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2020.04.30

フランスのロックダウン解除に向けたエドゥアール・フィリップ仏首相の演説の抜粋

 フランスは、5月11日から、段階的ではあるがロックダウン(都市封鎖)解除に向けて緩和する。それに先立って、フランス時間で4月28日、フランスのエドゥアール・フィリップ首相は議会で演説した。原文(参照)は公開されているので、読んでみた。けっこう考えさせられるものだった。
 気になるところを抜書してみたい。ついで、試訳を添えておいたが、訳間違いもあるかと思うので、ご参考まで。

28 avril 2020
Discours de M. Édouard PHILIPPE, Premier ministre Présentation de la stratégie nationale de déconfinement
(エドゥアール・フィリップ仏首相のスピーチ。国家の封じ込め戦略についての説明)

    Voilà donc le moment où nous devons dire à la France comment notre vie va reprendre.
    Depuis le 17 mars dernier, notre Pays vit confiné.
    Qui aurait imaginé, il y a seulement trois mois, la place que ce mot allait prendre dans notre débat public ? Qui aurait pu envisager une France dans laquelle, subitement, les écoles, les universités, les cafés, les restaurants, une majorité d’entreprises, les bibliothèques et les librairies, les églises, les temples, les synagogues et les mosquées, les jardins publics et les plages, les théâtres, les stades, tous ces lieux communs, pour utiliser une formule qu’affectionne le Président de l’Assemblée nationale, auraient été fermés ?

 さて今や、私たちは私たちの生活をどのように再開するかについてフランスに伝えなければならない瞬間です。
 3月17日以来、私たちの国は閉じ込められています。
 ほんの3ヶ月前に誰が想像したでしょう。閉鎖、この言葉が我々の公の議論の中で使われるようになるとは。学校、大学、カフェ、レストラン、大多数の企業、図書館、書店、教会、寺院、シナゴーグ、モスク、公共の庭園やビーチ、劇場、スタジアム……これら一般的な場所がすべて突然に閉鎖されるフランスを想像したでしょうか?

 このように、特にどってことのない出だしで始まり、続く。どってことなく続くかと思いきや、意外とすごいこと言ってるなあと思った、というか、ここまで読んで、ありゃ、これは原文読んでおかないといけない種類の演説だなと思った次第。

    Toute stratégie repose sur des constats.
    Le premier d’entre eux est médical. Il tient en quelques mots simples que tous les Français doivent avoir en tête : nous allons devoir vivre avec le virus. Dès lors qu’aucun vaccin n’est disponible à court terme, qu’aucun traitement n’a, à ce jour, démontré son efficacité, et que nous sommes loin d’avoir atteint la fameuse immunité de groupe, le virus va continuer à circuler parmi nous. Ce n’est pas réjouissant, mais c’est un fait.

 どの戦略も観察に基づいています。
その1つ目は医療です。それは、簡単に言うことができますが、フランス人全員が心に留めておかなければなりません。こういうことです。私たちはこのウイルスと一緒に生きていかなくてなりません。短期的には対応するワクチンが存在しないので、現状では有効な治療は示されていません。そして、いわゆる集団免疫が達成されるのにはほど遠いので、このウイルスは私たちの間で循環しつづけるでしょう。喜ばしいことではありませんが、事実なのです。

    Il nous faut donc apprendre à vivre avec le Covid-19, et apprendre à nous en protéger.
    Voilà la première contrainte et le premier axe de notre stratégie.

 私たちはCovid-19と共生しつつ、それから身を守ることを学ばなければなりません。
 これが、最初の制約であり、戦略の最初の軸になります。

 ロックダウン解除は各地域ごとになるらしい。当たり前といえば当たり前ではあるが。

    Cette circulation hétérogène du virus crée, de fait, des différences entre les territoires. Pour tous ceux qui, comme moi, croient au bon sens, il n’est pas inutile, et même très nécessaire, de prendre en compte ces différences dans la façon dont le dé-confinement doit être organisé. A la fois pour ne pas appliquer le même schéma dans des endroits où la situation n’est objectivement pas la même, mais aussi pour laisser aux autorités locales, notamment aux maires et aux préfets, la possibilité d’adapter la stratégie nationale en fonction des circonstances.

 このウイルスの不均質な感染の循環が、実際のところ地域間の違いになっています。私を含め良識あるすべての人にとって、このような違いを考慮に入れて封じ込め解除を組織することは無意味ではありませんし、とても必要なことでさえあります。それは客観的に見て同じ状況ではないところに同一の規則(スキーム)を適用しないようにするためであると同時に、地方自治体、特に市長や県知事に、状況に応じて国家戦略を採用させる可能性を残すためでもあります。

 フランス政府の方針だが、三楽章(le triptyque)のように実施されるとのこと、①保護、②検査、③分離。

    Vivre avec le virus, agir progressivement, adapter localement : voilà les trois principes de notre stratégie nationale.
    À partir du 11 mai, sa mise en œuvre va reposer sur le triptyque : Protéger - Tester - Isoler.

 このウィルスと共生する、段階的に活動する、地域に適応する。これらが国家戦略の3原則です。
 5月11日から、これを三楽章のように実施します。保護し、検査し、分離します。

 保護として語られる実態は、大半はマスクの着用についてだった。フランスは当初、マスクは不要としたが、考えを改めるとしている。また、マスクも供給するとのこと。この話がけっこううだうだと長いので閉口した。しかたないだろうとは思うが。次は、検査。

    À la sortie du confinement, nous serons en capacité de massifier nos tests. Nous nous sommes fixés l’objectif de réaliser au moins 700 000 tests virologiques par semaine au 11 mai.

 封じ込め解除後、私たちは検査を大規模化できます。5月11日までに最低でも週70万件のウイルス検査を目標とします。

 というわけで、検査の実態は、大規模検査。実際のところ、封鎖解除と大規模検査は一体になるべきものだろう。この点、日本は見通しが立たない状態だろうな。
 第三楽章の分離は、ようするに隔離で、自宅やホテルなどに14日隔離される。
 演説の終わりのほうに、エドゥアール・フィリップ首相のぼやきみたいのがあって、少し面白かった。面白かったって言ってことでもないが。

    J’ai été frappé depuis le début de cette crise par le nombre de commentateurs ayant une vision parfaitement claire de ce qu’il aurait fallu faire selon eux à chaque instant. La modernité les a souvent fait passer du café du commerce à certains plateaux de télévision ; les courbes d’audience y gagnent ce que la convivialité des bistrots y perd, mais je ne crois pas que cela grandisse le débat public.

 私はこの危機の当初から、何をなすべきかについて、まったくもって明瞭なる意見をもつコメンテーターの多いことに、打ちのめされていました。現代では、こうしたことが街中のカフェから、一部のテレビに移りました。物見遊山の増加で飲み屋の騒ぎは静まるとしても、こんなことが一般社会の議論を増やすとは私は思いません。

 締めはだいたい予想どおりだが、次のような表現はフランスっぽいなあと思った。日本では言えないだろう。

    À partir du 11 mai, le succès ne reposera pas sur la seule autorité de l’État mais sur le civisme des Français.

 5月11日以降、成功は国家の権威だけによるのではありません。フランスの市民精神によっているのです。

 ということで、まあ、さすがフランスだなあと思った。
 日本が参考にできることは、まあ、だいぶあるだろうと思うけど、そもそもこの演説の全翻訳とかもメディアには載らないだろうし、日本のジャーナリズムや識者さんはこの演説に関心を持たないんじゃないか。というのは、そもそも、「私たちはこのウイルスと共存するのです」って、言える人は、政治家にも言論人にも、それほどいないだろう。

 

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2020.04.29

懐かしの『詳解ラテン文法』

 Duolingoにラテン語が加わっているのに最近気が付いた。装備されたのは、昨年秋だったもよう。ただ、コースウエアの実装はまだ十分でもなく、iPad側だと、解説が読めない。じゃあ、解説が見えるPC側でやればいい、ということだが、そうだな、手持ち用にも、ちょっとしたラテン語文法書があれば便利だなと思った。
 そういえば、実家の書架に『詳解ラテン文法』があったはず。ごくたまにではあるが、参照しているので、この機会に手元に持ってくるか、と持ってきた。実際に手にしてみると、何年ぶりだろうか。

Latinbook
 ページをめくると、学部生当時の書き込みがあって、胸にきゅんとしてくる。書名に「詳解」とはあるが、現時点で見ると、文法のサマリーという印象が強い。
 この本は演習課題がけっこうあり、しかも解答がないということで、大学の授業で使いやすい。とはいえ、もう40年以上も昔の話だ。今はどうなんだろう、この本。
 アマゾンで調べてみると、売っていた。普通に売っている。最新の改訂は、新装版として2008年。もう10年は経っている。中身が変わっているかと、Google Booksなどで覗いてみるに、ほとんど変化はなさそうだ。それはなにより。
 変わらないものは変わらないなあ、と思い、お値段はどうかと見るに、現代では2750円。当時は、と手持ちを見ると、1200円。40年の間に、日本の社会もずいぶんインフレになった……ということでもないだろう。
 あれから、40年以上経つ。60歳過ぎて、まだラテン語を学ぼうなんて当時は思わなかったなあ。じゃあ、どう思っていたかというと、特になんも思っていなかった。若いっていうのは、そうことなんだろうな。
 それでも、微妙にではあるが、若い時に、ちょい齧る程度でも、ラテン語を学んで良かったなとは思う。

 

 

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2020.04.28

永井荷風の2つの『ふらんす物語』、その文体の差異

 「お家にいよう」キャンペーンに合わせたわけでもないが、4月からNHKのラジオ・アプリケーション『らじる』がずいぶんと改善され、音声コンテンツの使い勝手がよくなった。なかでも「聴き逃し」の対応である。聴き応えがある。その目玉コンテンツと言えるのが、朗読。現在は漱石の三四郎だが、まだ再放送の、永井荷風の『ふらんす物語』が残っている。これが、すごく、よい。俳優・井上倫宏の朗読がうますぎる。女の声色にはなんともいえない昭和な色気すらある。
 と、ご機嫌に聞いているのだが、これ、最初の対象は、『放蕩』である。つまり、『ふらんす物語』が当初出版されようとしたおり、発禁の原因になっただろうと荷風が睨んだあれである。発禁といっても荷風作と言われるれいの作品の方向ではなく、日本国家を愚弄しているかにも思える基調が国家にカチンときたようで、この傾向はもう一編『脚本 異郷の恋』に顕著である。NHKの朗読では、『放蕩』の最終回に、この作品の問題ど真ん中と思われる演説を井上が絶妙に素っ頓狂な声で再現して、笑える笑える。ただ、聞きながら、現在日本にあふれるリベラルさんの心情的な起源とも関係がありそうだなとは思った。
 結局のところ、この発禁本は長く世に出ることはなかった。『脚本 異郷の恋』が出てきたのは、1952年である。発禁となったのは、1909年3月25日。出版納本を済ませたあとのことだ。すでに大半は雑誌連載されていたので、出版時に加えようとしたこの2編に問題があったのだろうと荷風も睨んだ。その後、1915年に新しく編集された『新編ふらんす物語』は問題なく出版され、これが1968年まで『ふらんす物語』として読まれてきた。新潮文庫のものはこれであり、発禁の初版復刻が岩波文庫のものである。今回の朗読は岩波文庫のほうである。なお、青空文庫にはまだ収録されていないが、予定されているのは新編のようだ。
 一般的には、『ふらんす物語』の初版本が普及したのは、1992年の岩波書店版『荷風全集第5巻』であり、文庫はそこから切り出された。これは『あめりか物語』との関連も加えられていて興味深い。

  


 こうした経緯からすれば、読んで面白いのは、当然、発禁をくらった初版だろうと想像しやすいし、『放蕩』はあきらかにそうであると言える。新編では『雲』と改題されているが発禁になりそうな部分は除かれている。
 この二つの本(発禁本と新編)について、現在となっては、発禁の初版本だけあればいいじゃないかと私はなんとなく思っていた。
 が、朗読で『除夜』を聞きながら奇妙な気持ちがした。これは新編では『霧の夜』と改題されている。発禁には関係していないので、異同もさしてないだろうと思っていたが、聞いていてなんとも引っかかるので、新潮文庫『ふらんす物語』と照合してみると、細部が微妙に違う。女を買うというあたりの描写を比較すると、それなりに抜けもあり、発禁への対応が伺われる。しかし、私が気になったのは、そうした発禁への対処よりも文体の差異である。些細な差と言えば些細なのだが、文体差として見たとき、なにか、些細に衝撃とでもいうものがある。2文、引いてみよう。なお、どちらも表記は現代風に改訂されている。

