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2020.04.28

永井荷風の2つの『ふらんす物語』、その文体の差異

 「お家にいよう」キャンペーンに合わせたわけでもないが、4月からNHKのラジオ・アプリケーション『らじる』がずいぶんと改善され、音声コンテンツの使い勝手がよくなった。なかでも「聴き逃し」の対応である。聴き応えがある。その目玉コンテンツと言えるのが、朗読。現在は漱石の三四郎だが、まだ再放送の、永井荷風の『ふらんす物語』が残っている。これが、すごく、よい。俳優・井上倫宏の朗読がうますぎる。女の声色にはなんともいえない昭和な色気すらある。
 と、ご機嫌に聞いているのだが、これ、最初の対象は、『放蕩』である。つまり、『ふらんす物語』が当初出版されようとしたおり、発禁の原因になっただろうと荷風が睨んだあれである。発禁といっても荷風作と言われるれいの作品の方向ではなく、日本国家を愚弄しているかにも思える基調が国家にカチンときたようで、この傾向はもう一編『脚本 異郷の恋』に顕著である。NHKの朗読では、『放蕩』の最終回に、この作品の問題ど真ん中と思われる演説を井上が絶妙に素っ頓狂な声で再現して、笑える笑える。ただ、聞きながら、現在日本にあふれるリベラルさんの心情的な起源とも関係がありそうだなとは思った。
 結局のところ、この発禁本は長く世に出ることはなかった。『脚本 異郷の恋』が出てきたのは、1952年である。発禁となったのは、1909年3月25日。出版納本を済ませたあとのことだ。すでに大半は雑誌連載されていたので、出版時に加えようとしたこの2編に問題があったのだろうと荷風も睨んだ。その後、1915年に新しく編集された『新編ふらんす物語』は問題なく出版され、これが1968年まで『ふらんす物語』として読まれてきた。新潮文庫のものはこれであり、発禁の初版復刻が岩波文庫のものである。今回の朗読は岩波文庫のほうである。なお、青空文庫にはまだ収録されていないが、予定されているのは新編のようだ。
 一般的には、『ふらんす物語』の初版本が普及したのは、1992年の岩波書店版『荷風全集第5巻』であり、文庫はそこから切り出された。これは『あめりか物語』との関連も加えられていて興味深い。

  


 こうした経緯からすれば、読んで面白いのは、当然、発禁をくらった初版だろうと想像しやすいし、『放蕩』はあきらかにそうであると言える。新編では『雲』と改題されているが発禁になりそうな部分は除かれている。
 この二つの本(発禁本と新編)について、現在となっては、発禁の初版本だけあればいいじゃないかと私はなんとなく思っていた。
 が、朗読で『除夜』を聞きながら奇妙な気持ちがした。これは新編では『霧の夜』と改題されている。発禁には関係していないので、異同もさしてないだろうと思っていたが、聞いていてなんとも引っかかるので、新潮文庫『ふらんす物語』と照合してみると、細部が微妙に違う。女を買うというあたりの描写を比較すると、それなりに抜けもあり、発禁への対応が伺われる。しかし、私が気になったのは、そうした発禁への対処よりも文体の差異である。些細な差と言えば些細なのだが、文体差として見たとき、なにか、些細に衝撃とでもいうものがある。2文、引いてみよう。なお、どちらも表記は現代風に改訂されている。

初版
 霧深い冬の夜、更けたる街を歩むといえば、自分は必ずその夜の暗い裏道の記念を思い返す。

新編
 冬の霧に包まれた夜深の街を歩む時には必ずその夜の暗い裏街の事を思い返す。

初版
 一ツ一ツ打ち出す鐘の音は長く長く……自分が遅い歩みで広い橋を渡尽くしても、最後の十二度目の鐘はなお打ち終えなかった。

新編
 一ツ一ツ打ち出す鐘の音は長く長く続いて、自分が遅い歩みの漸くに長い橋を渡り尽くしても、最後の十二度目の鐘はまだ打ち出されなかった。

 どちらの文体がよいだろうか? 個人的には、新編の文体のほうが美しく感じられる。荷風が書き直しをするまでの期間は5年ほどだろう。その間に大きく文体が成長したというわけでもないだろう。
 それでもこれらの些細な文体の差というのは、日本語の文学というものの、なにか本質的な秘密に関連しているような気がしてならない。

 

 

 

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