喉音は、現代の、軟口蓋音・歯茎閉鎖音・両唇音・歯茎摩擦音・咽喉音に概ね相当する。ただし、朝鮮語の平音・激音・濃音という3対立は、少なくとも現代中国語にはない。
 まず、朝鮮語の牙音・舌音・唇音・歯音・喉音のハングルだが、平音・激音・濃音で見ると、こう。

牙音   ㄱ→ㅋ
舌音   ㄴ→ㄷ→ㅌ
唇音   ㅁ→ㅂ→ㅍ
歯音   ㅅ→ㅈ→ㅊ
喉音   ㅇ→ㆆ→ㅎ

 子音でもっとも簡単なのは、両唇音だろう。この対比は容易だ。これに唇歯音であるfを加えたいが、存在しない。

b   ㅂ
p   ㅍ
m   ㅁ
f   Φ(なし)

 歯茎音で閉鎖音の比較も簡単にできる。簡易という点で鼻音と流音も加えておく。

d   ㄷ
t   ㅌ
n   ㄴ
l   ㄹ

 軟口蓋音の対比も容易だ。咽喉音も含める。

g   ㄱ
k   ㅋ
h   ㅎ

 歯茎音の破擦音の対比はわからない。

z   ?
c   ?
s   ?

 そり舌音は朝鮮語には存在していない。

zh   Φ
ch   Φ
sh   Φ
r    Φ

 歯茎硬口蓋音は近似で対比できそう。

j   ㅈ
q   ㅊ
x   ㅅ

 次に母音だが、単母音の対比は近似的に容易。

a   ㅏ
o   ㅓ ㅗ
e   Φ
i   ㅣ
u   ㅜ ㅡ
ü   ㅟ

 意外なのだが、中国語には、単母音としては、[ɛ]と[e]が存在しない。
 二重母音を見ていく。朝鮮語の二重母音と呼ばれているのは、 /y/ と /w/ という半母音(介音であろう)との組わせしかない。

ai    Φ
ao    Φ
ei    Φ
ia   ㅑ
ie   ㅖ ㅒ
ou    Φ
ua   ㅘ
uo   ㅝ
üe    Φ

 あと、中国語には「三重母音」とみなす場合もあるが、介音だろう。朝鮮語の場合は、二重母音に事実上の介音が混ざっているので、比較が実際はできない。
 さらに、中国語の鼻韻母は介音を含めて16あるが、朝鮮語ではパッチムの対応になる。

an ang / ian iang / uan uang / üan
en eng / in ing / uen ueng / ün
ong iong

 訓民正音における終音は、パッチムとして古代中国語音の印象を残している。

ㅇ(g)   응
ㅁ      음
ㄴ(n)   은
ㅂ      읍
ㄹ      을
ㄱ      역

 以上、メモを作ってみて思うのは、訓民正音には介音の視点が抜けているため、どうしても中国語の韻母の対応ができない。もともと、東国正韻は漢字音に対応していないのではあるが。
 不毛な試みのようではあるが、東アジアの漢字文化圏の生成的な俯瞰のイメージには寄与するものがあるように思う。

 

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2020.06.21

[アニメ] 『イエスタデイをうたって』の最終回

 『イエスタデイをうたって』のアニメが、1期の12話で最終回を迎えた。つまり、2期はなかった。すでに前半から、これは1期ものなんだろうという予感はあったし、話が進むにつれそれ以外ではありえないこともわかっていたので、最終回がこうなるだろうという予感はあった。どういうことかというと、Simplified Version ということだ。簡易版というのだろうか。ただ、長編があったものを短くまとめたという途切れ感や抜け感はなく、最初からこれでCompleteであるように脚本ができているのもわかった。で、その最終回はどうだったか。悪くなかった。こうなるのだろうという、予想されたもにょん感は残った。
 今回のアニメ化については、作者・冬目景の意向がだいぶ反映されていると見てよさそうなので、このSimplificationも作者の意に反するものではないだろう。実際、原作における、雨宮や莉緒は主題的には捨象できるものではあるのだろう。狭山杏子の物語も同じだろうが、ここで従って原作の最終回も消えてしまう。
 こうしたSimplificationの違和感は、他方では原作が負ってきた15年近い年月というのもあるのだろう。私はこの原作のリアルタイム読者ではないので、それを自分の人生に重ねてはいないが、重ねてきた人には、アニメはよくできた別作品に見えるかもしれない。実際、時代背景や風景は違うのだし。

 さて、以下は、ぶっちぎりでネタバレに振る。

 

 簡素化はよしとして、最終回で、ああ、これは、こうなったかと、ある種、嘆息したのは、本作品の最終的なクライマックスである陸生と晴のキスシーンである。ここの本質は同じと捉える人もいるのかもしれない。外形の差は本質ではないというのもあるだろう。だが、原作のキスは陸生から晴へのキスであり、アニメでは晴から陸生へのキスであった。
 どちらが自然か? おそらくアニメであろう。もちろん、原作の物語の力学においては、こちらが自然なのだろう。
 このキスは単に、誰から誰の差というより、背丈が20センチは違うだろう彼らにとっては、身体的運動的にも大きな差になる。陸生からであれば抱きとめる形になり、晴からであれば飛びつく形になる。そこは大きな違いだと思うのだが、その違いの意味はなにかとなると存外に難しい。しいて言えば、アニメは晴の物語であり、原作は陸生の物語であっただろう。もちろん、そう割り切れるわけではない。それでも、アニメの最終において陸生の物語は、原作からかなり逸脱する、バス中での解説的な自問自答によって補われることになった。その自問自答はあまり過剰なテキストにも思えた。また、晴の受け止め方は、これもどちらかというと、普通の乙女であった。晴の暗さというのは、見えにくい。
 クライマックスではもう一つ大きな差がある。シーンが電車と田舎駅の組み合わせから、バスと都会バス停になったというのも大きな差ではあるが、これは簡素化の必然であろう。もっと大きな違いはカラスである。最後に二人を結びつけたのは、カラスであった。そしてアニメはカラスをよく語られせていた。ここは、率直に、原作より脚本が優れたところではなかったかと思う。晴の暗さというものへの補正になっていた。
 森ノ目榀子については、原作とアニメとの差はあるだろうが、決定的とも言えるものではないだろう。この物語は原作もアニメも性を排除しているために、生身の人間感がないのだが、そこで榀子はさらにブラックボックス化していく。ただ、総じていえば、アニメ史上に残る地雷女と見ていいように思う。特にどこがといえば、料理だろう。料理をする女というのの地雷性そのものにも思えた。いや、私は榀子を嫌ってはいない。彼女も幸せであってほしいと思うし、おそらく幸せは暗示されているだろう。
 個人的には、井の頭公園がまいった。原作が井の頭公園だし、ここは変えないだろうと思ったがあまりに完璧すぎた。陸生と榀子の背景の池にスワンがゆったりと動いていた。作画班と脚本のなんだろ、この手の入れ込みはちょっと狂気すら感じる。さて、この二人の恋の終わりは、そのままにして、私たちの青春の終わりなのだと思う。私たちは、本当はそれほど恋するわけではない。では、恋とは言い切れないものを抱えているなら、恋人になれないのかというと、実はそうでもない。陸生と榀子が結婚したとして、なんら違和感がないどころか、二人は幸せになるだろうというか、人生というのはそれを幸せとするだろう。それがいいわけでも悪いわけでもない。
 そういえば、晴と陸生のafterwardsも読んだ。特にどうということはない。そうだろうなという後日譚である。つまり、現実とも微妙に乖離した美しく遠い情景であった。

 

 

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2020.06.20

FaceAppで自分の顔を女性化してみた

 Twitterで、FaceAppというアプリが話題になっていた。特定の人間の顔をもとに、若返らせたり、異性化したりできるのである。みなさん、使ってみた結果をTwitterに挙げているので、さて、これ、自分でやったら何ができるのだろうか? それはごく単純な疑問から始まった。
 素材は62歳の禿げたキモ爺さんである「俺」である。そのまま女性化すると、62歳の皺びたキモ婆さんになるのはあまりに予想可能なのでさして見るまでもないなと思い、試す気力もない。
 さて、自分の顔を若くしてみると自分の若い頃になるのだろうか。やってみると、微妙にそうでもない。というか、若い頃の自分を今風にするとこうなるのかもしれないなあという、生意気そうな若者になった。まあ、そんなものかという代物。
 さて、ここから女性化である。
 適当に若くした男の顔から女の顔を作ってみた。こうなった。

Me1
 誰?
 という思いと、誰じゃねえよ、こういう女いるよな、というのと、それ以前にこれは「俺」だろと思った。子供に、この人誰かかわかる?と見せたら、すぐにわかった。顔の特性はそのままのようだ。とはいえ、さて、これを自撮りというのかよくわからない。そもそもこれは私なのだろうか?
 それにしても、このアプリはすごいんじゃないかと関心がわき、もうちょっと女性っぽいのはできないかと2作目を作ってみた。特に工夫したわけでもない。

Me2

 先ほどの1作目と同一人物であろうというものなので、誰?とも思わないが、ここまでくると、明らかにこういう女いるよな、としか思えない。これが自分なのかというと、もう、よくわからない。ちなみに、自分の家系の女性にこのタイプがいるかというと、あまり思い浮かばない。1作目のほうは、自分の父方の祖母に似ている印象はあった。
 これはもしかして、自分を素材に、いわゆる美女的なのももできるのではないか、と良からぬことを思った。それほど意図したわけではないが、顔の向きを変えて3作目を作ってみた。