初版
 霧深い冬の夜、更けたる街を歩むといえば、自分は必ずその夜の暗い裏道の記念を思い返す。

新編
 冬の霧に包まれた夜深の街を歩む時には必ずその夜の暗い裏街の事を思い返す。

初版
 一ツ一ツ打ち出す鐘の音は長く長く……自分が遅い歩みで広い橋を渡尽くしても、最後の十二度目の鐘はなお打ち終えなかった。

新編
 一ツ一ツ打ち出す鐘の音は長く長く続いて、自分が遅い歩みの漸くに長い橋を渡り尽くしても、最後の十二度目の鐘はまだ打ち出されなかった。

 どちらの文体がよいだろうか? 個人的には、新編の文体のほうが美しく感じられる。荷風が書き直しをするまでの期間は5年ほどだろう。その間に大きく文体が成長したというわけでもないだろう。
 それでもこれらの些細な文体の差というのは、日本語の文学というものの、なにか本質的な秘密に関連しているような気がしてならない。

 

 

 

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2020.04.27

散歩で線路脇に茶の新芽を見かけたので少し摘んで烏龍茶にしてみた

 昨日はいい天気なので、適度な運動と日光に当たろうかと散歩した。広い公園を抜けて、足を伸ばし、もとより運行本数の少な路線の脇を歩いていたのだが、ふと雑草のような自然のままに伸びた茶の木を見かけた。新芽が美しい。組織的に植えられたものでもなさそうだ。鳥の糞から種が落ちたのだろうか。雑草と見なしてよさそうなので、10本ほど一芯二葉に摘んでハンカチに包み持ち帰った。ぽきっとする手摘みの感覚が心地よい。手のひらに載せて、わずかというくらいの量である。茶摘み歌を歌うほどもない。
 帰宅して洗い、小さなザルに入れて振り、水気を飛ばし、日干しにした。夕方には少ししなれてきたので、軽く手揉みして、一葉づつ伸ばした。就寝前には半分ほど発酵し、案の定、花のよい香りがする。
 一晩して見ると、発酵は進み、香りも芳しい。少し発酵がいってしまったかもしれないなと思いつつ、もう一度葉を伸ばし、琺瑯のミルクパンに入れ、弱火で炒るというか、熱を加えて発酵を止め、乾かす。できあがり。
 さて、煎れて見るか。全葉なので少し煮出すようにして、数分置く、水色が淡いが茶色になる。いかなる茶になりしや。この二杯分ほど。反煎茶の茶碗に茶を注ぎ、飾りとしてきれいな一芯二葉を一つづつ入れる。では、一口。
 うまい!
 自画自賛は恥ずかしいが、これは、うまい。想像以上にうまい。
 昔、中国茶に凝ったことがある。そこから、原初の茶はどのようなものだったか、日本人はどのように茶を飲んでいたか考えたものだ。
 当時、懇意にしていた台湾の茶商から、レア物の包種茶のようなものをいただいたことがある(というか買ったと言ってもいいが、いいお茶というのは金で買えるものではない)。文山包種茶ではない。似たものに禅茶というのがある。あれは、淡いながらも香りが高く深みがあってうまかった。この手作り茶は、あれに近い。
 もう一つ思い出した。東方美人である。昔、『美味しんぼ』という漫画で至高の紅茶というのがあって、結果のわからぬ連載時に、紅茶仲間と何だろうかと話題にしていた。私は東方美人に決まっているだろうと言った。結果は、キャッスルトンのFFかなにかだった。あれも美味しいが定番だな、筆者、お茶の嗜好はなさそうに思えた。
 東方美人にもいろいろある。台湾でいろいろ買ったものだ。銀芯の含有が多いほうがいいとされている。それもそうかとは思う。余談だが、茶好きの一部に銀芯を尊ぶ人もいるが、私はちょっとどうかなと疑っている。
 いずれにせよ、包種茶と東方美人の中間のような、フレッシュで花の香り、若芽の苦味のあるいいお茶ができた。
 人類がお茶を飲むようになったのは、この葉を摘んでおくと、花の香りがすることに気がついたからではないか。たぶん、最初のお茶は烏龍茶であろう。そこから、発酵の調整やビタミン補給やカフェインの志向などでいろいろと種類が別れてきたのだろう。
 それにしても、茶の若芽を摘んで一晩してこの至高のお茶ができるなら、と思ったが、まあ、それは生きていたらの話である。茶は一期一会。来年、あるいは再来年、散策して茶畑の茶ではない雑木の新芽に出会えたらなら、また作ろう。

 

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2020.04.26

Duolingoにラテン語コースができていた

 うかつだった。昨年にDuolingoにラテン語コースができていたようだ。もちろん、英語からである。うかつと言えば、日本語から中国語を学ぶコースもできていた。
 さっそく、ラテン語コースを始める。大学生時代に学んだし、一昨年は放送大学で入門講座も取ったが、率直なところ、まったくの初心者に等しい。素直に、ゼロから初めてみる。微妙に楽しい。
 けっこうコースウエアもできている、というから、だから公開されていたのだろう。β版でもなさそうだ。
 これで、ラテン語を学び、文法も整理できたら…と思ったら、文法解説がなかった。と、思ったら、PC版のほうにあるなあ。こりゃ、アプリじゃなくてPC版でやるべきか。
 これでラテン語初めて、思うのだが、いわゆるDuolingoである。最初はこう。

 Livia femina est.

 で、Livia is woman.とやって、バツ点を食らう。Livia is a woman.ですね、はい。ラテン語には不定冠詞はないのでした。というか、そもそも定冠詞がない。古典ギリシア語にはあるのだから、ローマのインテリたちは偽物のように作っても良かったのではないかという気もしないではないかというか、そもそもローマ時代の文語ラテン語は古典ギリシア語の翻訳を参考にした一種の人工言語だろうと思う。
 次はこれ。羅訳。

 Stephanus is a man.

 で、

 Stephanus est vir.

 virは、英語の virility に残るあれだ。Duolingoでは音読も流れる。「ステファーノス・エスト・ウィール」である、だいたい。
 estがきちんと、estである。というのを見て、近代フランス語というか、正書法のフランス語というのは、ラテン語への憧れを持っていたのだろうなと思う。とはいえ、"il est étudiant."では、リエゾンで t が残るから、estの語末の t の意識は残っていたのだろうかとも思うが、"A-t-il dit autre chose au téléphone ?"のように、謎の t もあるから、ただの癖かもしれない。日本人も「春雨」というとき、「はる」「あめ」の間に s が入るが普通気が付かない。
 ちなみに、イタリア語では、"Stefano è un uomo."で、つまり、estは è である。アクサンの発音上の意味はなさそうなので、正書法的な工夫なのだろう。
 次は、音声のディクテ。"Ego sum puella." 簡単だが、ここで、Egoは出てこないだろうとか思った。出てきても、どちらかというと、"Ego puella sum."が自然ではなかろうか。とか思って、PC版でディスカッションを除くとそんな議論をしていた。楽しい。イタリア語だと、"Sono una ragazza."だから、"Sum puella"が自然だろうか。スペイン語では"Soy una chica."である。ルーマニア語は知らないから調べるに、"Sunt o fată."これは僕には全然語感がない。
 puellaといえば、"Puella Magi Madoka Magica"であろう。だが、magiはおかしい。英語ですら、単数形はラテン語を引いて、magusである。で、Puellaは女性名詞単数だから、Magaだろう。まあ、それは野暮すぎ。

 

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2020.04.25

「おなかが空いた」という言葉を怖いと感じる感覚について

 日本語の日常会話では「主語」が抜けることが多い。しかも、そのほうが自然な会話になるという話を聞いていて、「おなかが空いた」という例が挙げられていた。ぎょっとした、私は。
 その話では、「私がおなかが空いた」というのは、「私」に重きを置いた表現で、自然な日本語の会話では出てこないというのだ。もちろん、それはそうかもしれないと私も思った。
 ただ、私はぎょっとしたのだ。
 私は、私の身近な他者から、「おなかが空いた」と言われると、冷水を浴びたような感覚になる。物心ついてからそうなので、訓練に訓練を重ね、その驚愕感を表出することはないので、私の身近な人も私のそうした内面は知らないだろう。
 が、まず、怖いのである。そして、何が怖いのかと考えることもある。他者の気持ちや渇望が自分に、ぬるっと侵入してくるような気持ち悪さとそれを避けることができない怖さというものに近い。
 だから私は、「おなかが空いた」と他者に言うことは、無意識に気づかないだけかもしれないが、たぶん、ないと思う。私にとって、私の感覚は、他者に隔絶されていて、他者に語るためには、まず、それが「私の感覚なのだ」という前提が必要になる。
 こう説明して延長できるだろうが、私が怖いのは、主語のない「おなかが空いた」という言葉だけではない。「つまらない」「さみしい」「おいしい」とかでも、実は、すべてそうだ。ただ、恐怖の度合いは異なる。「おなかが空いた」と言われるときは、私の内面では、自分の感覚をすべて遮断して、その他者の問題に取り組まなければ、私の内面の世界は崩壊してしまうに違いないという切迫感がある。
 ばかみたいでしょ?
 自分でもばかみたいだと思っている。おそらく、9割がたの人にはこの感覚はわかってもらえないだろうとも思う。もちろん、少数の人にはわかってもらえるかもしれない。
 なぜ、こんな自分になっているのか、というと、たぶんに母子関係の失敗からだろうと思うし、そうなってしまって、人生の大半をもう生きてしまったのだから、どうしようもないことではある。
 私は、まったく「私はおなかが空いた」と言わないのか?というと、そういう他者との状況に追い込まれた、あるいは、暗黙にそうした状況に追い込まれたと感じるときには、言うようには思う。それ以外ではやはり言わない。
 実は、私は、私の内面の感情を他者とのコンテクストでは語らない、普通に。
 振り返ってみると、自分の内面の感情も、通常は言語化していない。ただ、言葉なき感情のなかにいる。
 自分は、比較的親しい人の関係では、どちらかというと饒舌に近い人間ではあるが、この矛盾はなんだろうかと考えると、矛盾でもなく、そもそも内面の情感が根本的に他者に通じないところから、「私」という主語を補いつつ、他者に向けて言語の像を編み上げているのだろう。
 もちろん、書き言葉では違う。書き言葉は私のスタンド(ジョジョ用語)である。
 歌でも違うように思う。
 書くことや歌うことは、感情の言葉を予め奪われている人にとっては、一種の救いのようなものになる。
 まあ、そんなことを眠れない未明に思っていた。

 

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2020.04.24

岡江久美子さんの死に哀悼

 岡江久美子さんが亡くなった。そう書いてみて、ようやく哀悼の気持ちがこみ上げてきた。
 昨日のことである。訃報はメディアからではなく人づてに聞いたのだが、そのせいか、人違いじゃないかというか、なにかピンとこず、ネットを開いて確かめた。フェイクニュースでもなさそうだ、本人だな、と思い、なんともいえない奇妙な困惑に陥った。同時に乳がんであったことも知ったせいもある。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は怖いものだなという思いもあるが、単純な怖さというより、重症から死にいたる姿を思ってのことだった。岡江さんは、4月3日に発熱して自宅療養していたが、6日の朝に容体が急変して緊急入院したという。その18日間の家族の思いが胸にこみ上げる感じはあった。
 岡江久美子さんは、私より一学年年上で、そのせいか、ずいぶん年上の感じがする。私は高校生時代新聞部にもいたのだが、その先輩の女性で先天性の障害をもっていたが知的で明るくて「すてき」な女性がいた。今思うと年の差は1つなのだが、ずいぶんとお姉さんに思えたものだった。年の差の印象から恋愛的な心情にはならなかった。岡江久美子さんもそんな年上の女性という目で見ていたと思う。
 デビュー時に活動についての記憶はない。岡江さんを知るのは、NHK『連想ゲーム』である。1978年からの番組で、私はこれをたまに見ていた。当時自分の近辺にいた日本語を学ぶ外国人学生も語学の関心で見ていたものだった。
 当初、彼女は、21歳だっただろうか。若い女性ではあるが、私からはやはりずいぶん年上に見えたものだった。
 この機に、当時の彼女は大卒後だったかなと疑問に思った。竹下景子さんのイメージとなんとなく重なっていたからだ。岡江さんの経歴をこの機に調べると、大学は不明で、どうやら、大卒ではなかった。考えてみれば、私の年代、四大に進学する人は女性は少なかったのだったなと思い出した。
 あの番組をきっかけと言っていいだろう、大和田獏さんと結婚したときの世間の空気は覚えている。私もふつうにおめでとうという感じで受け止めていた。獏さんは1950年生まれで、岡江さんとの年齢差も当時の「ふつう」に思えた。ただ、岡江さんは27歳くらいだったか、1983年の女性としてはやや晩婚と見られる時代だったように思い出す。
 実は、私の岡江久美子さんへの関心はそのころ終わる。たまに見るドラマに彼女が出ていると、認識はできる。『はなまるマーケット』を長くやっていたことは知っているが、私はこの番組を見たことがない。大和田獏さんについても同じ。そういえば彼の近況はと検索して近影を見て、昔の面影があるなあと思った。
 私はほとんど民放を見ないでいた。バラエティー番組もあまり見ない。育児期は現在のEテレをよく見ていた。ドラマやアニメをよく見るようになったのは近年である。世間から結果的に長く隔絶していた。何が言いたいかというと、岡江久美子さんの死がもたらす世間のショックのようなものをおそらく十分に理解できていない。それは、残念なことでもあるが、私はこの新型コロナウイルス感染症の社会現象の実感をうまく捉えてはいないということでもあるだろう。

