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2020.04.22

英語文型論でちょっと思ったこと

 英語の5文型というのは現在世界では日本の英語教育でしか使われていないようだ、というか、私も昔、大学院で英語教育を学んだがESL的な環境で使われている事例を知らない。その後の研究はわからないが、おそらくないだろう。戦前の日本の英語教育の残滓として台湾とかにはあるかもしれない。いずれにせよ、おおよそ、英語の5文型は日本の英語教育の特性であろうし、これが支持されるのは、漢文訓読の歴史的背景からだろう。余談だが、ジョン万次郎は後年、英語教育に携わるのだが、漢文的に教えていたようだった。
 さて、何の話か? これが、ちょっとうまく言い難い。英語文型論でちょっと思ったことではあるが。まず、5文型論の起源から。
 日本の英語教育に蔓延する特異な5文型だが、ゆえにその起源の考察もそれなりになされている。C. T. Onionsの『 An Advanced English Syntax』(1904)であろうということだが、さらにそう言われているのは、細江逸記『英文法汎論』(1917)の「文の成立の根本形式」に参照があるからとされている。が、当然、この関係を疑うことは可能で、ざっと調べたら、宮脇正孝『5文型の源流を辿る』という論考を見つけた(『専修人文論集』2012)。
 この論によると、C. T. Onionsは「5文型」という概念ではなく、"five forms of the predicate"としていて、この用語から、A. J. Cooper and E. A. Sonnenschein『An English Grammar for Schools, Part II : Analysis and Syntax』(1889)に遡及し、両者を比較している。結果、ほぼ同じなので、"five forms of the predicate"は、C. T. Onionsの創案とは言えないことは明白である。ただ、これが剽窃でないことは、そもそもC. T. OnionsもE. A. Sonnenscheinも同じ学派(Grammatical Society)にいたと言っていいからだ。E. A. Sonnenschein の『Parallel Grammar Series』にC. T. Onionsの著作も含まれている。興味深いのは、E. A. Sonnenscheinは古典語教育者で、Grammatical Societyは、いわば各国語の汎用文法を企図していたことだ。まあ、ゆえに日本の英語教育についても使いやすかったのだろう。
 少し話を戻して、5文型論の一番奇っ怪なのは、第5文型とされるSVOCで、こんなの使役動詞でOCが成立しないことは明白なのになぜ、C、つまりComplementなのか?だが、Grammatical Societyでは、"Predicate−Adjective or Noun"としている。
 では、どこから、Complementが出現したかだが、これは私も長年の疑問だったが、同論考にA. J. Cooper and E. A. Sonnenschein(1889)からの次の引用があった。

The latter term [Predicate−Adjective] has been preferred to ‘Complement’ as less ambiguous and less likely to be distasteful to teachers of French, who are accustomed to call the Object a Complément.

 これはけっこう奇っ怪なコメントにも思える。まず、Complementの由来は、英国における仏語教育によるものらしいこと。次に、それは、Objectを指しているということだ。さらに不思議なのは、それを細江逸記が知って、日本人向けに採用したのか?ということ。これらは、私にはわからない。
 さて、5文型論がポンコツであることは日本の英語教育でしか生き延びてないことでも自明ではあるが、では、英語構文はどうなっているか? 結論から言うと、ESL的には個々の動詞で覚えましょう、ではある。教育的な文型論もあるが、もちろん、多様な議論になる。
 さて、こうしたことを思い出して考察したのは、たまたま、西巻尚樹『英語は本当に単純だ!』という、率直にいうと、珍妙な本を読んだからだ。まあ、批判ではない。へえと思ったからである。ここでは、英語文型として、VSOP(Very Simple One Pattern)という考えを提唱している。文型としては、SVOPの1パターンのみだというのだ。Pが何かよくわからないが、要するに、英語の文型は、SVO部とメッセージ部の2部で成り立っているという考えである。
 これは、実は言語学にすでにある。TC分析、Topic and comment analysisである。この基礎の考えは19世紀の英国にもあり、むしろ、これをsubjcet-predicateとして見ると、先のGrammatical Societyとも関連してくるだろう。
 TC分析は、言語学的には、どちらかというと意味論なので、これを統辞論に混ぜるのはどうかとも思う。ちなみに、5文型論も結局のところ意味論ではある。とはいえ、TC分析では、例えば、日本語の「は」は「取り立て」とされるが、ようは、Topicマーカーなので、統辞論的に考えても違和感はない。が、これは、文法論的には、取り立ての変形なので、基底構造は別だろう(現チョムスキーのD構造ではないだろうが)。
 話が込み入ってなんだが、西巻の説明で非常に興味深いものがあった。「隠れているdo」という考えである。例えば、次の文で、

 I brush my teeth after every meal.

 このbrushの前にdoが隠れているというのだ。

 I do brush my teeth after every meal.

 英語だと強調ではこのdoが出てくるので、「隠れている」と言ってもいいだろうし、疑問文では、出てくる。
 英語のdoというのが、印欧語ではかなりヘンテコな代物で、フランス語など俗ラテン語系にはない。ゲルマン語系にもないと思う。英語の特異性あるといっていいと思うのだが、なぜ英語がdoを持つのか? 長らく疑問だった。
 西巻の説明は、ふーんと流し読みしたのだが、はっと気がついたことがあった。先の例文だと、bruchは動詞のように見るが、実は、名詞なのではないか? つまり、doをくっつけて名詞を動詞化させ、その慣例から動詞的になり、doさえ隠れる、のではないかと。ただ、現実の英文には、史的にも、do+名詞で動詞化はないのだろう。名詞化では、cook-doとかはある。が、これは、"do the cooking"からできているのは明白だ。というか、英語は、"do the 名詞"がけっこうある。これは、基底的には、「doをくっつけて名詞を動詞化」であろう。
 この特性からは、例えば、近年では、googleが動詞化したが、ゆえにこう言えるはずだ

 Google gooled the Goole.

 何が言いたいか? 英語は、実は、基本動詞(ゲルマンご由来)以外の動詞は、名詞から導出でき(隠れたdoによって)、これは、文の2語目に置かれるのではないか?
 奇妙なことを言うようだが。2語目に動詞が来るというのは、ドイツ語(おそらくゲルマン語)の特徴だろう。

 Ich gehe heute ins Konzert.
 Heute gehe ich ins Konzert.

 そこでで、西巻流のメッセージはins Konzertになるかもしれないが、ドイツ語では、それの前の動詞を軸にそれ以外のSVは順不同になれる。というか、文の2語目が動詞の特権になっている。これができるのは、ドイツ語(ゲルマン語)が格変化できるからだが、ピジン化してしまえば、SVO固定になるだろうし、2語目の特権性というのは、「隠れたdo」としてもよいかもしれない。つまり、英語はピジン言語だろう。
 なお、ドイツ語の基底は複文の枠構造で顕著だが、動詞は文末にくる。

 (Ich) heute ins Konzert gehen.
 ↓
 Ich gehe heute ins Konzert.

 この基底は、日本語のようにSOVだが、ピジン化の過程では、単に、名詞の羅列で、最後の語が動詞化され、さらに、文の2語目に特権的に置かれることで、「隠れたdo」を獲得したのではないだろうか?
 まとめると。
 英語は、ゲルマン語的な統辞性(2語めを動詞特権)があり、これがピジン化し、さらにフランス語の影響で、フランス語構文的な装いを見せるようになった、と。
 ただ、フランス語も他の俗ラテン語に比べ構文性が強いので、そのあたりの検討も必要かもしれない。

 

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