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2020.05.26

緊急事態宣言の終わり

 今日から、緊急事態宣言が解除された。現実的には、段階的な解除ということになるが、町にランドセルの子供も見かける。満員電車には乗らなかったが、そういう風景もあったのではないか。
 感慨深いといえば感慨深いのだが、私の場合、この間、自粛で我慢したよなあというより、まあ、自分の予感通りにほぼなったなということだ。3月9日に『新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)についての、たぶん奇妙な予想』(参照)という記事を書いた。

 当てずっぽうで思ったそののんきな予想は、日本のこの感染がある時期に急速にかつ他国に類もない収束を迎えるかもしれない、ということだ。他国と比較してという意味である。

 ……むしろ、結果的に奇妙な国家という特性を示す事例になってしまうのではないか、と。

 ほら、私の予想通り、と思うわけではない。なぜなら、これは、ただの直感に過ぎず、なんの根拠も示してなかった。しいて言えば、日本の全体主義的な社会がもたらすだろうくらいのことだった。
 すべて直感どおりというわけでもなかった。もうちょっと早いと思っていた。が、これは政府の専門家会議の実効再生算数的には、ピークの3月末で1を切っていたので、1か月くらい前倒しでもよかったのかもしれない。
 「結果的に奇妙な国家という特性」についても、まあ、当たった。ただ、韓国よりも死亡者率を抑えられるということはなく、100万人人口比で2人くらい劣った。という意味で、韓国の対応がより正しかったのかというと、市民社会への政府介入とバランスすると微妙であり、市民社会への政府介入を嫌う欧米としては、日本のほうがいいなと思うようだ。具体例は引用しないが、いくつかそういう雰囲気漂う英文記事を読んだ。
 ただ、総じて言えば、台湾やベトナムはさらに日韓より優れていたし、どうやら、アジア圏においては、起源の中国を含めて、COVID-19はそもそも軽症で終わったと見てよい。つまり、比較的軽微に済んだのは、政策的な差異が大きな要因でもなさそうだ。
 というわけで、なぜ? が残る。なぜ、アジア圏では深刻にならなかったのか。BCG説がネットでは騒がれていたが、私は交差免疫ではないかなとなんとなく思うが、これも直感でしかない。あと、COVID-19は季節性とは言えないようだが、季節性的な性格はあるだろう。欧米でも、フランスやイタリアとか、トラジェクトリーで見ると、流行の終わりに向かっていることがわかる(他方ブラジルでは感染爆発している)が、これって季節要因が大きいんじゃないかという印象もある。
 今後はどうなるかだが、8割おじさんこと西浦博教授も実効再生算数をかなり低見ているという記事も読んだが、実際、実効再生算数はかなり低いだろう。その意味合いは、集団免疫にはそもそもならないかもしれない、ということで、それなら、ほとんど他のコロナウイルス感染に近いものになるだろう。第二波、あるいは第三波というべきかという点では、感染学的には、ピークを下げた分、長期化するので、当然あるだろう、それがどのようなものかは、未来はわからない。直感的に言えば、たいしたことないんじゃないだろうか。日本と限らないが、被害は院内感染が大きく影響しているし、施設内高齢者の死者が多く、実際のところ、死亡の傾向はマクロ的に見ると、自然死を時間差でなぞっているようになる。現代文明が医療体制として整備したホールを突いた現象のようにも見える。
 そういえば、政策といえば、安倍政権の人気はガタ落ちしたようだ。支持しない人が一気に増えたのかもしれない。他方、東京都知事選はもう小池さん続投しかないようにも見える。
 社会学者のマックス・ウェーバーが『職業としての政治』で説いたのだが、政治家に求められるのは、「責任倫理」である。政治家というのは、政策の行為を予見し、その行動の結果の責任を持つというものだ。他方、宗教家や大衆の多くは、自身の信仰や道徳観によって倫理を決める、という、「心情倫理」を持つ。当然、責任倫理と心情倫理は相反することもある。
 が、なんであれ、政治家には責任倫理が問われる。つまり、結果が問われるのだ、いい結果を出した政治家なら、どのようなプロセスであれ、その責務を担って出した結果で評価されるべきだろう(もちろん最終的な結果はわからないが、最終というなら、責務概念も曖昧になる)。
 つまり、安倍晋三首相、ご苦労さまでした(「ご苦労さま」でよかろう、公僕でもあるし)。偶然なのかもしれないけど、いい結果が出たならそれで、政治家は評価されるべきだろう。
 この間の経済的なバラマキ政策も、ひょんなことで今後、いい成果になるかもしれない。その成果が見られるときは、そしてそのときは、首相を辞しているだろうが、日本史に残る偉大な首相となっているかもしれない。もちろん、多くの日本国民は、心情倫理で見るだろうから、まあ、罵声まみれでもあるだろう。私としては、それもまた、そのときも、「責任倫理」の点で見ていきたい。

 

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2020.05.25

ATMは何の略語か?

 ATMは何の略語か? Automatic Transaction Machineではありません。というか、こんなのググればすぐにわかること。実際べたに、「ATMは何の略語」で検索したら、トップにべたに次のように出てきた。『ATMって何の略?意外と知らないアルファベット略称まとめ』というサイトだ(参照)。

ATMはAutomatic Teller Machineの略です。 をつなげたもので、日本語訳としては、”現金自動預入れ支払い機”となります。 Teller が”話し手”ではなく、金銭出納係という意味を持つことが面白いですよね。2015/10/13

 答えはあっている。しかも、《 Teller が”話し手”ではなく、金銭出納係という意味を持つことが面白いですよね。》というこのブログ記事のネタバレまできちんと書いてある。ので、読んでみたが、残念、それ以上の話はなかった。つまり、なぜ、《 Teller が”話し手”ではなく、金銭出納係という意味を持つ》のかの説明はそこになかった。
 その説明の前に、じゃあ、ネイティブなら知っているかというと、英国人に限定されるが、Daliy Mailに"OMG! I haven't a clue what PAYE stands for: Britons more likely to understand text message terms than financial abbreviations"という記事があり(くそ! 私はPAYEが何の略かわかんない。:英国人は金融関連の略語よりもテキストメッセージの用語を理解する傾向がある)、次のように書いてあった。

More than three-quarters (77%) of consumers knew that OMG translated as 'Oh my God' in text language, while just under two-thirds (65%) knew that ATM stands for Automated Teller Machine.

 つまり、ATMがなんの略語が、65%の英国人は知らない。
 つまり、日本人にとって、ATMが何の略語が知らなくても、しかたない。
 とはいえ、「Teller が”話し手”ではなく、金銭出納係という意味を持つのはなぜか?」だが、これも、ググっていけばだいたいわかる。のだが、ググっていくと、間違いも見つかる。「TOEIC英単語の授業 0094 / ATMとtellerの関係とは?語源・スペル・核心で一生忘れない」というYouTubeでは、暗記の便宜としてかもしれないが、tellerを「語る」のtellの派生としていた。
 要するに、なぜ、tellerなのかというと、『英語教師の基礎知識』というサイトに「生きている死語 ATM ~Automatic Teller Machine~」という記事があり、こう書かれている。

"The mother tongue ~english & how it got that way~"のなかで、Bill Bryson が "fossil" という現象について説明しています。

Sometimes an old meaning is preserved in a phrase or expression. (中略)Tell once meant to count. This meaning died out but is preserved in the expression bank teller and in the term for people count votes. When this happens, the word is called a fossil. (p79)

Tell にはかつて "count"「数える」 の意味があったようですが、その意味は現在ありません。しかし、"a bank teller"、 "a deposit teller"「(銀行の)出納係、窓口係」 のような表現に生き残っています。このような現象は「化石」という意味で、 fossil と呼ばれるそうです。

 これで納得ということでもいいし、この記事も英書を参照しているが、米国人もこの言葉を奇妙に思うらしく、いくつか解説記事が出てくる。例えば(参照)。
 ただ、ちょっと納得いかないかなと調べていて、Wikitionaryを見ていると、tellerに次のようにある。

English
Etymology
From Middle English tellere (“one who counts or enumerates; one who recounts or relates; teller”), equivalent to tell (verb) +‎ -er.

 中世英語でもむしろ、tellという動詞がcountの意味だったらしい。Wiktionaryで面白かったのは、tellerがオランダ語でも使われていたことだ。
 というわけで、普通に、tellで調べてみると、こう。

Etymology 1
From Middle English tellen (“to count, tell”), from Old English tellan (“to count, tell”), from Proto-Germanic *taljaną, *talzijaną (“to count, enumerate”), from Proto-Germanic *talą, *talǭ (“number, counting”), from Proto-Indo-European *dol- (“calculation, fraud”). Cognate with Saterland Frisian tälle (“to say; tell”), West Frisian telle (“to count”), West Frisian fertelle (“to tell, narrate”), Dutch tellen (“to count”), Low German tellen (“to count”), German zählen, Faroese telja. More at tale.

 どうやら、もともとゲルマン語の原義が、勘定することだったらしい。その意味で、たしかに、これは、言葉の化石とでもいうようだが、ようするに、古英語から中世英語まではその意味で使われ、そのあたりtellerで固定化したのだろう。
 むしろ、現代英語のtellの意味が、中世英語以降の意味変化によるもののようだ。
 そして奇妙な感じがしたのは、現代ドイツ語だと、英語のtellにあたるところは、sagenになる。つまり、sayの系統である。tallenというのはなさそう。

 

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2020.05.24

[アニメ] パパのいうことを聞きなさい!

 アニメ『パパのいうことを聞きなさい!』を見た。アニメは1シーズンで、OVAが2話あった。見た理由は特にない。偶然である。以前なら、このタイプの絵は見られなかったが、流石にアニメ絵にも慣れてきた。面白かったかというと、つまらなくはなかったというのがまずあるがその先はなんとも微妙な感じがした。最初に、その微妙のコアの部分を言うと、私はまず最初に、「あ、これ、『池中玄太80キロ』だ」と思い、誰が見てもそう思うだろうと思ったのだが、ググってみると、私の勘違いなのか、ヒットがなかった。なぜなんだろうか? 異世界に来たような、え、ここどこ?感があったのだ。
 アニメ『パパのいうことを聞きなさい!』の概要はこう。主人公・瀬川祐太は、中央大学を模した八王子の大学に入学し、下宿生活を始めた初夏、姉夫妻が飛行機事故で死亡し、その子どもたち、空(中2)、美羽(小5)、ひな(3歳)が親戚に離れ離れになるのをかわいそうに思い、狭い下宿に引き取る。物語はそのひと夏の出来事である。
 祐太が子どもたちを引き取ったのは、彼自身、幼い頃から姉に育てられたという思いがある。女の子たちだが、アニメだからというのか、実は血縁はない。空は姉の夫の前妻の娘(祐太に惹かれている)、美羽は彼の二番目の前妻の連れ子のロシアン・ハーフ、ひなは二人の実子。
 祐太をめぐる大学生のサークル仲間も重要で、変人美女の織田莱香、女たらしの美青年の仁村浩一、あと、幼女好きの佐古俊太郎が出てくる。アニメ全体はいわゆる妹萌えものでもあり、佐古がその気持ち悪さを表現している。莱香も天使が降りてきた系である。仁村は意外といいキャラクターで、話中、美羽との関係が心情迫る。
 連れ娘との同棲という点で、昭和のみんなが知っているのが、『池中玄太80キロ』であり、祐太のキャラや女の子の心情の作りがよく似ていると思った。
 さて、以下、ネタバレ。
 普通に考えてもわかるが、大学生の下宿先で三人の娘が共同生活などできるわけもなく、その生活は破綻するのだが、いい意味で破綻し、娘たちの実家に祐太も暮らすということになる。まあ、最初からその設定でもいいようにも思うのだが。
 そして、空と祐太の恋情がエンドとなるのだろうなという雰囲気で終わる。ラノベ原作では未読だが、他エンドの可能性も散りばめられてはいたようだ。
 さて、本編を見終えて、なにか、残尿感というか、残る感じがして、OVAを見ると、案の定、姉夫妻の幽霊が出てくる。これが、思いつきで取って付けたというより、そもそも、祐太と三人の娘の家族愛のような関係は、死者の目線にあったのだと気がかされるものだった。それだったのかと、落とし穴に落ちるかのように納得した。
 物語は、お兄ちゃん萌えでもあるのだが、祐太と空の関係は、『エロマンガ先生』のような単相の親密の関係性ではない。死者の視線が、エロスを常に遮るように進む。

 

 と、ここで、気がつくのだが、そもそも家族的な親愛の情感というのは、こうした死者の視線を前提にしているのではないだろうか。
 ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』が示すように、私たちの共同性というのは、その構成員の心情に帰着するものだけではない。むしろ、共同性はそのなかで死んでいた死者を共有する関係にある。さらに彼がほのめかすように歓喜もエロスも。
 ところで、原作とアニメではかなりとまで言えるかわからないが、ズレがある。それが基本テーマの物語的な遅延に関わるのか、本質的なズレにあるのかわからない。そうしたなか、作者が早世したという話題も知って、なんだろ、特段暗喩的な意味はないのに、重たい感覚が残った。

 

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2020.05.23

ハングルと陰陽思想

 ハングルというのは、한글で、異説はあるが、よく言われる「偉大なる文字」ではなく、「漢写」であろう。글の対応漢字がよくわからないが、「글을」は中国語では「写字」とされていて、意味的な対応はありそうだ。また、そう考えるのは、한글は한자の対応で、つまり、漢字(한자)に対応する訓読み、朝鮮語の「写し」ではないかと思われるからだ。
 ハングルという文字自体の起源については、私が直接学んだ岡田英弘教授は、元朝のパスパ文字を元にしたと説かれていた。余談だが、李成桂は女真人であるとしていた。高麗国王恭愍王が双城を攻めたおり、その降伏者の李子春の息子である。
 それはそれとして、ハングルの構成には陰陽五行が関わっている。このあたり、そもそも漢字の訓という性質からできた体系を陰陽五行で整理しなおしているのだが、ニーモニックというより世界観の要請ではあっただろう。当然、漢字訓の構成としては、中国語を写すために三十六字母に対応している。
 陰陽五行との対応だが、母音で見ると、次のようになっている。

陰 ㅡ
陽 ・

 逆にしたほうが直感的だろう。

陽 ・
陰 ㅡ

 大地(陰)の上の天に太陽(陽)があるという象徴である。
 人間はその中間にある(檀君思想)。発音記号とローマ字を添える。

陽 ・  無音
人 ㅣ  /i/   i
陰 ㅡ  /ɯ/  eu 

 次に4つの基本母音が現れる

陽 ㅗ ㅏ /o/ - /a/     a - o
陰 ㅜ ㅓ /u/ - /ɔ/    eo - u

 方形になる。

 ㅗ     /o/      o
ㅓ ㅏ   /ɔ/ /a/    eo a
 ㅜ     /u/      u

 さて、わからない。何がわからないかというと、母音の調音点との関連が見られないことだ。日本の母音は、調音点にほとんどきれいに対応している。基本ラテン語もそうだ。

  い i   う u
  え e   お o
    あ a

 仕組みがわからないが、漢字を写す中声の母音には次のものがある

ㅐ  ㅔ  ㅘ  ㅙ    ㅚ  ㅝ    ㅞ  ㅟ   ㅢ  ㅒ  ㅖ
/ɛ/ /e/ /wa/ /wae/ /ø/ /wɔ/ /we/ /y/ /ɯi/ /jε/ /je/
ae e wa wae   oe wo  we wi  ui yae  ye