Me3
 なんだかやばいものができた感はある。日本人の好む顔ではないが、美女の部類なのではないか。これが俺? いやさすがにそうは思わないが、それほど手を入れて作ったわけでもない。
 FaceAppだが、おそらく頭蓋骨を基に、人の顔認識の基本となる要素を組み上げ、それに対して、美男美女的な大量データを与えているのだろう。つまり、基本的に、現実よりは美男美女風になるようにできているんだろう。
 私の造作は、もともとそれほど平たいわけでもないし奥二重なので、女性化すると韓国・中国風になるのではないか。というか、日本人のパラメーターはこのアプリに入っていないのではないか。

 

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2020.06.19

筑摩書房創業80周年フェア Kindle本セールのお勧め

 今日は、ええと、19日。というと、明日までか。筑摩書房創業80周年フェアで、Kindle本のいくつかが格安価格で売られている。200円以内という感じ。
 で、Twitterでどれがお勧めですかと聞かれたので、4冊ほどお勧めした。お勧めしたいと思った理由には、ちょっと僭越だけど、安いからと言って背伸びした読書をするのはどうかなという思いもあった。
 例えば、『社会科学の名著30』というのは良書なんだけど、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』やエミール・デュルケーム『自殺論』を10ページほどで解説するというのは、社会学に関心ある人やインテリ憧れる若い人くらいにしか意味ないんじゃないかと思う。それでいて、カール・マルクスについてはフリードリッヒ・エンゲルス共著の『共産党宣言』しかないとなると、なんだろ、困惑する。ミシェル・フーコー『監獄の誕生』やマーシャル・マルクーハン『メディア論』にいたっては、概説を読むことでその本が読めたことにならない逆説になる。
 とま、しかし、この本を批判したいわけではない。ただ、読書人が読むというタイプの本ではないように思う。
 さて、では、4冊のお勧めと、あとから、加えたもう1冊について簡単に触れておきたい。

 

『レジリエンス入門 ──折れない心のつくり方』

 

 お勧め理由は、「レジリエンス」という考えに触れておいておくきっかけにしてほしいということ。プリマーに入っているけど、中年向きの書籍だと思う。
 著者は、人生には二度の危機が訪れると言っている。最初は、思春期。二度目は、中年期。小学生くらいの子供を抱えるような時期といってもいいかもしれない。40代半ばくらいだろうか。子供がなくても中年期の精神的な危機は来るものだとも思う。
 本書は、率直に言って学問的には疑問な点はある。マズロー心理学をそのまま受け入れたりもする。とはいえ、いちど、「レジリエンス」という考えに触れておくのはいいと思う。


『西洋美術史入門』

 

 西洋美術史の入門書はいろいろある。以前にもこのブログで関連記事も書いた。この本を勧めるのは、とてもよく書かれている、という点と、てらいがないという点である。美術関連の書籍は、著者の嗜好や考えがきついものが多いが、本書は、そのまま読めて、きちんと学べる。当然、反面、深みはない。私が最近関心をもっているセザンヌについても、キュビズムのながで当たり前の言及しかしていない。しかし、むしろ、そのバランス感覚がいいと思う。
 芸術はつい感性が問われると思われがちだし、実際、そのとおりでもあるのだが、普通に積み上げて学ぶ面は大きい。


『世界史をつくった海賊』

 

 一時期、世界史本が教養として売れていることがあった。世界史の知識を網羅的に知りたいという社会人の要求に応えたもののようだった。つられて、山川の教科書やそれっぽい書籍も社会人に売れた。たしかに、教養というと、世界史の豊富な知識と考えたくなる。ネットなだと、歴史クラスターとかぶいぶい言っている人もいる。
 でも、歴史が教養であるということは、物語として読み取ることだ。ネットの歴史クラスターさんらは塩野七生や司馬遼太郎を叩くのにご執心な人が目立つが、歴史を物語として提出され、味合うというのは、歴史というものの、基礎的な感覚である。そこから、歴史学的な像へと移っていけばいい。最初から歴史学というのはプロパー志向ではあるけど、教養の自然なあり方とは思えない。
 そういう意味で、本書は、歴史の物語から歴史学への橋渡しになる好著であると思う。そしてそこから得られる知識は物語的な有機性のなかで理解される。歴史が好き、歴史を学ぶというのは、こういうことだという事例になると思うので、お勧め。


『高校生からの統計入門』

 


 文字通りの本である。統計学の入門書は他にも良書はいろいろあり、本書が決定版とも思えないが、読みやすい。ただ、読者は、一般読者より、理系などに進む学生が対象だろうかとも思う。論文の書き方などもあるので。
 現代社会人は、統計学の基礎知識というか、統計学の感性をもったほうがいい。その意味でお勧めする。
 余談だが、私は、中学生のとき、『統計クラブ』というの所属していた。そんなものがあったのかと疑われるが、あったのである。模造紙を貼り合わせて床に広げ、数字を書き込み、電卓叩いて、多変量解析とはやっていたのである。うへぇ。


『日本語全史』

 

 この本は、良書であると思う。ただ、お勧めはできないかなと思った。一般の人がこの知識を知るべきかよくわからない。
 そして、もう一つの理由。私と考えが違う、というか、視点が違う(私は古典文法体系自体に疑問を持っている)。どまあ、これはクソみたいな理由である。率直に言えば、本書は良書であって、自分の考えのほうがクソなのである。
 私は、あらかた書き上げたけど、公開していない古文の参考書があって、女子高校生2人に古文を教えるというしょーもない本なのだが、そこで、事実上、日本語全史を扱っている。で、さて、どうしたものかなと困惑している。
 と、言われてもなんなので、一つ具体的に候文の扱いがある。本書では、片仮名の文脈で説かれていが、私は、疑似漢文として考えている。
 ごちゃごちゃ言ったが、本書は普通に良書であるし、自分も同書から学んでいる。読みやすくはないとは思う。

 

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2020.06.18

2020年都知事選はネタ選挙と言うべきか

 東京都知事選挙が今日告示された。過去最多となる22人が立候補したという。さて、前回は、というと、21人だった。立候補者数に注目すると前回同ということかにも見えるが、実質、無所属現・小池百合子(67)、無所属・宇都宮健児(73)、それと、ネットの騒ぎで目立つのがれいわ新選組代表・山本太郎(45)の3名の争いで、他にダークホースもないだろう。
 そして、いわゆるリベラル票が宇都宮氏と山本氏で割れる。リベラル票の全体は、前回のその全体であった鳥越俊太郎氏を指標にすれば、だいたい20%。もっとも、鳥越氏は選挙時にスキャンダル的な話題の影響を受けたので、それがなければもう10%は載せていたかもしれない。都民はけっこう美濃部都政に懲りても青島都政に振れたりするので、鳥越氏当選もあながち無理でもなかったかもしれない。上限30%くらいか。
 もう一つの裏面で言うなら、前回自民党的な保守層の票を担った増田寛也氏が27%。ざっくり30%。
 それで蓋を開ければ、小池百合子氏44%と圧勝ではあった。が、むしろそこまで圧勝だったかというのには意外感もあった。それなりに鳥越氏や増田氏にも目がないわけではなかったということだ。つまり、前回の都知事選は、投票にも意味が多少は感じられた。
 今回は……。
 宇都宮氏と山本氏で票を割るが、合算しても鳥越氏のスキャンダル的話題がなければという線の30%くらい。他方、今回は増田氏のポジションがなく、小池氏に吸収される。つまり、小池氏が、70%は行く。小池氏圧勝は間違いないだろう。
 こうなると、もう投票の意味ないだろう。これが私の妄想でもないだろうことは、連合東京の決定からも明らかである。連合東京は、宇都宮氏を支援している立憲民主党と国民民主党の支持母体だが、都知事選では、小池氏支持とした。勝ち馬に乗るしかない。
 それでも奇妙だなと思えることがある。2003年の都知事選の連想である。あの選挙では現職・石原慎太郎氏の圧勝が予想されていた。だから、対抗馬が出られなかった。一応リベラル派のメンツで樋口恵子氏が出て19%、共産党・若林義春候補が8%だったが、特徴的なのは、泡沫候補がドクター・中松を含めて2名だったことだ。こんなあほくさい選挙ということで泡沫候補も見向きしなかったのである。
 だが、今回22名。前回21名に続き、ぞろぞろと泡沫候補が出てくる。こんなあほくさい選挙、という認識が、「だから出ない」ではなく、「泡沫がなんだ、祭りだぁわしょーい」になったのだ。つまり、都知事選は、ネタ選挙になったのだ。
 繰り返そう。2020年東京都知事選はネタ選挙である。公約は原義を外して、泡沫候補の叫び声というかまさにネタそのものである。
 かつては、圧勝が予想される候補がいても反対票は市民の意思表明として投じる意義があるとか言われた。そして、今回も言われるだろう。だが、実際それに乗って投票すれば、ネタ選挙に参加しました、というだけなのではないか。
 こんなネタ選挙自体、意義が感じられないとして投票拒否するのも、市民の意志表明として意味があるんじゃないだろうか。というか、今回の都知事選で唯一意味があるのは、投票率だろう。ちなみに、前回は60%だった。
 さて、私はというと、今回の都知事選には投票所に行く予定である。末子が18歳で初めての選挙なので、親子で行ってみたいのである。ちなみに前回も小池氏には投票しなかったし、今回もしないつもり。泡沫候補に入れてネタわしょーいをする気もない。白票にするかもしれない。まだ、そこは決めていない。

 

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2020.06.17

好きな絵本は、五味太郎『がいこつさん』

 一番好きな絵本は何?と聞かれて、若い頃は、佐野洋子の『100万回生きたねこ』を挙げていた。それほど有名でもなかったのだ。いつからか、超有名になり、ドラマ『この声を君に』にも出てきた。世の中で広く認められた作品が好きでもいいのだが、佐野洋子という人を知るにつれ、この作品は、彼女の人生の悲しさにも思えて、今ではあまり好きではない。
 他に若い頃は、モーリス・センダックの『まどのそとのそのまたむこう』も好きだった。今でもあるかなと見るに、偕成社の新訳があり、酷評だった。まあ、しかたないだろう。
 さて、今ではどの絵本が好きかというと、五味太郎『がいこつさん』である。