 

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2020.04.23

「サルトル」の意味

 現在では、サルトルはあまり顧みられないだろうか? サルトルというのは、ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre)のことだ。そういえば先日、15日はサルトルの命日だったなと思い出し、Twitterを検索するに、その話題といわゆるサルトルの名言みたいなのがちらほらあった。現代思想としてはあまり顧みられているふうはない。とはいえ、数年前、『100分 de 名著』でサルトルの『実存主義とは何か』を取り上げていたが、見ていない。まあ、見なくてもわかるしという思いがあった。むしろ、その後のハイデガーとのズレやマルクス主義との関連が興味深いのだが、NHKの教養講座的なものでは扱わないだろうなと思っていた。でも、この機に見るかなとも思った。
 で、 「サルトル」の意味だが、普通に考えれば、アルジェリア戦争など帝国主義時代の一種の総括や冷戦化での現在というものに、思想はどう対峙するかということで、その時代を高校生で生きた自分には、当然、大きな影響を受けた。あと、今頃『ペスト』で、まあ表層的な印象はあるが若干話題のカミュも当時は、現在性としての課題だった。どうでもよいが、カミュって暗殺説があるんだなというのを最近知った。
 で、 「サルトル」の意味だが、このブログの記事は案の定くだらない話なのである。
 英語の勉強課題に、"sartorial standards"という言葉出てきた。意味は、単純だし、"sartorial splendor"など、このコロケーションでよく使うありふれた言葉だが、近年ではあオバマ前大統領で少し話題になった(参照)。

The word previously spiked when then-President Obama wore a tan suit to a press briefing in August of 2014, causing a stir that some on social media described as “the audacity of taupe.”

 語義的には、例えば、Merriam-Websterのこのコメントが面白い。

It's easy to uncover the root of sartorial. Just strip off the suffix -ial and you discover the Latin noun sartor, meaning "tailor" (literally, "one who patches or mends"). Sartorial splendor has been the stuff of voguish magazines for years, and even sartor itself has occasionally proven fashionable, as it did in 1843, when Oliver Wendell Holmes wrote of "coats whose memory turns the sartor pale," or in the 1870 title The Sartor, or British journal of cutting, clothing, and fashion. Sartorial has been in style with English speakers since at least 1823.

 ありがちな語誌でもあるのだが、ここで、The Sartorが出てくるが、派生語のもとはこれ、satorであり、意味は、tailorなのだが、Merriam-Websterには単独の項目としては載っていない。日常的には使われないからだろう。気になってLongmanにも当たったが同様。他も当たったがなさげ。日常英語的には、sartorialはあるが、sartorは死語なのだろう。
 とはいえ、ないわけでもなく、トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)の有名な著作『衣装哲学』の原題は"Sartor Resartus"である、と、気がつくが、これはラテン語のままだから、英語とも言い難いか。
 なんか、余談にそれるが、ふと、今の若い人、トーマス・カーライルって知ってる? まあ、漱石読みなら知っているだろうが。
 で、sartorなのだが、以上のようなことを考えていて、ふと、あれ?と思ったのだが、sartorを英語風のスペリングにすると、satoreだよな、あれ?、これ、Sartreじゃないのか?
 そうなのでした。「サルトル」の意味は、「仕立て屋」でした。
 知らなかった。いや、無意識では知っていたのだろうな。関連知識はあったわけだし。ただ、「サルトル」という名前の意味って考えたこともなかった。
 この手の話でいうと、フランス語を学び始めたころ、「ボーヴォワール」って、もしかして、Beau voirじゃね?と思って、調べたら、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)でした。deがつくので元来はお嬢様だったのだろうなとこれも見るに、まあ、そんな感じ。
 この手の傑作は、というか、我ながら恥なのだが、メドヴェージェフである。ロシア語を学んでいるとき、Медведевって、あれ?と思ったのだ。これは、どう見たって、Медведьの派生語だよな。「熊」? 日本語だと、「熊野さん」みたいな?
 このロシア語だが、語源的には、мёд + знатьと言われている。「蜂蜜を知るもの」である。プーさんだな。
 мёдは、英語のmead(蜂蜜酒)との関連からわかるように、「蜂蜜」の意味を持っている。フランス語のmiel、イタリア語のmiele。イタリア語での発音は、「ミエーレ」に近いが、なぜか家電のあれは「ミーレ」なのは英語読みだろうか?
 ちなみに、この言葉はギリシア語のΜέλισσαで、「メリッサ」なのだが、話がだいぶそれたので、今日はここまで。

 

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2020.04.22

英語文型論でちょっと思ったこと

 英語の5文型というのは現在世界では日本の英語教育でしか使われていないようだ、というか、私も昔、大学院で英語教育を学んだがESL的な環境で使われている事例を知らない。その後の研究はわからないが、おそらくないだろう。戦前の日本の英語教育の残滓として台湾とかにはあるかもしれない。いずれにせよ、おおよそ、英語の5文型は日本の英語教育の特性であろうし、これが支持されるのは、漢文訓読の歴史的背景からだろう。余談だが、ジョン万次郎は後年、英語教育に携わるのだが、漢文的に教えていたようだった。
 さて、何の話か? これが、ちょっとうまく言い難い。英語文型論でちょっと思ったことではあるが。まず、5文型論の起源から。
 日本の英語教育に蔓延する特異な5文型だが、ゆえにその起源の考察もそれなりになされている。C. T. Onionsの『 An Advanced English Syntax』(1904)であろうということだが、さらにそう言われているのは、細江逸記『英文法汎論』(1917)の「文の成立の根本形式」に参照があるからとされている。が、当然、この関係を疑うことは可能で、ざっと調べたら、宮脇正孝『5文型の源流を辿る』という論考を見つけた(『専修人文論集』2012)。
 この論によると、C. T. Onionsは「5文型」という概念ではなく、"five forms of the predicate"としていて、この用語から、A. J. Cooper and E. A. Sonnenschein『An English Grammar for Schools, Part II : Analysis and Syntax』(1889)に遡及し、両者を比較している。結果、ほぼ同じなので、"five forms of the predicate"は、C. T. Onionsの創案とは言えないことは明白である。ただ、これが剽窃でないことは、そもそもC. T. OnionsもE. A. Sonnenscheinも同じ学派(Grammatical Society)にいたと言っていいからだ。E. A. Sonnenschein の『Parallel Grammar Series』にC. T. Onionsの著作も含まれている。興味深いのは、E. A. Sonnenscheinは古典語教育者で、Grammatical Societyは、いわば各国語の汎用文法を企図していたことだ。まあ、ゆえに日本の英語教育についても使いやすかったのだろう。
 少し話を戻して、5文型論の一番奇っ怪なのは、第5文型とされるSVOCで、こんなの使役動詞でOCが成立しないことは明白なのになぜ、C、つまりComplementなのか?だが、Grammatical Societyでは、"Predicate−Adjective or Noun"としている。
 では、どこから、Complementが出現したかだが、これは私も長年の疑問だったが、同論考にA. J. Cooper and E. A. Sonnenschein(1889)からの次の引用があった。

The latter term [Predicate−Adjective] has been preferred to ‘Complement’ as less ambiguous and less likely to be distasteful to teachers of French, who are accustomed to call the Object a Complément.

 これはけっこう奇っ怪なコメントにも思える。まず、Complementの由来は、英国における仏語教育によるものらしいこと。次に、それは、Objectを指しているということだ。さらに不思議なのは、それを細江逸記が知って、日本人向けに採用したのか?ということ。これらは、私にはわからない。
 さて、5文型論がポンコツであることは日本の英語教育でしか生き延びてないことでも自明ではあるが、では、英語構文はどうなっているか? 結論から言うと、ESL的には個々の動詞で覚えましょう、ではある。教育的な文型論もあるが、もちろん、多様な議論になる。
 さて、こうしたことを思い出して考察したのは、たまたま、西巻尚樹『英語は本当に単純だ!』という、率直にいうと、珍妙な本を読んだからだ。まあ、批判ではない。へえと思ったからである。ここでは、英語文型として、VSOP(Very Simple One Pattern)という考えを提唱している。文型としては、SVOPの1パターンのみだというのだ。Pが何かよくわからないが、要するに、英語の文型は、SVO部とメッセージ部の2部で成り立っているという考えである。
 これは、実は言語学にすでにある。TC分析、Topic and comment analysisである。この基礎の考えは19世紀の英国にもあり、むしろ、これをsubjcet-predicateとして見ると、先のGrammatical Societyとも関連してくるだろう。
 TC分析は、言語学的には、どちらかというと意味論なので、これを統辞論に混ぜるのはどうかとも思う。ちなみに、5文型論も結局のところ意味論ではある。とはいえ、TC分析では、例えば、日本語の「は」は「取り立て」とされるが、ようは、Topicマーカーなので、統辞論的に考えても違和感はない。が、これは、文法論的には、取り立ての変形なので、基底構造は別だろう(現チョムスキーのD構造ではないだろうが)。
 話が込み入ってなんだが、西巻の説明で非常に興味深いものがあった。「隠れているdo」という考えである。例えば、次の文で、

 I brush my teeth after every meal.

 このbrushの前にdoが隠れているというのだ。

 I do brush my teeth after every meal.

 英語だと強調ではこのdoが出てくるので、「隠れている」と言ってもいいだろうし、疑問文では、出てくる。
 英語のdoというのが、印欧語ではかなりヘンテコな代物で、フランス語など俗ラテン語系にはない。ゲルマン語系にもないと思う。英語の特異性あるといっていいと思うのだが、なぜ英語がdoを持つのか? 長らく疑問だった。
 西巻の説明は、ふーんと流し読みしたのだが、はっと気がついたことがあった。先の例文だと、bruchは動詞のように見るが、実は、名詞なのではないか? つまり、doをくっつけて名詞を動詞化させ、その慣例から動詞的になり、doさえ隠れる、のではないかと。ただ、現実の英文には、史的にも、do+名詞で動詞化はないのだろう。名詞化では、cook-doとかはある。が、これは、"do the cooking"からできているのは明白だ。というか、英語は、"do the 名詞"がけっこうある。これは、基底的には、「doをくっつけて名詞を動詞化」であろう。
 この特性からは、例えば、近年では、googleが動詞化したが、ゆえにこう言えるはずだ

 Google gooled the Goole.

 何が言いたいか? 英語は、実は、基本動詞(ゲルマンご由来)以外の動詞は、名詞から導出でき(隠れたdoによって)、これは、文の2語目に置かれるのではないか?
 奇妙なことを言うようだが。2語目に動詞が来るというのは、ドイツ語(おそらくゲルマン語)の特徴だろう。

 Ich gehe heute ins Konzert.
 Heute gehe ich ins Konzert.

 そこでで、西巻流のメッセージはins Konzertになるかもしれないが、ドイツ語では、それの前の動詞を軸にそれ以外のSVは順不同になれる。というか、文の2語目が動詞の特権になっている。これができるのは、ドイツ語(ゲルマン語)が格変化できるからだが、ピジン化してしまえば、SVO固定になるだろうし、2語目の特権性というのは、「隠れたdo」としてもよいかもしれない。つまり、英語はピジン言語だろう。
 なお、ドイツ語の基底は複文の枠構造で顕著だが、動詞は文末にくる。

 (Ich) heute ins Konzert gehen.
 ↓
 Ich gehe heute ins Konzert.

