[書評] 古代スラヴ語の世界史(服部文昭)
『古代スラヴ語の世界史』は、なんだろうか、一言でいえば、「興味深い」書籍だったということになるのだろうが、そこで少し口籠るものがある。この本を読むのは誰なんだろう?というような関心もわく。
ググってみた。朝日新聞に書評が載っていた(参照)。書評したのは出口治明さん。ああ、この本について、世界史の側面でこれ以上の書評が書ける人はいないだろう、と思うし、まさに、世界史的な側面においてはそうだった。ただそれでも、なんだろうか、ある種、微妙な感じもした。もちろん批判という意味ではない。
「初めに言があった」。ヨハネによる福音書の書き出しだ。言葉は文化でもある。本書は古代スラヴ語から読み解く東ヨーロッパの歴史である。私たちにはなじみの薄いスラヴ人の世界がよくわかる好著だ。
古代スラヴ語とは9世紀後半から11世紀末にかけて当時のスラヴ人が文章語として聖書の翻訳や宗教的活動に用いた言葉だったという。現在のチェコ東部に建国されたモラヴィア国の君主が862年、東フランク王国の干渉を排除しようと、東方のビザンツ皇帝にキリスト教主教の派遣を請うた。そして派遣されたギリシア人兄弟の弟コンスタンティノスが、それまで文字がなかったスラヴ語の文字体系グラゴール文字を考案したのが始まりだった。
どこにも読み違いはない(ただ「初めに言があった」の理解は違うようには思うがここでは関係ない)。ただ、古代スラヴ語が文章語だったというとき、文章語を通常の言語に近いものと見なしているのではないかという気がかりなようなものを感じた。もちろん、文脈が「グラゴール文字」に結ばれているので、誤解されているとも思わない。
微妙なのは、この「文章語」である。本書では、literary languageとされていて、言語(Langage)のようにも思える。が、これは、例えば、Wikipediaを見ると、こうある。
The understanding of the term differs from one linguistic tradition to another, and is dependent on the terminological conventions adopted. Notably, in Eastern European and Slavic linguistics, the term "literary language" has also been used as a synonym of "standard language".
つまり、言語学派によって理解が異なるうえ、どうやらそもそもスラブ語言語学に特有な言い回しのようだ。ただ、これをWikipediaのように、"standard language"とするのも、注があるとはいえ、さらに微妙な感じがする。ただ、これは、本書で言う「規範的言語」に対応するだろう。
私の知る限り、ソシュールの一般言語学的な考えからすると、このliterary languageというのは、書記体系(writing system)のことであって、 言語(Langage)というものではないように思える。
関連して言えば、Wikipediaでのこの指摘が呼応する。
A literary language is the form of a language used in its literary writing. It can be either a non-standard dialect or standardized variety of the language. It can sometimes differ noticeably from the various spoken lects, but difference between literary and non-literary forms is greater in some languages than in others. Where there is a strong divergence between a written form and the spoken vernacular, the language is said to exhibit diglossia.
私の理解から簡単に延長するなら、通常、古代語の研究は、中国古代語の研究がそうであるように、音価のシステムの再構成が重要になる。
が、この古代スラヴ語というのは、そうではない。
むしろ、聖書というWritten textの政治性と歴史の問題でもある。端的に言えば、キリスト教史と民族の交錯において、書かれた文書である聖書など宗教文書がどのように政治・宗教的に機能したかということだ。
こうしたことは、本書においては、次のようにも指摘されている。本書内では明晰に説かれている。
言い換えれば、古代スラブ語は日常生活の中で使われる言葉ではない。その意味では、古代スラブ語は、ロシア語、ブルガリア語、チェコ語といった現代のスラブ諸言語とは、果たす機能が異なるのである。
また先の私の指摘は次の部分で対応するだろう。
このように古代スラブ語はスラブの民衆が自発的に求めたものではない、統治者、為政者の都合によって制定されたものであった。それゆえ、この古代スラブ語の盛衰を辿る際には、ただ単に言語としての側面に限ることなく、スラブ人の国々の盛衰が直接に関わってくるのである。したがって、本書では、古代スラブ語の成立やその移り変わりをスラブ人やその国家の盛衰と絡めて述べていくことになる。
本書のそうした視点・方法論は実に明晰で示唆深い。
他方、古代語としてのスラブ人の言葉としては、スラブ祖語とスラブ諸語の関係でコラムで説明がある。
話が錯綜するが、文語として古代スラブ語を想定すなら、またそれが規範的な言語であるなら、西欧世界における文語としてのラテン語と俗ラテン語のような関係になりえなかったのはなぜか?という問題にもなる。が、当然、この問題は疑似問題で、つまるところ、それが西欧世界におけるキリスト教のあり方に関わるからだろうし、東方教会のあり方との差異にもなる。
つまるところ、書き言葉の言語というもは、それ自体が政治的な意味合いを持つものであり、東洋世界では、漢字という書き言葉(書記体系)がそれをになっていた。また、英語でも古英語として、しばしば、古代英語の言語的な側面で言語として扱われがちだが、実際には、『べオルフ』や『アングロサクソン年代記』のように教会のなかで書かれた書記言語でもある。
言語学はソシュールの一般言語学的な原理から、音価の体系として議論されてきたが、実際の言語はその政治性において書記体系からの影響も受ける。つまり、音韻変化や言語運用における語義の変遷だけではなく、政治体制と文書によっても変化しうる何かである。というか、ルータ聖書がドイツ語を作り、ティンダル聖書からAVが英語を作り出したことを考えれば、当然かもしれない。
そうした書き言葉としての言語の側面を、「古代スラブ語」研究が、結果的によいモデルとして明らかにしている、という点で、本書は、言語学の側にも、日本語で読める文献として貴重なものになっていたと思った。
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