 法則性がいまひとつわからない。なにより、ㅚが変則すぎる。発音からローマ字が導けない。
 当然、この混乱は韓国にもあるようだ。「ㅐㅓㅕ ㅚ」は「ai u yu oi」となりかねない。金日成は北朝鮮式でもない。

  김일성(金日成) Kim Il-sung (Kim Il-song)

 現代自動車の「現代」だが、マッキューン=ライシャワー式に近いものになっている。ただ、文化観光部2000年式ではかなり音価が想像しにくい。

  현대(現代) Hyundai (Hyeondae)

 ちなみに、次のようにまとめているサイトもあった(参照

Hangul

次は子音だが、これも中国語に対応し、五声であり、陰陽五行の五行に対応する。

木 牙音 ㄱ 舌根が喉を閉じる
火 舌音 ㄴ 舌が上あごに付く
土 唇音 ㅁ 唇の形
金 歯音 ㅅ 歯の形
水 喉音 ㅇ 喉の形

 子音体系は、この五声の字形を修飾して作られる。

 以上、陰陽五行とローマ字化の対応を見ても、規則性は見られないし、そもそも陰陽五行の対応が基本母音をうまく捉えていない。ただ、この点については、私がハングルと陰陽五行の関連をよく理解してないせいもある。たとえば、ㅐとㅔはどのような合成の原理によっているのだろうか?
 あと、書いていて思ったが、ㅚとㅟはウムラウトの記号を使ったほうがよいのではないか。あと、/ɛ/と/e/の対立は実際にはないようなので、整理してもよいのではないか。

 

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2020.05.22

朝鮮語とローマ字化について

 Duolingoに韓国語のコースがあって、始めると、朝鮮語とローマ字化についてまた考えさせられた。
 きっかけは、中国語。Duolingoに日本語から中国語を学ぶコースが昨年にできていたのを知らなかったことだ。なので、試しにやってみると面白かった。気がつくと、提供されている教材のレベル1は終えたのだが、教材の量が少ないのに気がつく。英語から中国語を学ぶコースのほうが多い。こちらは以前、少しかじったくらいだったが、この機にこちら、つまり、英語で中国語を学ぶコースを継続している。合わせて、ポール・ノーブルの中国語講座も聞いている。
 そうしたなか、もしかして韓国語はどうなっているのかと、Duolingoを調べると、あった。当然といえば当然だが、今まで想像していなかった。
 早速、試しに、英語で韓国語を学ぶコースを開始。まずは、ハングルである。ハングルって基本はそれほど難しくないので、比較的短時間に覚えられるのだが、ということは、同時に忘れやすい。自分についてはそう。読めないハングルが多くなってしまった。김치がキムチだよあくらい。지하철역は、どうか。チハチョルヨク? ああ、地下鉄駅かなと思う。

 지-地 하-下 철-鉄 역-駅

 日本語の名残かなとも。このくらいは読めるのだが、読めないのも多くなった。
 簡単に習得できるとことは、簡単に忘れてしまう。というわけで、また再学習かという気になったのだが、Duolingoで韓国語学ぶと、当然だが、英語から学ぶわけで、ローマ字が出てくる。김치だとgimchi。これはまあ、簡単すぎるんだが、지하철역だとこうなる。

 지하철역
 jihacheol-yeog

 文化観光部2000年式である。構成は、こう。

지-ji
하-ha
철-cheol
역-yeog

である。
 破擦音をどう割り当てるかというのは、中国語のピンインでもそうだし、フランス語でもそうだが、ローマ字化にあたっては恣意的である。日本語もそうか。
 ここで、あれれと思ったのは、철-cheolと역-yeogである。
 まず簡単にパッチムの역-yeogとなるのが、역-yeokではないのか? しかし、これはそれほど問題でもない。文字部位だけ見ると、こうなる。

 ㅓ - eo
 ㅕ - yeo

 これを軟口蓋化と言っていいか、yを単独音素で子音と見るかは、さておき、法則的になっている。
 で、単純な疑問にぶつかった。
 なぜ、ㅓ - eo なんだろう? つまり、これだと二重母音のように見える。実際は、単音である。北朝鮮の北1992年式では、ŏ だし、フランス語に慣れた自分などからすると、このほうがわかりやすい。中国語のピンインでもこうした紛らわしい表記はない?
 英書の歴史書によく出てくるイェール式だと、eになり、中国語ピンインに似ているし、フランス語でもそうだとも言えるが、これもわかりにくい。
 そもそも、イエール式に至っては、ㅔがey、ㅐがayというのも同様にわかりにくい(短母音である)。ちなみに、ここは、文化観光部2000年式だと、ㅔがae、ㅐがeである。まだわかりやすい。というか、なんとなくなが、日本語や英語に配慮している感じもしないではない。
 さてごちゃごちゃ言ったが、文化観光部2000年式を変更することは無理だし、日本での韓国語学習ではローマ字は使われてない。そもそも、韓国ですら、ローマ字が使われているのだろうか? というのは、中国語だとコンピュータ入力はピンインだが、韓国語では2ボル式が主流で、Windows10ではローマ字入力ができるとはいえ、利用されているのかわからない。
 で、何が言いたい?
 韓国語学習におけるローマ字のパス(経路)を整備してもいいんじゃないだろうか?

 

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2020.05.21

東京高検・黒川弘務検事長、賭けマージャンの変な感じ

 東京高検・黒川弘務検事長(63)が朝日新聞社員(元新聞記者)と産経新聞記者2名と、5月1日と13日と二度にわたり、産経記者宅で賭けマージャンをした疑いがあると週刊文春が報じた(参照)ことを受けて、黒川氏が辞任することになった。世間的に考えれば、検事長ともあろう人が違法な賭けマージャンをするのは許せない、ということなのだが、なんとも変な感じがする。最初にお断りしておくが、私は黒川氏を擁護する気はまったくない。それと、彼が安倍晋三首相と密接な関係があるとも思ってないがその仮想文脈で安倍政権を支援する気も毛頭ない。ただ、世間に生きた人間として、なんだろこれ?と思う。
 まず、賭けマージャンは、賭博罪(刑法第185条第2項「賭博場を開張し、又は博徒を結合して利益を図った者は、三月以上五年以下の懲役に処する。」)で違法である。私はやったことないが(そもそもマージャンが嫌いだしできない)、他方、雀荘での賭けマージャンが常態であることは普通の社会人として知っている。どうなっているのかというと、賭博罪が存在することと逮捕・起訴されることが現実では乖離しているからだ。刑事訴訟法第248条の「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」というやつである。実際のところ、雀荘を潰したとしても、ホームパーティで軽い賭けマージャンを潰すことは不可能でもある。もっとも、雀荘でも摘発が入ることもあるが、常識では1000点200円以上のレートあたりになっているようだ。おそらく、パチンコの儲けを上回るあたりで罰せられるのだろうというか、結果的には警察の利権であるパチンコを守ろうとしているのかもしれない。
 普通に考えて、それなりに世間を知っている人間なら、賭けマージャンだから違法だ、よっていかん、ということもないだろう。もしそうなら、同罪は、産経新聞記者や朝日新聞社員にも及ぶだろうし、関係者が3人で終わりということはないだろう。それを全部吊るし上げるというのなら、それなりに合理的だが、そういう空気はなさそうだ。とはいえ、そのあたりの人脈の誰かが、文春に垂れ込んだということだが、朝日新聞社員が混ざっているあたり狙ったのも奇妙な感じもするし、そもそも文春がどうしてこれを張っていたのか、人脈はそのあたりにも通じているだろうから、そもそも、ただのスクープというわけでもないだろう。ただ、それでも、文春で映されている黒川氏はさほどお忍びという風体でもなく、そもそも人目を厳密に避ける密会というほどの意識もなかったようだ。
 密会というほどの意識はないとしても、なんでこのメンツが集まったのかだが、元朝日新聞記者の筑紫哲也ほどマージャン好きということだったのだろうか? あのゲームってそんな面白いものだろうかとも私は疑問に思う。黒川氏については他にもギャンブル狂といった噂もあるようなので、雀狂だったのかもしれない。他方、検察の動向を探る記者にとって、察するに基本は親睦というか、一種の伝統的な業務の一貫だったのではないか、というか、そんなの昭和の常識なんだが。
 いかんというのには、緊急事態宣言の自粛中だからいかんというのもある。というか、文春記事からして、《4人が集まったのは5月1日。小池百合子都知事が「ステイホーム週間」と位置付け不要不急の外出自粛を要請、また安倍晋三首相も「人との接触8割減」を強く求めていた緊急事態宣言下でのことだ。》と切り出して、その文脈に導いている。これは率直なところ、自粛で鬱屈とした庶民の逆恨み空気を読んだような感じもする。
 最後にもうひとつ思ったのは、これで当然、黒川弘務検事長は辞任で、定年延長とかいうごたごたもこの部分では消えるのだが、印象としては、今回の賭けマージャンで朝日新聞社員や産経記者を含め、これらの人脈を護るため、黒川氏としては自分が全部責をかぶって終わりにしようとしたのではないか。
 私としては、ここまでやるなら、いっそ朝日新聞や産経新聞などがこれまでどのように検察に向き合ってきたのか、仲良しグループと検察の力学図を全部、暴いてしまえばいいのにと思わないでもない。そのなかで文春の立ち位置も見えてきたら、さらに面白いだろう。

 

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2020.05.20

もし、緊急事態宣言がなかったらどうなっていたか? (追記あり)

 もし、緊急事態宣言がなかったらどうなっていたか? 最初に明確なことがある。私にはわからないし、私には強い主張はないということだ。しかし、ある程度確かな典拠から推測できることはあるので、ブログにいち市民の歴史証言として記しておきたい。
 その「ある程度確かな典拠」となるのは、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が 5月14日に発表した「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(参照PDF)での以下のグラフ「全国の実効再生産数 P4 発症日データを用いた推定、P5 発症日を特定できない感染者も含めた推定」である。


Coronagraph_20200521083401

 グラフで示されていることは次のとおり。「黄色の棒が感染時刻(日)別の推定感染者数であり、青の実線が推定された実効再生産数であり青の影が 95%信用区間を示す。感染から報告までの遅れの 80 パーセンタイルを考慮して全国では4月29 日以降、各地域では4月 30 日以降の推定値は省略している(青の帯)」
 政府の4月7日の緊急事態宣言にあたって想定されていた基本再生産数は2.5であったと理解してよいだろう。さらに、そのような場合、なんらの社会的対応をしなければ、40万人近い死者も想定されていたと理解してよいだろう。
 しかし、4月7日の時点ですでに各行政機関は外出の自粛を訴えていたし、タレントの志村けんさんがコロナウイルス感染で亡くなったのは3月29日であり、この話題はお茶の間までコロナウイルスの危険性を知らせるものになっていた。むしろ、4月7日の緊急事態宣言はそうした世間の自粛空気を是認するような意味合いも、今となっては考えられるのではないか。
 4月7日の緊急事態宣言で懸念されていたのは、表向きには、数十万人の死者の暗示にもあるような「オーバーシュート」であった。実際には、医療崩壊への懸念であったのかもしれないとしても。そこで、「オーバーシュート」なるものが起こりうる条件はといえば、基本再生算数が2.5であるように、明らかに1を超えていることが前提になる。2を超えているならかなり緊急を要する事態だとも言ってよいだろう。
 基本再生産数ではなく、実態の実効再生産数が 2を超えそうな勢いを示した時点は、グラフから読み取ると、だいたい3月10日あたりであったようだ。この危機的な状態はだいたい3月25日くらいまで継続している。が、その後4月2日あたりまでの1週間で実効再生産数は1以下に急落している。なお、発症日を特定できていない感染者について想定を加えた推定も専門家会議は示していて、このグラフに似ているが、3月15日あたりで、2.5を超えている(がそこを頂点に3月20日以降急落している)。
 なぜ、3月25日あたりで急上昇したのかについては、いわゆる第2波と呼ばれるものではないかと思われる。が、これが1週間ほどで急落した理由については、ほとんど語られていないように思われる。私もわからない。
 しかし、ここから読み取れることは、4月に入った時点で実効再生産数は1以下で安定していたということで、緊急事態宣言がなんらかの影響をこれに対して持っていたとしても、それが見えるのは、4月20日以降のさらなる急落であっただろう。
 こうしてた、専門家会議の推定から容易に読み取れることは、緊急事態宣言がなくても、懸念された「オーバーシュート」はなかっただろうということだ。さらに踏み込んで推測すれば、緊急事態宣言が出された4月7日時点で実効再生産数が1を割っていたことが政府側で推測できたのではないか、と、するなら、緊急事態宣言の意図は「オーバーシュート」回避ではなかったのかもしれない。この場合、その選択は緊急事態宣言がもたらしたマイナスと政策的な再評価を要するだろう。
 この間の日々を実際に経験した人間として、関連して気になるのは3月22日、さいたま市のさいたまスーパーアリーナで開催された格闘技イベント「K-1 WORLD GP」である。3月22日は実効再生産数が2を超えていた、ある意味、最悪の時期であった。が、その結果、このイベントから感染が拡大したという話題は聞かない。なかったのではないだろうか。とすればそこから推測できることは、通常の集会では感染拡大は起きないだろうということだ。当然、院内感染はそうもいかない。おそらく、スーパースプレッダーとも言われる感染拡大の特異者がいないか、飛沫感染防止が意識されていると、感染拡大は弱いのではないだろうか。感染経路はある程度追跡されているが満員電車が指摘に上ったことも聞かない。


追記 5月22日
 西浦・北大教授が監修した、東洋経済(参考)5月22の記事『東洋経済が新型コロナ「実効再生産数」を公開 感染状況を示す指標、西浦・北大教授が監修』に掲載されたCOVID-19の実効再生算数の推移を見ると、4月2日の緊急事態宣言によって大きく改善に向かっているとも読める。ここからは、緊急事態宣言によって「オーバーシュート」が回避できたとも考えられる。