 この基底は、日本語のようにSOVだが、ピジン化の過程では、単に、名詞の羅列で、最後の語が動詞化され、さらに、文の2語目に特権的に置かれることで、「隠れたdo」を獲得したのではないだろうか?
 まとめると。
 英語は、ゲルマン語的な統辞性(2語めを動詞特権)があり、これがピジン化し、さらにフランス語の影響で、フランス語構文的な装いを見せるようになった、と。
 ただ、フランス語も他の俗ラテン語に比べ構文性が強いので、そのあたりの検討も必要かもしれない。

 

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2020.04.21

科学的な真実について考えさせられる3つの事例

 科学とはなにか? 科学的な真実とは何か? といった大問題は当然難しいが、個々の事例で考えると、さて、これをどう受け止めたらいいだろうかと思うことがある。3つほど心にたまっているので、ブログのネタにしてみよう。

1 モルの定義が教科書で変わった
 Twitterを見ていたら、野島高彦先生が自身の書かれた高校の化学の教科書『はじめて学ぶ化学』の今年の最新版でモルの説明を変更したと書かれていた。Tweetは簡素なアナウンスだったが、背景はWikipediaを見てもわかる。

 2019年5月19日までの国際単位系におけるモルの定義は以下の通りであった。

モルは、0.012 キログラム(12グラム)の炭素12の中に存在する原子の数と等しい要素粒子 (elementary entities) を含む系の物質量である。
モルを用いるとき、要素粒子を指定する必要があるが、それは原子、分子、イオン、電子その他の粒子、またはこれらの粒子の集合体であって良い[7]。

 1980年に国際度量衡委員会(CIPM)により以下の補則が加えられていた。これはモルの定義の一部であった[8]。

:補則:この定義の中で、炭素12は結合しておらず、静止しており、基底状態にあるものを基準とすることが想定されている。

現在の炭素原子によるモルの定義を「炭素スケール」とよび、過去の酸素基準と分けて呼ぶこともある。 なお、新定義では、アボガドロ定数を正確に6.02214076×1023とすることによりモルを定義したので、1モルの炭素12の質量は、12グラムではなくなり、11.999 999 9958(36) グラムという実験値となった[9]。

 この問題は私が高校生になる以前から議論にはなっていた。1964年の『科学教育』に『高等学校改訂教科書におけるモルの取り扱い』という論考がある。近年の教育上の問題については、京都大学大学院理学研究科化学専攻、高大接続・入試センターから『高等学校理科教科書における量と単位の扱いにおける問題点、その影響、および改善案について』が参考になるだろう。
 この事例では、科学的な真実が変わったというわけではないが、科学という学問でのルールの変更と科学教育の見直しになった。

2 単子葉類は双子葉類から進化した
 単純にGoogleで「双子葉」と「単子葉」で検索すると、「【中学生】単子葉類と双子葉類の違いは?覚え方のコツを伝授します!」というサイトがトップに出てくる。こう書かれている。

植物は最初に生える葉っぱ(芽)の枚数で分類されます。
子葉が一枚だと単子葉類、子葉が二枚だと双子葉類となります。

 全くの間違いとも言い切れないのだろうが、なぜ、「単子葉類と双子葉類の違い」が話題になるのかは、よくわからない。高校入試に出るからというのは前提的な答えではあろうが。
 ちなみに、APG植物分類体系ではこのような分類はしない。
 これを中学校でどう教えるかなのだが、よくわからない。現状の中学校の教科書は見ていないのでなんとも言えないが、きちんと最新の知見が補われているといいだろうと思う。

3 オゾンホールは縮小している
 若い世代は知らないかもしれないが、オゾンホール問題は大きな地球環境問題だった。いわく、地球を覆うオゾン層は、太陽光の紫外線を多く吸収することで地上生命を守っているが、人間が作り出したフロンという物質によって壊され、大きな穴「オゾンホール」ができている、と。
 このため、1987年のモントリオール議定書 (Montreal Protocol)で、オゾン層破壊物質の削減・廃止が方向づけされ、5種類のフロンについて1998年までに半減、3種類のハロンを1992年以降に増加させないとした。日本では議定書翌年「オゾン層保護法」を制定し、規制を始めた。
 このオゾンホールだが、どうなっているか。気象庁から。

2019年の南極域上空のオゾン層・オゾンホール
衛星観測によると、2019年の南極オゾンホールは8月中旬に現れ、その面積は8月中は拡大し、9月7日に面積が最大(1,100万km2:南極大陸の約0.8倍)となった後、最近10年間の平均値と比べると最も小さい状態で推移しながらその規模を保っていましたが、10月下旬から急速に縮小し、11月10日に消滅しました(図1、図2)。 大規模なオゾンホールが継続してみられるようになった1990年以降で、最大面積は最も小さく、消滅は最も早くなりました。

 はたしてこれは、環境保護対策の成功例なのだろうか? なお、その後、オゾン層を破壊しているのは、フロンより亜酸化窒素であると見られるようになった。これも規制に向かっている。これらを含めて、オゾンホールの縮小は人間の努力によるものだったのか。なお、オゾンホール縮小は、成層圏昇温でも起きる。つまるところ、科学的にはよくわからないといっていいだろう。そして、今後の動向もよくわからない。
 環境問題活動家のグレタ・トゥーンベリさんは、「30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいない」と国連で述べていたが、この30年のこの関連の科学については、まだよくわからないことは多いだろう。

 

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2020.04.20

「すてき」は死語か?

 「すてき」という言葉を聞かなくなって久しい。自分も使わない。ためしに、「まあ、すてき」と口に出してみると、なんともいえない、もにょ〜んとした感じがする。これは、もう死語なんじゃないか。なぜ死んだのか。と考え、まあ、完全に死んだわけでもなく、この微妙な「もにょ〜ん」感に生きているのかもしれないが、それはたぶん、受け手の感覚で、そうした感覚なく自然に使っている人もいるだろう。
 ニュースとかではどう使われているのかと、検索すると、おや? 日経新聞(2020/4/19 15:16)より。

金氏から「すてきな手紙」 米大統領、関係良好と強調
【ワシントン=共同】トランプ米大統領は18日の記者会見で、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長から「最近すてきな手紙を受け取った」と語り、良好な関係を維持していると強調した。内容や詳しい時期は明らかにしなかった。

 この検索過程で聯合ニュース(2020.04.19 22:09)を見かけた。

「トランプ氏に手紙送っていない」 北朝鮮が親書発言を否定
談話は「米メディアは18日、米大統領が記者会見でわれわれの最高指導者から『すてきな手紙』を受け取ったと紹介する発言を報道した。米大統領が過去に交わされた親書を回顧したかどうかは分からないが、最近わが最高指導部は米大統領にいかなる手紙も送っていない」と主張した。

 タイムスタンプから見ると、この「すてき」の用例は、共同を聯合が拾ったようにも思える。
 オリジナルは何か調べてみた。Daily Beast(参照)より。

Trump had said during a coronavirus press briefing on Saturday that “I received a nice note from him recently. It was a nice note. I think we’re doing fine.”

 「すてきな手紙」は「a nice note」だったようだ。ちょっと気になったのは、これ、普通、こう訳すだろうか? 参考までに自動翻訳にかけてみた。

Google翻訳
トランプ氏は、土曜日のコロナウイルスの記者会見で、「私は最近、彼から素晴らしい手紙を受け取った。 いいメモでした。 私たちはうまくやっていると思います。」

Bing翻訳
トランプは土曜日のコロナウイルス記者説明会で「最近彼から素敵なメモを受け取った。それは素敵なメモでした。私たちはうまくやっていると思います。

DeepL
トランプ氏は土曜日のコロナウイルスのプレスブリーフィングで「最近彼から素敵なメモを受け取った」と発言していました。素敵なメモだった。私たちはうまくやっていると思う"

みらい翻訳
トランプは土曜日のコロナウイルスの記者会見で、「私は最近彼から素敵な手紙をもらった。いいお便りでした。うまくいっていると思います。」と言った。

 意外と「素敵な手紙」が多い。共同がこうした自動翻訳を使ったとも思えないし、DeepLあたりは、Deep Learningを使っているだろうから、コーパス的に「素敵な手紙」が出てくるのが自然なのかもしれない。
 ただ、気になるのは、2点。まず、「すてき」ではなく「素敵」という表記だが、これはコーパスの反映だろう。共同は用語規範にしたがって、開いているはずだ。もう一点は、繰り返されている「a nice note」に同訳語を当てている自動翻訳とそうでないのがあることだ。この近い文脈というか隣接した文脈で訳分けしているのは、なぜだろうか?
 ところで、「a nice note」の元来の意味だが、これは画像検索してみるとわかりやすいが、日本語でいうと「手書きにメモ」ということで、Letterではない含みがある。トランプさんとしては、「公式じゃないけど、いい感じのコメントは得ているんだ」ということだろう。外交文脈としては「親書(Letter)」の授受があったかなかったかが話題になっていて、ここでは、Letterを避けたのではないか。
 話が英語にそれたが、日本語の「すてきな手紙」は、私の語感からすると、変な感じがする。この変な感は、「すてきな女性」「すてきな男性」とかにもあるだろう。たとえばこういう会話があるとする。

 A「彼はどういう感じの人でした?」
 B「すてきな男性でした。」
 A「お付き合いなさいますか?」

 さて、Bはその男性と付き合うだろうか? まあ、たぶん、しないだろう。「すてき」にはそういう語感があると思う。
 そういえば、主婦と生活社の雑誌『すてきな奥さん』が刊行されたのは1990年4月。「元気ミセスの暮らし充実マガジン」が生まれたのは30年前である。この時代の生活経験の記憶のある自分としては、バブル時代ですこし経済的に安定した当時の若い主婦層で、まあ、だいたい私と同い年くらいの女性だろうか。
 昭和期では、1960年に坂本九が歌った『ステキなタイミング』がある。原題は『Good Timin'』。そして、1962年にガイ・ウォーレン作曲『素敵なフィーリング』。原題は『That Happy Feeling』。インストゥルメンタルで流行したが。曲調がアフリカンなのが当時受けたのではないか。これらが当時の日本では「すてき」だった。
 昭和後期に「すてき」は一般社会に定着してはいた。当時の「すてき」の語感は、「まあ、すてき!」というあれである。そして、現代では、「まあ、すてき!」という言う人はいないだろう。と思って、言語の現場として、Twitterを検索してみると、意外にもそれなりに用例が見つかる。「すてきな週末」「すてきな一年」「すてきな友達」など。なるほど。これらは、同じく昭和後期、1969年から連載の『暮しの手帖』に『すてきなあなたに』という人気エッセイがあるが、この語感の連続にも思える。
 ちなみに、「すてきな週末」を他の類語として「すばらしい」で言い換えてみると、「すばらしい週末」となるが、若干変な感じがする。「よい週末」はありだ。
 どうやら「すてき」はまだ死語というわけでもなさそうだが、意味合いは微妙な感じがするし、なぜ、この微妙感が生まれてきたのか気になる。

 

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2020.04.19

自動翻訳と指示語の順序

 今朝がた、岩田健太郎先生の以下のTweetを見かけた。


条件をちゃんと読むべし CDC recommends wearing cloth face coverings in public settings where other social distancing measures are difficult to maintain (e.g., grocery stores and pharmacies), especially in areas of significant community-based transmission.

 ちゃんと読んでみて、特に違和感もなかったのだが、ふと、Tweetって言語を混ぜると自動翻訳はしないんじゃなかったかと思い、便宜になるかもと思い試訳をRTした。
 その際、TwitterについているBing翻訳だとどうなるのだろうかと思った。というのは気になることがあったからだ。やってみる。

元の英文
CDC recommends wearing cloth face coverings in public settings where other social distancing measures are difficult to maintain (e.g., grocery stores and pharmacies), especially in areas of significant community-based transmission.