 

 話は。がいこつさんがベッドで寝ている。でも、よく眠れない。何かを忘れているような気がして、起きだした。思い出そうとするが思い出せない。夜の町に散歩に出かけることにした……。
 そして最後に何を忘れていたか、思い出す。
 いちおう、ネタバレでもあるので書かない。
 が、ネタバレが大きな意味を持つものでもない。
 なにが面白いのかというと、死者がこの世に残す思い、死者として見る光景、それらにどことなく、既視感があることだ。がいこつさんの口癖、「それも、そうだな」がとてもいい。
 この絵本には、アニメーション版もある。BGMのジャズピアノもとてもいい。
 と、調べてみたら、YouTubeの五味太郎の公式チャネルにあった。

 

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2020.06.14

[アニメ] さくら荘のペットな彼女

 アニメ『さくら荘のペットな彼女』を見た。『青豚』の作者・鴨志田一が原作ということで、その関心から1話を見たが、関心わかずにほうっておいた。なんだろ、絵はそんなに古くはないが、古いタイプのアニメだなあという印象が強かった。2012年10月から2013年3月の放映だったらしい。『はたらく魔王様』はこの後だったのか。こっちもけっこう原作いじられたが1期で終了だったな。
 最初見たときを思い出す。なんというか、ヒューマンな落とし所の仕掛けが1話目から見えて、ちょっと辟易としたいた、と思う。今回は全部見た。
 感想は、ああ、岡田麿里だ。
 それでこれ以上、何を書くべきだろうか。花田十輝は入っている? 入ってます。当たり、じゃねーよ。
 というわけで、アニメとしての完成度は高いのではないだろうか。そして、おそらく、鴨志田氏が入っていても原作とは違うんじゃないかと思った。あとで調べたら、違っていそうなので、ラノベのほうも読もうかと思う。
 話は、水明芸術大学附属高校(スイコー)2年生・神田空太の奇妙な寮生活物語である。同校は全寮制らしいが、主要寮から、空太は猫を拾ったということで、問題児収容寮・さくら荘に移される。そこには、なるほど、問題児ばかりいた。そして、そこで、空太は世間知らずの美少女・椎名ましろの面倒を見ることになるが、その面倒たるや、パンツの履き方まで面倒を見るということで、表題の「ペットな彼女」ということになる。「彼女」といっても恋人ということでもない。ましろは、ネタバレになるが、実は天才画家だった。
 アニメの物語では、空太を慕う、声優志願の青山七海が貧困からさくら荘に移り住む。とはいえ、ハーレムものというわけではない。というか、七海がまさに、岡田麿里なのだが、どうやらここは原作とは違うらしい。
 物語のエネルギーは、ましろと上井草美咲と赤坂 龍之介という3人の天才と、そのほかの才人と凡人の物語とも言えるし、予想通りの青春謳歌でもある。いい話ではあるのだ。
 基本、アニメは、空太と七海の物語だが、本来の視点は、ましろの天才性の意味というかブラックボックスにあるはずだろう。というか、その期待でラノベを読みたい。
 つまるところ、アニメがアニメというメディア文脈でアニメである前時代の最後の作品かなという印象が強い。脚本の強度からすれば、そのまま実写化してもいいだろう。

 

 

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2020.06.13

東川清一著の3冊

 教育について各分野でいろいろ論じられる。英語教育、国語教育、数学教育、科学教育など。音楽教育についても、多く論じられてはいるようだが、日本の学校教育はつまるところ、大学受験に収斂するため、音楽教育も音大受験的な枠組みで終わってしまう。だが、現代人が人生のなかで、音楽とどう向き合うとかという問題は、自分のように60歳を過ぎてみると奇妙な問題として立ち現れ、そして音楽教育とはなんだろうかという新しい問いとして浮かび上がってくる。
 昨年の春から、ピアノと声楽を学び始めた。まったくの自己流でもない。ピアノは学習アプリを使っている、というか、SimplyPianoである。一通りレッスンを終え、ベートーヴェンの『エリーゼのために』の最初のテーマも弾けるようになった。そのあとは、簡素にアレンジされたバッハの曲を運指の練習がてら弾いているが、運指というより、実際には読譜の訓練のようにも思える。また、声楽というか合唱を始めた。グループでやっていて、指導も受けている。自分にテノールの声がまだ出るだろうかと、やっていると、ハイBくらいまでは出る。これもいろいろと学ぶ面があるが、基本は読譜だなあと思っていた。
 というわけで、この年齢で音楽に向き合ってみると、読譜のあり方について考えさせられることが多くなった。その要点をごく簡単に言えば、ピアノは概ね、固定ドである。そもそもそういう楽器だ。他方、声楽はというと、これは諸議論あり、そのなかで移動ド論者の最右翼と見られていそうなのが、東川清一氏の主張のようなので、3冊ほど読んでみた。結論から言うと、驚きであった。固定ドや移動ドという問題はどちらかというと、些末であり、音楽教育はどうあるべきかという問題に直接触れていた。

『よい音楽家とは 読譜指導の理論と実践』東川清一・海老沢敏共編著 音楽之友社 1996

 

 それなりに読書家と言われる人にとって人生の楽しみは、数年に一度出会う「圧倒的な書籍」だろう。文字によって書かれただけなのに読後、世界の感覚ががらがらと音を立てて崩れていくあの快感である。この本がまさにそれだった。
 編著であり、東川清一氏の執筆は一部なのだが、その一部にすべての意味が込められているし、全体が調和している。冒頭は、ゾルターン・コダーイによる「よい音楽家とは?」という講演の翻訳である。コダーイという名前からすぐにわかるように、コダーイの思想が簡素に凝縮されているのだが、実際に読んでみると、その芯になっているのは、むしろシューマンである。シューマンは、こんなに偉大な教育家だったのかとため息がでる。その最大のポイントは、これ。

よい音楽家の、4点の判定基準
① よく練習された耳
② よく練習された知性
③ よく練習された心情
④ よく練習された手

 一見あたりまえのようにも思えるが、①と②はようするに読譜である。そして、現在音楽教育と見なされているものの大半は、③と④であり、しかも、昨今、いずれ「音楽が聴けなくなる日」が来るといったの警鐘で語られている「音楽」は、ようするにメディアのことである。音楽が聴くメディアであるなら、①や②はようするに「鑑賞」能力になってしまう。シューマンが言っているのはそういうことではない。まったくない。
 話が錯綜しがちだが、音楽教育というの基点が読譜にあるなら、それは、初等教育の課題である。が、本書によれば、それは五線譜を読むことではない。
 ではそこで、聴くとは何か? 音がわかる(知性)とは何か?という問題が起きる。
 これを裏面でいうなら、同書の東川氏の考察にあるように、「ピアノは『読譜』できなくても弾ける」という奇妙な命題に至る。突き詰めれば、ピアノはタイプライターである。実際、clavier である。
 さらに、東川氏は「五線譜の指導は音楽自体を教えてから」という命題に移る。「音楽を楽譜から切り離すこと」ともしている。
 具体的にどうするのか? 音を聞いて耳コピのようにすればいいのか?というと、そうではなく、ここで、「簡易譜」という概念が出てくる。
 私は実に間抜けだったなあとしみじみ思ったのだが、いわゆるコダーイ・システム(コダーイ・メソッド)でハンドサインが出てくるのは、あれが「簡易譜」だったからだ。そして、コダーイ・システムというのは、既存の歌の指導にハンドサインを使うことではなく、そもそもハンドサインという簡易譜で音程の感覚を教育するためのものだった。
 そしてその先、音程の教育のために「モデル歌」という概念が出てくる。ここでまたも、私は実に間抜けだったなと思ったのだが、日本の明治以降の唱歌というのは、そもそもがこの「モデル歌」であったのだった。実際明治期には、数字譜が使われてもいたようだった。
 東川氏の考察には書かれていないが、日本の音楽教育が、シューマンの伝統から外れていったのは、恐らく私が子供だった、昭和30~40年代のピアノ・ブームではないだろうか。私の小学校の同級生の女子の八割はピアノを持っていたかと思う(私はいわゆる中産階級地域に育ったということでもあるだろうが)。ついで私の私怨を述べれば、小学校の音楽教師がいわば楽器主義ともいうべき女史で、ひどい目にあった。が、その知識面は私は吸収したので、中学校での音楽はなんの苦もなくよい成績を得ることができた。
 本書のもう一つの驚きは、第二部のジャン・ジャック・ルソーの「音楽のための新記号案」である。これは、『告白』を読んでいるときにも感じたが、若いルソーはこれに人生を賭けていた。そもそも『告白』は彼の変態的な内面の吐露が目的ではなく、音楽家の自伝として企図されたものであった。
 第三部は日本の唱法論争についての議論である。かなり詳しいが、一般人にっては、解結もできない難問だろう。

『退け、暗き影「固定ド」よ! ソルミゼーション研究』音楽之友社 1983

 東川氏の単著であり、おそらくこの分野での主要文献になるのだろう。が、読んでみると専門的過ぎて、一般人には理解しづらいかと思う。それでも、トニック・ソルファ法として、事実上、かなり詳細なコダーイ・システムが説明されているのが興味深い。これをきちんと指導すればよいのだろうが、そもそも教師がないのではないか。

『移動ドのすすめ 正しい読譜法と視唱指導』音楽之友社 1985

 

 これは、『退け、暗き影「固定ド」よ! ソルミゼーション研究』の一般向けの書物のようだし、課題も含まれているので、読んで理解し、自習できそうにも思えるが、私には難しかった。