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2020.05.19

アニメ『亜人ちゃんは語りたい』

 アニメ『亜人ちゃんは語りたい』を見た。見た理由はただの偶然である。YouTubeで断片が出てきてなんだろうかと関心を持ったからだ。この作品の名前と評判などについてはある程度知っていたが、基本、女子高生アニメというのはそれほど見たいとも思わないので、見なかった。
 それで見て、微妙な感覚を持った。つまらないアニメではない。というか、面白い。作画も悪くないし、アニメとしてのクオリティは高いのではないか。微妙というのは、この作品の暗喩をどう受け止めてよいのか、よくわからなかったからだ。
 作品の世界はこう。伝説で語れる人間のようでいて人間ではない怪異であるバンパイアや雪女が人類で確率的に発生するが、現代では普通の人間のように人権が確保され、女子高校生としても普通に学校生活を送っている。彼らは亜人(デミ)とも呼ばれている。伝説のような存在ではなく、その特性の顕現はかなり弱い。が、デュラハンは見た目も異様である。もとはアイルランドに伝わる首のない人の姿をした怪異で、自身の首を抱えている。この3人が主人公で、さらに、サキュバスの教師が出てくる。学園生活では、亜人の生態に関心を持つ生物教師・高橋鉄男の交流が中心に描かれる。
 まあ、私のような昭和人間にすぐに連想されるのは、『うる星やつら』である。雪女のおユキさんとか、いい性格していた。しかし、この作品では、見た目は普通の女子高校生である。というか、普通の女子高校生にバンパイアや雪女属性が少しある程度でもある。
 問題は、暗喩である。明白すぎる。障害者である。障害者のノーマリゼーションと語られている文脈はほぼ同じである。さらに、サキュバスに至っては、性的に魅惑的な女性はどうあるべきかという暗喩も含まれる。これらの暗喩は、そのようにも受け止められるという程度ではなく、どう見ても、それとして受け入れるしかない類である。と、いうのが、微妙な感じだった。逃げ場がないというか。
 逃げ場なしではなく、そのまま素直に受け止めればいいではないかという視点もあるだろうし、そのほうが自然なのかもしれないとも思う。例えば、首を持ち運ぶというように異型の障害者も普通にノーマリゼーションである感覚をこの作品から学べる、と。さらに言えば、そうした点を殊更に取り上げるまでもないと。
 そこは難しいとも感じられた。先ほど『うる星やつら』を取り上げたが、あれは障害者の暗喩はなかったが、どのキャラクターにもどこかしらPTSD的な精神外傷があった。というか、それがまったくないある純粋存在がラムちゃんのようでもあり、その空無な感じと実際はファルス的なあたるの物語が、精神外傷の世界を中和させる奇妙な物語だった。そこには、傷と癒しの暗喩があるにはあったが、そう見ればそうという程度でもあった。
 アニメ『亜人ちゃんは語りたい』はそういうものでもなかった。むしろ、障害者のノーマリゼーションが一般的な「他者」というものの違和感の感覚に取り込まれているという点の癒しとも言えない安楽の感覚があった。簡単に言えば、障害者の異なる特性というのは個性的な差でしかないというような、あるいは、そのような差への世界線を求めるべきなのだというような。

 

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2020.05.18

[書評] ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産(小林標)

 異言語を学ぶということは、必然的にその文化も学ぶことにもなるし、その文化を学ぶことはその言語を学ぶモチベーションにもなる。特に、文化的な歴史遺産の大きい言語の場合はあてはまるが、考えてみるまでもなく、ラテン語はその最たるものだ。
 そんな気持ちで新書でもあるので気楽に中公新書『 ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産(小林標)』を読んでみた。読みながら、あれ、この先生、俗ラテン語に詳しいなあと思ったら、『ロマンスという言語 ―フランス語は、スペイン語は、イタリア語は、いかに生まれたか』の著者と同じだった。こちらの本もとても興味深いものでと、過去に書いた書評を検索したら、あれ、書いてなかったっけ。間抜けだ。

  

 さて、中公新書『 ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産(小林標)』なのだが、基本的に新書らしい概論が書かれていて、かつ文章も読みやすい。さらにラテン語文学についての概論はかなりわかりやすい。が、それよりも、結果的というべきか、英語についてよくわかる。率直に言って、英語教育に関わる人は読んでおいたほうがいいと思った。その大半は概論的なことと、当然ながら語源的なことである。例えば、sureとsecureの語源は同じラテン語のsecurusなのだが、なぜ英語で分化しているのか。この手の話題は、他書でも同じとも言える。
 興味深かったのは、例えば、次のような指摘である。

 英語には命令文というものがある。それは、命令法ではない。
 You see.に対するSee.は動詞の形の違いではなくて、「主語を省くと命令の意味の文になる」という文の作り方の違いであるから、命令法 imperative mood ではなく命令文 imperative construction なのである。英語の伝統的文法でそれを命令法と呼ぶことがあったのは、ラテン語の文法を英語に無理やり押し付けたせいであり、正しい説明ではない。

 私自身は、著者とちょっと違った考えを持っているのだが、そもそも英文法というのがラテン語文法を規範に、しかもどうやら普遍的な文法を意識して作られた(つまり、英語という言語に最適な文法とはなにかという視点はなかった)ものだ。
 他にも、次の指摘も興味深い。

 また、英語では to seeという形を伝統文法では不定法と呼ぶことがあったが、今では不定詞と言う。それは動詞の一変化形ではあっても法の一種ではないからである。ただ、ほとんどの人にその理由が理解不可能であろう「不定」という言葉は残った。これも、ラテン語での用法のせいなのである。ギリシア語、ラテン語の文法では「〜すること」の意味の形は法の一種であるという考え方あった。そして、他の法とは異なってその意味は決定できぬ、不定のものであると説明されて modus infinitivus という名称がつき、それが英語にそのまま使われたのであった。

 簡単に言えば、ラテン語の場合なら、不定法が理解しやすい(人称などによって定まらない)が、英語の文法概念としてはわかりづらい。なお、ラテン語では、不定法には、現在、未来、完了の時制がある。というか、この考えは特に過去の場合、英語やフランス語は、have(avoir)に過去分詞を付ける、ので、これが語学学習者に完了形との誤解をもたらしやすい。
 個人的には、ああ、そうだったのかと思ったのは、話法についてである。ラテン語では、英語のthat、フランス語のque、イタリア語のcheに相当するような間接話法のマーカーは存在しない。にも関わらず、接続法は存在する。で、その意味的な主語は与格になる。英語にむりはめるなら(同書でもそう指摘されているが)、for you to knowのようになる。
 同書は説明していないが、英語の名詞句での不定詞の意味的な主語はforで示されるというのは、どうやら、この不定詞なるものの正体は接続法で意味的な主語は与格なのだろう。おそらくイタリア語の命令法が接続法と関連しているのもそのせいなのだろうし、フランス語における接続法が命令法的な意味合いをもっているのもそのせいだろう、というあたりの話は、さも英語に関係ないようだが、He proposed that I take part in the contest.のような構文はこれらの名残だろうし、*He wanted that I go to the market.が非文なのもこれらの歴史的な歪みから出てくるのではないか。

 

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2020.05.17

「ウイルス」について

 「ウイルス」について。というより、「ウイルス」という言葉について。つまり、ほとんどどうでもいい話題である。ブログ向きってやつ。先日「ウイルス(virus)をラテン語で何というか?」(参照)というつまんない話を書いたがそれ以上につまんない話である。
 まず単純に「ウイルス」でググる。すると、「約 473,000,000 件」。次に「ウィルス」でググる。すると、「約 128,000,000 件」。つまり、Googleは、「ウイルス」と「ウィルス」を別の言葉とみなしているようだ。同一の言葉であれば、表記の差なので、日本語に厳密には正書法はないとしても、どっちが一般的かというと、「ウイルス」ではあるのだろうが、「ウィルス」もけっこう普及している。
 と、言いたいところだが、検索結果を見ると区別されていない。では、検索数の差は何? よくわからない。そこで、「"ウィルス"」で検索しなおす。「約 119,000,000 件」。なぞであるが、検索結果に「ウィルス」は反映されやすくなっている。
 まず、目につくのが外務省。「各国・地域における新型コロナウイルスの感染状況」にこうある。グラフのキャプションで、「新型コロナウィルス国別感染者数の推移」。表題と表記が違っている。たぶん、データ部分と表題を書いた部署が違って、表記の統一がされないのだろう。外務省では。
 検索して気がついてちょっと驚いたのだが、時事通信に《「美容サロン向け」美容サロン版ガイドライン 新型コロナウィルス感染対策講座 開設》とあった。時事通信がこの表記で統一しているわけはないなと調べをすすめると、他にも見つかる。どうやら、広報的な文章の場合は、そのまま表記を修正せず掲載しているようだ。
 他、メディアを当たってみると、「ウイルス」と「ウィルス」の表記の揺れはなさそうなので、校閲が通っているのだろう。
 さて、昭和な私は覚えているのだが、私が子供の頃は、「ビールス」という言い方もあった。英語なら「ヴァイラス」なので、ドイツ語からの外来語だろう。国語大辞典を当たると、外来語としてドイツ語とあり、「ビールス」の表記もあるので、当初は「ビールス」であったようだ。福永武彦の1956年の用例もある。青空文庫を検索すると、1960年の外村繁の『澪標』に「ビールス」の用例がある。
 戦後のどこかで、「ビールス」から「ウイルス」に切り替わったのだろう。なお、大辞泉では「ウイルス」の項目に「ラテン」とある。たしかに、現時点ではそう言ってもいいのではあるのだろうが。
 経緯について面白い話が見つかった。『情報管理』という雑誌に『学術用語の表記の基準よもやま』という記事があり、そこにこうある。

virusの日本語表記は、「ヴィールス」「ウイルス」「ビールス」「バイラス」「濾過性病原体」などいろいろである。昭和35年4月に日本新聞協会から新聞でも「ビールス」と「ウイルス」の二様の表記が行なわれるのは、読者にとって迷惑であり、新聞用語懇談会でも検討した結果、学術奨励審議会学術用語分科審議会が表記を決定されたいとの依頼があった。

 それでどうなったか。《『「ビールス 」を主とし、「 ウィルス」をも許容す》
 つまり、その関連であれば、主の「ビールス」が、現在の「ウイルス」に入れ替わった時点あるいは年代がありそうだが、わからない。Ngram Viewerが日本語に対応していない。
 そういえば、新聞協会としてはこれを学術用語として見ていたのだから、そのままウイルス学会を調べると、関連情報が出てくる。『 日本ウイルス学会について』より。

「VIRUS」と書いて昔は日本語でいろいろな読み方をしました。ビールスやヴィールスが普通に使われた読み方で、昭和24年12月に「ヴィールス談話会」が発会し、昭和26年3月には「VIRUS」1卷1号が発行されています。そうして今のような日本ウイルス学会が設立されたのは1953年すなわち昭和28年5月のことで大阪大学で第1回の総会を開いて正式にスタートを切りました。以来50年以上にわたり、毎年日本のどこかでウイルス学の進歩を促進する目的で学会が開かれてきました。もちろんこれからも日本ウイルス学会が毎年開催されることになっています。

 シンプルに読むと、学会の成立が、「ウイルス」表記と同一ようにも思えるため、1953年に「ウイルス」という表記の起源がありそうにも思えるが、どうだろうか。
 小林標著『ラテン語の世界』を読むと、京都大学医学部ウイルス研究所開設時に京大の言語学者・泉井久之助の意見を取り入れたらしいことが伝聞として書かれている。
 同研究所の設立年を調べると、1956年だが、立案は、京大の『【部局史編 3】第23章: ウイルス研究所』を読むと、《そして昭和28(1953)年にウイルス研究所を設立することが決定し》とあり、学会と同年になる。しかし、同書には興味深いことが書かれていた。

その所名「ウイルス研究所」については当初文部省は「国立大学附置研究所の名称にカタカナを冠したものはない」と難色を示したが、名古屋大学に「プラズマ研究所」が設立されるに及んでようやく承認した。

 「ウイルス」という呼称について、学会名が先か研究所名が先かだが、学会は当初、「ビールス」であったようなので、研究所が原点ではないだろうか。なお、「ウイルス」か「ウィルス」かについては、2012年になっても第1356回放送用語委員会で議論されていた。概ね、決まってないと見ていいだろう。
 とはいえ、元がラテン語であるなら、V字は母音なので、「ウィルス」という表記はありえないだろう。イタリア語ならありえるが、イタリア語からの外来語とは以上の経緯からも考えにくい。
 ということは、そもそもラテン語からそのまま日本語に入った外来語として珍しいのではないだろうか。Wikipediaに『カテゴリ:日本語 ラテン語由来』の項目があるが、元素名とか以外にはなさそうだ。

 

 


 

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2020.05.16

パトス(Pathos)とペーソス(Pathos)

 なぜか盲点だった。パトス(Pathos)とペーソス(Pathos)について、それほど考えたことがなかった。要するに、元は同じ言葉のはずなのに、日本語では違う。なぜなのか?
 パトス(Pathos)とペーソス(Pathos)で、どっちが一般的な言葉かというと、ペーソスのほうだろう。ペーソスの意味はというと、大辞泉では、《もの悲しい情緒。哀愁。哀感。「ペーソスの漂う人情劇」》とある。間違いではないが、違うのではないか。こういうときは画像検索してみるとはっきりすることがあるので、やってみると、中年のおっさんのバンドが出てくる。誰? あ、末井昭さんがいる。え? 島本慶って、舐達磨親方。知らなかった。
 それで、ペーソスというバンドの音楽を聞いてみる。『夫婦冷っけえ』という曲。ああ、まあ、たしかに日本語のペーソスってこれだなと思った。
 つまり、「もの悲しい情緒。哀愁。哀感」というだけじゃなくて、なんか滑稽さが含まれ、そして、昭和臭たっぷりの古臭さである。漫画でいったら、『男おいどん』とか。
 もうひとつ、パトスはというと、これは、アリストテレスの倫理学で、《欲情・怒り・恐怖・喜び・憎しみ・哀しみなどの快楽や苦痛を伴う一時的な感情状態。情念》である。エートスとかロゴスとかに対比される、あれだ。
 さて、なんで、パトス(Pathos)とペーソス(Pathos)の意味が違うのか。しかも、ペーソスに至っては、国語辞書もいまひとつ意味を捉えてなさそう。
 すぐにわかるのは、ペーソスは英語読みというか、米語読みなので、アメリカから入ったものだろう。他方、パトスは、アリストテレスが出てくるように、ギリシア哲学の訳語とかだろう。こっちのほうは、さほど問題を感じない。
 かくして、ペーソスの語誌だが、ネットからは皆目わからない。というか、どうでもいいゴミのような情報しか出てこない。
 日本語大辞典を引くと、《英pathos なんとなく身にせまってくるうら悲しい感じ。しんみりとした哀れさ。》とある。滑稽な語感は含まれていない。コーパス的には「ペーソスとユーモア」というフレーズが多く、滑稽さは分離されているとも見られるが、それでも、滑稽さの意味合いは、ペーソスに含まれているだろう。
 日本語大辞典では用例に、坪内逍遥の『小説神髄』が出てくる。

 《哀情(波ソス)と滑稽(瑠ヂクラスネッス)とは所詮華文の属性にして》
 
 これは、pathosとridiculousnessが文学的な美文の特徴だということだろうか。
 いずれにせよ、1885年、つまり明治18年に「ペーソス」という言葉は外来語として英語から日本語に入っていたということだろう。『吾輩は猫である』の20年前くらい。
 おそらく日本の近代文学史と芸能史には「ペーソス」が基調の系譜がありそうに思うし、そのなかから、現代語のペーソスができきたのだろう。
 しかし、これが日本近代特有こともないだろう。漫画『ピーナッツ』なんかもまさにペーソスの感じがある。

 