Bing翻訳
CDCは、特に重要な地域ベースの伝達の分野では、他の社会的離脱対策(食料品店や薬局など)を維持するのが困難な公共の場で布の顔カバーを着用することをお勧めします。

 ついでに他の自動翻訳もあたってみた。

Google翻訳
CDCは、他の社会的距離を維持するのが困難な公共の場所(食料品店や薬局など)で布地のカバーを着用することを推奨しています。

DeepL
CDCは、他の社会的距離を保つことが困難な公共の場(例えば、食料品店や薬局など)では、特にコミュニティベースの感染が著しい地域では、布製のフェイスカバーを着用することを推奨しています。

みらい翻訳
CDCは、他の社会的距離測定法の維持が困難な公共の場(例えば食料品店や薬局)、特に地域社会を基盤とした伝播が著しい地域では、顔面を覆う布の着用を推奨している。

 翻訳の精度という点では、Google翻訳に訳抜けが起きているみたいだが、他は、どれが優れているかは、ざっと見た感じではわからない。が、語彙の点で、典型的だが、「social distancing measures」は「社会的距離」としておくとよいので、その点では、DeepLがいいようにも思う。
 さて、気になったのは、そういう細かい点ではなく、というか、細かい点かもしれないが、"where other social distancing measures are difficult"の"other"についてある。訳語としては、「他の」と当てて問題もないようだが、「何に対して他の?」と考えてみると、"wearing cloth face coverings"についてである。
 つまり、"social distancing measures"には、複数形で示されているように、いろいろな手法があり、そのひとつが、"wearing cloth face coverings"である。
 そこで、一例が示され、その後、「他」が現れるというのが英文の、情報提示順序になっている。英文はこう。

CDC recommends wearing cloth face coverings in public settings where other social distancing measures are difficult to maintain

 なので、訳語でも、この情報提示の順序を守らないと、意味がおかしくなる。別の言い方をすると、「他の」が訳文の前方に出てきて、その後方に、それを「他」とする対象が出てくると、「他」が何への「他」なのかわからなくなる。
 ということは、訳文でも、「布製のフェイスカバー」が提示されて、その後、「その他の」が出てこないと理解しづらい、というか、この順が異なる自動翻訳分は、読み返しを要請する奇妙な文になっている。
 ということで、試訳では、次のようにした。

CDCが、布製フェイスカバーの着用を推奨するのは、他の社会的距離を取ることが困難な公共の場(例えば、食料品店や薬局など)で、特にコミュニティベースの感染が著しい地域です。

 この訳文がいいとも思わないが、情報提示の順序としてはこうなるだろう。
 この種類の情報提示の順序と翻訳文の調性は、どのように行うべきなのだろうか?とも考えたが、文法範疇とも言い難いようには思えた。

 

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2020.04.18

尺取虫で考えた

 散歩して公園のテーブルで紅茶を飲んでいたら、3センチほどだろうか、小さな尺取虫がいて、思わず見とれてしまった。尺を取るように進む動作が、なかなかに、かわいい。手持ちのスマホで動画を取った。ここにアップロードしようかと思ったが、小さな動画でも、けっこう容量がでかいのでやめた。YouTubeにアップロードする気もない。
 娘に尺取虫って知っているかと聞くと知っているとのこと。なぜ「尺取虫」というか知っているかというと、なんかうざがっているふうなので解説はやめた。まあ、現代の若い人が知っていてもしかたないだろうし、どうせそんな知識、ネットに溢れているだろうと思って、試しに、検索してみた。おかしいのである。
 「尺取虫」がなぜこう呼ばれているかについての説明はある。指で尺を取る動作に似ているというのだが、そうした説明、書いている本人がちゃんと理解しているのだろうか。どうもこれらを書いている人たち、そもそも「尺」と指の関係がわかっているのだろうか? 
 と、「尺」を調べていたら、驚いた。漢字の「尺」という字形の由来は、開いた手の親指と人差し指(あるいは他の指かも)の長さを示す、というところまではいい。つまり、そもそも「尺」という漢字自体、指を開いて、長さを図っている絵からできた象形である。が、それらの解説に、「約30センチ」と書いてあるのだ。おいおい、よほど手のでかい人でも、開いた手の親指と人差し指の間が30センチということはないだろ? 説明書いていて疑問に思わなかったのか?
 ということで、まともな解説はないのかと検索しまくったのだが、見つからなかった。自分の記憶の知識のほうが間違っているんじゃないかという気にもなった。私が当然だと思い込んでいたのは、開いた手の親指と人差し指の間が15センチである。だから、これを一回尺取虫の動作をして二度目を繰り返すと約30センチの、1尺ができる。つまり、これが「尺が取れる」ということだと思っていたのだ。繰り返すことになるが、1尺を測るには尺取虫の動作が必要になる。実際には、その動作から尺取虫という名前ができたわけだが。
 考え込んでしまった。こうした私の思い込みが正しいのか、判然としないからである。
 それと、指尺という言葉も思い出した。現代で使われているだろうか? 使われているかというのは、着物を作るときに使っているかということだ。たぶん、ないだろう。
 「三界広しといへども、五尺の身の置き所なし」というか、「五尺」「五尺五寸」なんていう言葉の含みもなくなっているのだろう。「是がまあ終の住み処か雪五尺」の情感も通じないだろう。と、ふといやーな予感がしてWikipediaの「徴兵検査」を引いてみた。案の定である。

身長、体重、病気の有無が検査される。合格し即入営となる可能性の高い者の判定区分を「甲種」というが、甲種合格の目安は身長152センチ以上・身体頑健だった。始まった当初の明治時代では合格率がかなり低く、10人に1人か2人が甲種とされる程度だった。植芝盛平は身長が1寸たりず不合格となったが、嘆願を繰り返し熱意を見せたことや日露間の緊張の高まりを受け条件がやや緩和されたことから再検査で合格した。太平洋戦争末期では兵員の不足から、甲種に満たない乙種・丙種でも徴兵されることとなった。

 これ書いた人、わかって書いていたのだろうか。センチと寸が混じっているのは、複数の人が書いて混乱しているのだろうか。ただ、これ読んでも推測がつくだろうが、明治時代の徴兵検査では「1寸たりず」とあるのだから、尺貫を使っていた。とすれば、「152センチ」が尺貫法で何かくらい想像が付きそうなものでせめて注を入れるほうがいいだろう。5尺である。調べてみると、明治3年の太政官達 82 号の「徴兵規則」によるらしい。
 ついでなんで、畳は、地域によってサイズが違うが、概ね、3尺✕6尺である。「立って半畳寝て一畳」ということで、人が寝るサイズでもある。これが、「1間」でもある。
 尺貫法は廃れたが、一升瓶や2合炊きはまだ生きている、と思いたい。

 

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2020.04.17

ドラマ『この声をきみに』

 なんとなく見た。NHKの2017年のドラマ『ドラマ この声をきみに』。放送当時さほど気にもかけてなかったし、オンデマンドで見始めたときも、それほど期待していたなかった。が、とてもよかった。感動もしたし、いいドラマだったというのもあるが、それ以上に、人の声というものと、人の関係というものを考えさせるいいドラマだった。
 話の表層はそれほど複雑ではない。36歳の冴えない数学教師が家庭を顧みず妻から離婚を言い渡され戸惑うなか、ひょんなことから、朗読教室に通い、朗読というものと人の言葉の力に触れ、またそこでの人間関係や、若い女性講師と関わっていくことになるというもの。ネタバレはなしだが、当然の予想の展開を概ね外すものではない。が、昭和のドラマだっただら、昭和的な家族のハッピーエンドを描いちゃったかもしれないとは思った。そこは微妙に違った。単純なようで、複雑な情感をもたらすいいエンディングだったと思う。
 というあたりで、余韻もあり、この3月続編的な舞台『この声をきみに~もう一つの物語~』が予定されていたが、新型コロナウイルス関連で潰れたようだ。映像メディアにはなるらしい。そういえば、もとのNHKのドラマのほうも、DVDになっている。
 冒頭、「なんとなく」と書いたが、朗読ということは気になっていた。
 自分の人生、気になってやり残していることがいくつかあり、その一つの合唱は昨年から始めた。そうした気になっていることのすべては、残りの人生でこなすことはできないだろうが、そのもう一つに朗読はある。小説や詩などを朗読として読んでみたい。そんなこと簡単なことのようだが、たぶん、難しいのだろうという直感はある。まあ、朗読というのが気になっていたのだ。
 ドラマは、朗読の本質というか、あるいは声の魅惑というのを、とても上手に、まさに魅惑として伝えていた。そもそもこのドラマ、穂波孝を演じる竹野内豊の声を聞かせたくて作ったんじゃないか、しかも、『この声をきみに』という冴えないタイトルもまさにこの言葉を彼に一言言わせるためのものだったんじゃないかと思う。というくらいに、うまく当てていた。
 江崎京子演じる麻生久美子も、その声もよかった。声だけでとても多くのことを伝えていた。朗読教室の主催である佐久良宗親演じる柴田恭兵も、結果的によかった、とひねくれた言い方になるのは、そこはあまり期待していなかったからだ。老いた柴田恭兵というものをドラマの数回、なんか居心地悪いような気持ちで見ていた。東京キッドブラザースのまさにキッドが老いているというのに、うまく馴染めなかったのだ。
 このドラマのもう一つの魅了は、本だ。朗読と声というのの本質的な魅了に加え、絵本や詩集の美しさ、そこからさらに、そもそも本というものの美の感覚があった。それはとても懐かしい。手入れされた古書店の懐かしさでもある。ああいう書店が今でもあるのだろうかと思って、憧れのような気持ちで潤んだ。

 

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2020.04.16

「国家の重⼤局⾯」で複数の声はどのように可能なのだろうか?

 昨日、厚⽣労働省のクラスター対策班の北海道⼤学‧⻄浦博教授は、⼈との接触を以前の八割まで減らさないと、COVID-19の流⾏終息までに、⼈⼯呼吸器などが必要となる重篤患者は約85万⼈となり、また、その49%にあたる約42万⼈が死亡する、という推計を発表した。⻄浦教授は「今は国家の重⼤局⾯にさしかかっている。今のままではまずい」とも述べていた(参照)。
 驚くべき惨事の予測であり、しかも、感染症の専門家の予測なので、科学的に正しいものだろうと、まず思うが、驚きという印象に詳細が知りたいという思いも伴う。
 どのような推計かという点については、新型コロナクラスター対策専門家のTweetにある(参照)。
 説明を聞いていて、素朴な疑問が3点浮かんだ。
 ①R0=2.5の設定根拠は欧米での感染爆発からの推定値なのだが、なぜ日本の値を推定値に取らないのだろうか? おそらく、日本の推定値がわからないからだろうが、であれば専門家が推定すればいいのではないか。その日本の推定値がむしろ、日本の現状を説明するものであり、未来予測の基礎になるものなのではないか?
 ②実際に抑制するのは数理モデル上は60%だが、夜の街というハイリスクを抑制するためには、「少し多めに」ということでもう20%の抑制が必要だ、というのであるが、その20%というのはどうも数理モデルから出ているというより、専門家の勘のようにも思える。または20%についてなんらかの詳しい説明があるとしても、一義的な数理モデルによるのではなく、別の系のモデルに拠るのだろう。いずれにせよ、プライオリティは低いとなると、その数値は、政策のマターなのではないだろうか? もしそうなら、その政策についてのアカウンタビリティはどのように保証されているのだろうか? ここにこだわるのは、政策のマターであれば、その抑制によって被る社会経済的な損失が、感染症の専門家ではなく、政策的に決定されるべきだからだ。
 ③これでいったん感染爆発を抑え込んでも、周期的に感染拡大は発生すると思うが、そうした周期性については、どうなのか? 毎回、同様の行動制限を行うのがよいのだろうか?
 という疑問が浮かんだのだが、誤解されないように、と願うのだが、それを私はブログで声高に主張したいわけではない。率直に言えば、その疑問は、飲み込んでいる。主張する気はない。なぜかというと、そうした疑念を市民が提示する意義や価値がよくわからないからだ。
 そして、もう一つ、疑念を飲み込むのは、そういう疑念の主張をして、自分がバッシングされるのはやだなあという思いである。私は戦時下にいて、戦争が負けるとわかっていても、たぶん黙って過ごしていただろうという臆病な人間である。
 ただ、それでも原則的にではあるが(アーレントの言うように)、社会というものには、常に複数の意見が存在すべきなのではないかという思いもわく。特に、今回の西浦教授の説明には、「今は国家の重⼤局⾯」という言葉が出てくるのだが、それはほぼ欧米圏(フランスや英国や米国)における「戦争」のメタファーのようにも聞こえて、慄えるものがある。
 そんな思いでいてランセット掲載のエッセイ"Offline: COVID-19—bewilderment and candour"を共感して読んだ(参照PDF)。
 前半はCOVID-19の現場からのメッセージが興味深い。次のコメントはその中核にある。

As deaths accumulate, the early message that severe acute respiratory syndrome coronavirus 2 causes mostly a mild illness has been shown to be dangerously false.

