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2020.04.11

CEFRには英語の位置付けが暗黙に隠されているのではないか

 ひらめきというのとも違うのだろうが、特に脈絡もなく、「あれ?」と気がつくことがある。最近のその一つが、CEFRには英語の位置付けが暗黙に隠されているのではないか、ということだった。当たり前のことなのかもしれないが、少し書いてみたい気がする。
 CEFRとは、Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessmentのことで、「外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠」という定訳語がある。
 ちなみに、フランス語だと、Cadre européen commun de référence pour les langues なので、CECRLになる。どういう発音になるか動画をあたってみると、まあ、それっぽい発音というか、Cecrel のようだが、ネットを見ていると、"Comme ce ne peut être un acronyme, ce sigle se prononce à mon sens lettre après lettre : C.E.C.R.(L.).” というコメントもあった。ついでなんでドイツ語に当たると、Aufgaben des Gemeinsamen Europäischen Referenzrahmen für Sprachen (GER)、のようだ。まあ、いずれにせよ、CEFRというふうに呼称として定着しているわけでもなさそうだ。
 CEFRとは、ということで、簡易に日本語のWikipediaを借りると、次のようにある。

ヨーロッパ全体で外国語の学習者の習得状況を示す際に用いられるガイドライン。1989年から1996年にかけて欧州評議会が「ヨーロッパ市民のための言語学習」プロジェクトを推進した際に、ヨーロッパ言語共通参照枠がその中心的な役割となった。ヨーロッパ言語共通参照枠の目的は、ヨーロッパのすべての言語に適用できるような学習状況の評価や指導といったものの方法を提供することである。

 間違いではないが、日本語のWikipediaではすぐに、共通参照レベルの話題に移っている。言うまでもないが、大学入試改革とも関連があるからで、それついての説明もネットを探ればいろいろ出てくるだろう。
 CEFRの原義からすると、共通参照レベル自体より重要なことは、「ヨーロッパのすべての言語に適用できるような学習状況の評価や指導といったものの方法を提供すること」なので、その、いえば、implementationが問われるわけで、逆に言えば、日本の語学ご教育には、これが問われていない。
 フランス語のWikipediaを見ると、冒頭段落に、次のようにある。

En France, ils sont repris dans le code de l'éducation comme niveaux de compétence en langues vivantes étrangères attendus des élèves des écoles, collèges et lycées.

フランスでは、それらは学校、大学、リセの生徒に期待される現代外国語の能力のレベルとして教育規範に含まれている。

 つまり、共通参照レベルはそもそも教育システムへの implementation時の規範なのである。日本でいうなら、中学校卒業で第一外国語はA2レベルにする、といったところだろう。また、いわゆる上位レベルの大学入試ならB2くらいだろうか。というあたりで、すでに轍にはまるわけではあるが。
 それで、そもそも論で重要なことは、そもそも外国語教育とは何かということであり、CEFRはその答えの一つであった、ということだ。日本ではどうかと、文科省の資料(参照)をあたってみたのだが、私には理解できなかった。改革という視点では次の記載があった(参照)。

 社会の急速なグローバル化の進展の中で、英語力の一層の充実は我が国にとって極めて重要な問題。
 これからは、国民一人一人にとって、異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。今後の英語教育改革において、その基礎的・基本的な知識・技能とそれらを活用して主体的に課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育成することは、児童生徒の将来的な可能性の広がりのために欠かせない。
 もちろん、社会のグローバル化の進展への対応は、英語さえ習得すればよいということではない。我が国の歴史・文化等の教養とともに、思考力・判断力・表現力等を備えることにより、情報や考えなどを積極的に発信し、相手とのコミュケーションができなければならない。

 正直、何を言っているのかよくわからない。おそらく要点は、「国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべき」ということなのだろうが、それって、個々人の英語教育とは直接関係ないことではないだろうか。産業という点であれば、社会人全体のあり方として論じるべきだろう。
 話を戻して、CEFRはどうか?
 日本語のWikipediaでは論点とされていないが、「ヨーロッパ市民のための言語学習」が基本にあることはわかるだろう。そして、それなりにきちんとした資料に当たると、plurilingualism (参照)という考えがコアにあることがわかる。注目したいことは、それが、multilingualismではないことだ。欧州議会の資料にはこうある。

Plurilingualism vs multilingualism

Multilingualism
“the knowledge of a number of languages, or the coexistence of different languages in a given society.
Attained by:
diversifying the languages on offer learning more than one foreign language, reducing the dominant position of English”

Plurilingualism
• switch from one language or dialect to another
• express oneself in one language and understand the other
• call upon the knowledge of a number of languages to make sense of a text,
• recognise words from a common international store in a new guise
• mediate between individuals with no common language
• by bringing the whole of their linguistic equipment into play
• experiment with alternative forms of expression in different languages or dialects,
• exploiting paralinguistics(mime, gesture, facial expression, etc.)
• radically simplifying their use of language

 Multilingualismは、ぶっちゃけた話、英語を主要言語にするのを阻止しようということだろう。日本と表向きは正反対のようではある。
 対して、Plurilingualismの意味は、ごちゃごちゃしていてよくわからない。が、手話も含まれていると見てよく、要は、他者と他者の言語で通じあえることなのだろう。
 おそらく、それゆえに共通参照レベルが組まれているものであって、本質的にはAcheivementの指標というのではないだろう。
 で、冒頭にもどるのだが、EUの世界は、なんといっても、共通語として英語を使わざるを得ないがそれはEUの他の言語のなかの一つとして総括されるものだ、という一種の哲学があるのだろう。
 別の言い方すれば、EUの市民であることは、母語が話せて、もう一つ外国語が話せて(つまりは英語だろう)、そこからさらに、もう一つ外国語(手話を含め)て学習し続けることで、他者の言語と他者の文化に開き続けるということなのだろう。人間のあり方(生き方)そのものに関わる。
 それは、現在日本の、英語ができたら国際人、という風潮とまったく逆の方向にあるのだろう。

 

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