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2020.05.19

アニメ『亜人ちゃんは語りたい』

 アニメ『亜人ちゃんは語りたい』を見た。見た理由はただの偶然である。YouTubeで断片が出てきてなんだろうかと関心を持ったからだ。この作品の名前と評判などについてはある程度知っていたが、基本、女子高生アニメというのはそれほど見たいとも思わないので、見なかった。
 それで見て、微妙な感覚を持った。つまらないアニメではない。というか、面白い。作画も悪くないし、アニメとしてのクオリティは高いのではないか。微妙というのは、この作品の暗喩をどう受け止めてよいのか、よくわからなかったからだ。
 作品の世界はこう。伝説で語れる人間のようでいて人間ではない怪異であるバンパイアや雪女が人類で確率的に発生するが、現代では普通の人間のように人権が確保され、女子高校生としても普通に学校生活を送っている。彼らは亜人(デミ)とも呼ばれている。伝説のような存在ではなく、その特性の顕現はかなり弱い。が、デュラハンは見た目も異様である。もとはアイルランドに伝わる首のない人の姿をした怪異で、自身の首を抱えている。この3人が主人公で、さらに、サキュバスの教師が出てくる。学園生活では、亜人の生態に関心を持つ生物教師・高橋鉄男の交流が中心に描かれる。
 まあ、私のような昭和人間にすぐに連想されるのは、『うる星やつら』である。雪女のおユキさんとか、いい性格していた。しかし、この作品では、見た目は普通の女子高校生である。というか、普通の女子高校生にバンパイアや雪女属性が少しある程度でもある。
 問題は、暗喩である。明白すぎる。障害者である。障害者のノーマリゼーションと語られている文脈はほぼ同じである。さらに、サキュバスに至っては、性的に魅惑的な女性はどうあるべきかという暗喩も含まれる。これらの暗喩は、そのようにも受け止められるという程度ではなく、どう見ても、それとして受け入れるしかない類である。と、いうのが、微妙な感じだった。逃げ場がないというか。
 逃げ場なしではなく、そのまま素直に受け止めればいいではないかという視点もあるだろうし、そのほうが自然なのかもしれないとも思う。例えば、首を持ち運ぶというように異型の障害者も普通にノーマリゼーションである感覚をこの作品から学べる、と。さらに言えば、そうした点を殊更に取り上げるまでもないと。
 そこは難しいとも感じられた。先ほど『うる星やつら』を取り上げたが、あれは障害者の暗喩はなかったが、どのキャラクターにもどこかしらPTSD的な精神外傷があった。というか、それがまったくないある純粋存在がラムちゃんのようでもあり、その空無な感じと実際はファルス的なあたるの物語が、精神外傷の世界を中和させる奇妙な物語だった。そこには、傷と癒しの暗喩があるにはあったが、そう見ればそうという程度でもあった。
 アニメ『亜人ちゃんは語りたい』はそういうものでもなかった。むしろ、障害者のノーマリゼーションが一般的な「他者」というものの違和感の感覚に取り込まれているという点の癒しとも言えない安楽の感覚があった。簡単に言えば、障害者の異なる特性というのは個性的な差でしかないというような、あるいは、そのような差への世界線を求めるべきなのだというような。

 

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