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2020.05.15

『イエスタデイをうたって』における「イエスタデイ」の意味合い

 アニメ『イエスタデイをうたって』の6話『ユズハラという女』がなかなかに、ずしーんと来るものだった。作品としてもこれはすごいなあと思ったが、どうすごいかを書いていいものか、微妙にためらう。きっと、すごいのは「そこじゃないだろ」ということになることはわかっているのだ。と、書いてみて、やっぱし、書こう。ネタバレは当然含まれるし、率直に言って、以下の内容はあんまりお子様向けではない。大人向けでもないが。
 さて、たいていはブログ記事では手抜くのだが、物語のつなぎを簡単に書く。
 時代設定は、1990年代あたりだろう。スマホはない。主人公・魚住陸生(リクオ)は、東京の大学(早大だろう)を卒業したが就職せず、コンビニのアルバイトをして、東京で生計を立てているフリーターである。25歳くらいの設定だろう。もう一人の主人公は、カラスを手なづけている少女・野中晴(ハル)。高校を中退している。19歳の設定だろう。彼女は偶然であるかのようにコンビニでリクオと出会うが、リクオに恋をしている。
 リクオが思いを寄せているのは、大学時代の同級生・森ノ目榀子(シナコ)。大学時代が終わり、彼女は地元の高校教師になったが、その後、東京の高校に赴任。ハルの担任でもあった。リクオと再開し、リクオはシナコに告るが、お友達でいたいということで、沈没。シナコは死んだ幼馴染の男の子・早川湧のことが忘れられない。そこに湧の弟・早川浪も現れる。ハルと同い年の設定である。浪はシナコに思いを寄せている。
 淡い恋愛の思いが空回るという話で、さらに、前回『ミナトという男』では、ハルに思いを寄せる同級生の湊航一が現れる。告って沈没。
 そして、今回は、リクオの下宿に高校時代の同級生でかつての恋人だった『ユズハラという女』が登場。彼女は、行くとこないんだ、しばらく泊めてよと言い、居候するという話である。リクオとのちぐはぐな同棲が始まる。
 物語上は、ハル対航一、リクオ対ユズハラ、というふうな、一種恋愛心理の力学というか構造上の設定でしかないようで、実際原作ではここが交錯して描かれる。だが、アニメでは、それぞれの回に分離し、ユズハラ回になる。
 当然、リクオとユズハラの短期同棲は、ハルとシナコの知るところになる。それも構造要因のようなものである。が、これはそうしたすれ違う淡い恋情の構造だけでない。ああ、出てきたかと私は思ったのだ。処女と童貞の問題である。まあ、この記事の表題的に言うなら、「イエスタデイ」とは処女と童貞の時代である。
 今回のユズハラ回では、シナコが酒席で同僚に恋愛を問われるシーンがあり、シナコは死んだ幼馴染の純情を語るのだが、当然、同僚はドン引き。ここで原作のほうでは、「操」というタームが出てくる。アニメでは雰囲気だけの展開だが、ようするに、シナコは処女決定であり、処女であることは死霊に重なっている。このあたり、『イエスタデイをうたって』は『めぞん一刻』と似ていると言われるが、響子は性的に成熟した未亡人であり、そのことが物語に大きな意味を持っている。五代は風俗で童貞を捨てるのもそのせいである。
 リクオは童貞なのか? これがまず、大きな問題である。概ね、そうだろう。まず、シナコを押せないのは、童貞そのものでもあるし、童貞でないなら、シナコ以前の女が問われるのだが、そこで出てきたのが、処女ではないユズハラである。今回の物語は、処女ではない・甘ったるい恋情では生きられない女が甘ったるいイエスタデイの思いでリクオを喰うお話でもあり、リクオは童貞でしかありえない。リクオの頑なさも童貞・童貞・童貞。
 さて、ではハルは処女なのか? そう見える。が、そこは少しぼやけている。
 それで今回だが、リクオが童貞でなければ、男と女なんて別に恋情などなくても同棲していたら、飯を食って洗濯して(下着を洗濯するわけで、そのあたりは原作に微妙な織り込みがある)という日常の延長に性交が現れる。そう書くと自然的だが、自然でないこともある。小林秀雄の『Xへの手紙』の有名な「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」の手前あたりに、むらっときた小林が泰子に迫る状況があり、あれは『考えるヒント』の『井伏君の貸間あり』で、同題の映画について小林秀雄が、若い男女が繰り広げる痴態は見てられるものじゃないと率直に自己嫌悪を表している。が、まあ、そういうことだ、童貞・処女じゃないというのは、あの痴態タイムを生活に織り込んでしまう。
 『ユズハラという女』では、リクオが下宿に帰る。ユズハラが迎える。
 「おかえり!今日はギョーザだよ。ちょっと待ってて。すぐ片付けるから」というところで、リクオが突然、ユズハラの身体位にのしかかって押し倒す。で、それをユズハラは、「別にいいけど。火、止めなきゃ」と受け止める。まあこのまま痴態タイムに流れ込むとユズハラは見ていたわけで、そのセリフの「火、止めなきゃ」がたまらなくエロい。これ、原作にはこのセリフはないんだよ。脚本家GJ。
 とはいえ、そこは童貞力のリクオは風邪で倒れ込んだということでした。リクオよく風邪で倒れるだが、原作と時間の流れが違うのでしかたないのかも。
 ユズハラはそのまま、リクオの看病をして、そこにシナコとハルがやってくるというご期待通りの展開だが、重要なのは、そこでユズハラはリクオを着替えさせて、それをランドリーに持っていて、タバコをふかしながら洗濯を見つめている。その後、ユズハラはシナコに会い、ただの居候だと説明する。恋情はないというのを処女力のシナコは受け止めてしまう。ただ、ユズハラの思いはすべて言葉の嘘になっているが、彼女がリクオが好きだというわけでもない。
 誰かが誰かを、男と限らず女と限らず、同性愛ですら、それらが、恋情の純粋性のような幻影を持つのは、処女・童貞の日々への思いからだろうか?
 ユズハラはリクオの童貞性をすんなり喰っていくのもいいかとは思っていただろうが(「無防備な顔して」)、シナコの処女性の思いにたじろいで消える。物語は、そうした「イエスタデイ」への淡い憧れが支配している。というか、力として権限していく。なお、この点も『めぞん一刻』とは異なり、高橋留美子という作者の力は響子と五代をどろっとした性関係へ追い込んでいく。
 あえて問いたい。「イエスタデイ」への淡い憧れはなぜあるのか? なぜ、それは痛い。なぜ、ひりひりと痛いのか。
 もちろん、痛くもないよ、こんな物語、面白くもないし、お前、ブログに何書いてんだよ、恥ずかしいなということも、わかるよ。いや。わからないなあ。ハルが何気なくつぶやいた、「愛とはなんぞや?」は、泣きながら解く必要がある、といいながら、原作で、ハルはミナトとの別れで泣くのだが、アニメでは泣かない。たぶん、あそこでは泣いてはだめなんだ。

 

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2020.05.14

[書評] 実践・快老生活 知的で幸福な生活へのレポート(渡部昇一)

 暇つぶしに読む本でもないかなと電子書籍を見ていたら、渡部昇一先生の『実践・快老生活 知的で幸福な生活へのレポート』というのを見かけた。実は、先生が70歳以降の老人生活について書かれた書籍は何冊も読んでいる。何冊もあり、内容はほぼ同じなので、書名は忘れてしまったが、この本は読んでなかったんじゃないかと思って、読んでみた。というか、冒頭、ちょっとびっくりしたのである。曰く、《八十六歳の私は》とあるのだ。え? 私の記憶では先生は86歳で亡くなっているので、これが最後の著作なんじゃないのか? もっとも、最後の著作というのは、著作の多い人の場合、どれだかわからないものでもあるが、それでも、この本が最晩年の著作の一つであることは間違いない。読後知ったが、亡くなられる半年前の出版のようだった。
 それは、まるで、人生の解答集のようだった。私は、86歳までは生きられないだろうが、そこまで生きられた人の思いには、憧れるものがある。なにより、私について言えば、すでに進行しているかもしれないが、病気を抱えた脳が知的にも劣化しはじめ、いずれ現実の認識もできなくなるだろうと怯えている。
 そして、先生は過激だった。《私は「教訓」を書こうとは思わない。老後になってまで「教訓」だなんて、クソ喰らえである。子供ではないのだから、思うままに生きていいではないか。思うままに生きて、なお晩節を汚さないのが、幾十年も人生の山や谷を乗り越えて、精神を修養した大人のあり方であろう。》実際、「修養」は本書のテーマでもある。
 さては、先生、さぞかし闊達とした86歳であろうと読みすすめるに、散歩ができなくなった、とある。食べる物も少なくなった。まあ、普通に86歳の平均像ではあるのだろうが、しんみりくる。
 《自分の娘よりも若い人を、異性としてことさらに意識することはなくなった》ともあり、これは、私も実感している。娘が成人に近づくにつれ、どうも20代の女性もお子様にしか見えない。まあ、しかし、人にもよるだろう。先生もそういうふうにも述べていた。
 《詩は何歳になっても感動できる》も共感した。ああ、私も老化しているのだ。それと、先生はむずかしい文学より少年向けの冒険譚が楽しいとも述べているが、私はアニメとか好きだな。とはいえ、小学生やそのメンタリティーに人気の鬼滅の刃は好きではないな。アニメ1期は全部見たが。
 《歳をとっても記憶力は衰えない》それと《歳をとっても、継続さえすれば語学の力は衰えない。むしろ若いころよりも今のほうがかなり伸びている》というお言葉。他の本でも見かけたが、86歳でもそのようす。で、私も、そうかもしれないなと思いつつある。《五十代の半ばからラテン語を覚えることに取り組んだことが、記憶力を鍛えることにつながったのではないかと思う》とも。先生が50代でラテン語を再開されたことは知っていたが、私はちょっと違うかなと思っていが、最近、老人にラテン語、猫に小判、犬も歩けばカエサル・キケロ、と思うようになってきた。
 さて、著作全体としては、率直に言って、先生の書かれた他の老人指南書とほとんど同じで、ネットなどで嫌われる保守主義的な人生観に溢れている。曰く、人は結婚して子孫を持つのが幸せだとか、日本がうんたらとかである。まあ、そこは、私の考えは違うなあと思った。あと、健康法関連の話題もいろいろあるが、率直にいって、大半は偽医学の類である。ただ、なんだろ、そういうことは私には、どうでもいいことのように思えてきた。単純に私は私、渡部昇一先生は渡部昇一先生というだけのことだ。ただ、老いていくに先達はあらまほしきという思いで先生とお呼びしたい。
 《凡人が苦しまずに死にたいのであれば、最良の答えは「長生きすること」に尽きるのではないだろうか。もし、九十五歳くらいまで歳を重ねてれば死ぬことさえ怖くなるなるのだとすれば、長生きさえすればいいということになる。》それもそうかもしれない。まあ、人の一生というのもはそういうものかもしれない。ただ、私はそうとも思えない。私は私で老いていくのである。

 

 

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2020.05.13

緊急事態宣言下の日常でなんとなく疑問に思っていた3つのことと解決した1つのこと

 東京はまだ緊急事態宣言の状況が続くらしい。それはさておき、そうしたある意味特殊なとも言えるかもしれない(言えなくなるかもしれない)日常生活で、なんとなくではあるが、つまり、それほど真剣にということではないが、疑問に思っている3つのことと自分なりに解決した1つのことがある。ブログのネタっぽいので書いてみたい。

1 みなさん、どこでマスクを購入しているのだろうか?
 もう2か月ぐらい前になるだろうか、朝、ドラッグストアの前に人がぎしっと並んでいて、何かあるんですかと末尾の人になんとなく聞いたら、マスクを買うのですとのこと。花粉症の人もいるからなと思った。あのころすでにマスクが購入しづらかった。その後はさらに購入しづらい。ところが、街中どこに行ってもみなさんマスクをしている。備蓄があるのだろうか。それにしても使い捨てが基本のマスクなので備蓄が尽きないものだと疑問に思っていた。
 自分としては、マスクを使うことはないだろうと思っていたが、その後CDCも、無自覚感染者によるウイルス撒き散らしの対策に、全員のマスクを奨励するようになり、購入できないら手作りということで、私は作ることにした。街中でも、特に子供に多いようだが、手作りマスクは見かける。それでも、全体的にはそう多くはない。どこで購入しているのだろう?
 最近、マスクも出回るようになったと聞き、ドラッグストアを覗くが皆無。
 そういえば、アベノマスクはまだ来ない。良い子にしていないと来ないのだ。しかたない。

2 エレベータは密みたいなんだがなぜ?
 「密」は避けるようにしている。特に狭い空間で密になるところは。それで最初に思い浮かぶのがエレベーター。当然というか、すでに人が乗っていたら避ける。乗りたい人が待っていたら、譲る、としている。載らなくていい距離なら階段を行く。それで不便かというと、不便は不便だが、そういうものだろうと思う。
 こうした状況は次第に変わるのではないかと思っていたが、自分の見ている範囲では、エレベータの密状態に、さほど変化はない。なぜなのかよくわからない。エレベーターでマスクをしている人は多いが、マスクは社会的距離の代替にならないということをCDCも言っていた。

3 密ではない往来のマスク姿はなぜ?
 どう見てもスカスカの街中でマスクをしている人が大半。自転車でもマスクをしている人が大半。エアロゾルはくしゃみで8メートル飛ぶという話も聞くが、そこまで社会的距離を取る必要はないだろう。よく言われている2メートルでよいのではないか。マスクもエアロゾル対策ではあるが、エアロゾルでSARS-CoV-2が感染するというエヴィデンスはなく、予防原則で普及している状態である。そして予防であれ、ある程度の審級はあるだろう。少なくとも、人通りが密でもない往来でまでマスクをする意味はないように思うのだが。
 これに関連して、緊急事態宣言で外出しないでくださいというのを防災無線など聞くのだが、これは、外出先で人に接種する機会を下げてください、ということで、日本の緊急事態宣言の場合、おうちに籠もっていなさいという意味ではないと思う。だが、どうなんだろうか? 人間の健康維持には、身体で生成されるビタミンDが重要で、これは免疫の維持にとっても重要。よほど強い日差しは常識的に避けるべきだが(紫外線の害を避ける)、一日10分くらいは日光に肌をあてたほうがよいはずだと思う。まあ、私は太陽が出ているときは、最低でも20分くらは散歩するようにしている。

4 スーパーマーケットに入る時に殺菌? (解決)
 スーパーマーケットの入り口に、アルコール消毒液が置かれていることが多い。私は店から出るときに、利用していた。のだが、見ていると、大半の人が入店のときに利用している? なぜ?と思ったのだった。自分の場合、ウイルスに触れる機会は店内のほうが多いし、店内は思いがけず密になることもある。
 ただ、これは考え直した。みなさん、店内にウイルスを持ち込まないように留意しているのだろう。たしかに、みなさんが、そうしたほうが店内でのウイルス削減になる。マスクで未自覚感染者がウイルスを撒き散らすないようにしているのと似たような考えかたなのだろう。
 というわけで、私もお店に入る時に消毒を使うようにした。疑問解決。

 