 さて、3冊を読み終えて思うのだが、私たちの小中学校での音楽教育は、それがきちんと組織づけられているなら、音楽というものの基礎になるのだろう。特に、唱歌というのをきちんと音楽教育に位置づけていくべきなのだろう。

 

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2020.06.12

シンプルな仮説と複雑な説明について

 私は物事をできるだけシンプルに考えようとしている。オッカムの剃刀である。

Pluralitas non est ponenda sine neccesitate. Frustra fit per plura quod potest fieri per pauciora.
(必要でないなら複数を想定すべきではない。より少なくて済むことを複数にするのは無駄である。)

 一般的には、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」ということで、事象を説明するのに、1つの仮説で済むなら、2つ以上の仮説を使うことは劣る、ということ。科学的説明の基本ともされる。
 が、そこで前提とされるのは、オッカムの剃刀は、仮説の是非を問うものではないということだ。仮説の正しさを保証しない。突き詰めれば、趣味と言っていいかもしれない。
 常識的に考えても、自然界や社会の事象は複雑で、単純な仮説で説明できない。単純化には必ず、捨象(abstraction)が伴う。あるいは、モデル化が伴う。例えば、落下現象は無抵抗の状態を設定したモデルで説明される。
 私は物事つくころから、直感的にオッカムの剃刀を採用していたのだが、この一種の人生観に基本的なところで困惑を与えたが、四色問題、つまり、四色定理(Four color theorem)である。「いかなる地図も、隣接領域を異なる色に塗り分けるには4色あれば十分である」という定理である。非常に単純で、小学生でもわかるし、解けそうな気がする。アスペ傾向のある小学生の私には、無限にいたずら書きで時間を吸い込むブラックホールだった。が、1976年に証明された。19歳である。ニュースにもなったので、すぐに概要を知った。少年期を返してほしいと思うような内容だった。従来の数学の証明法とは全く異なり、可能なパターンをコンピュータを使って虱潰しで塗り分けが可能かをまとめただけのものだった。なんら、原理性がない。オッカムの剃刀ではそもそも太刀打ちできない問題だった。人生観を変えるようなものだった。
 それに秘して、カオスとランダムについては、以前、cakesにも書いたことがある(https://cakes.mu/posts/2951)。これは、オッカムの剃刀の最適例のようだった。が、そういえば、ライフゲーム (Conway's Game of Life)というのもあった。昔の計算機でよくサンプルを作ったものだった。これは、チューリング完全(Turing-complete)なので計算可能ではある。が、これはある実際のライフパタンから初期状態が推論的に一元的にトレースバックできただろうか。我ながら老いたなと思うのだが、この手の分野にはさすがに関心が伸びなくなった。
 さて、以上は前振りなのだった。
 COVID-19騒ぎで、私は、しばしば、オッカムの剃刀を思った。つまり、「新型コロナ騒ぎ」を説明するシンプルな仮説は何か? 私の仮説は、「COVID-19は人間の自然死の傾向と文明化で補正された死傾向を、一定の係数で自然死に接近させている事態である」というものだった。計算可能な仮説なのだが、自分で計算するのはめんどうなので、まあ、そんなものかなと見ていた。概ね当てはまりそうなのだが、問題は、この係数、仮に、fとすると、fに至るのは、それほどシンプルでもない。そのシンプルでないものを簡単に言えば、医療体制の指数でもあるだろうからだ。いずにれせよ、おそらく、シンプルな手法で人間の自然死を阻止している医療体制の国家は、新型コロナウイルスに弱いと言えるのではないか。そして、であるなら、その差分だけに注目した対応を取った国はもっとも最適であろう。それがどこの国だったかは書くまでもないだろう。
 COVID-19騒ぎについてはその仮説で足りると思うのだが、「シンプルな手法で人間の自然死を阻止している医療体制」が何を意味しているかはよくわからない。というか、あらためて問われると、自然死の傾向というのがどこまでモデル化できるのか、各国の医療体制そのものは文化・伝統にも統合されている。しだいに複雑になってくる。そして、四色問題の亡霊がやってくる。
 

 

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2020.06.11

言語と表記

 ところで、これ、なんだと思います?

D9b1eb6ae38a4b11a87c9e0a2233ce81

 すぐにわかると思うけど、答はあとで。
 さて、ある言語がどのような表記体系(writing system)を持つかというのは、文化や歴史に依存する。何か正解があるわけではない。現在の日本語については、表面的な表記体系としてはおそらくもっとも複雑だろうとは思う。ひらがなに加え、漢字とかたかながあり、さらにローマ字もある。ただし、ローマ字は別の表記体系とされている。
 朝鮮語は、私が子供のころは、漢字とハングル混じりだったので、子供でも漢字を知っているとそれなりに意味が読み取れた、というか、普通に、李承晩(りしょうばん)や朴正熙(ぼくせいき)といった漢字はそのままあった。印象としては、いつからか、ハングルだけになってしまった。
 中国の簡体字の普及もいつのまにかという印象はある。
 日本語の漢字も変わった。若い頃、岡崎友紀が主人公で松坂慶子もいたコメディドラマ、あれ、Wikipediaを見ると、『おくさまは18歳』とあるが、間違いでもないのだが、『おくさまは18才』の表記もあった。映画とかはそうだったように思う。ワープロが普及して、日本語の表記も変わってきた。「ら致」も「拉致」になった。そういえば、『世論』も本来は『輿論』だったが、その頃も別途『世論(せろん)』があったか、議論はいろいろあるようだが、現実にはさほどなかったように思う。
 漢字というのは面白い表記システムである。難しいようだが、慣れれば、むしろ速読の便宜にもない。とはいえ、初学者には難しい。ので、毛沢東も若い頃は、漢字廃止論だったらしい。最近、中国語の学習を再開して思うのは、もしなんかの行き違いで、中国語から漢字が消えてもそれほど問題はなかったんじゃないかと思うようになった。冒頭、へんな表記を掲げたが、中国語を拼音にして、語末の i を英語風に y にしてみたものだ。
 実際のところ、これでそれほど問題ないのではないだろうか?
 現在、Paul Nobleの中国語教材も使っているが、これは音声だけの教授法で、漢字はほとんど教えない。中国語の発音も体系的には教えていない。そうして学んでみると、中国語は英語とさほど変わりない。
 昔、歴史学者の岡田英弘先生の講義を受講していたとき、先生は、英語を喋りながら、漢字で板書するというのを実演してくれた。実際のところ、英語はほとんど活用がないから、記法さえ決めておけば漢字で書ける。英語という言語が漢字という表記体系を持っていても不思議でもない。
 というか、英語はスペリングが発音と乖離しているから、実際のところ、脳内での処理は漢字ようになっているだろうと思われる。
 日本語のローマ字表記は実はいろいろと問題がある。東京は、 TOKYOでいいわけがないが、長音記号が普及しない。「おとうさん」は「Oto-san」?
 外国人が日本語を学ぶとき、どのくらいローマ字に依存しているだろうか? ざっと見ると、まちまちのようだ。ローマ字も使われているが、実際にはヘボン式のようだ。英語的な知識をもつ学習者への実践的な対応だろう。
 グレゴリー・クラークさんは、語学の天才といってもいいだろうが、日本を当初ローマ字を通して覚えたため、「〜の」という「の」の音に no の癖がついて困ったといっていた。実際の日本語の「〜の」という「の」の音は、曖昧母音だろう。
 その他、実際の日本の口語の音声というのは、日本語話者が思っているよりかなり複雑なんだろう。

 

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2020.06.10

ハングルに介音はあるか?

 ハングルに介音はあるか? だが、これは、ちょっと馬鹿げた疑問で、あるわけがない。
 ではなぜ、こんなことを思ったかというと、中国語に介音の仕組みがあるなら、それを朝鮮語に音転写したとき、彼らは介音をどのように捉えたのか?という疑問があるからだ。そもそもハングルというのは、訓民正音にあるように、無学というか漢字が読めない民衆のために音価を補助する注音符号であった。
 さて、この解答に関連と思われることがらはネットで容易に見つかる。世界の文字というサイトの「ハングル」という項目に次のようにある。

それまで中国においては,1 つの音節を声母(音節初頭子音)と韻母(介音,母音,声調)という 2 つの要素への分析しかしていなかったのに対して,「訓民正音」では初声,中声,終声という 3 つの要素の分析が行われた。例義は,初声・中声・終声,および,中国音韻学における声調である去声・上声・入声のについて言及している

 この説明だと、いかにもハングルが優れているかのような印象を与えるが、実際には、中国音韻の考え方の、介音をハングルでは中声に統合してしまったわけである。
 つまり、ハングルでは成り立ちからして、介音は存在しないかのようだが、実際のハングルのシステムを見ると、y については存在している。基本字母を見るだけで、明瞭である。

ㅏ…IPA: /a/(IPA: /a̠/、IPA: /ɑ̟/)
ㅑ…IPA: /ja/
ㅓ…IPA: /ɔ/
ㅕ…IPA: /jɔ/
ㅗ…IPA: /o/
ㅛ…IPA: /jo/
ㅜ…IPA: /u/
ㅠ…IPA: /ju/

