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2020.05.14

[書評] 実践・快老生活 知的で幸福な生活へのレポート(渡部昇一)

 暇つぶしに読む本でもないかなと電子書籍を見ていたら、渡部昇一先生の『実践・快老生活 知的で幸福な生活へのレポート』というのを見かけた。実は、先生が70歳以降の老人生活について書かれた書籍は何冊も読んでいる。何冊もあり、内容はほぼ同じなので、書名は忘れてしまったが、この本は読んでなかったんじゃないかと思って、読んでみた。というか、冒頭、ちょっとびっくりしたのである。曰く、《八十六歳の私は》とあるのだ。え? 私の記憶では先生は86歳で亡くなっているので、これが最後の著作なんじゃないのか? もっとも、最後の著作というのは、著作の多い人の場合、どれだかわからないものでもあるが、それでも、この本が最晩年の著作の一つであることは間違いない。読後知ったが、亡くなられる半年前の出版のようだった。
 それは、まるで、人生の解答集のようだった。私は、86歳までは生きられないだろうが、そこまで生きられた人の思いには、憧れるものがある。なにより、私について言えば、すでに進行しているかもしれないが、病気を抱えた脳が知的にも劣化しはじめ、いずれ現実の認識もできなくなるだろうと怯えている。
 そして、先生は過激だった。《私は「教訓」を書こうとは思わない。老後になってまで「教訓」だなんて、クソ喰らえである。子供ではないのだから、思うままに生きていいではないか。思うままに生きて、なお晩節を汚さないのが、幾十年も人生の山や谷を乗り越えて、精神を修養した大人のあり方であろう。》実際、「修養」は本書のテーマでもある。
 さては、先生、さぞかし闊達とした86歳であろうと読みすすめるに、散歩ができなくなった、とある。食べる物も少なくなった。まあ、普通に86歳の平均像ではあるのだろうが、しんみりくる。
 《自分の娘よりも若い人を、異性としてことさらに意識することはなくなった》ともあり、これは、私も実感している。娘が成人に近づくにつれ、どうも20代の女性もお子様にしか見えない。まあ、しかし、人にもよるだろう。先生もそういうふうにも述べていた。
 《詩は何歳になっても感動できる》も共感した。ああ、私も老化しているのだ。それと、先生はむずかしい文学より少年向けの冒険譚が楽しいとも述べているが、私はアニメとか好きだな。とはいえ、小学生やそのメンタリティーに人気の鬼滅の刃は好きではないな。アニメ1期は全部見たが。
 《歳をとっても記憶力は衰えない》それと《歳をとっても、継続さえすれば語学の力は衰えない。むしろ若いころよりも今のほうがかなり伸びている》というお言葉。他の本でも見かけたが、86歳でもそのようす。で、私も、そうかもしれないなと思いつつある。《五十代の半ばからラテン語を覚えることに取り組んだことが、記憶力を鍛えることにつながったのではないかと思う》とも。先生が50代でラテン語を再開されたことは知っていたが、私はちょっと違うかなと思っていが、最近、老人にラテン語、猫に小判、犬も歩けばカエサル・キケロ、と思うようになってきた。
 さて、著作全体としては、率直に言って、先生の書かれた他の老人指南書とほとんど同じで、ネットなどで嫌われる保守主義的な人生観に溢れている。曰く、人は結婚して子孫を持つのが幸せだとか、日本がうんたらとかである。まあ、そこは、私の考えは違うなあと思った。あと、健康法関連の話題もいろいろあるが、率直にいって、大半は偽医学の類である。ただ、なんだろ、そういうことは私には、どうでもいいことのように思えてきた。単純に私は私、渡部昇一先生は渡部昇一先生というだけのことだ。ただ、老いていくに先達はあらまほしきという思いで先生とお呼びしたい。
 《凡人が苦しまずに死にたいのであれば、最良の答えは「長生きすること」に尽きるのではないだろうか。もし、九十五歳くらいまで歳を重ねてれば死ぬことさえ怖くなるなるのだとすれば、長生きさえすればいいということになる。》それもそうかもしれない。まあ、人の一生というのもはそういうものかもしれない。ただ、私はそうとも思えない。私は私で老いていくのである。

 

 

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