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2020.05.12

この春からのフランス語の学習

 三年前の春から、フランス語やイタリア語の学習も自習だけではだめだなと思い、語学講座に出てネイティブに学ぶとしていたのだが、この新型コロナウイルスのご時世、いろいろ閉鎖になった。それだけが理由でもないが、なんとなく自習している。
 一つは、あいも変わらず Duolingoだが、この春から、有料に切り替えた。有料にしても、さほどメリットのある語学学習サービスではないが、ちょうど年間ディスカウントがあり、クリスマス時のディスカウントを見逃していたので、決めてみた。意外と、変化があった。無料だと、エラーが5回くらいで、しばらく時間待ちという一種のペナルティのようなものがあるが(これは僕の好きなパズルゲームの TwoDotsも同じ)、有料だとそれがなくなる。で、なんというか、間違いしほうだいで、間違うことにためらいがなくなった。語学というのは、凡庸な人間とっては間違えてなんぼなんで、あとは根気さえあればいい。ついでに、エラー数が気にならなくなったので、ラテン語や中国語も再開した。中国語の再学習は当面見送っていたのだが、なんとなく再開している。
 もう一つは、NHKラジオ講座の毎日フランス語の応用編である。これは前回の半年の再放送だった。コロナ騒ぎでそうなったものかどうかはわからない。再放送はよくあることでもある。講師は清岡智比古先生。清岡先生というと初級フランス語のイメージだったが、この応用編が面白い。語学的にも内容も。それにじゃんぽーる西さんの挿絵もきれいだ。
 この講座、一回通してやったから、復習だし、文法的にも語彙的にもそれほど難しくはないなあと思っていたのだが、いや、復習してみると、いろいろ忘れているし、簡単でもなかった。とほほ。
 学習は複数が大切だというが、まったくもってそうだなと思った。脳科学うんちゃらでも、エビングハウスの忘却曲線ではないが(これはちなみに無意味綴りの学習なんで理解が重要な一般的な学習に当てはまらない部分も大きいが)、定期的な復習の繰り返しは大切なものだなと思う。特に、語学。
 ついでに英語だが、まとまって英語の学習というのをあまりしないのだが、また杉田敏先生の実践ビジネス英語を始めた。C1レベルなので、もういいかなと思ってしばらくやってなかったが、いわゆる英語の学習というより、話題の持ち方というか、現代世界の関心というか、そういう面で面白いと思うようになった。あと、毎号、英作文課題があるのだが、きちんとやっている。

 

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2020.05.11

「# 検察庁法改正案に抗議します」が理解できなかった

 私のようなのんきなブロガーでも、昨日の朝、降って湧いたようにTwitterで、「#検察庁法改正案に抗議します」というタグが広がっているのを知った。印象としては、自然な市民の声というより、9日の夜に事実上組織的な仕込みがあったんじゃないかという不審な感じがした。しかし、それはそれとして、何の騒ぎなのか当の問題点を理解しようとしたのだが、よくわからなかった。合わせて、政府が示した三権分立の図は間違っている、といった話題が付随していた。が、こちらのような概ねくだらない騒ぎと見てよいようだった。
 重要なことは、検察庁法改正案の問題点を理解することだが、自分なりに一次情報(閣第五二号 国家公務員法等の一部を改正する法律案)に当たってみたのだが、皆目わからない。率直なところ、私のような凡庸な市民にはわからない性質かなと思った。その後、この運動の盛り上がりに付随する説明などを読みながら、もにょった。
 まず、当の問題の複雑さについてだが、別件で読んでいた現代というサイトの『コロナ対策は「大阪モデル」が政府よりも東京よりも断トツで優れている』という記事で嘉悦大学の高橋洋一教授がこう指摘していた。

 ただはっきりいえば、「検察庁法改正法案」はかなりマニアックだ。そもそも、今国会に「検察庁法改正法案」が提出されていることを知っていた人は、かなりの国会マニアだろう。法案の正式名は「国家公務員法等の一部を改正する法律案」(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g20109052.htm)だ。
 これは正式法案であるが、まず一般の人には専門的すぎて相当読みづらい。内閣官房のサイトにある概要(https://www.cas.go.jp/jp/houan/200313/siryou1.pdf)をはじめに読んで、さらに新旧対照表(https://www.cas.go.jp/jp/houan/200313/siryou4.pdf)を読み込むのがいい。これでも読みにくいだろう。
 法案を読むのが大変なのは、官僚も同じだ。国家公務員法などの担当を人事部局にいて経験していれば別だが、一般の国家公務員でも、そう簡単に読めるものではない。まして著名人で、これらのサイトにアクセスしきちんと読んだ上でツイートしていた人は、ほぼ皆無だろう。

 高橋教授の意見が正しいというものでもないだろうが、この法案を理解することはけっこう難しいのではないかと思う。多数の反対者は、どのように自分の意見を形成したのか気になるところだ。
 同記事を読み進むと、こう指摘されている。

そもそも、国家公務員の定年延長には長い経緯がある。2008年の国家公務員制度改革基本法の中に、65歳までの定年延長は盛り込まれている。その法律は福田康夫政権のときのものだが、実は企画立案の一人として筆者も関わった。この法律は、当時の民主党の協力で成立した。その後2回(2011年、2018年)の人事院から政府への意見申出、3回(2013年、2017年、2018年)の閣議決定を経て、現在に至る。

 事実であろう。であれば、民主党時代の経緯を野党である民主党から整理して国会でまとめなおしたらよいのではないか。
 さて、ここで気がつくという類でもないが、法案側から見ていくと、国家公務員の定年延長についてであって、「検察庁法改正案」というわけでもない。そのあたりのリンケージがまったくわからないでもないがわからないなと思っていたら、「検察庁は特殊である」という指摘を見かけた。Twitterで見かけたモトケンさんという方の意見だが、いわく、「検察庁は、日本の行政組織の中で、唯一総理大臣の刑事責任を問い得る機関です。検察庁以外にも独立性を求められる行政機関はありますが、検察庁は、総理大臣の地位すら左右しかねない権限を有しており、いわゆる準司法機関として特に独立性が求められる機関です。……」とのこと。
 ほおと思った。そして、ほおと同時に、実効性のないそもそも論が浮かんだ。すでにtweetしたが、

 ①総理には不逮捕特権があるべき。
 ②「準司法機関」の存在こそ三権分立に反するので是正すべき。

 Twitterでつぶやいてもしかたないので、ここでちょっと補足しておくと、まず、②だが、問題の解消は、国家の構成既定である憲法改正に及ぶことになる(ので現実的には無意味なそもそも論)。で、その際より重要なことは、関西学院大学大学院司法研究科の井上武史教授がtweetされていたが、「この際、最高裁判事の任命が内閣のフリーハンドであることも、あわせて問題化してほしいと思います。こちらの方が、権力分立の観点からは、はるかに重大な問題なので。」ということで、理論構成的には、「準司法機関」というヘンテコな概念ではなく、抜本的な憲法改革が必要になるだろう、ということ。で、言うまでもないが、日本のいわゆる野党(すべての野党でない)は、憲法改正阻止が至上命題なので、そこには触れない、というか、つまりは55年体制的な保守主義に陥っている。
 で、私として関心があるのは、①で、元首の不逮捕特権についてである(現行の議員のそれではない)。基本的に国家元首には不逮捕特権があるというのが近代世界の常識であるとしておきたい、というかその議論まで蒸し返されても。その上で、日本の元首って誰?ということで、これが首相なら、そもそも不逮捕特権があってしかるべきだが、歴史を振り返っても、ない。どういうことかというと、日本の元首が誰だかわからないという曖昧さに依拠している。
 「日本の元首、そりゃ天皇だろ」という声が出そうなのだが、まず憲法に規定はなく、学者間で意見のまとまりはない。私が傾倒した鵜飼信成教授は首相が元首説である。ちなみに、Wikipediaを引く。

長野和夫によれば「国民主権下では、国家を代表する資格をもつ国家機関の長で、国内的にも一定の統治権行使の権限をもつ首相が元首であるべきとの意見が学者の間では強い」[7]。

芦部信喜によれば、天皇は君主・元首であるかどうかが争われている[6]。元首の要件で特に重要なのは、外国に対して国家を代表する権能(条約締結や、大使・公使の委任状を発受する権能)である[6]。しかし天皇は外交関係では、七条五号・八号・九号の「承認」・「接受」という形式的・儀礼的行為しか憲法で認められていない[6]。よって伝統的な概念によれば、日本国の元首は内閣または内閣総理大臣となる(多数説)[6]。しかし、そうした形式的・儀礼的行為を行う機関をも元首と呼んで差し支えないという説もある[6]。日本では、元首という概念自体が何らかの実質的権限を含むと一般に考えられてきたので「天皇を元首と解すると、承認ないし接受の意味が実質化し、拡大するおそれがあるところに、問題がある」とされる[20]。

 Wikipediaらしいよくわからない記述だが、「伝統的な概念によれば、日本国の元首は内閣または内閣総理大臣となる(多数説)」というのは、機能的に日本の元首は首相と言ってよく、そもそも元首の不逮捕特権はそうした機能に不可欠なものとしてある。
 ということで。
 「唯一総理大臣の刑事責任を問い得る機関」というのが、憲法上の不備によっているので、弥縫策的に議論してもしかたないようには思う。
 具体的にはどうしろ、というなら、先にも述べたように、経緯には現野党の民主政権も関連しているので、そのあたりで、経緯を整理することから始めたらよいのではないか。
 あと、この過程でいちばん学べたのは、徐東輝さんというかたの『#検察庁法改正案に抗議します」問題について、「いったい検察庁法改正案の何に抗議しているのか』(参照)という記事だった。よく論点がまとまっていてわかりやすかった。
 特に、「3.誤解」というふうに、典型的な誤解をまとめていた。私が受け取った要約はこう。

①黒川氏定年延長がこの法律で決まる
 決まりません。
②黒川氏を検事総長にするための法改正である
 誤りです。
③政権への捜査を免れるための人事介入である
 誤り、というか邪推の域を出ません。
④三権分立が脅かされている
 誤解されがちですが、検察庁は行政府に属するものであり、検察権は行政権の一つです。したがって、検察権と内閣の関係を、三権分立という観点から見る場合、その何が脅かされているのかを正確に理解しなければ、ミスリーディングになってしまいます。
⑤内閣が検察官人事に介入するための措置である
 「5.問題の本質」でもう少し詳しく述べます。
⑥この法案を止めれば安心である
 多くの方のTweetで、この法案を止めれば安心という雰囲気を感じざるを得ませんでした。しかし、そうではありません。

 重要なのは、「5.問題の本質」で、「そして、現時点で私がこの問題の本質と考えるのは、国民に誤解や疑心を与えたまま進めてしまってよいのかという点です。」で、「今国会でどのような対応をしていくのかを注視したいと思います。」ということ。
 つまり、国会での今後の議論を注視していきましょうということで、私もその意見に与する。

 

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2020.05.10

二次元婚はいかにあるべきか?

 「なんとかは俺の嫁」という表現を知らないわけではないが、嫁なら既婚だからして、二次元婚もあったのか、ということになる。そこで、二次元婚はいかにあるべきか?を考えた。
 ネットで、初音ミクと結婚式を挙げたという人の話を見かけた。まあ、自分婚もありだし、なんでもありでいいんじゃないのと私は思う。同性婚でも三人婚でもありだ、と私は思うのだが、少し心に引っかかるものがあった。
 そもそも、結婚式の本義からして、それでいいのか?
 誤解しないでほしいが、結婚式の本義といっても、同性の了解のうんたらということではない。それは、結婚。結婚式ではない。要点は、なぜ「式」なのか?である。
 そもそも結婚式とは何か? 愛し合う二人(広い意味で)が結婚の誓いの儀式をすることだ、とかなりそうだが、重要なのは、そこに人々を集めることだ。その人々が、結婚の証明者となることだ。
 なので、結婚式では、「このものたちの結婚に異議のある方はいるか?」というImpedimentが重要になる。もっとも、これは、Canon law(教会法)だが、フランスの市民婚でも市役所で行わなければならないし、それ以前に、このものたちは結婚するという貼り紙が提示される。Blog : Le blog des Poggiolais(参照)というブログから。

Acte privé car consacrant l'union de deux personnes, le mariage est aussi un acte public car il concerne deux familles et finalement tout le village. Il doit donc être annoncé pour que l'information circule et que les oppositions éventuelles se manifestent.
(二人の結合を捧げる私的な行為でもあり、結婚は、2つの家族、最終的には村全体に関わる公的な行為でもあある。ゆえに、それは公表されなければならないのは、その情報が流通し、起こりうる異議も表明されるためである。)

 まあ、日本の公的な結婚ではそんなことはないので、文化が違う、というのはあるかもしれないが、それでも、式そのものは、それが公的なものに開かれ、異議がない証であるということはあるだろう。
 この点で、二次元婚の結婚式はどうなの? 初音ミクと結婚式というのは?
 私がちら読みした、初音ミクとの結婚式では、「私が我が家のミクさんと結婚式を挙げる」というように、ローカル変数定義みたいもなっていた。つまり、この場合のミクさんは、グローバル変数ではないと。でも、その比喩ならそもそもグローバルには出てこれないから、式の公開もありえないとならないだろうか。
 変数の比喩でいうなら、むしろ、「初音ミク」はクラス定義で、結婚できる初音ミクさんは、そのインスタンスなわけだから、newするときは命名が必要なので、例えば、初音・ミク・美智子とか、初音・涼子・ミクとかにするといいのでは。そしてできたら、そうしたインスタンス結婚者の公的性格を明らかにするために、二次元婚仮想市役所というのを設けて、一定期間告示する。こうした組織は文科省の天下り先とするとよいだろう。それと、ここで言うのも野暮だが、この記事は四月馬鹿でもないのに徹頭徹尾ネタです。

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2020.05.09

ラテン語の複数形主格はなぜ単数形属格と同形なんだろうか?