  死が累積するにつれ、SARSコロナウイルス-2が引き起こす病気の大半は軽度であるとする初期のメッセージは、危険なほどに虚偽であることが示されてきた。

 後半の「戦争」のメタファーが興味深いものだった。

War metaphors are powerful political and emotional instruments that grip public attention and are widely understood. They create a sense of fear, threat, and urgency: we are engaged in a fight against an evil enemy. A war means that sacrifices have to be made—in the case of COVID-19, restrictions to our freedoms. And, in a war, there is a sense that we have to unite, to forge an unprecedented alliance, to look forward not back, to create one national effort.

戦争のメタファーは、世間の注目を集め、かつ広く了解されている強力な政治的にして感情的な道具なのである。それは、恐怖、脅威、緊急性の感覚を作り出す。それは、「私たちは邪悪な敵との戦いに従事しているのだ」という感覚だ。戦争が意味するのは、犠牲の必要性であり、COVID-19の場合は、私たちの自由への制限である。そして、戦時に感覚が強いることは、団結せよ、前例のない同盟を形成せよ、後ろではなく前を向け、一つの国家的な努力を作り出せ、ということだ。

For those who believe now is not the moment for criticism of government policies and promises, remember the words of Li Wenliang, who died in February, aged 33 years, fighting COVID-19 in China—“I think a healthy society should not have just one voice.”

現在は政府の政策と約束を批判する時期ではないと信じている人々は、COVID-19と戦い、2月に33歳で中国で亡くなった、李文亮の言葉を思い出してほしい。「健全な社会というものは、ただ一つの声だけを持つべきではないと思う」。

 おそらく、複数の声を許容しつつ協調するにはどうしたらよいのかという問いなのだろうが、そこに答は見いだせそうにはない。

 

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2020.04.15

"screw the pooch" は自動詞か?

 昨日の話の続きのようでもあるが、"screw the pooch" は自動詞か?というのが気になった。もちろん、自動詞であるはずはない。Wiktionaryにもidiomaticとあり、熟語ではある。が、同時にVerbでもあり、一般書ではあるが、"Power Verbs: The Complete Collection" でもverbの扱いになっている。つまり、動詞として扱えはする。
 Your dictionaryというサイトには、次のような説明もある。このサイトが言語的とは言えないだろうが。

screws-the-pooch
Verb
third-person singular simple present indicative form of screw the pooch

 いずれにせよ、動詞として扱われているのであれば、自動詞か他動詞かというのは問えるのだから、先の疑問も成立しないこともないだろう。
 これはどういう文法現象なのだろうか?
 Wiktionaryには、意味の説明として次のようにあるが……

(idiomatic) To screw up; to fail in dramatic and ignominious fashion.

 これは、意味説明と同時に、文法的な対応も結果的に示しているのではないだろうか。つまり、"screw the pooch"は、screw up やfail inと意味的に言い換えられるし、文法機能的にも同一機能なのではないか?
 そこでこのscrew upだが、Merriam Websterだと、自動詞と他動詞の用例が説明されている。

We all screw up from time to time, so don't sweat it.
You've totally screwed up the spreadsheet.

 これを構文的に借りて、次のようには言えるだろう。

We all screw the pooch from time to time, so don't sweat it.

 しかしそれでも、他動詞的には言えないはずだ。
 そこで、fail inから連想するのだが、まずこの動詞句は次のように使える。

He will not fail in the examination.

 おそらく、構文を借りて次のようにも言えるだろう。

He will not screw the pooch in the examination.

 用例を探すと、"He screwed the pooch in couple of important areas."というのが見つかるには見つかる。ただし、こうして他動詞的に使う用例は一般的ではないかもしれない。
 話が散漫になるが、fail という動詞自体に、自動詞と他動詞があり、一般に違いは、固定化され、かつ意味の差として説明されやすい。

He failed the exam.
He failed in the exam.

 他動詞は「試験に落ちた」、自動詞は「試験で失敗した」ということだ。
 ここで興味深いのだが、failの他動詞には、次の用法もある。

He won't fail you.

「君を失望させないだろう」という意味ではるが、この他動詞用法の目的語のyouは、目的格ではなく、与格だろう。ドイツ語と比較してみる。
 例えば、

Words fail me.(言葉もない)

 は、ドイツ語では、

Mir fehlen die Worte.

 fehlenは自動詞である。
 とすると、おそらく、英語のfailの人称代名詞を目的語として取る動詞も、実は、というか、歴史的には、自動詞なのではないか?

 何を言いたい記事なのか曖昧になってきたので、とりあえず、まとめ。
 英語動詞における自動詞と他動詞は、形態に固定した特性ではなく、なんらかの上位の意味が要請する文法構造から投影されているのではないか?という疑念である。そうなら、こうした現象は英語が、ピジン語的な性質(屈折がなく意味が優先される)に寄っているからなのではないか?

 

 

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2020.04.14

"He screwed the pooch."を自動翻訳させてみた。

 ほんの出来心だった。"He screwed the pooch."を自動翻訳させてみた。うーむ、こうなったのだった。

Google翻訳
He screwed the pooch.
彼は犬をねじ込みました。

Bing翻訳
He screwed the pooch.
彼はうんちをねじ込んだ。

Excite翻訳
He screwed the pooch.
彼は犬をねじ止めした。

みらい翻訳
He screwed the pooch.
彼はその犬をねじった。

DeepL翻訳
He screwed the pooch.
彼は犬を騙した。
(彼は犬とヤッたんだ。)

Cross-Transer
He screwed the pooch.
彼は、犬をねじ込みました。

 まあ、そうなるかなという結果だが、もしかしたらという期待もあった。
 ちなみに、”screw the pooch”は、熟語で、意味は、と、英辞郎を引いたら載ってなかった。え? Weblioも見たが載ってなかった。が、こちらは、Wikitionaryへの参照があった。イディオマティックな動詞ということになっている。

Verb
screw the pooch (third-person singular simple present screws the pooch, present participle screwing the pooch, simple past and past participle screwed the pooch)
1. (idiomatic) To screw up; to fail in dramatic and ignominious fashion.

 語源もあった。

1950s, from earlier fuck the dog (“fritter, waste time”) (1935) (compare fuck around), later sense of “make an embarrassing mistake” (compare screw up, fuck up). Popularized by use by Tom Wolfe in The Right Stuff (1979), and film adaptation The Right Stuff (1983).[1]

 なるほど、と、これを訳して解説していいものか悩むところだが、現在の意味は、“make an embarrassing mistake”ということなので、日本語的には、「ドジ踏みやがって」「下手打った」あたりだろうか。
 そして、この語源を見ていくと、言い回しの元では、dogがあったようなので、dogの言い換えで、poochが出てきたようだ。
 ああ、poochかあ。
 こちらは、辞書に載っている。「犬」の俗語である。Merriam-Websterにも載っていると見ていると、screw the poochも載っていた。

screw the pooch
US slang
: to botch an activity or undertaking : SCREW UP
He's a little cocky, but he's not about to screw the pooch.
— Douglas M. Bailey
Such is life. Sometimes you score big, and sometimes you screw the pooch.
— Greg Jerrett

 ということで、screw upの同義としている。これは、洋ドラにやたらよく出てくる。"OMG, I totally screwed up."とか。他動詞的な用法もある。

 さて、このpoochなんだが、なぜ、犬? というのが語源的にわからず、調べると諸説ある。
 日本語大辞典で「ぽち」を引くと、捕注に、語源として、《(イ)英語でspotty、(ロ) 米語でpooch(俗語、犬の意)、(ハ)フランス語でpettit (小さい意)からと、諸説ある》とある。調べると、ドイツ語のputz説もありそうだが、よくわからない。
 が、同辞典に明治30年代、40年代に流行した、とある。
 思いつくのは、唱歌『花咲爺』である。

うらのはたけで、ポチがなく、
しょうじきじいさん、ほったれば、
おおばん、こばんが、ザクザクザクザク。

 1901(明治34)年の『幼年唱歌(初の下)』で発表。曲は田村虎蔵、詞は石原和三郎である。年代的には、日本語大辞典にある時代ときちんと重なる。もしかすると、この唱歌で、「ポチ」が定着したのかもしれない。
 というところで、変なことを思い出した。以前、誰からから、「ぽち」って"fetch"が語源じゃないのという話を聞いたことがある。
 まあ、「ぽち」の語源もわからない。
 ってなことを調べていたら、『犬たちの明治維新 ポチの誕生』という本があるのを知る。読んでみるかな。

 

 

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2020.04.13

音の歪んだ世界

 先日、Zoomの設定とチェックをしていて、音質が悪いなあと思った。別段、そんなものかとは思うのだが、MP3に圧縮かけ過ぎたような感じで、まあ、同じ原理の圧縮だしなあと思い、そういえばあの圧縮は心理的なものだったなと思い出す。以前、坂本龍一が音楽はMP3ではだめみたいなこと話していたようにも思い出した。エンコーダでもいろいろ違いがあったな。最近ではハイレゾの配信もあるみたいだが、どのくらい普及しているのだろうか。そもそもイヤホンとかでハイレゾのメリットがあるのだろうか。
 CDが出てきたころも似たような話題があった。LPと音が違うというのだ。けっこうとっぴな議論もあったようだが、とんと聞かなくなった。
 自分はというと、私は、荒井由実・松任谷由実のファンで、LPからカセット、CDという変遷でその音を聞いていたのだが、CDで聞き直したときは(特に『PEARL PIERCE』)、へえ、こんな音入っていたんだとか、音の左右の動きに驚いたものだった。
 その後もLPの音がいいという話や、近年のカセット復権みたいのも、なんだろう、どこかわからないでもない。もしかすると、ある種のノイズが音楽を自然にしているんじゃないだろうか。
 宇多田ヒカルではCDから配信の切り替えを体験した。配信だとかなり音が悪いのでCDを買って圧縮をあまりかけずに聞いていた。彼女もけっこういろんな音を混ぜるので、再生環境が変わると別の曲のように感じられる。が、最近は、むしろ、配信のほうが聞きやすいように思えてきた。耳が老化しているのかもしれない。
 ってな連想が止まらず、そんな話を人として、そういえば、一般人、というのも変だが、普通の人って自分の声ってメディア通してのに聞き慣れてないでしょと、いうことで、スマホで実験して、ちょっと人に嫌な思いをさせてしまった。自分はというと、けっこうこれに慣れてはいる。というところで、スピーカーを変えて試していたら、それ、声違うよと言われた。つまり、自分の声でも媒体によって変わってしまうわけだ。それはそうだな。
 そこでまた連想することがあった。最近、NHK Plusを入れて、普通のラジオのように聞いていることが多いのだが、『らじる』より聞きやすいのである。NHK Plusのほうが帯域が広く、高音が維持されるからだろう。あれれ、自分の耳は老化していたんじゃなかったか。
 『らじる』でもそんなに帯域が狭いわけでもないだろうと思うから、メディアの作り手側の音の感覚によるんじゃないかとは思う。ああ、そうでもないかな。RadikoのFM放送では、HE-AAC 48kbpsのステレオなので、FM放送と音質に差して違いはなさそうに思えるが、体感としては違う。
 電話はどうかと思い出す。帯域が狭くて、鈴虫の声は聞こえない。っていうのを昔、『トリビア』でもやっていた。今はというと、ああ、セルプだったな。まあ、その説明はここでは省略。
 それにしても、現在世界に暮らしている私たちにとって、音というのはなんだろう。本当との音というのがあれば、この世界の音の多くの音は歪んだ音なのだろうか。脳はそれをどう捉えているのだろうか、と考えて、むしろ、脳の意味志向がこの歪んだ音の世界を欲したとも言えるのだろうなと思い至って、沈黙。

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2020.04.12

パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』をまだ「向こう側」に感じる

 イタリアの小説家(物理学博士でもある)パオロ・ジョルダーノによるエッセイ『コロナの時代の僕ら』が、4月24日に発売されるが、それ以前に、緊急事態宣言が出された現在、日本において広く読まれるべき、として、noteに特別公開(12日19時まで)されていた(参照)。読んだ。
 懐かしい奇妙な感覚がした。若い日に悩んだ離人症的な世界の感覚である。それは風景の透き通った「向こう側」あるという感覚である。
 日本でも新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の問題が社会的に深刻化され、緊急事態宣言も出され、人々が外出を実質禁じられ、日常の風景まで変わったようでいながら、それでも、メディアを通してイタリアやアメリカなどを見ていると、まだまだ対岸の火事のように思えてくる。だから、「向こう側」なのかというと、そういうことではない。むしろ、今その「向こう側」にすっぽり包まれているのに、なぜか実感できない、という感覚に近い。
 パオロの声が私に、「向こう側」から聞こえるかのようだった。