 ところが、w の系統の介音は安定していない。これらは、現在では合成字母としてこのようになっている。

ㅘ…IPA: /wa/
ㅙ…IPA: /wɛ/
ㅚ…IPA: /we/ (注意)
ㅝ…IPA: /wɔ/
ㅞ…IPA: /we/
ㅟ…IPA: /wi/

 ㅗとㅜが入り混じっているうえに、y 系の介音の仕組みとも混ざっている。
 もちろん、朝鮮語がそういう言語なのだし、これが当時は最適だったとはいえるだろうが、少なくとも、訓民正音では介音の考えは明瞭にはなっていない。
 それがなぜかというのは、元になるパスパ文字の影響というか制約であったかもしれないし、写される当時の中国語音の制約もあるのかもしれない。いずれにせよ、ハングルの不備というものではないだろう。
 それはそれとして、ハングルの合成字母の合成の仕組みを見ていて奇妙なのは、ㅚ(IPA: /we/)である。法則からすると、/wi/ であるはずだ。
 以前の記事で触れたが、ㅚは元来、(IPA: /wø/)である。フランス語の peu [pø]である。が、ソウル方言で /we/ になった。
 一見すると、/wi/ → /wø/ →/we/の音変化のようだが、私にはわからない。ただ、拼音的に考えるなら、こうなるはずだ。

ㅘ…/oa/
ㅙ…/oɛ/
ㅚ…/oi/ 
ㅝ…/uɔ/
ㅞ…/ue/
ㅟ…/ui/

 このㅟ(/ui/)だが、元来は、/y/ であったようだ。
 なんとなくではあるが、ㅗ 二重母音のパーツだが、ㅜは介音的なパーツに思える。
 この印象は、ㅡ(IPA: /ɯ/)との関連でも感じられる。実際には、この音価はIPA: /ɨ/になっている。だが、合成ではこうなる。

 ㅢ…/ɰi/

 実際には、IPA: /i/ともなることもある(助詞의はIPA: /e/)。

의사 /ɯisa/ (医者)― ソウル方言 /ɯsa/
예의 /yeɯi/ (礼儀)― ソウル方言 /yei/

 朝鮮語の音韻構造といては、Wikipediaによるが、半母音として次のように考えられているようだ。

Hanboin

 ただ、これらは、訓民正音の成り立ちから見て、中国語介音の転写の問題ではなかったか。

 

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2020.06.09

対不起(Duì bù qǐ )は、なぜ「トイ・プ・チー」ではなく、「トエ・・プ・チー」なのか?

 対不起(Duì bù qǐ )は、なぜ「トイ・プ・チー」ではなく、「トエ・プ・チー」なのか? つまり、拼音の ui は、なぜ、「ウイ」ではなく「オエ」なのか。
 IPAで書くと、対(duì)は、 [tueɪ]である。
 なので、拼音で 対(duì) は、「トゥエイ」のほうが近いかもしれない。が、u は日本寺には「オ」に近いようにも聞こえる。
 問題は、2重母音のように見える uì は、 [ueɪ]になっていることで、拼音がわかりにくい。水「shui」も、「シュエイ」。日本語だと、水「スイ」なんで間違いやすい。
 この問題というか、疑問は、実は簡単に解結する。拼音表を見ればいい。韻母のところが、uei になっていて、これが、d につくときは、dui になる。つまり、ui という拼音表記は、uei の省略形であるに過ぎないので、そのまま音価を示したものではない。
 なにより、中国語(普通話)には、単母音の u がそもそも存在しない。ui という二重母音も存在しない。
 こうした略記は、介音が関係するときに起きる。


 丢(diū)も、「ディウー」ではなく、dioū の略記なので、「ディオウ」に近くなる。酒(Jiǔ)も同様。
 去(qù)だが、これは、qü なので、IPAでは [tɕʰy]。ウェード式だと、chüで、ウムラウトを残す。
 春(Chūn)も、略記を戻すと、chuen で、enは、曖昧母音のeなので、「チョオン」のようになる。

 以上は、拼音の便宜表記と、非省略表記の差と言っていいだろう。つまり、学習時の拼音と現行の非略記を分ければいい問題である。
 で、以上はそうなのだが、拼音表を見ていて、困惑するのは、i である。連想しやすい i の他に、zi の ɿ 、zhの ʅ が別音として存在する。これはなんなのかだが、四呼という考え方では、こう考える(Wikipedia)。

開口呼 - 韻頭・韻腹にiやu、yの音を伴わない韻母
斉歯呼 - 韻頭・韻腹がiで構成される韻母
合口呼 - 韻頭・韻腹がuで構成される韻母
撮口呼 - 韻頭・韻腹がyで構成される韻母

 そこで、こう分かれる。

開口呼 - i (IPA: /ɿ/)(IPA: /ʅ/)
斉歯呼 - i (IPA: /i/)
合口呼 - u (IPA: /u/)
撮口呼 - ü (IPA: /y/)

 私見だが、おそらく四呼の考えかたは間違っていて、これらは、介音と曖昧母音の音素eの発声上の変異だろう。
 加えて私見だが、単母音の o とされているのは、介音の w と o を合わせたものかもしれないとも思う。ここはよくわからない。
 いずれにせよ、拼音には、Complementary Distribution が見られるので、実際の音素構造は、拼音とはかなり異なるものなのではないかと思う。

 

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2020.06.08

「再見(Zàijiàn)」は、なぜ「ツァイ・チアン」ではないのか?

 「再見(Zàijiàn)」は、なぜ「ツァイ・チアン」ではないのか? ポイントは、 ian がなぜ「エン」という発音なのか? というのも、 an や ang は、「アン」「アング」みたいに、「アン」である。
 と、その前に、「再見(Zàijiàn)」だが、IPAでは四声を抜くとおそらく、[ʦaɪ ʨiɛn]となると思う。というか、そもそも中国語の学習書で、IPAを採用しているのを見たことがない。ハングルもそう。英語の場合は、IPAが多いのに。なぜだろう?というか、拼音が発音記号の代わりのように見られているからで、それで、まあ、今回の記事ネタのように混乱を起こす。
 以前、ian については、ウェード式では、ienのようになる話を書いた。台湾の注音符号でも普通話の拼音と同じで、ianであることも書いた。問題は、これは、音変化なのか? 音韻構造の問題なのか?
 結論から、言うと、音韻変化が定着したもので、おそらくネイティブとしては、an、ang、iangの an には心理的な同一性があるのだろう。
 ではどのような音変化なのかというと(定着してしまっているとはいえ)、i に an が後続することで、i + an = iɛn なのだろうが、さて、これは音素論的にはどういう背景なのかというのが、長年疑問だった。
 というか、私だけが無知だった系の話のようでもあるが。なんでこんなことに気が付かなかったのだろうかというかという話である。
 i + an = iɛn なのだから、この i は分離しているわけで、そう、介音である。介音について知ってはいたが、私はこれをなんとなく母音だと思っていた。つまり、中国語の音韻構造も基本的に、子音+母音だろうと思っていた。というか、中国語の音韻論については概略は知っていたが現実の中国語学習にはあまり関係ないだろうと思っていた。が、ようするに、拼音を理解するのすら、介音の仕組みを知らないといけないんじゃないかと、ようやく気がついた。
 気がついた理由は、そもそも拼音を、中国人がどう学んでいるかというのを、お子様向けの学習アプリ、日本語でいえば、ひらがなやカタカナを教えるアプリを見ていると、短母音と複母音くらいしか教えていない。そこから、拼音表の学習のようになり、拼音表と拼音表記のずれを学習しているようだ。このズレについては、別途記事を書く予定。
 ということで、普通に言語学的に中国語音韻に立ち返ると、外大のサイトにあるようにこうなる(参照

 中国語は極めて明確な音節構造を有し,音節は中国語の基幹を成しているといって過言ではない。その構造は一般に
「IMVE/T」
と定式化することができる。この意味するところは,1音節を「音節頭子音(Initial)+介音(Medial)+主要母音(primary Vowel)+尾音(Ending)」と分析することができ,さらにかぶせ音素として全体に声調(Tone)が加わっているということである。この内,I,M,E,Tはゼロでありうる。伝統的に「I」は「声母」,「MVE (/T)」は「韻母」と呼ばれる。
 介音も韻母に入るので、なんとなく、声母が子音、残りが母音と考えていた。実際、学習書などでは、音節構造を無視して、「三重母音」という概念を出しているところもあるし、実際のところ、拼音表は三重母音として考えたほうが単純に整理しやすい。

 そして、介音なのだが、こう。

 主要母音の前に付き,日本語の「拗音」的な作用を持つが,それよりも独立性が強く,かなりはっきり発音される。以下の3つの介音がある。
/i/[i] /ü/[y] /u/[u]
介音のない音節もある。またこれら3つの介音が,主要母音や尾音なしにそれだけで韻母を成す場合もある。

 私はこれは、口蓋音化の一種ではないかと思っていた。つまり、子音の調音と母音の結合の音変化が仮に見せるだけではないかと。
 で、外大のこの説明には、そもそも介音が子音か母音かも書いていない。が、これは、どっちかというと、子音なのではないか。そして、介音は3つではなく、/Ø/ を含めて4つなのではないか。
 余談だが、英語の音節末の y と w はおそらく子音であろう。突飛なことが言いたいわけではなく、Gimson の音韻の注に指摘があった。つまり、英語には、開母音の音節構造は基本的には存在しない。とはいえ、現代英語では存在しているが。
 というわけで、anとangは別の音韻と見なしていいが(なので、en と eng は音素がそもそも異なる)、an と ian は共通部分をもっていて、音変化は、介音が引き起こしたものと考えていいだろう。
 つまり、「再見(Zàijiàn)」は、なぜ「ツァイ・チアン」ではないのか? という答えは、介音による音変化が定着しているためである、ということになる。

 

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2020.06.07

Duolingoのラテン語でトロフィー獲得!