 疑問点は、ラテン語の複数形主格はなぜ単数形属格と同形なんだろうか? ということだ。
 格変化はこう。

第一変化名詞のpuella(女性)
単数
格 語尾 語形
主格 –a puella
呼格 –a puella!
属格 –ae puellae
与格 –ae puellae
対格 –am puellam
奪格 –ā puellā
複数
主格 –ae puellae
呼格 –ae puellae!
属格 –ārum puellārum
与格 –īs puellīs
対格 –ās puellās
奪格 –īs puellīs

第二変化名詞のhortus(男性)
単数
格 語尾 語形
主格 –us hortus
呼格 –e horte
属格 –ī hortī
与格 –ō hortō
対格 –um hortum
奪格 –ō hortō
複数
主格 –ī hortī
呼格 –ī hortī
属格 –ōrum hortōrum
与格 –īs hortīs
対格 –ōs hortōs
奪格 –īs hortīs

 で、第一変化名詞複数形主格puellaeは単数形属格puellae。第二変化名詞では、複数形主格hortīは単数形属格hortī。例が少ないし例外はあるが、基本的にこの同形は維持されているので、こう言っていいはず。

ラテン語において、複数の主格は、単数の属格である。

 さて、そうなると、文法としては、その説明が必要になる?
 調べてみた。
 わからない。そんなの常識ということかもしれないが、一般のラテン語教育では変化を基本丸暗記させているようなので、そもそもこの法則性についての疑問がなさそう。
 さて、わからないなら、それで終わりなのだが、気がついたことがある。
 フランス語には名詞の格変化はないが、主格的表現や属格的用言はある。主格的な un enfant の複数形はdes enfants である。これが属格的な表現になると、un jeu d'enfant のように、d'enfant と、Nous sommes tous des enfants de Dieu.のように des enfants になる。
 つまり、フランス語でも、機能的には、複数の主格は、単数の属格になっている。
 なぜ? というか、関連はないのだろうか?
 というか、ラテン語からフランス語への関連が知りたいなら、俗ラテン語ではどうだったのか。
 これがまたわからない。
 ただ、普通に推測がつくのは、フランス語の不定冠詞は、de + les = des だろう。つまり、属格機能のマーカーがついている。おそらく、フランス語においても、複数の主格は、単数の属格であるか、あったのだろう。
 推測するに、ラテン語からフランス語への変遷では、単数形の不定冠詞と複数形の不定冠詞という対立的な変遷ではなく、属格がそのまま複数形主格として機能していたと考えてよいのではないか?
 ちなみに、ドイツ語の場合は、定冠詞の属格が des の形だが、ラテン語とフランス語のようなこの関係はなさそう。イタリア語については、ラテン語の音がそのまま変化しようにも見える。ちなみに、英語やフランス語の複数形のSは、ラテン語の複数対格形からできたと考えてよさそうだが、英語学関係の人は古英語からと考えたいようだ。

 

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2020.05.08

ソ連崩壊の主原因は何か?

 ソ連崩壊の主原因は何か? ちょっと考えさせられることがあったので、再考してみた。話の枕に、ネットを検索してみた。
 Wikipediaを見ると、日本語版には「ソ連崩壊」の項目があるが、経緯をメモ書きしただけで、原因についての言及はなかった。英語版は充実していた。が、経緯が詳細なだけで、原因考察はなかった。考えてみるに、Wikipediaって、なぜ?に答えるものではない。
 『世界雑学ノート』というサイトが2位にヒットした。いわゆる一般向け解説サイトのようである。それによると、「原因の一端は、ゴルバチョフが小規模な改革を繰り返すにとどまり、抜本的な経済見直しを実行できなかったことにあります」とある。同時代を生きた自分でもそんな印象はある。
 『世界平和アカデミー』というサイトも比較的上位にあった。内的要因と外的要因を分け、内的は①ゴルバチョフ書記長の登場、②民族主義の高揚、③エリツィンの登場、④反ゴルバチョフ・クーデタ未遂事件(91年8月)、⑤ベロヴェーシの森の陰謀。外的は、米国のレーガン政権(在任1981-89年)の対ソ秘密工作。と、いうことだが、突き詰めると、「エリツィンに勝手な行動をさせたことが,ソ連解体の直接的な原因となった。」とのこと。
 『労働通信』2003年11月号というのも見つかった。「ソ連を崩壊に追い込んでいく要因として、わたしは三つあげます。一つは経済的要因、二つ目は政治的要因、三つ目は民族的要因です。」で、いろいろ書いてあるが、ようするに端的な答えはない。
 さて、1位のヒットは、RUSSIA BEYONDというサイトで『ソ連崩壊をもたらした3つの主な要因』という記事(参照)。記者はロシア人、アレクセイ・ティモフェイチェフ。読む。①原油価格と非効率な経済、②民族間の緊張、③ゴルバチョフの改革。つまり、諸要因はあるが、筆頭は「原油価格」である。

 「ソ連崩壊の日はよく知られている。 それは『ベロヴェーシ合意』(ソ連の消滅と独立国家共同体(CIS)の設立を宣言)の日でもなく、1991年の8月クーデターの日でもない。それは1985年9月13日だ。サウジアラビアのアハマド・ザキ・ヤマニ石油鉱物資源相が、サウジアラビアが石油減産に関する協定を終了したと宣言し、石油市場におけるシェアを拡大し始めた、その日だった」。こう書いているのは故エゴール・ガイダル。ソ連崩壊後の1990年代の急進的な経済改革を主導した人物だ。

 え?感はないだろうか? 実は私はやっぱりそうなのかと思った。続ける。

 ピョートル・アーヴェン氏も、こうした説を支持する。彼は、ロシアの新興財閥(オリガルヒ)の「アルファ・グループ」の最高幹部で、ガイダル内閣でロシア連邦政府の対外経済関係相を務めた。「1986年に原油価格が下落したことが大きな転機となり、(ソ連にとって)収益を生み出すためのあらゆる可能性が崩れた」
 アーヴェン氏の指摘によれば、原油収入は、穀物の購入に必要な資金をもたらした(ソ連における穀物の17%が輸入されていた)。
 原油収入は、ソ連が西側から消費財を買い、エリート層に使わせるのにも当てられた。つまりそれは、実質的には「エリートへの賄賂」でもあった。
 アーヴェン氏によると、原油価格の下落は、経済の減速と軌を一にしていた。それは1960年代に始まった。この長期的な傾向は、原油収入の減少でさらに悪化し、ソ連の経済モデルの崩壊をもたらしたという。
 その一方で、何人かの専門家は、ソ連経済の非効率性、最も基本的な消費財の、悪名高き品薄にもかかわらず、状況はそれほど悪くなかった考えている。ソ連の、そして後にアメリカの社会学者、故ウラジーミル・シュラペントフはこう語った。

 ソ連経済は、原油収入で回っていた。エリート層の賄賂というとなんだが、文化的な支出もそれに含まれているのではないか。なにより、先にあげた日本側の諸説、「ソ連経済の非効率性、最も基本的な消費財の、悪名高き品薄」は主要因ではなさそうだ。
 これが現在のロシアの主流の考え方なのか?
 そのようなのだ。
 このことに関心をもったのは、3月25日の石川一洋・解説委員による解説『ロシア対サウジアラビア、原油価格暴落、それぞれの思惑は?』(参照)である。

Q なぜ、サウジアラビアとロシアの交渉は決裂したのでしょうか? そもそもサウジアラビアとロシアはどのような関係だったのでしょうか?
A ちょっと歴史を冷戦時代までさかのぼらせていただきますと、実はロシアとサウジアラビアの関係は、原油生産においてはライバル同士、政治的には長く敵対関係にありました。東西冷戦の間は、サウジアラビアはアメリカをバックにして、アラブ諸国における反共産主義体制の柱でした。
 実はソビエトは70年代のオイルショックによる原油価格高騰で外貨収入が増えて、恩恵を受けていました。このソビエト経済に打撃を与えようと原油を利用したのがアメリカでした。1985年アメリカがサウジアラビアに密かに原油の増産を依頼して、サウジアラビアが応じたいわゆる「リヤド密約」です。この密約によって80年代後半原油価格は低迷、ソビエト財政は外貨収入が減少して破綻していきました。ロシアの経済学者はリヤド密約こそ、ソビエト連邦崩壊の主な原因だとしています。

 つまり、「ロシアの経済学者はリヤド密約こそ、ソビエト連邦崩壊の主な原因だとしています」ということだ。
 実は、この話を聞いたとき、え?と思ったのだった。通常、「リヤド密約」というと、キッシンジャー米国務長官とサウジのファハド皇太子が1974年に結んだもので、サウジは石油を米国ドル建てで低価格で供給する代わり、米国はサウジの安全保障を確約するというものだ。これが一種の米国の国是のようなものになり、サウジを脅かすイラクというのが問題にもなった。
 だが、ここでいう「リヤド密約」は1985年である。率直にいって、これが歴史叙述のメインストリートに出てくるものなのだろうか?
 気になって、三省堂の世界史、それも『詳説世界史研究』を参照してみた。こう書いてある。

 ゴルバチョフは当初、あまり新味のない「加速化」というスローガンを掲げた。だがソ連を取り巻く状況は急速に悪化した。1985年、ソ連経済を支えてきた原油価格が急落した。対イラク戦争を有利に進めていたイランの資金を断つために、アメリカがサウジアラビアを促して石油を増産させたことが一因であった。

 

 ここには「リヤド密約」という用語はないが、ほぼそう理解していい事実を三省堂が書いている。ただし、三省堂史観では、対イラン問題であり、ソ連崩壊は余波の「一因」となっている。
 さて、これをどう考えたらいいんだろうか?
 ソ連崩壊の主原因は何か? 原油価格の崩壊、といってよさそうだ。では、なぜ原油価格は崩壊したか? 密約なのでなんだか陰謀論にも近いが、米国の国策による。問題は、この米国の国策は、三省堂史観のように、対イランだったのか、それとも、対ソ連だったのか?
 いずれにせよ、国家間の密約でエネルギー市場を操作することで、敵対国家を潰すというのは、正しい世界史観に含めていいものなのだろうか?
 さて、なぜこんな問題が頭をよぎっているかというと、世間は、というか、世界は、コロナ禍で頭がいっぱいの状態だが、これがもたらす深刻な事態は、原油価格の破壊だろう。それで何が起きるのか。
 繰り返すが、「ポスト・コロナ」なんていう知的遊戯ではない。原油価格が低迷することが世界に何をもたらすのか。環境問題が緩和する、それも冗談とも言い切れないが。
 すぐに思うことは、ソ連崩壊同様に、原油依存の強いロシア経済が揺らぐ。米国はというとシェール革命が頓挫し、シェールオイル生産が赤字の生産になる。米ロは敗者である。サウジアラビアも引きづられる。では、この文脈で勝者は? 原油価格崩壊が国益となる国家は。まあ、言わずもがなには思える。ただ、そこに陰謀論的な国家戦略のようなのを想定はしがたいとは思う。

 

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2020.05.07

ヨハン・ギーゼケ教授がこどもの日にランセット誌に寄稿しているのを読んだ

 スウェーデンのCOVID-19対応の骨格はヨハン・ギーゼケ(Johan Giesecke)教授に拠るものだろうと思うし、すでに彼はYouTubeなどで見られるインタビューでもCOVID-19について語っていたが、簡素にまとまったかたちで一昨日付けでランセット誌に寄稿が掲載されていたので、読んでみた。実に簡素にまとまっていたので、これもブログにメモしておきたい。なお、試訳も添えるが誤訳もあるだろうから、あくまでご参考まで。
 タイトルは、"The invisible pandemic(見えないパンデミック)"(参照)。簡素だが文学的な響きがないわけでもない。
 冒頭から世界が関心をもっているスウェーデンの対応について触れている、というか、それが寄稿の趣旨でもあるのだろう。

Many countries (and members of their press media) have marvelled at Sweden's relaxed strategy in the face of the coronavirus disease 2019 (COVID-19) pandemic: schools and most workplaces have remained open, and police officers were not checking one's errands in the street. Severe critics have described it as Sweden sacrificing its (elderly) citizens to quickly reach herd immunity. The death toll has surpassed our three closest neighbours, Denmark, Norway, and Finland, but the mortality remains lower than in the UK, Spain, and Belgium.
多数の国(それとその報道メディア関連者)は、コロナウイルス疾患2019(COVID-19)のパンデミックに直面して、スウェーデンの緩和戦略に驚嘆してきている。学校やほとんどの職場は開いたままであり、警察官は街の通りで人々の用事を検査していません。こうした状況について辛辣な批評家たちは、スウェーデンは集団免疫に急速に達するために(高齢者の)市民を犠牲にしていると書き立てている。死亡者数といえばは、私たちスウェーデン人に最も近い3つ隣人、デンマーク、ノルウェー、フィンランドを超えていますが、死亡率は、英国、スペイン、ベルギーよりも低いままだ。

It has become clear that a hard lockdown does not protect old and frail people living in care homes—a population the lockdown was designed to protect. Neither does it decrease mortality from COVID-19, which is evident when comparing the UK's experience with that of other European countries.
明らかになってきたことは、強硬なロックダウンは介護施設に住む高齢者や虚弱者を保護するものではないということだ。この措置が彼らを保護する意図であったのにである。しかもこの措置はCOVID-19の死亡率を減少させてもいない。このことは、英国の経験を他のヨーロッパ諸国の経験と比較すると明白である。

 つづいて、すでにスウェーデンにはこの抗体ができていただろうと続き、無症状の感染はかなり広まっているだろうともしている。そして、こう彼は推測している。

I expect that when we count the number of deaths from COVID-19 in each country in 1 year from now, the figures will be similar, regardless of measures taken.
これから1年が過ぎて、各国のCOVID-19による死亡数を数えあげてみると、対処法を問わず似たような数字になるだろうと私は思います。

 ここまではギーゼケ教授の説明も、欧米のことで日本の現状とはあまり関係ないような印象があり、日本についての言及もないのだが(明示的にあるべきだと私は思うけどね)、続く話はまるで日本に言及しているかのようだ。

Measures to flatten the curve might have an effect, but a lockdown only pushes the severe cases into the future —it will not prevent them. Admittedly, countries have managed to slow down spread so as not to overburden health-care systems, and, yes, effective drugs that save lives might soon be developed, but this pandemic is swift, and those drugs have to be developed, tested, and marketed quickly. Much hope is put in vaccines, but they will take time, and with the unclear protective immunological response to infection, it is not certain that vaccines will be very effective.
(感染の急上昇を示すグラフの)曲線を平坦にするための措置には所定の効果があるのかもしれないが、ロックダウンは重症化事例を未来に先送りするだけであり、予防にはならないだろう。確かに、各国は医療体制に過度な負担をかけないよう、感染拡大を遅らせることに成功している。そして、なるほど、命を救う効果的な薬が早急に開発されるのかもしれない。しかし、このパンデミックは素早い。これらの薬剤も迅速に開発、試験、販売されなければならない。多くの期待はワクチンに込められている。けれども、それらには時間がかかり、しかも、感染に対する免疫の防御反応が不明確だ。ワクチンが非常に効果的であるかどうかも不明なのである。

 そのあと、簡素なまとめがあり、締めの言葉は、"I declare no competing interests." つまり、利益相反はないですよということで、勘ぐり的な批判はしないでねということだ。ヨハン・ギーゼケ教授の業績を知るものなら当然のことではある。
 話はそれだけで、簡素すぎるようでもあるが、メッセージは強烈と言ってもいいだろうし、原文にはきちんと論拠の参照もあるので、関心ある人というか、批判する人は読んでおくといいだろう。
 こうした議論が出てくることは、まあ、世界の言論界では想定の範囲でもあって、良識的な反論は、みなさんご存知イアン・ブレーマーさんが、4日付けのニューヨーク・タイムズに"Coronavirus and the Sweden 'Herd Immunity' Myth(コロナウイルスとスウェーデンの「集団免疫」の神話)"という寄稿にしていて、まあ、各国のインテリさんのご商売向けのテンプレがきちんとしかも無内容に書かれている。こんなことが書かれているんじゃないかなと予想して読むと満足できます。
 とはいえ、考えようによってはギーゼケ教授の考えは「強烈」でもなく、この分野の国際的な第一人者の普通の考えでもある。

 

