後悔を受け入れて生きること
先日だったか、Twitterで、たまたま、「若い人に伝えたいことは、後悔をしないように生きることだ」というのがあった。どのくらいのご年配の方が、若い人に伝えようとしているのかわからないが、62歳にもなってしまった自分としては、まあ、後悔なく生きるなんて、無理なんじゃないかな、と思った。ただ、それを、若い人にことさらに伝えるべきものかはよくわからない。
それでも、つまり、誰に伝えるというものでもないが、後悔なく生きなくてもいいように思うのだ。後悔して生きていい。というか、生きることは、後悔することとさほど変わらないように思う。
生きてみて思うのは、若い日に後悔なく行なった選択が、けっこうな時が経ってみると、じわじわと後悔に変わることはある。
逆に後悔していたことが、なんというか、それもまた幸運だったんじゃないかと思えることもある。たいていは、恋愛とか仕事とか、そういうけっこう大切なことで。時が経つと思いというのは、変わるということがある。
故人曰く、塞翁が馬、というものでもないだろう。なにが幸運で何が不運かわからないというのも人生の心理ではあるが、それだと、棺を蓋いて事定まる、ということになる。まあ、この手の故事は受験で学ぶのだろうか。
それで、そういうことでもないのだ。
なんというのか、生きている時間というのは、結局のところ今という時間でしかなく、後悔も、後悔なく生きたとかも、過去に対する現在のある思いにすぎない。
後悔に関わるたいていのことは、今からは、もう取り返しがつかない(取り返しがつくこともあるので見極めは大切ではあるが)。ということは、後悔というのは、現在の心の持ち方とも言える。
こんな人生論みたいな、しょうもないことを書き出したのは、その、後悔という感覚について、なのだ。
簡単にいうと、後悔というのが、今の時間につらいのは、それが痛みや悔いや、ひどいときは死にたいほどの鬱を引き起こすのだけど、そういうひりつく感覚の質というものがあるからなんだけど、その痛みの感覚は変わると思うということ。
ここがうまく言いづらいのだけど、事実としての後悔と、痛みとしての後悔、を分けていくのが生きるコツなんじゃないか、と思うのだ。
「ああ、あのとき、ああしておけばよかった」というのが、それはそのとおりと、受け入れると、まったく痛みがないわけではないが、じんわりとした鈍い痛みくらいになり、ひどい痛みというほどではなくなる。痛みとしての後悔が、事実としての後悔に変わる。
基本、生きるということは、そうして時間を稼いで、つらいことを過去に追いやることで、痛みの後悔を事実の後悔に変えるプロセス、と言えないでもないだろう。
そうした痛みある後悔は、受け入れることができるなら、受け入れれば、鈍い痛みにかわる。事実としての認識のようになる。
では、どう受け入れるのかというと、逆説的だが、その痛みを味わってみることだと思う。まあ、個人的にそう思うというだけで、これが人間の真理なのだとむずかしいことを言うつもりはない。こんな話、ぜんぜん間違っているかもしれない。
ただ、後悔の痛みというのは、その痛みに向き合わないと受け入れられないんじゃないかとは思う。これが、ひとつ。
もうひとつある。後悔の痛みを抱えているのは、こっそりと、そこからなんらかの心理的なメリットを得ているものだ。なんというか、狡猾というか偽善というか、そういう自分がいるものだと思う。露骨な例で言うなら、「こんなに後悔している自分はなんて良心的なんだろう」とか、「この痛みを忘れてしまったら、自分は向上できないとか」、かんとか。
後悔を受け入れるというのは、そういう偽装された心理的なメリットも捨てちゃうことだ。
なんか、ひどいことを言っているかもしれないが、後悔の裏にあるこの隠された心理的なメリットというのは、なかなかに極悪な自分とか、低能な自分とか、人は見た目が九割で自分は一割で生きられないとか、そういう、ぐへーなものを受け入れる、ということでもある。それ自体もつらい。
ただ、少しずつ受け入れて、なんだかみすぼらしい自分だけになっても、なんだろ、不思議と生きているなあというか、ふと、生きる新しい感覚のようなものがそこにいて、それが痛みを忘却させるような、そんな感じがある、のだと思う。
教訓垂れるようになったら、人はおしまいだという思いもあるので、この話はこのくらい。
| 固定リンク