 このブログにも書いたが、先日たまたま発見した、Duolingoのラテン語のコースだが、その後、地味に継続して、というか、それなりに熱心にやって、トロフィー獲得!となった。久しぶりに奇妙な達成感があった。そういえば、日本語から学ぶ中国語でもトロフィーをゲットしたが、こちらは今日材料が少なく、達成感がない。なので、中国語については、英語から学ぶコースを継続している。それなりに教材が多いのでまだしばらくトロフィーには至らない。

Latintp
 トロフィーとはいえ、ごくごく初級である。率直に言って、ラテン語が学べたなどという実感はさらさらにない。なにせ、恥ずかしい話だが、名詞の格変化もおぼつかない。じゃあ、どうやってやったの? というと、地味にただやって到達したというだけの話。基本この手の学習アプリはエビングハウスの無意味つづり学習の理論に拠っているので、機械的に繰り返すと学習が進む。とはいえ、Duolingoとしてはあたらしい学習モデルを形成しているが、それでも基本は無意味つづり学習のようだ。
 大学生んときに学んだラテン語はこれも率直に言ってほとんど覚えていない。が、この間、フランス語を学び、イタリア語を学び、あと、英語もかなそれなりに学び続けていたので、ラテン語が自然にわかるところが多くなった。動詞活用など、現代イタリア語からけっこう類推できちゃうのが自分でも驚いた。前置詞の使い方もよく似ている。
 あと、Duolingoのラテン語では、普通の言語として教えるので、リスニングはけっこうある(発音は実質ないが)。それと、語順は、ラテン語に自然な語順になっているので、格変化がわからなくても、類推しやすい。というか、ラテン語って、そういう言語だったんじゃないかと考えさせられた。
 ラテン語を学ぶモチベーションになったのは、この間、フォーレのレクイエムの練習をしているのだが、このラテン語の歌詞がよくわかるようになった。それまでもミサ曲とかも歌ったし、意味はそれなりに確認したが、文法レベルまできちんと理解できると、ああ、普通の歌だという感じが深まって楽しい。ラテン語の歌がすごく身近になって嬉しい。
 ラテン語の学習はもう少し続けるつもり。実は、少し恥ずかしいというか、中二病的でもあるのだが、ラテン語で会話がしたいなと思っている。YouTubeを眺めていると、けっこう現代人でもラテン語で会話をしている人たちがいるものだと思った。

 

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2020.06.06

横田めぐみさんは、なぜ北朝鮮に拉致されたのか?

 横田めぐみさんのお父さん、横田滋さんが亡くなり、世の中の話題が少し拉致問題に焦点を当てるようになり、ふと、以前、若い人に、横田めぐみさんは、なぜ北朝鮮に拉致されたのか?と問われたことを思い出した。
 横田めぐみさんは、なぜ北朝鮮に拉致されたのか?
 どう答えたらよいのだろうかと戸惑った。戸惑った一番の理由は、私が、その問いの解答を知らないからだ。だから、私は、「知らない」と答えるべきかと思った。それも誠実ではあるだろう。ただ、昭和という時代に生きた私は、知っているとは言えないが、思い当たることはいろいろある。それを語るべきだろうかと、戸惑いが広がった。
 こう答えたと思う。「本当の理由はわからない。ただ、私が思う理由を話していいかな」それに肯定的だったので、こう答えた。「日本語教師にするためだと思う。」
 もちろん、この答えでは疑問が続く。「なぜ北朝鮮は日本語教師を必要としたのか。なぜ拉致なんてしたのか?」
 私はその答えは間違っていたかもしれないと思う。というのは、それに「スパイを養成するためだろうと思う」と答えた。
 「なぜ、スパイ?」という問いは起きる。その答えは自動的なものだ、「日本と北朝鮮は敵対していたから」。
 そうした話のなかで、私はこうも述べたと思う。「結果的には拉致という犯罪だが、北朝鮮としては、招聘、つまり、お招き、という思いもあったかと思う。拉致被害者は、すべてではないが、それなりに丁重に扱われていたらしい。小泉政権のとき、5人が帰国したが、その5人については、北朝鮮としては、再度、北朝鮮を新しい故国として認めて、北朝鮮に戻ってくると思っていたようでもある」
 さて、話はそこで終えた。
 喉に詰まったような言葉が残った。「大韓航空機爆破事件って知っている?」
 それを説明するなら、話はさらに複雑になるだろう。
 平成生まれの人たちは、基本的にあの事件を知らないのではないだろうか。昭和の終わりのころの事件だ。ちなみに、どういう事件か、Wikipediaをひくと、こう書いてある。「1987年11月29日に大韓航空の旅客機が、偽造された日本国旅券を使い日本人に成り済ました北朝鮮の工作員によって、飛行中に爆破されたテロ事件である。」まあ、そう言ってもいいだろうし、そう語るなら、先の拉致事件との繋がりも語ろうとすれば語れるだろう。
 だが、その時代を生きた自分にはもう少しズレた歴史の感覚を持っている。それは、本当に滑稽なくらいズレているのだが、むしろ、そのズレの微妙な感覚について触れてみたい。
 大韓航空機爆破事件、1987年11月29日。
 私が三十歳の歳だ。
 民放放送は見ないとか言っている私だが、1985年から1987年にかけて3期でフジテレビで放映された『スケバン刑事』はコンプリートしている。なかでも、『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』はけっこう好きだった。そして、このシリーズが終わったあと、その路線で、『少女コマンドーIZUMI』が放映された。どういう話だったか。Wikipediaに項目があり、簡素にまとまっているから、引用しよう。

身に覚えのない殺人の罪を着せられた女子高生・五条いづみは警官から逃走中、海に転落し行方不明となる。しかし、謎の集団がいづみを救出し、その肉体を改造して殺人兵器となるための訓練を彼女に受けさせる。3年後、いづみは脱走を図り、組織の機密事項であったいづみを抹殺する指令が下る。組織の刺客に追い詰められ極限に達したその時、頭の中に謎の声が響く……「バイオフィードバック! 戦う意思が、お前の身体を最終兵器に変える!」それとともにいづみの身体は常人を遥かに超えたパワーとスピードで刺客を倒してしまった。自分の身体の秘密に戸惑いながらも、その能力と訓練中に身に着けた技能で組織に立ち向かっていくのだった。

 このストーリーを聞いて、どう思うだろうか。知らない人は、なんとリアクションしていいかもにょるんじゃないだろうか。いずれにせよ、これが放映されたのは、1987年11月5日だった。そして、1か月分の話を進めないうちに、大韓航空機爆破事件が起きたのである。後代の現在から見れば、なにそれという思うだろうが、この時代の只中にいた30歳のオタクみたいな私は、当然なら、そこに関連した意味づけはしなかった。制作陣にそんな意図があるわけもない。そしてそもそも大韓航空機爆破事件はなぞとされ、日本の左派はこれは北朝鮮とは関係ないという論陣すら張っていた。
 『少女コマンドーIZUMI』は打ち切りになった。理由は、これは同時代人にしてみると、大韓航空機爆破事件と似すぎているからだが、Wikipediaには、このことは書かれていない。

フジテレビの超人気ドラマだった『スケバン刑事』シリーズの後番組としてスタートしたが、前作ほどの人気は得られず[1]、放送開始から4か月で打ち切りとなった(物語は完結させている)。
番組終了の2ヶ月後、本ドラマを制作した東映とフジテレビは『花のあすか組』で女学生主人公の特撮ドラマを復活させたが、編成方針の変更で月曜日のローカルセールス枠に放送時間が変更された。

 Wikipediaがそのことを書かないのは、典拠がないからだ。むしろ、私が書いているこれは、お前さんの思惑にすぎない、といえば、そうだ。ああ、歴史というのは、こういうものなんだろうなと思う。同時代の私は、なぜ、『少女コマンドーIZUMI』なんていうドラマが生まれ、そして、奇妙な事件と意味づけられたある歴史の感覚を持っている。それは明瞭な感覚だが、史料的に裏付けられはしない。
 ちなみに、『少女コマンドーIZUMI』は、物語としては完結、というか、なんだか取ってつけたようなハッピーエンドだった。この物語の、初回は、当時としては印象的だった。後代に影響もあっただろう。
 ところで、主人公は、五十嵐いづみが演じた。歌手として、1987年12月に『IZUMI』というアルバムを出している。LPレコードである。買ったよ。今はもっていない。LPの束のなかに埋もれているかもしれないが、もう30年くらい見ていない。(CDはいつ頃できたのだろうか知らない)

Izumi

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2020.06.05

安倍首相の「断腸の思い」は私には伝わった

 私は、いちおう述べておけば、自民党支持でもないし、安倍晋三首相の支持者でもない。ただ、それでも、彼を擁護するかに聞こえる発言をしようものなら、それだけで批判されるという昨今のネットの空気も知っているが、これは、書いておこうかと思った。
 北朝鮮の国家組織による犯罪行為として、1977年(昭和52年)11月15日に、袋詰と思われる非人道的な方法で拉致された13歳の女子中学生・横田めぐみさんの父、横田滋さんが5日老衰で亡くなった。無念であっただろうと思う。
 これを受けて安倍首相は、記者団に対し、思いを述べたのをNHKニュースで私は見た。曰く、「総理大臣としていまだにめぐみさんの帰国が実現できていないことは断腸の思いであり、申し訳ない思いでいっぱいだ」と。涙は流していないが、詰まらせている声はいつも喋り下手ではなく、涙が出そうな感情をこらえているように見えた。もちろん、これは私の主観である。が、彼の拉致問題の関わりを思い出すと、「断腸の思い」は私には伝わった。
 ネットに残る記事を探ると、中央日報『<2002年朝・日交渉>安倍氏の“咆哮”戦術…金正日「日本人拉致を謝罪」(1)』(2014.06.17)に関連の記事があった(参照)。

 2002年9月17日午前10時30分、平壌(ピョンヤン)百花園迎賓館。
 首脳会談を30分後に控えて別室で待機中だった小泉純一郎首相と安倍晋三官房部長官(当時の職責)は茫然自失としていた。北朝鮮側から突然、「拉致被害者8人死亡、5人生存」というメッセージが伝えられたためだった。首脳会談が始まると小泉首相は金正日(キム・ジョンイル)総書記に激しく詰め寄った。金正日は意味ありげな笑顔だけを浮かべて特別な返事をしなかった。もちろん「拉致」という単語を口の外に出すこともなかった。ここまでの会談は完全に北朝鮮ペースだった。