 で、私はふと疑問に思ったのだった。そもそもギーゼケ教授はWHOに指導的な権威を持ってるとみてよいんじゃないか。だったら、なぜ、WHOはギーゼケ教授の考えを推奨しないのだろうか? もちろん、イアン・ブルマー氏のNYT寄稿を待つまでもなく、大国で高齢者の死亡数グラフを見ることに国民は耐え難いからだし、そうした先進国は基本的に高齢層が政治的な権力を持っているからなおさら、無理だろう、というのは、わかる。それでも、WHOなら専門家向けに(専門家だけ通じるように)なんらかの指針が出せるのではないか?
 というか、指針がなくても、暗黙の合意だったのかもしれない。むしろ、欧州におけるロックダウンは当初は専門家は検討してなかったのではないか。そもそも、ロックダウンにパンデミックを抑制する効果があるかは、それほど強固なエヴィデンスを、今回のパンデミック以前にはなかったのではないかと思う。
 とはいえ、WHOも今となっては、逆に、急速のロックダウン解除は危ないとしているが、なぜかといえば、つまるところ、ギーゼケ教授の指摘で理解しやすいだろう。

 

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2020.05.06

スタンフォード大学の秋のキャンパスはどうなるか的な話

 昨日の記事で言及した、2013年のノーベル化学賞受賞・生物物理学者マイケル・レビット(Michael Levitt)だが、1987年以降、スタンフォード大学で構造生物学の教授を務めている。その関係から、同大学の学内紙と見てもよいだろう(会社組織になっているが)The Stanford Dalyに5月4日付でインタビュー記事が掲載されていた。読みようによってはではあるが、興味深い言及があり、これもブログにメモ代わりに記しておきたい。
 見出しとリードは次のとおり。試訳を付したが間違っているかもしれないので、ご参考までに。

Q&A: Nobel laureate says COVID-19 curve could be naturally self-flattening
“I’m pretty sure we will be on campus for fall quarter,” Michael Levitt predicts
Q&A: ノーベル賞受賞者は、COVID-19の曲線は自然に自己平坦化しうると述べた
「秋の四半期には私たちはキャンパスにいると確信している」とマイケル・レビットは予測している

 気になったのは、以下。MLはマイケル・レビット。TSDはThe Stanford Daly紙記者。

ML: Well, after China, it was then South Korea, and then Italy. And to my surprise, other countries actually looked a lot like China, even though China had very, very strict social distancing. I sort of said, well, social distancing might be very important. But the fact is, even without this, the virus seems to be working to flatten the curve. The virus seems to have this intrinsic property of not growing exponentially but actually growing slower and slower each day.
ML:中国の次は韓国、そしてイタリアでしたね。私は驚いたのですが、中国は社会的距離が非常に厳しかったに、他の国は中国によく似ていました。私はそうですね、社会的距離は非常に重要なのかもしれないと思いました。しかし事実としては、これがなくても、ウイルスは増加曲線を平坦化させているようです。このウイルスは、指数関数的に増加するのではなく、実際には日々ゆっくり成長するという本質的な特性を持っているようなのです。

TSD: Why do you think coronavirus has this tendency?
TSD: なぜコロナウイルスにこの傾向があるのだと思うのです?

ML: Imagine I had a confirmed case of COVID. Unbeknownst to me, a declared case, I’ve also infected my friends, my kids, people near me. And this means on the first day, I can infect people, but then the next day, I can’t find people so easily to infect. In some ways, what’s happening is that visible cases are having a hard time finding people to infect, because the invisible cases have already infected them. Since then, there’s been a lot of extra findings about maybe we have some natural immunity to the virus as well.
ML: こう想像してみてください。私にCOVIDの症例が確定しているとします。私は確定者として知らないうちに、私の友人や子ども、身近な人を感染させてきています。これが意味することは、初日には感染ができても、翌日には簡単に感染させる人を見つけられないということです。ある意味、見てわかる感染者は感染させる他の人を見つけるのに苦労しています。というのも、見てもわからない感染者がすでに人々を感染させてしまっているからです。それ以来、同様に、私たちにはこのウイルスに対するなんらかの自然免疫があるかもしれない、というような追加的な発見がたくさんありました。

TSD: Would you describe this mechanism as populations achieving herd immunity?
TSD: その仕組みは、集団免疫を達成した人々の集団だと言えますか?

ML: You don’t actually have to infect everybody, depending on how fast the virus grows. Some people say 80% [of the population needs to develop antibodies], some people say 60%. I personally think it’s less than 30%. And some people are saying we’re never going to get herd immunity. I don’t think so.
ML: ウイルスの増加速度によりますが、実際に全員を感染させる必要はないのです。80%もの人が抗体を作る必要があると言う人もいれば、60%だと言う人もいます。私は個人的には30%以下だと思っています。そして、集団免疫はけっして得られないと言う人もいますが、私はそうは思いません。

TSD: Why not?
TSD: なぜそう思わないのですか?

ML: There have been maybe five or six situations where there was massive infection, including on the Diamond Princess cruise ship or provinces in Italy. You will find that the final death count is something like a tenth of a percent of the population. You could say that each of these places stopped because they had wonderful social distancing, or we can simply say they stopped because there was no one left to infect. We will know in a few weeks the answer to this question because of what happens in Sweden.
ML: クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号やイタリアの地方など、大規模感染が発生した状況がすでに5、6件あります。最終的な死者数は、その人口の1/10パーセントに相当していることがわかります。これらの場所で感染が停止したのは、素晴らしい社会的距離があったためだと言えるでしょう。あるいは単純に、それ以上感染する人がいなくなったから停止したとも言えます。私たちは、スウェーデンでの事例から、あと数週間でこの問題の解答がわかります。

TSD: Sweden?
TSD: スウェーデン?

ML: If Sweden stops at about 5,000 or 6,000 deaths, we will know that they’ve reached herd immunity, and we didn’t need to do any kind of lockdown. My own feeling is that it will probably stop because of herd immunity. COVID is serious, it’s at least a serious flu. But it’s not going to destroy humanity as people thought.
ML: スウェーデンで5,000人か6,000人くらいの死亡数で停止すれば、群集免疫に達したことがわかるでしょう。そして、ロックダウンのようなことをする必要はなかったということです。私の感覚でしかありませんが、たぶん群集免疫があるから止まるのでしょう。COVIDは深刻です。少なくともインフルエンザほどには深刻です。しかし、人々が想定したように、人類を滅ぼすことはないでしょう。

 この話につづけて、レビットは、世界中の感染も、8週間から14週間で停止するのではないかと予想しているが、すでに停止したかに見える韓国でも死者は出ているので、最終的な死者数はわからないと述べている。
 それからスタンフォード大学の学内誌らしく、大学は今後どうなりますかねという問いには、記事タイトルのように、いろいろ問題はあるにせよ、秋の新学期には再開できるでしょうと楽観的に述べている。
 話はそれだけで、私の印象としては、レビットの予想は随分と楽観論のようにも聞こえるが、具体的に、約1000万人程度のスウェーデンで死者6000人というのは、それなりにかなりすごい数値で、日本ならその10倍の規模の人口の国家なので、6万人の死者が出るでしょうということになる。おっと。厚生労働省クラスター対策班のメンバーの北海道大の西浦博教授(理論疫学)は、何ら対策がなければ日本で42万人の死亡を予測していたのだった。単純に等倍したら7倍になる。それに比べるとレビットの予想はかなり控えめと言えるかもしれない。ちなみに、5月6日の最新のNHKによれば、現状の日本での死者数は、566人。
 気になるのは、レビットがロックダウンの必要性はなかったかもしれない指摘だ。現状ではわからないものの、現状の各国のトラジェクトリー(動向)を見ると、ロックダウンした英国、フランス、米国、イタリアと、スウェーデンに大きな差は見られない(参照)。

Trajectry

 ついでに比較的ではあるが被害の少ない中国、韓国、日本のトラジェクトリーを比べてもあまり差はない。このまま推移するなら、韓国での対応も日本の対応も結果的には対して差はなかったということになりそうだ。

 

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2020.05.05

「ねえ、Siri, Alexa, Google 私はパニクるべき?」

 ニューズウィークの日本版の多分次号に載るんじゃないかとは思うが、4月21日付のハンナ・オズボーンの記事、”WHY THE COVID-19 DEATH FORECASTS ARE WRONG(なぜCOVID-19の死亡予測は間違っているか)”という記事が興味深かった(参照)。ちょっとブログにメモしておきたい。参考までに試訳を付けたが誤訳しているかもしれないので、ご参考までに。
 記事はCOVID-19について現状は不確かな情報しか得られないという側面や今後の政策的な対応などに言及してバランスのいい展開ではあるが、日本でも一部話題になっているが、ノーベル賞受賞の生物物理学者マイケル・レビットの、米国でも一部注目されている見解にも触れている。

Nobel laureate Michael Levitt, a professor of structural biology at Stanford University, proposes another way to think of death forecasts and what the ultimate toll on a given country will be. Levitt told Newsweek he was reading a Medium post by David Spiegelhalter, a statistician at the University of Cambridge, when he started thinking about death tolls differently.

スタンフォード大学の構造生物学の教授であるノーベル賞受賞者のマイケル・レビットは、死亡者数予測と、議論の対象国で最終的な犠牲者数を考えるための別の方法を提案している。レビットは、ケンブリッジ大学の統計学者デービッド・シュピーゲルハルターによるミディアム・ポストの寄稿を読んでいた際、犠牲となった死亡者数について異なる考えを持ち始めたとニューズウィーク誌に語った。

Spiegelhalter was considering how many people who have died from COVID-19 would have died anyway from other, "normal" risks. The risk of dying, generally, increases with age, and COVID-19 follows a similar trajectory—death rates for those above 70 are much higher for younger adults and children. His calculations suggested that COVID-19 deaths account for about a years' worth of death risk.

シュピーゲルハルターは、COVID-19で死亡した人のうち、他の「通常」のリスクで死亡した人が何人いるかと考えていた。死亡リスクは一般的に年齢とともに増加するが、COVID-19も同様の軌跡をたどっている。70歳以上の死亡率は、若い成人や子どもと比べればかなり高い。彼の計算は、COVID-19の死亡率が約1年分の死亡リスクに相当することを示唆していた。

"I thought it was a very clever way to express numbers," Levitt said. "People don't think people die normally. And people get upset by every death. But in the world 150,000 people die every day, so you need to normalize that." However, he thought that a years' worth of deaths was too high, so he used this principle and applied it to the Diamond Princess—the cruise ship that was quarantined off the coast of Japan towards the start of the outbreak—and then to Wuhan, the city in China where the virus was first identified.

「数字で表現するのはとても賢い手法だと思った」とレビットは言った。 「人々は自分が正常に(正規化されて)死ぬものだとは考えていない。そして人はどんな死であれ死に動揺する。しかし、この世界では毎日15万人が死んでいるのだから、それを正規化する必要がある」。とはいえ、彼は1年分の死亡者数が多すぎると考え、この原則を2つの事例に適用してみた。感染発生当初、日本沿岸で隔離されていたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」と、このウイルスが最初に特定された中国の都市「武漢」とにである。

Through his calculations, Levitt accurately predicted the total cases and deaths in China during the country's outbreak. "What I noticed was if you actually look at the places that are heavily hit, what you discover is for each of these places, the fraction of population—total population, not cases—that are dying is very similar. It's around 0.2 percent."

レビットは、自分の計算で、中国での感染者数と死亡者数の合計を正確に予測した。「私が注目したことは、実際に深刻な被害を受けた場所を見ると、それぞれの場所での死亡者の人口比(症例比ではなく総人口比)が、約0.2%である、ということだ」。

He suggests the number of deaths from COVID-19 in a given country equates to around a month to five weeks worth of excess deaths. He added that it is important to remember that some of the people who have died from COVID-19 might have died over this time from something else.

彼が示唆しているのは、ある国でのCOVID-19による死亡者数は、約1か月から5週間分の過剰死亡数に相当するということだ。彼は付け加えてこう言った。COVID-19で死亡した人々の中には、この間、何か別の原因で死亡した人もいるかもしれない、ということを留意することが重要だ、と。

(中略)
Levitt said what is important is learning from the pandemic and applying this knowledge to future challenges, such as climate change. "Our artificial intelligence is developing so quickly that maybe, in the next outbreak, we'll be able to say 'hey Siri, Alexa, Google—should I panic?'"

重要なことは、このパンデミックから学び、その知識を気候変動など将来の課題に適用することだと、レビットは言った。「私たちの人工知能は急速に発達しているから、次回のパンデミックではこう言えるようになるかもしれません。『ねえ、Siri, Alexa, Google 私はパニクるべき?』

 とま、気になったところを抜書してみた。
 私も似たようなことを考えていて、Twitterに曖昧につぶやいていたので、まあ、実計算してみると合うものなのかあと感慨深かった。
 それと、こうしてこの計算に向き合ってみると、小説『BEATLESS』を思い出した。

  

 超高度人工知能「ヒギンズ」は、知性体の未来のために「レイシア」の初号機を作り出すのだが、人類から隔離されているヒギンズにとっては、人類への対話手段を持たない。
 超高度人工知能「ありあけ」が発端となって発生したことになっている、所定数の人間処分である「ハザード」の責の一端は同じ超高度人工知能であるヒギンズに課せられている。そして、ヒギンズは人類の滅亡を計算してか、人間との対話というか地球知性体のありかたを探るべく5体の特殊な人工知能を世界に放出する。
 レイシアはその一体で、この世界で、ネットワーク型超高度人工知能となり、人間のひとりである遠藤アラトを信じて(愛して)、人類の未来の再デザインに取り組むべく、自己消滅に至る……ということだが、まあ、ちょっと要約としては間違っているかもしれないが、基本的な命題ある、人類の政策と超高度人工知能のありかたという難問は、ここに示されている。
 つまり私は何が言いたいのか。
 レビットが問いかけたのが、SiriやAlexaではなく、レイシアであったらどうなのか? もちろん、最適の政策が打ち出せるだろうが、当然、そのためのレイオフは発生する。この問題は、トロッコ問題も潜んでいる。
 では、どのような解答をレイシアは出すだろうか?
 それはそれとして、この機会に、マイケル・レビットがCOVID-19について語っているその他ことも読んでみた。いろいろ思うことはあった。ある意味、なかなか壮絶な見解とも言えるかもしれないが、私としては明るい展望も持てるようになった。こういう言い方はなんだが、「ポスト・コロナ」というのもまた幻影かもしれない、と。

 

