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2020.05.18

[書評] ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産(小林標)

 異言語を学ぶということは、必然的にその文化も学ぶことにもなるし、その文化を学ぶことはその言語を学ぶモチベーションにもなる。特に、文化的な歴史遺産の大きい言語の場合はあてはまるが、考えてみるまでもなく、ラテン語はその最たるものだ。
 そんな気持ちで新書でもあるので気楽に中公新書『 ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産(小林標)』を読んでみた。読みながら、あれ、この先生、俗ラテン語に詳しいなあと思ったら、『ロマンスという言語 ―フランス語は、スペイン語は、イタリア語は、いかに生まれたか』の著者と同じだった。こちらの本もとても興味深いものでと、過去に書いた書評を検索したら、あれ、書いてなかったっけ。間抜けだ。

  

 さて、中公新書『 ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産(小林標)』なのだが、基本的に新書らしい概論が書かれていて、かつ文章も読みやすい。さらにラテン語文学についての概論はかなりわかりやすい。が、それよりも、結果的というべきか、英語についてよくわかる。率直に言って、英語教育に関わる人は読んでおいたほうがいいと思った。その大半は概論的なことと、当然ながら語源的なことである。例えば、sureとsecureの語源は同じラテン語のsecurusなのだが、なぜ英語で分化しているのか。この手の話題は、他書でも同じとも言える。
 興味深かったのは、例えば、次のような指摘である。

 英語には命令文というものがある。それは、命令法ではない。
 You see.に対するSee.は動詞の形の違いではなくて、「主語を省くと命令の意味の文になる」という文の作り方の違いであるから、命令法 imperative mood ではなく命令文 imperative construction なのである。英語の伝統的文法でそれを命令法と呼ぶことがあったのは、ラテン語の文法を英語に無理やり押し付けたせいであり、正しい説明ではない。

 私自身は、著者とちょっと違った考えを持っているのだが、そもそも英文法というのがラテン語文法を規範に、しかもどうやら普遍的な文法を意識して作られた(つまり、英語という言語に最適な文法とはなにかという視点はなかった)ものだ。
 他にも、次の指摘も興味深い。

 また、英語では to seeという形を伝統文法では不定法と呼ぶことがあったが、今では不定詞と言う。それは動詞の一変化形ではあっても法の一種ではないからである。ただ、ほとんどの人にその理由が理解不可能であろう「不定」という言葉は残った。これも、ラテン語での用法のせいなのである。ギリシア語、ラテン語の文法では「〜すること」の意味の形は法の一種であるという考え方あった。そして、他の法とは異なってその意味は決定できぬ、不定のものであると説明されて modus infinitivus という名称がつき、それが英語にそのまま使われたのであった。

 簡単に言えば、ラテン語の場合なら、不定法が理解しやすい(人称などによって定まらない)が、英語の文法概念としてはわかりづらい。なお、ラテン語では、不定法には、現在、未来、完了の時制がある。というか、この考えは特に過去の場合、英語やフランス語は、have(avoir)に過去分詞を付ける、ので、これが語学学習者に完了形との誤解をもたらしやすい。
 個人的には、ああ、そうだったのかと思ったのは、話法についてである。ラテン語では、英語のthat、フランス語のque、イタリア語のcheに相当するような間接話法のマーカーは存在しない。にも関わらず、接続法は存在する。で、その意味的な主語は与格になる。英語にむりはめるなら(同書でもそう指摘されているが)、for you to knowのようになる。
 同書は説明していないが、英語の名詞句での不定詞の意味的な主語はforで示されるというのは、どうやら、この不定詞なるものの正体は接続法で意味的な主語は与格なのだろう。おそらくイタリア語の命令法が接続法と関連しているのもそのせいなのだろうし、フランス語における接続法が命令法的な意味合いをもっているのもそのせいだろう、というあたりの話は、さも英語に関係ないようだが、He proposed that I take part in the contest.のような構文はこれらの名残だろうし、*He wanted that I go to the market.が非文なのもこれらの歴史的な歪みから出てくるのではないか。

 

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