◆会談難航…小泉首相に「日本戻りましょう」
 午前の会談が終わると安倍官房長官は北朝鮮の昼食の誘いを断り、小泉首相を別室に促した。「総理、金正日が拉致を認めて謝罪しない限り、いくら事前に日朝共同声明を出すと約束していても決して署名してはいけません。直ちに日本に戻りましょう」。咆哮するように声高に話す安倍氏を見て日本代表団一行は皆驚いた。北朝鮮に出国する前、小泉首相と安倍官房長官は「重要な対話は『筆談』でする」と約束していたためだ。盗聴装置があるのが明らかだった。しかし安倍氏はその約束を徹底的に無視した。その「効果」は午後の首脳会談が再開されるとすぐに現れた。

 もちろん、これが事実であるかは裏が取れているわけではないが、小泉純一郎『決断のとき』(集英社新書)に以下にあることと整合的であるようには思える。

実際、拉致問題について一番真剣に取り組んできた政治家は、安倍さんです。私が北朝鮮に訪問したときも官房副長官として同行してくれました。首脳会談を行った最高権力者が亡くなり、新しい指導者になってからの北朝鮮は、国際的に孤立し、まったく国際社会の言うことに耳を貸しません。難しい状態ですが、熱意だけは安倍さんが強く持っているので、期待しています。

 その後はどうであったか。拉致被害者5人は帰国した。重要なことは、北朝鮮が拉致を公式に認めたことだった。それ以前の言論界の空気を私は知っているが、北朝鮮が日本人を拉致したなど疑念を持とうものなら、陰謀論扱いされ、非難されたものだった。
 それ以外の帰国者はあったか。ジェンキンスさんは「帰国」した。めぐみさんの娘さんと横田夫妻が再会できた。しかし、横田めぐみさんを含め、他の拉致被害者は帰国できないままである。それは、結果において功績が問われるのが政治家であるなら、非は長期政権の安倍晋三首相にあることは明白だろう。
 なぜできなかったのか。彼が政治家として無能だったからか。先の中央日報記事にヒントがある。

 予想とは違い、「資金」を渇望していた北朝鮮は交渉に積極的だったという。1965年、日本が韓国に提示した5億ドルに該当する支援を得ることができるという判断からだ。現在の為替レートに換算すると100億ドル(約10兆ウォン)に相当する巨額だ。

 拉致被害者を5人帰国できた功績は、しかし、安倍晋三氏ではなく、小泉純一郎氏にある。北朝鮮は、いずれにせよ、商談としてこの問題の解結テーブルについた。そう見るなら、お値段は100億ドルである。この交渉はその後失敗した。なぜか? 2つ理由があったと思う。1つは国内世論がまとまらなかったこと。しかし、それもまた安倍氏の責任のうちである。もう1つは、ここが明瞭ではないが、米国側からの阻止があったと言っていいだろう。核化の資金になると見られていた。いずれにせよ、北朝鮮はその後核化に爆進し、米国は北朝鮮を経済制裁した。この条件下で、莫大な資金を北朝鮮に渡すことは安倍政権に不可能になった。
 どうしたら解決できただろうか? 米国と日本の関係を見直し、日本は米国の北朝鮮への経済制裁を支持しないとし、北朝鮮に資金援助すればよかっただろう。だが、それができる安倍政権でもなかった。

 

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2020.06.04

[アニメ] 未来日記

 アニメ『未来日記』を見た。見たきっかけは偶然で、しかも、当初、ギャグものだと思っていた。面白いアニメかというと、面白いと思う。が、残酷描写と微エロなどがキツめ入っていて(微エロがきついというのも変だが)、あまり一般的にお勧めできない。
 物語は、世界系というのだろうか、まどマギやシュタゲ的な世界に、DEATH NOTE的なテイストというか、そのあたりの設定と仕掛け自体が、「あー、古いなあ」とまず感じた。絵的にも古いように思えたし(はたらく魔王さまと絵が似ているので調べたら納得した)、ガラケーが小道具というのも、古いが仕方ないだろう。『俺の青春ラブコメは間違っている』も最初はこんな時代の絵柄でガラケーだった。かぐや様もガラケーなのは、あれは意図的のようだ。まあ、しかし、そうしたことは、基本どうでもいい。
 この作品の面白さは、まあ、率直に言えば、ストーカー女・メンヘラ女の魅力を余すところなく表現していることろだろう。私の場合、母親がちょっとなあという感じだったが、長じてメンヘラ女性と関わったことがないが、ネットを見るとそうした恋愛(?)風景はよく見かけるし、昨年読んだ『ぼくたちの離婚』でも出てきたが、このルポが面白いのだが、メンヘラ女性で懲りたかというと、惹かれていく様が描かれている。
 さて、以下、フルスイングでネタバレに突入せざるを得ない。

 


 終盤になると、世界系・時間軸のパラドックス解消にありがちな、面白くもないクイズ解きのようになっていって、これは、エンディング駄作かなあ、せめてシュタゲ程度にがっかりさせてくれるといいなとハラハラ見ていたのだが、率直に、そのエンディングに私は感動したのだった。すべてがご都合主義でハッピーエンドもどきになったことはどうでもいいのだ。
 主人公の少年・天野雪輝がメンヘラ彼女・我妻由乃を好きだとして、その好きの帰結として、自分たちが出会わない世界を選択したことだ。
 我妻由乃も、実際はメンヘラでもメンヘラを演じたわけでもなく、自分が他者に依存しなくては生きていけない、そうして他者・恋人を犠牲にしていることを知っていた。そしてそのことを相手に語ることで、つまり、語ることは嘘になることで、雪輝への愛を自覚できたとき、雪輝は彼女が彼女である世界に戻そうとしたのだ。
 ぶっちゃけ言えば、よくある話である。よくある恋愛の終わりである。子供の恋が大人の恋に変わるありがちな話である。
 でも、これは、胸に刺さる。それを失恋と、ありていに言えてしまう、大人の心の汚れぽさにしびれるねぇ(渡瀬眞悧)である。自分の恋情が幼いがゆえに恋人を傷つけて別れていく泥はきちんと自分でかぶらなくてはいけない。二人はそうしたのだ。
 もちろん、依存のない愛も恋愛もないというのは容易いし、恋愛というのが傷つけ合いなしに成り立つわけでもない。それでも、まあ、そこから出ていくしかない。