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2020.05.04

NHKスペシャルの感染クルーズ船の番組が興味深いものだった

 あまり期待しないで見たのだが、NHKスペシャル『調査報告 クルーズ船~未知のウイルス 闘いのカギ~』が興味深いものだった。最初から、配偶者を亡くしたかたの話があり、同情はするが、そうしたパセティックな番組は期待していないので、これは流し見かなと思ったが、見ていると、いろいろ勉強になった。
 まず当たり前のことなのだが、あまりヴィジュアルに想像していなかったのだが、豪華クルーズ船のお客さんはお金持ちで、引退生活者が多そうで、つまりは、高齢者が多いのだった。COVID-19は高齢層が重症化しやすいので、不運にも結果的にそこが狙われたような状況でもあったのだなと再認識した。
 いろいろびっくりしたのだが、巨大な豪華クルーズ船の客室で感染者が空間的にどう分布しているのかだった。図解的に示されたのだが、これがまるで均質だった。まるで空気で感染でもしたかのように。もちろん、空気感染ではなく、エアロゾル感染も多かっただろう。
 もちろん、とさらに言うが、感染経路としては接触感染が主流ではあっただろう。これは番組中に蛍光剤を使ったわかりやすい実験があった(よく見るやつ)。まあ、いろいろ接触しちゃうものだよなと改めて思った。ここで驚いたのは、乗客を降ろしたあとの残留ウイルスの検査でトイレにけっこうこのウイルスがあるらしいことだった。コンビニでトイレを封鎖しているところが増えてきたが、ノロウイルスでもないのに人手の問題かな、こういうかこつけた過剰規制は困るな、と思っていたが、コンビニのトイレというは意外に感染源になりそうだなと認識を改めた。
 一番びっくりしたのは、明示的に示されたわけではないが、SARS-CoV-2の無症状の肺炎の関連で、これを、上気道炎と事実上分けていたことだった。COVID-19の感染にはいろいろ不思議なことがあるが、このように分けて考えると納得しやすい面がありそうに思っていた。例えば、PCR検査だと上気道を調べるが、これだけだとわかりにくいことがありそうだ。しかも、そうではない無症状・軽症の肺炎のほうが急速に重篤化しやすい。
 もちろん、完全に分けて考えられるわけでもないが、上気道炎症は従来からあるコロナウイルスの風邪に近いが(そしておそらく軽症)、他方、エアロゾル化したSARS-CoV-2が直接肺で炎症を起こす可能性もあるかもしれない。
 いずれにせよ、COVID-19で重要なのは、無症状・軽症の肺炎の急激な重篤化なので、日本が事実上、PCR検査の充実よりも、医師の検診からCT検査という手順にしたのは、重篤化から死亡者を減らすという点では、他国にないよい戦略だったのかもしれない。もちろん、断定はできない。
 他方、昨日、専門家会議の尾身茂氏も本来ならPCR検査をしたかった旨を語り、その留保理由に、体制の不備をあげたが、不備を押して初期の時点でPCR検査を行うと、ニューヨークであったように、症状がない人までも不安にかられ、検査を求めて殺到し、院内感染のような状況になりえただろう。というか、日本のその後の院内感染の状況を見るにその懸念はかなりありえただろう。北海道が一度は封じ込めに成功したかに見えて、再び感染が広まったが、もちろん院内感染だけではないが要因としては大きい。
 総じて、日本の現状では、一番大きなクラスターは院内感染と言ってよさそうだ。むしろ、まだ総括する時期ではないが、日本のCOVI-19対策で、最大の問題だったのは、そこだろう。病院を責められるものではないが、政策的な失敗ではあっただろう。

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2020.05.03

ウイルス(virus)をラテン語で何というか?

 ラテン語を再び勉強しはじめて、ふと、ウイルス(virus)をラテン語で何というのか?と疑問に思った。
 何をバカなこと言うのか、と思う人もいるだろう。そもそもウイルス(virus)はラテン語じゃないか、と。
 いや、違うでしょ。ラテン語にも virus という言葉はあるし、なによりそれが現代語のウイルス(virus)の語源にはなっているけど、ラテン語の virus という言葉の意味は、「毒」である。植物から採られた液状の毒である。
 じゃあ、ウイルス(virus)をラテン語で何というか?
 ここで当然気がつくことだが、人類がウイルス(virus)を発見したのは、近代である。19世紀には感染性を持つ細菌より小さな存在がありそうだと推測されていた、というか、そもそも細菌の「発見」とは顕微鏡の技術によるもので、そう、つまり、ウイルスの発見も顕微鏡技術にかかっている。というわけで、1935年、米国の生化学者ウェンデル・スタンリーがタバコ・モザイク・ウイルスを結晶化させ電子顕微鏡で写し、この功績で彼は1946年のノーベル化学賞を受賞。概ねウイルスの発見はおおよそ戦争の時代とも重なる。余談だが、その後、1990年代になって可視できそうなほどの巨大ウイルスも発見されているが、その話は以前にもここで書いた(参照)。
 とはいえ、スタンリーはウイルスの発見者ではない。史実では、1892年のロシアの植物学者ドミトリー・イワノフスキーがタバコ・モザイク・ウイルスを発見とされているし、スタンリーもそれをもとにタバコ・モザイク・ウイルスを対象にした。
 では、virusの命名者はイワノフスキーなのかというと、語源辞書にあたると、そうでもなさそう。この意味での初出は1728年とある。ただし、当時の意味は、性病(venereal disease)だったようだ。よくわからないな。
 そういえば、語源はそのままGoogleでわかるはず(参照)と見ると、さほど情報は出てこないが、使用頻度年表が出てきて、それを見るに、この語が流行するのは、1930年頃からで、おそらくスタンリーの研究の前史の時代を反映しているのだろう。
 ところで、そもそもウイルス(virus)をラテン語で何というか、と関心を持ったのは、最近ラテン語を再学習していて、もしかして、この語は、vir(男)と関係しているのではなとふと思ったからだ。この連想は、ラテン語の vir が英語の virture(美徳)のと関連していて、へーと再認識したからでもある。
 調べると、ラテン語の vir は virus とは関係なさそうだ。vir の印欧祖語の語幹 *wiHrós、virusは *wīsos のロータシズムである。
 さて、最初の疑問に戻って、ウイルス(virus)をラテン語で何というか?だが、そもそも死んだ言語であるラテン語にそんな言葉はないとも言えそうだが、おっとどっこい(死語)、ラテン語は現代でも生きていて、話されてもいる。特に、ヴァチカン市国の公用語である(実際にはイタリア語がよく話されているが)。ラテン語の放送もある。そしてここでは現代用の語彙を補っている(参照)。
 で、現状だと3月の放送があったが、聞き取れないだけなのかもしれなが、この話題はなさそう。
 探すと、Communal Newsというサイトの読者欄らしきところにラテン語での話題があった。

Coronavirus morbo MMXIX (COVID-XIX), et quae MMXIX, nCoV acuti respiratorii morbo (MMXIX, nCoV ARD) novum ac repertum coronavirus pneumoniae (NCP) est virales respiratoriorum morbo fecit per MMXIX novae coronavirus (Sars-Cov-II) . Hoc est primum detecta fraude in Wuhan coronavirus initium 2019-19.

 文法がよくわからない。perは対格を支配する前置詞なので、MMXIX novae coronavirusは対格で、novaeは女性属格だろうか。すると、coronavirusは女性名詞?
 virusという語形を見ると、単数男性のようだから、対格では、virumとなりそうにも思うが。
 いずれにせよ、現代ラテン語では、virusを現代語のvirusとして使ってもよさそうな印象はある。

 

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2020.05.02

ケネディ大統領暗殺事件の謎は解かれたか?

 先日、NHKスペシャルで『未解決事件File .08 JFK暗殺』を前編・後編に分けて放送していたのを見た。「大型シリーズ」としてNHKも、話題作とすべくけっこうお金を投じて作ったらしく(しかも4K)、いくどか再放送されてもいるようだ。
 どうだったか。端的に、ケネディ大統領暗殺事件の謎は解かれたか?
 最初からわかりきったことではあるが、この謎が解かれるわけもない。まだ前提として資料が出尽くしてもいないからだ。(以下、いわゆる「スポイラー」的な内容を含みます。)
 この資料の公開は、事実上、ドナルド・トランプ米大統領にとっては選挙戦時の公約とも言えるはずだったが、2017年10月26日では全公開は見送られた。複数の情報機関が一部の非公開を求めたとされている。まあ、さすがにトランプさんにしても、これを公開しちゃまずいだろうという文書がある、ということには間違いない。代わりというわけでもないが、この機にジョン・F・ケネディ大統領の暗殺に関する2800件の機密資料公開が承認された。現状では、2021年10月までにもう少し公開されるか、という話になっているかと思う。
 それでも、現状公開の資料と最近の研究をもとに、書籍やドキュメンタリーが組まれるだろうことは予想された。潤沢な資金力と調査力を持っているNHKあたりもぱくつくだろうとも予想していたし、先行して、クロ現でも取り上げてもいた。
 で、ようやくそれができたわけだが、昔のNHK風に地味なドキュメンタリーというわけでもなく、最近の動向のように(役者さんが天皇に扮するとか)、「たぶんこうだったんじゃないか劇場 」的に出してきた。これがなかなかの出来で、ジェイムス・ワトキンス演じるオズワルドとか、すげーそれっぽく、映画としてもけっこう見応えがあったりもした。が、これって、一種邪道といえば邪道だよなとも昭和な私は思ったりもした。
 疑惑についての基本的な筋立てとしては、このNHK番組はどうだったか。
 基本は、四半世紀も事件を追求してきた元ワシントンポスト記者のジェファーソン・モーリー(Jefferson Morley)に拠っていた。また、今回の番組の目玉は、元CIA高官のロルフ・ラーセン(Rolf Mowatt-Larssen)の証言と推測に焦点を置いたことだ。
 それは何かというと、いわゆるCIA関与説である。シンプルな推測であった。番組は傍証とドラマ風の映像でさも真実げに取り上げてしまったが、普通に見ていて、私などはこれは、話としては面白いが、読みとしてはだめだろうなと思った。
 ラーセンのCIA関与説は、当時のCIA内部の内部の様子についてはなかかに真実味があるが、実際の暗殺計画という際に、狙撃の腕が不確かなオズワルドに十分に依拠するわけは、ありえない。普通に考えて、オズワルドに狙撃をまかせたら失敗するだろう。
 このあたりを番組ではどうするのかと、率直に言って、そこだけ真面目に注視していたのだが、モーリーが出てきて、おなじみの「もう一人の狙撃犯説」を語っていた。図解なども出てきたが、その裏はというと、番組にはなかった。
 まあ、端的に言えば、この番組では、暗殺の真相の推理としてはであるが、従来知られている以上のものはなかった。
 もちろん、オズワルドの生涯のドラマなどは面白かったので、番組としてのクオリティはある。
 現状、トランプ大統領の判断から類推して、ケネディ大統領暗殺には政府にとってやばい情報がまだ隠蔽されていることは事実だろうし、CIAのなんらかの関与というかCIAが無知であったとことはありえないだろう。
 そうした点からすると、今回のNHK番組は、ケネディ大統領暗殺事件についての、最近のコンセンサスっぽい印象はある。

 

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2020.05.01

新潮社の雑誌『波』2020年5月号に岡田尊司著『ADHDの正体』の書評を書きました

 4月28日に発売の新潮社の雑誌『波』2020年5月号(参照)に岡田尊司著『ADHDの正体』の書評(というか感想)を書きました。以前、岡田尊司先生の『人間アレルギー』の文庫について一筆したことがあり、その関連で同じく岡田先生がADHDについて詳しい本を書くのですが関心ありますかと言われ、自称大人のADHDの私は当然関心を持ったという次第。

Nami5

目次より
岡田尊司『ADHDの正体―その診断は正しいのか―』
finalvent/その症状、本当に「大人のADHD」ですか


 以前から、岡田先生はDSM-5について何か興味深いことを書きそうだなという予想を持っていたので、その期待も含まれていた。実際、読んでみたら、どんぴしゃり(昭和用語)だった。驚いた。

 


 率直に言って、「大人の発達障害」「大人のADHD」というもの、さらに、DSM-5と聞いてびびっと来た人は読んだほうがいいと思う本だった。さらに率直に言えば、新しい知見というより、この関連の問題の所在について、実によくまとまっていた。
 話が走ってしまったので、あえて少し回り道すると、日本の社会の精神障害を取り巻く事情には、奇妙なことが起こっている。この分野を一般向けに概括した2010年刊『やさしい精神医学入門』(岩波明)の「発達障害」に、こう言及されている。引用したい。なお、同書はその後、角川ソフィア文庫『精神疾患』(岩波明)に改題されている。

 この数年、「発達障害」はマスコミの話題として取り上げられることが多く、「はやり」の病気となった。これはジャーナリズムによる虚像の部分が大きいが、臨床の現場では、自ら進んで「発達障害」と診断してほしいと受診する人は数多い。
 特に、精神的な「不調さ」を自覚している人や、対人関係に不得手なために社会生活に適応できないと感じている人たちが、自ら「アスペルガー障害」ではないかと精神科を受診するケースが増加している。
 このような受信者たちは、「アスペルガー障害」や「ADHD」などの病名がつけられると、ほっとするようである。自分の人生が他の人と異なったり不調であったりする原因が、ようやくわかりましたと話すこともある。
 ところが発達障害という診断が否定された場合には、彼らは決まって強い不満を訴える。自分の状態はこの本に書いてあるように、あるいはインターネットのサイトに述べられているように、アスペルガー障害の症状にぴったりとあてはまっている。それなのに、どうして診断が違うというのか。医者にアスペルガー障害を診断する能力がないのではないかとしつこくいらだちを口にすることもある。

 この状況は私のような人間には痛いほどわかるというか、実際、痛い。
 とはいえ、私は私でひねくれた人間なので、なぜ近年、大人のアスペルガー症候群が社会の話題に出てきたのかについてある程度知っていた。端的に言えば、診断基準も変化し、診断しやすくなったし、お薬も対応するようになったからだ。この経緯は、本書『ADHDの正体』に詳しい。
 この問題はさらに混迷しているようだ。『やさしい精神医学入門』が書かれた時点では、《自閉症にしても、ADHDにおいても、脳機能の障害を基盤とした「疾患」である》とされていた。この部分は、前提としては現状でもそうだろうが、実態としてはそうではないだろうことが、最新の状況を描いた本書『ADHDの正体』から読み解ける。
 いずれにせよ、なんであれ、困惑している本人が、なんらかの診断がつくことで安心できたとしても、問題の根幹である症状が緩和するか、あるいはお薬が効けばよい。だが、これも実態としては、うまく対応できているようではないのだ。
 こうした現実において、本書『ADHDの正体』は、精密に問題の切り分けを進めている。それがさらにDSM-5の改訂にまで進むかわからないが、本書の方向はおそらく正しい道ではないかと私は思う。
 本書の理論構成としては、環境か遺伝かという二分法に陥りがちな問題領域でありながら、その中間的とも言えるエピジェネティクス的な視点にも着目している。その意義は、後期の吉本隆明の心的現象学の一部をなす『母型論』にも似て、社会的な受容においては難しい側面もあるだろう。
 本書は、ハウツー的な安易な解決を与えてくれる本でもなければ、偽の安心を与えてくれるわけでもないように思われる。それでも、この分野の社会問題がどこに進むべきかを示してくれる。
 もし、現状の社会が間違った道に進んでいるなら、人は立ち止まり、自分を見つめ直すきっかけが必要である。本書はそのきっかけになるだろう。その意味で、私のような自称ADHDに近い人間のみならず、教育者や、こうした問題に関心を持つことになった育児中の親御さんにも一読を勧めたい。

 

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