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2020.04.25

「おなかが空いた」という言葉を怖いと感じる感覚について

 日本語の日常会話では「主語」が抜けることが多い。しかも、そのほうが自然な会話になるという話を聞いていて、「おなかが空いた」という例が挙げられていた。ぎょっとした、私は。
 その話では、「私がおなかが空いた」というのは、「私」に重きを置いた表現で、自然な日本語の会話では出てこないというのだ。もちろん、それはそうかもしれないと私も思った。
 ただ、私はぎょっとしたのだ。
 私は、私の身近な他者から、「おなかが空いた」と言われると、冷水を浴びたような感覚になる。物心ついてからそうなので、訓練に訓練を重ね、その驚愕感を表出することはないので、私の身近な人も私のそうした内面は知らないだろう。
 が、まず、怖いのである。そして、何が怖いのかと考えることもある。他者の気持ちや渇望が自分に、ぬるっと侵入してくるような気持ち悪さとそれを避けることができない怖さというものに近い。
 だから私は、「おなかが空いた」と他者に言うことは、無意識に気づかないだけかもしれないが、たぶん、ないと思う。私にとって、私の感覚は、他者に隔絶されていて、他者に語るためには、まず、それが「私の感覚なのだ」という前提が必要になる。
 こう説明して延長できるだろうが、私が怖いのは、主語のない「おなかが空いた」という言葉だけではない。「つまらない」「さみしい」「おいしい」とかでも、実は、すべてそうだ。ただ、恐怖の度合いは異なる。「おなかが空いた」と言われるときは、私の内面では、自分の感覚をすべて遮断して、その他者の問題に取り組まなければ、私の内面の世界は崩壊してしまうに違いないという切迫感がある。
 ばかみたいでしょ?
 自分でもばかみたいだと思っている。おそらく、9割がたの人にはこの感覚はわかってもらえないだろうとも思う。もちろん、少数の人にはわかってもらえるかもしれない。
 なぜ、こんな自分になっているのか、というと、たぶんに母子関係の失敗からだろうと思うし、そうなってしまって、人生の大半をもう生きてしまったのだから、どうしようもないことではある。
 私は、まったく「私はおなかが空いた」と言わないのか?というと、そういう他者との状況に追い込まれた、あるいは、暗黙にそうした状況に追い込まれたと感じるときには、言うようには思う。それ以外ではやはり言わない。
 実は、私は、私の内面の感情を他者とのコンテクストでは語らない、普通に。
 振り返ってみると、自分の内面の感情も、通常は言語化していない。ただ、言葉なき感情のなかにいる。
 自分は、比較的親しい人の関係では、どちらかというと饒舌に近い人間ではあるが、この矛盾はなんだろうかと考えると、矛盾でもなく、そもそも内面の情感が根本的に他者に通じないところから、「私」という主語を補いつつ、他者に向けて言語の像を編み上げているのだろう。
 もちろん、書き言葉では違う。書き言葉は私のスタンド(ジョジョ用語)である。
 歌でも違うように思う。
 書くことや歌うことは、感情の言葉を予め奪われている人にとっては、一種の救いのようなものになる。
 まあ、そんなことを眠れない未明に思っていた。

 

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