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2020.06.03

「香港獨立」という表記の意味合い

 明日は、六四天安門事件という呼称からわかるように、1989年6月4日、北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた市民に北京政府が軍を向けて虐殺を行った記念日である。北京政府下に置かれた香港警察は1日の時点で、天安門事件の追悼集会を禁止すると発表した。香港で毎年吉例のこの集会が禁止されるのは、今回が初めてのことだ。香港の民主化を恐れる北京政府の思惑が感じられるかのようだが、表向きは新型コロナウイルスによる対応としている。しかし、COVID-19の対応の必要がなくなっても、もう二度と天安門事件追悼集会は開かれなくなるのではないか。つまり、反体制活動を禁じる「香港国家安全法」が機能しはじめるだろう。香港はそうして、中華人民共和国に飲み込まれていくのだろうか? 私はそうもいかないだろうと思う。
 注目するのは、言語である。最近の香港のデモで、「香港獨立」という表記のバナーというのか、旗を映像を通して見かけた。報道が好んで映しているというのもあるだろうが、けっこうあちこちで見かけるものだと思った。率直な印象で言えば、香港市民の大半が独立を望んでいるとも思わない。が、私が気になったのは、この繁体字の表記である。
 言うまでもないが、香港では、台湾同様、繁体字が利用されている。他方、中華人民共和国では、簡体字が使われている。日本は、戦後、独自の簡略漢字を使うようになったので、世界規模で見るなら、大きく分けて、繁体字、簡体字、日本漢字の3種類の漢字がある。
 台湾が簡体字を採用しないこと、そして香港もそうであるということから、繁体字というもの自体に、ある種の、言語ナショナリズム的な要素が関連しているかと考えがちなのだが、このところ、中国語の学習も再開して気がつくのは、むしろ、中華人民共和国における拼音の教育の影響である。
 結論だけ簡単にいうと、拼音がないと、電子機器で漢字が容易には扱えないのである。まさかという反応が予想されるが、漢字をいかにコンピュータに入力するかというは、現代の言語にとってかなり重要な問題になっている。拼音というのは、元来は、漢字音の表現というかローマ字化だったが、現在ではそのまま漢字入力に直結している。むしろ、中華人民共和国において、初等教育における拼音教育こそが、現在の普通話の優位性を支えているようにすら思える。
 この点、例えば、現在これを書いている私は、英語キーボードを使って、ローマ字入力しているのだが、つまり、日本語ローマ字という拼音を使っているから漢字が入力できる。他に、日本語ならひらがな入力も可能だし、ガラケー以降はひらがな入力の別版ともいるフリック入力も日本語は使える。
 この点、朝鮮語の場合は、拼音のようなローマ字化が入力に使えないが、そもそも한글自体が、音のパーツを表しているアルファベットとも言えるので、2ボル式(두벌식)などが使える。朝鮮語のフリック入力もこれの別版のようだ。
 他方、繁体字圏では、どうなのか? 台湾では、漢字音の学習に注音符号を使うので、注音輸入法が漢字入力にもけっこう使われているらしい。また、フリック入力も注音符号の活用のようだ。ただ、拼音を使っている人も増えているようではある。台湾の場合、漢字は繁体字でも音価値は簡体字と同じなので、そのまま拼音も使える。
 香港ではどうなのか? 香港の繁体字はどうなのか? これがどうもかなりめんどくさいことになっている。
 まず、香港の主要言語なのだが、広東語である。その普及率について、Wikipediaの”Demographics of Hong Kong”を見ると、最新の2016年で、88.9%とある。使用可能な言語で広東語を見るなら、94.6%にも及ぶ。ただし、これで見ると香港のマンダリン(中華人民共和国の普通話)は48.6にもなる。英語は53.2% である。概ね、一定の教養のある香港人の大半は、通常、3か国語を常時使用しているということになる。
 であれば、コンピュータ入力に拼音を使っているかなのだが、そこの全体像がよくわからないというか、わからない理由は、あとで触れることなるだろう。
 興味深いのは、香港の場合、倉頡輸入法という、かなり特殊なというか、漢字の字形パーツから入力する方法も使われている。現在はその改良である速成輸入法はWindowsにも装備されている。
 ここで注目したいのは、倉頡輸入法は、漢字の字形によっていて、音価を離れていることだ。恐らく、というか、普通に想像できることだが、香港の話者の広東語は、北京語の拼音という音価を介していないほうが自然なのだろう。
 ところで、なぜ広東語の拼音を使わないのかだが、統一されていないらしい。これは台湾におけるローマ字化とも似ている。
 最近知ったのだが、香港人にとって、広東語は基本的には話し言葉であるという認識らしい。先のWikipediaの項目でも、広東はSpokenな言語とされていた。
 香港人YouTuberのかた(RamuBebeさんとあった)があげていた例だが(私は驚いたのだが)、「食べる」という動詞は広東語では「食(tai2)」だが、これを書くときは、「吃」と書くらしい。つまり、「食」を「吃」に置き換えるらしいのだ。「飲む」は、「飲」を「喝」にする。広東語のほうが日本語漢字に近いなあと思う。
 とすると、「我想吃日本拉面」と書かれていても、香港人の音価イメージは、想像するに我想食日本拉麵(ウォーシャンシッキャープンライミン)なのかもしれない。
 YouTuberのかたの例では、「彼は私より背が高い」を「佢高過我」としていた。北京語なら「他比我高」である。ここまでくると、文法レベルで入れ替えて「書く」らしい。
 こうしてみて奇妙だなと思うのは、広東語自体も概ね漢字で書くことはできるのにということだ。つまり、先の例で「書く」ということは、見た目を北京語に似せるというだけである。
 漢字というのは、岡田英弘先生がおっしゃっていたが、実は、どうにでも書ける。同じことは台湾語(台湾で標準語とされている言語ではない)も漢字で書けないことはない。
 その意味では、日本人も、漢文を日本語文法に包括すれば、「彼は私より背が高い」を「彼高於我」と漢字で書けないことはない。
 と、こうして書いてみて、なんとなく気がつくのだが、そもそも北京語もそうした構成になっているのではないか。つまり、話し言葉の北京語がなんとなく、漢字にはめ込まれているだけで、それを近代言語として整備して、現在のようになってしまっただけなのではないか。
 さて、少し話を戻して、「香港獨立」は、香港でどう発音されているのだろうか。拼音で
「Xiānggǎng dúlì(シャンカンドゥーイー)」ではなく、「ホンコンドクラー」ではないだろうか。
 おそらく、北京政府が、香港を同化させようとしても、広東語話者の強度は同化ができないのではないだろうか。というか、北京政府が同化として、普通話を普及させようとしても、香港人はすでに慣れた言い換えで表向きの対応をしても、生活言語としての広東語は残るだろうし、東アジアの広東語圏ともつながるだろう(むしろ台湾と繋がりにくいかもしれない)。
 一般的に中国語には七大方言があるとされる。話者の多い呉方言である上海語は、普通語教育でほぼ同化されたように見えるが(共産党の有力者自身呉方言であった経緯もあろうだろう)が、広東語となると、同化は無理だと思える。
 北京政府としては、文化や言語の同化は求めないと表向きは言うだろうが、むしろ、香港はそれに準じているかに見えても、まったく異なる文化・言語圏として存在し、つまりは、そもそもが「獨立」しているのではないだろうか。

 

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2020.06.02

[アニメ] まちカドまぞく

 アニメ『まちカドまぞく』というのを見た。れいによって偶然であり、見ているときも、それほど面白いかなあと思いつつ、見ていた。面白いか面白くないかでいうと、面白かった。基本コメディで、そのコメディさは普通に以上に面白かったのだが、そうした面白さより、奇妙に心にひっかかるものがいくつかあった。
 一つは明確にわかっている。風景である。私の育った三多摩の風景。特に、多摩川というものの作り出す風景が、出てくるたびに、心にじーんとくる。自分に馴染みのある風景だし、懐かしいのだから、じーんとくるというだけかもしれないが、風景がただ風景でなく、なんというのか、人の心としてそのままあるというような、そんな何かだった。
 もう一つは、これがまたうまく言えないし、言うと失当だろうという感じもするのだが、いちおう印象でいうのだが、これは極めて優れたフェミニズム作品なのではないかという感覚だ。男子が出て来ない、恋愛要素が男子目線ではない、というだけのことではない。ある種の優しさと共生の感覚が、これは、男の心には構成できないなにかであり、その非構成性において、自分が男であるという感覚が批評されているというような奇妙な感覚である。
 まあ、そんなめんどくさいことは考えなくても、十分楽しめる楽しいアニメではあった。
 しばらくしたら、もう一度通してみて、そのあと、2期が出てこないようなら、原作を読んでみようかなという感じがした。

 

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2020.06.01

後悔を受け入れて生きること

 先日だったか、Twitterで、たまたま、「若い人に伝えたいことは、後悔をしないように生きることだ」というのがあった。どのくらいのご年配の方が、若い人に伝えようとしているのかわからないが、62歳にもなってしまった自分としては、まあ、後悔なく生きるなんて、無理なんじゃないかな、と思った。ただ、それを、若い人にことさらに伝えるべきものかはよくわからない。
 それでも、つまり、誰に伝えるというものでもないが、後悔なく生きなくてもいいように思うのだ。後悔して生きていい。というか、生きることは、後悔することとさほど変わらないように思う。
 生きてみて思うのは、若い日に後悔なく行なった選択が、けっこうな時が経ってみると、じわじわと後悔に変わることはある。
 逆に後悔していたことが、なんというか、それもまた幸運だったんじゃないかと思えることもある。たいていは、恋愛とか仕事とか、そういうけっこう大切なことで。時が経つと思いというのは、変わるということがある。
 故人曰く、塞翁が馬、というものでもないだろう。なにが幸運で何が不運かわからないというのも人生の心理ではあるが、それだと、棺を蓋いて事定まる、ということになる。まあ、この手の故事は受験で学ぶのだろうか。
 それで、そういうことでもないのだ。
 なんというのか、生きている時間というのは、結局のところ今という時間でしかなく、後悔も、後悔なく生きたとかも、過去に対する現在のある思いにすぎない。
 後悔に関わるたいていのことは、今からは、もう取り返しがつかない(取り返しがつくこともあるので見極めは大切ではあるが)。ということは、後悔というのは、現在の心の持ち方とも言える。
 こんな人生論みたいな、しょうもないことを書き出したのは、その、後悔という感覚について、なのだ。
 簡単にいうと、後悔というのが、今の時間につらいのは、それが痛みや悔いや、ひどいときは死にたいほどの鬱を引き起こすのだけど、そういうひりつく感覚の質というものがあるからなんだけど、その痛みの感覚は変わると思うということ。
 ここがうまく言いづらいのだけど、事実としての後悔と、痛みとしての後悔、を分けていくのが生きるコツなんじゃないか、と思うのだ。
 「ああ、あのとき、ああしておけばよかった」というのが、それはそのとおりと、受け入れると、まったく痛みがないわけではないが、じんわりとした鈍い痛みくらいになり、ひどい痛みというほどではなくなる。痛みとしての後悔が、事実としての後悔に変わる。
 基本、生きるということは、そうして時間を稼いで、つらいことを過去に追いやることで、痛みの後悔を事実の後悔に変えるプロセス、と言えないでもないだろう。
 そうした痛みある後悔は、受け入れることができるなら、受け入れれば、鈍い痛みにかわる。事実としての認識のようになる。
 では、どう受け入れるのかというと、逆説的だが、その痛みを味わってみることだと思う。まあ、個人的にそう思うというだけで、これが人間の真理なのだとむずかしいことを言うつもりはない。こんな話、ぜんぜん間違っているかもしれない。
 ただ、後悔の痛みというのは、その痛みに向き合わないと受け入れられないんじゃないかとは思う。これが、ひとつ。
 もうひとつある。後悔の痛みを抱えているのは、こっそりと、そこからなんらかの心理的なメリットを得ているものだ。なんというか、狡猾というか偽善というか、そういう自分がいるものだと思う。露骨な例で言うなら、「こんなに後悔している自分はなんて良心的なんだろう」とか、「この痛みを忘れてしまったら、自分は向上できないとか」、かんとか。
 後悔を受け入れるというのは、そういう偽装された心理的なメリットも捨てちゃうことだ。
 なんか、ひどいことを言っているかもしれないが、後悔の裏にあるこの隠された心理的なメリットというのは、なかなかに極悪な自分とか、低能な自分とか、人は見た目が九割で自分は一割で生きられないとか、そういう、ぐへーなものを受け入れる、ということでもある。それ自体もつらい。
 ただ、少しずつ受け入れて、なんだかみすぼらしい自分だけになっても、なんだろ、不思議と生きているなあというか、ふと、生きる新しい感覚のようなものがそこにいて、それが痛みを忘却させるような、そんな感じがある、のだと思う。
 教訓垂れるようになったら、人はおしまいだという思いもあるので、この話はこのくらい。

 

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