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2020.04.12

パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』をまだ「向こう側」に感じる

 イタリアの小説家(物理学博士でもある)パオロ・ジョルダーノによるエッセイ『コロナの時代の僕ら』が、4月24日に発売されるが、それ以前に、緊急事態宣言が出された現在、日本において広く読まれるべき、として、noteに特別公開(12日19時まで)されていた(参照)。読んだ。
 懐かしい奇妙な感覚がした。若い日に悩んだ離人症的な世界の感覚である。それは風景の透き通った「向こう側」あるという感覚である。
 日本でも新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の問題が社会的に深刻化され、緊急事態宣言も出され、人々が外出を実質禁じられ、日常の風景まで変わったようでいながら、それでも、メディアを通してイタリアやアメリカなどを見ていると、まだまだ対岸の火事のように思えてくる。だから、「向こう側」なのかというと、そういうことではない。むしろ、今その「向こう側」にすっぽり包まれているのに、なぜか実感できない、という感覚に近い。
 パオロの声が私に、「向こう側」から聞こえるかのようだった。

 ところがSARS-CoV-2のやり方はもっと大胆だった。そしてその無遠慮な性格ゆえに、僕らが以前から知識としては知っていながら、その規模を実感できずにいた、ひとつの現実をはっきりとこちらに見せつけている。すなわち、僕たちのひとりひとりを──たとえどこにいようとも──互いに結びつける層(レイヤー)が今やどれだけたくさんあり、僕たちが生きるこの世界がいかに複雑であり、社会に政治、経済はもちろん、個人間の関係と心理にいたるまで、世界を構成する各要素の論理がいずれもいかに複雑であるかという現実だ。
 この文章を僕が書いている今日は、珍しい2月29日、うるう年の2020年の土曜日だ。世界で確認された感染者数は8万5千人を超え、中国だけで8万人近く、死者は3千人に迫っている。少なくとも1カ月前から、この奇妙なカウントが僕の日々の道連れとなっている。

 「ひとつの現実をはっきりとこちらに見せつけている」のに私はそれが「向こう側」にあるように見えてくる。その感覚。
 「向こう側」からの声は、偽預言者たちが審判の日を声高に語ることと、まったく逆である。「向こう側」が「いつか」「必ず」「こちら側」に来る、ということではない。それは、そのままにそこにあるのだ。世界はもうすでに変容してしまっているのに、「こちら側」はまだ気が付かない。
 パオロ・ジョルダーノには、その明晰な意識があるようだ。

読者のみなさんがこの文章を読むころには、状況はきっと変わっているだろう。どの数字も増減し、感染症はさらに蔓延して世界の文明圏の隅々(すみずみ)にいたるか、あるいは鎮圧されているかもしれない。だが、それは重要ではない。今回の新型ウイルス流行を背景に生まれるある種の考察は、そのころになってもまだ有効だろうから。なぜなら今起こっていることは偶発事故でもなければ、単なる災いでもないからだ。それにこれは少しも新しいことじゃない。過去にもあったし、これからも起きるだろうことなのだ。

 それは、本当は「向こう側」にあるのではないし、「こちら側」にあるわけでもない。私たちが、私たちの意識によって世界というものを対象的に遠隔化したいという、ある欲望とその幻滅の予感にある、この今の新しい現実なのだろう。
 それはもう一面においては、彼も記しているが、専門家やメディアというものとの距離にもある。その距離の感覚もまた、いま現在、日本人をも覆っている。

 

 

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