 ところがSARS-CoV-2のやり方はもっと大胆だった。そしてその無遠慮な性格ゆえに、僕らが以前から知識としては知っていながら、その規模を実感できずにいた、ひとつの現実をはっきりとこちらに見せつけている。すなわち、僕たちのひとりひとりを──たとえどこにいようとも──互いに結びつける層(レイヤー)が今やどれだけたくさんあり、僕たちが生きるこの世界がいかに複雑であり、社会に政治、経済はもちろん、個人間の関係と心理にいたるまで、世界を構成する各要素の論理がいずれもいかに複雑であるかという現実だ。
 この文章を僕が書いている今日は、珍しい2月29日、うるう年の2020年の土曜日だ。世界で確認された感染者数は8万5千人を超え、中国だけで8万人近く、死者は3千人に迫っている。少なくとも1カ月前から、この奇妙なカウントが僕の日々の道連れとなっている。

 「ひとつの現実をはっきりとこちらに見せつけている」のに私はそれが「向こう側」にあるように見えてくる。その感覚。
 「向こう側」からの声は、偽預言者たちが審判の日を声高に語ることと、まったく逆である。「向こう側」が「いつか」「必ず」「こちら側」に来る、ということではない。それは、そのままにそこにあるのだ。世界はもうすでに変容してしまっているのに、「こちら側」はまだ気が付かない。
 パオロ・ジョルダーノには、その明晰な意識があるようだ。

読者のみなさんがこの文章を読むころには、状況はきっと変わっているだろう。どの数字も増減し、感染症はさらに蔓延して世界の文明圏の隅々(すみずみ)にいたるか、あるいは鎮圧されているかもしれない。だが、それは重要ではない。今回の新型ウイルス流行を背景に生まれるある種の考察は、そのころになってもまだ有効だろうから。なぜなら今起こっていることは偶発事故でもなければ、単なる災いでもないからだ。それにこれは少しも新しいことじゃない。過去にもあったし、これからも起きるだろうことなのだ。

 それは、本当は「向こう側」にあるのではないし、「こちら側」にあるわけでもない。私たちが、私たちの意識によって世界というものを対象的に遠隔化したいという、ある欲望とその幻滅の予感にある、この今の新しい現実なのだろう。
 それはもう一面においては、彼も記しているが、専門家やメディアというものとの距離にもある。その距離の感覚もまた、いま現在、日本人をも覆っている。

 

 

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2020.04.11

CEFRには英語の位置付けが暗黙に隠されているのではないか

 ひらめきというのとも違うのだろうが、特に脈絡もなく、「あれ?」と気がつくことがある。最近のその一つが、CEFRには英語の位置付けが暗黙に隠されているのではないか、ということだった。当たり前のことなのかもしれないが、少し書いてみたい気がする。
 CEFRとは、Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessmentのことで、「外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠」という定訳語がある。
 ちなみに、フランス語だと、Cadre européen commun de référence pour les langues なので、CECRLになる。どういう発音になるか動画をあたってみると、まあ、それっぽい発音というか、Cecrel のようだが、ネットを見ていると、"Comme ce ne peut être un acronyme, ce sigle se prononce à mon sens lettre après lettre : C.E.C.R.(L.).” というコメントもあった。ついでなんでドイツ語に当たると、Aufgaben des Gemeinsamen Europäischen Referenzrahmen für Sprachen (GER)、のようだ。まあ、いずれにせよ、CEFRというふうに呼称として定着しているわけでもなさそうだ。
 CEFRとは、ということで、簡易に日本語のWikipediaを借りると、次のようにある。

ヨーロッパ全体で外国語の学習者の習得状況を示す際に用いられるガイドライン。1989年から1996年にかけて欧州評議会が「ヨーロッパ市民のための言語学習」プロジェクトを推進した際に、ヨーロッパ言語共通参照枠がその中心的な役割となった。ヨーロッパ言語共通参照枠の目的は、ヨーロッパのすべての言語に適用できるような学習状況の評価や指導といったものの方法を提供することである。

 間違いではないが、日本語のWikipediaではすぐに、共通参照レベルの話題に移っている。言うまでもないが、大学入試改革とも関連があるからで、それついての説明もネットを探ればいろいろ出てくるだろう。
 CEFRの原義からすると、共通参照レベル自体より重要なことは、「ヨーロッパのすべての言語に適用できるような学習状況の評価や指導といったものの方法を提供すること」なので、その、いえば、implementationが問われるわけで、逆に言えば、日本の語学ご教育には、これが問われていない。
 フランス語のWikipediaを見ると、冒頭段落に、次のようにある。

En France, ils sont repris dans le code de l'éducation comme niveaux de compétence en langues vivantes étrangères attendus des élèves des écoles, collèges et lycées.

フランスでは、それらは学校、大学、リセの生徒に期待される現代外国語の能力のレベルとして教育規範に含まれている。

 つまり、共通参照レベルはそもそも教育システムへの implementation時の規範なのである。日本でいうなら、中学校卒業で第一外国語はA2レベルにする、といったところだろう。また、いわゆる上位レベルの大学入試ならB2くらいだろうか。というあたりで、すでに轍にはまるわけではあるが。
 それで、そもそも論で重要なことは、そもそも外国語教育とは何かということであり、CEFRはその答えの一つであった、ということだ。日本ではどうかと、文科省の資料(参照)をあたってみたのだが、私には理解できなかった。改革という視点では次の記載があった(参照)。

 社会の急速なグローバル化の進展の中で、英語力の一層の充実は我が国にとって極めて重要な問題。
 これからは、国民一人一人にとって、異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。今後の英語教育改革において、その基礎的・基本的な知識・技能とそれらを活用して主体的に課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育成することは、児童生徒の将来的な可能性の広がりのために欠かせない。
 もちろん、社会のグローバル化の進展への対応は、英語さえ習得すればよいということではない。我が国の歴史・文化等の教養とともに、思考力・判断力・表現力等を備えることにより、情報や考えなどを積極的に発信し、相手とのコミュケーションができなければならない。

 正直、何を言っているのかよくわからない。おそらく要点は、「国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべき」ということなのだろうが、それって、個々人の英語教育とは直接関係ないことではないだろうか。産業という点であれば、社会人全体のあり方として論じるべきだろう。
 話を戻して、CEFRはどうか?
 日本語のWikipediaでは論点とされていないが、「ヨーロッパ市民のための言語学習」が基本にあることはわかるだろう。そして、それなりにきちんとした資料に当たると、plurilingualism (参照)という考えがコアにあることがわかる。注目したいことは、それが、multilingualismではないことだ。欧州議会の資料にはこうある。

Plurilingualism vs multilingualism

Multilingualism
“the knowledge of a number of languages, or the coexistence of different languages in a given society.
Attained by:
diversifying the languages on offer learning more than one foreign language, reducing the dominant position of English”

Plurilingualism
• switch from one language or dialect to another
• express oneself in one language and understand the other
• call upon the knowledge of a number of languages to make sense of a text,
• recognise words from a common international store in a new guise
• mediate between individuals with no common language
• by bringing the whole of their linguistic equipment into play
• experiment with alternative forms of expression in different languages or dialects,
• exploiting paralinguistics(mime, gesture, facial expression, etc.)
• radically simplifying their use of language

 Multilingualismは、ぶっちゃけた話、英語を主要言語にするのを阻止しようということだろう。日本と表向きは正反対のようではある。
 対して、Plurilingualismの意味は、ごちゃごちゃしていてよくわからない。が、手話も含まれていると見てよく、要は、他者と他者の言語で通じあえることなのだろう。
 おそらく、それゆえに共通参照レベルが組まれているものであって、本質的にはAcheivementの指標というのではないだろう。
 で、冒頭にもどるのだが、EUの世界は、なんといっても、共通語として英語を使わざるを得ないがそれはEUの他の言語のなかの一つとして総括されるものだ、という一種の哲学があるのだろう。
 別の言い方すれば、EUの市民であることは、母語が話せて、もう一つ外国語が話せて(つまりは英語だろう)、そこからさらに、もう一つ外国語(手話を含め)て学習し続けることで、他者の言語と他者の文化に開き続けるということなのだろう。人間のあり方(生き方)そのものに関わる。
 それは、現在日本の、英語ができたら国際人、という風潮とまったく逆の方向にあるのだろう。

 

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2020.04.10

[書評] 古代スラヴ語の世界史(服部文昭)

 『古代スラヴ語の世界史』は、なんだろうか、一言でいえば、「興味深い」書籍だったということになるのだろうが、そこで少し口籠るものがある。この本を読むのは誰なんだろう?というような関心もわく。
 ググってみた。朝日新聞に書評が載っていた(参照)。書評したのは出口治明さん。ああ、この本について、世界史の側面でこれ以上の書評が書ける人はいないだろう、と思うし、まさに、世界史的な側面においてはそうだった。ただそれでも、なんだろうか、ある種、微妙な感じもした。もちろん批判という意味ではない。

 「初めに言があった」。ヨハネによる福音書の書き出しだ。言葉は文化でもある。本書は古代スラヴ語から読み解く東ヨーロッパの歴史である。私たちにはなじみの薄いスラヴ人の世界がよくわかる好著だ。
 古代スラヴ語とは9世紀後半から11世紀末にかけて当時のスラヴ人が文章語として聖書の翻訳や宗教的活動に用いた言葉だったという。現在のチェコ東部に建国されたモラヴィア国の君主が862年、東フランク王国の干渉を排除しようと、東方のビザンツ皇帝にキリスト教主教の派遣を請うた。そして派遣されたギリシア人兄弟の弟コンスタンティノスが、それまで文字がなかったスラヴ語の文字体系グラゴール文字を考案したのが始まりだった。

 どこにも読み違いはない(ただ「初めに言があった」の理解は違うようには思うがここでは関係ない)。ただ、古代スラヴ語が文章語だったというとき、文章語を通常の言語に近いものと見なしているのではないかという気がかりなようなものを感じた。もちろん、文脈が「グラゴール文字」に結ばれているので、誤解されているとも思わない。
 微妙なのは、この「文章語」である。本書では、literary languageとされていて、言語(Langage)のようにも思える。が、これは、例えば、Wikipediaを見ると、こうある。

The understanding of the term differs from one linguistic tradition to another, and is dependent on the terminological conventions adopted. Notably, in Eastern European and Slavic linguistics, the term "literary language" has also been used as a synonym of "standard language".

 つまり、言語学派によって理解が異なるうえ、どうやらそもそもスラブ語言語学に特有な言い回しのようだ。ただ、これをWikipediaのように、"standard language"とするのも、注があるとはいえ、さらに微妙な感じがする。ただ、これは、本書で言う「規範的言語」に対応するだろう。
 私の知る限り、ソシュールの一般言語学的な考えからすると、このliterary languageというのは、書記体系(writing system)のことであって、 言語(Langage)というものではないように思える。
 関連して言えば、Wikipediaでのこの指摘が呼応する。

A literary language is the form of a language used in its literary writing. It can be either a non-standard dialect or standardized variety of the language. It can sometimes differ noticeably from the various spoken lects, but difference between literary and non-literary forms is greater in some languages than in others. Where there is a strong divergence between a written form and the spoken vernacular, the language is said to exhibit diglossia.

 私の理解から簡単に延長するなら、通常、古代語の研究は、中国古代語の研究がそうであるように、音価のシステムの再構成が重要になる。
 が、この古代スラヴ語というのは、そうではない。
 むしろ、聖書というWritten textの政治性と歴史の問題でもある。端的に言えば、キリスト教史と民族の交錯において、書かれた文書である聖書など宗教文書がどのように政治・宗教的に機能したかということだ。
 こうしたことは、本書においては、次のようにも指摘されている。本書内では明晰に説かれている。

言い換えれば、古代スラブ語は日常生活の中で使われる言葉ではない。その意味では、古代スラブ語は、ロシア語、ブルガリア語、チェコ語といった現代のスラブ諸言語とは、果たす機能が異なるのである。

 また先の私の指摘は次の部分で対応するだろう。

このように古代スラブ語はスラブの民衆が自発的に求めたものではない、統治者、為政者の都合によって制定されたものであった。それゆえ、この古代スラブ語の盛衰を辿る際には、ただ単に言語としての側面に限ることなく、スラブ人の国々の盛衰が直接に関わってくるのである。したがって、本書では、古代スラブ語の成立やその移り変わりをスラブ人やその国家の盛衰と絡めて述べていくことになる。

 本書のそうした視点・方法論は実に明晰で示唆深い。
 他方、古代語としてのスラブ人の言葉としては、スラブ祖語とスラブ諸語の関係でコラムで説明がある。
 話が錯綜するが、文語として古代スラブ語を想定すなら、またそれが規範的な言語であるなら、西欧世界における文語としてのラテン語と俗ラテン語のような関係になりえなかったのはなぜか?という問題にもなる。が、当然、この問題は疑似問題で、つまるところ、それが西欧世界におけるキリスト教のあり方に関わるからだろうし、東方教会のあり方との差異にもなる。
 つまるところ、書き言葉の言語というもは、それ自体が政治的な意味合いを持つものであり、東洋世界では、漢字という書き言葉(書記体系)がそれをになっていた。また、英語でも古英語として、しばしば、古代英語の言語的な側面で言語として扱われがちだが、実際には、『べオルフ』や『アングロサクソン年代記』のように教会のなかで書かれた書記言語でもある。
 言語学はソシュールの一般言語学的な原理から、音価の体系として議論されてきたが、実際の言語はその政治性において書記体系からの影響も受ける。つまり、音韻変化や言語運用における語義の変遷だけではなく、政治体制と文書によっても変化しうる何かである。というか、ルータ聖書がドイツ語を作り、ティンダル聖書からAVが英語を作り出したことを考えれば、当然かもしれない。
 そうした書き言葉としての言語の側面を、「古代スラブ語」研究が、結果的によいモデルとして明らかにしている、という点で、本書は、言語学の側にも、日本語で読める文献として貴重なものになっていたと思った。

 

 

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2020.04.09

アニメ『イエスタデイをうたって』の一話目でスイッチが入る

 アニメ『イエスタデイをうたって』が今季のアニメに入っていて、なんとなく見た。オープニングの時点で、ああ、スイッチが入ってしまった、と思った。僕は、若い頃を甘酸っぱく思い出してその情感に浸るというのはしない。若い頃聞いた曲とかもそれほど聞かない。嫌なのだ。が、なぜ嫌かというと、スイッチが入って懐古モードになってしまうこともあるからだ。だが、入ったなあ。
 ウォークマンがいけない。大学は卒業したが就職できずコンビニバイトしているフリーターの魚住陸生がウォークマンをしていた。懐かしすぎる。あれが出たときの感動を思い出す。友人も興奮していた。すごいよ、これしていると、日常生活が映画のシーンみたいになるんだ、と。それは革命的なほど生活の感覚を変えるものだったのだ、当時。いつ? 1979年。40年ほど前というか、昨年復刻モデルとか出てたな。
 アニメのそれは本体は初期モデルに似ている。ヘッドホンはオレンジ色なので二代目のそれだろうか。発売は1981年。僕が大学を出た年にして入院。そのころまだ初代はけっこう使われていた。というようなことから察するに、アニメ『イエスタデイをうたって』の時代設定はせいぜい1985年くらいだろうか。
 アニメのコンビニの控室にはパソコンもあった。事務用に使うパソコンだろうというか、これはPC-98、一択なのだが、PC-98もいろいろあるし、事務用に普及したのはいつだったか?
 初代PC-9801は1982年。外部装置はなく、NEC漢字が使えるダム端としても機能していた。NEC漢字はPC-VANで使えた。PC-VANが始まったのが、1986年。ASCII-NETは前年から始まっていた。僕はnovel-sigのsigopをしていた。マシンはPC-88系を使っていた。1985年はPC-8801mkIISRである。あのころ、世間でPC-98が事務用に使われていたか? まだだったように思う。Lotus 1-2-3の日本語版は1986年に出いたが、PC-98にのっかったのは翌年。アニメの時代設定としては、1989年くらいだろうか。ウォークマン本体と時代が擦り合うかなのだが、魚住陸生は大学生のころから使っていたという含みはあるだろう。その後もフリーターで使っていたとすれば、1988年か1989年あたりの設定でもいいかもしれない。その他、安下宿と貧乏学生からフリーターの風景としては『スピリッツ』の『めぞん一刻』が連想される。あれが終了したのは、1987年。ついでに『モーニング』の『寄生獣』連載が1988年。
 さて、作品の原作の『イエスタデイをうたって』だが、1998年『ビジネスジャンプ』からの連載。以上のように考察したアニメの時代風景からすると10年が経っている。さて、この物語は、発表当時から10年前の物語だったのか?
 タイトルの『イエスタデイをうたって』は言うまでもなくRCサクセションの1970年の歌だがシングルB面で、広く知られるは1982年アルバム『HARD FOLK SUCCESSION』の収録からか。オムニバスでは1989年『極東ロック・レア・トラックス』なので、原作漫画への影響はこのあたりからではないか。Wikipediaによると、原作漫画のタイトルは編集部からの依頼らしい。編集部側の思い入れがけっこうあったのではないかというのと、その思いれのコアの時代が1988年くらいだろうか?
 というあたりで、すごく迂闊だったのだが、僕はこの漫画の愛読者ではない。というかまともに読んだことない。アニメと原作の差異も気になるので、さらっとKindleに落として読んでみた。
 ウォークマンもPC-98もないです、原作に。
 たははと思ったが、まあ、スイッチ入っちゃったんだからしかたない。
 原作を見直すと、基本的にアニメとよく整合されている。野中晴のキャラデザはイメージが原作をよく活かしている。魚住陸生のキャラはずれがあって、『月刊少女野崎くん』。森ノ目榀子のキャラデザは原作を活かしている。声がざーさんなんだなと思った。『宝石商リチャード氏の謎鑑定』でも思ったが、花澤香菜もお姉さんキャラになってきたなあ。やや解離性同一性障害的な印象を上手に出しているというか。
 原作を踏まえアニメの、時代設定な考察で言えば、ウォークマンやパソコンより、風景や風俗が重視されるだろう。ファッションや眉毛の濃さとか。魚住陸生のダッフルコートは印象的だった。ダッフルコートというと村上春樹を連想するが、彼も書いているように好む人と流行の波がある。原作時代、1998年にはさほど違和感はなかったのだろう。
 野中晴は、アニメでは隠されているが原作ではタバコを吸っている。18歳の少女がタバコを吸うというのは、1998年としてはまだ違和感はなかったのだろう。というか、タバコが作り出す人間の関係がまだ色濃い。
 原作では、陸生はガスを止められていてその挿話があるがアニメにはない。現代では通じない感覚だろうか。
 風俗や風景を想起しながら、そういえば何かを忘れているなと思っていたが、ATGだな。作品の質感が時代にもよるのかATGに近い。というか、ATGは年代幅が広い。基本、1980年代だろうか。1981年の大森一樹監督『風の歌を聴け』あたりの女の子の描き方の感覚に原作も似ているように思う。ただ、70年代のATGのようなエロス性はない。
 『イエスタデイをうたって』を全部読んだわけではない。アニメは多分1期で半分くらいではないか。アニメが終わったら原作を通してみるかとも思うが、80年代のエロス性の感覚はなさそうに思う。
 80年代というとバブルでイケイケの印象が作られているが、渦中の青春の風景としては、エロス性に乏しい時代であったと思う。そして今の若い子に通じないのだが、バブル時代も普通の若者は貧しかった。恋愛が貧しいという感じだった。ただ、その貧しさは戦後の貧しさとも現代のそれとも違うが。

 

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2020.04.08

ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』

 NHKのドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』を見た。最近見たドラマのなかではサイコーだった。Netflixに売って全世界で放映してほしいと思った。
 放送時に話題だったのは知っていたが、なんとなく見逃してしまった(録画のタイミングを間違えた)。以降気になっていたが、先日、NHK Plusを入れ、ついでにNHKオンデマンドを入れたらこっちにあったので見た。全8話。30分物なので軽く見られる。
 話のきっかけは、こう。腐女子であることを隠している高校三年生女子・三浦紗枝がたまた書店でBL本を買っているところを、同性愛者であることを隠している同級生男子・安藤純に見られ、これがきかっけで紗枝が告ってしまう。が、「普通」の恋愛にはならない。様々な葛藤と友情のドラマ、と言ったところ。これに、ロックバンドThe Queen(特にフレディ・マーキュリー)の挿話と音楽が上手に絡み合う。
 NHKでのタイトルは「腐女子」が強調されているが、そこはそれほど深く掘り下げられているふうではない。原作『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』と「ホモ」が出てくるのだが、この用語がNHK的にアウトだったので変更したようだ。
 ドラマでまず素晴らしいのは、安藤純を演じている金子大地。この演技だけで、腐女子とゲイはご飯三杯は行けてしまうのではないか。それに年上の恋人・佐々木誠を演じる谷原章介も、ごちそうさまですな感じだ。二人は、ゲイの感覚を上手に表現していたように思う。
 他方、三浦紗枝を演じる藤野涼子だが、このドラマの配役として申し分ない以上に上手にこなしていて、これ以上の演技ができそうな女優が思いつかないのだが、腐女子の腐り感が滲んでこない。うーっ、これはやばいものだだ漏れ感がないのである。
 他、友人役の小越勇輝や内藤秀一郎もよかったし、母役の安藤玉恵も安定していた。つまり、役者もとても良かった。
 物語の展開は、こういうとなんだが、想定外はなく、なんというか安定の既視感がある。ただ、そうした既視感のなかに、原作に由来するんだろうか、作者の同性愛の洞察がもたらしたであろう独自のリアリティがあり、そこがきらめくたびに、胸がぐっと痛くなるようだった。
 若干ネタバレになるが、純が佐々木に、命の選択で妻を取るか自分を取るかと迫るところで、妻を取るとした佐々木に美しい別れを感じる純のシーンには、号泣しましたよ。佐々木という人間もよく描けていた。
 純の内在にある、この世のなかで肯定されていない存在の不安感(これがわからない人生というのはなんと楽だろうと思う)と、エロスの快楽と家族的な愛情への希求に引き裂かれる感覚、ここは本当に難しい問題だと思う。一見すると、エロスの快楽に割り切って、そこをベースに新しく家族関係を構築すればよさそうにも思えるし、欧米的にはそうなるのだろうが。ただ、ここは、ドラマ『13の理由』でもコートニーが微妙に表現していたと思い出す。
 ネタバレになるが、そうした点で、紗枝と純が理解しあえる愛情的な家族的な関係を維持し、エロス的な問題はその内部の合意で解決すればよさそうにも思えるが、そもそもが、純としては、ゲイとしての自分というのを見つめ直すうえで、そうした関係性は再獲得されるべきものなので、このエンディングもとてもよかったと思う。
 余談だが、私は同性愛者ではない。趣味がほとんどそれだし、まあ、それなりにいろいろな場面も経験してしまったが、同性愛の内側にいる感覚はない。ドラマも十分にその内側を描いてはいないのかもしれないが、そのマージナルなありかたが自分にはとても説得的だった。少なくとも、正義の文脈で安易に語られる物語で終わらなかったのが、とてもよかった。

   

 

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2020.04.07

散歩して春の陽射しを少し浴びること

 2年前のことだが、国際的に権威ある医学誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)』にビタミンDを補うことで風邪の予防ができるといった研究が掲載された。けっこう話題になったので覚えている人もいるだろう。
 正確なソースは、"Vitamin D supplementation to prevent acute respiratory tract infections: systematic review and meta-analysis of individual participant data(急性呼吸器感染症の予防のためのビタミンD補給:システマティック・レビューと個々の参加者データのメタアナリシス)"(参照)という記事である。
 結論はこう。

Vitamin D supplementation was safe and it protected against acute respiratory tract infection overall. Patients who were very vitamin D deficient and those not receiving bolus doses experienced the most benefit.

ビタミンD補給は安全であり、急性呼吸器感染症から総合的には保護した。ビタミンDが非常に不足している患者およびボーラス投与を受けていない患者にとって最も有益であった。

 簡単に言うと、ビタミンDが欠乏している人はそれを補うと、風邪の予防になるということ。「補う」という言葉の「supplementation」には、サプリでという含みがあるので、つい迂闊に、「科学的にも検証されているし、それじゃ、ビタミンDのサプリを飲めばいいんじゃね」とかなりそうだが、そう簡単にもいかない。正しい科学的な見解として政策レベルに持ち上げるためには正当な手順が必要になる。BMJのこの研究についても、英国公衆衛生サービス(PHE)はBBCを通して慎重な検討が必要だとしていた(参照)。
 まして、新型コロナウイルスの予防については不明であり、日本の国立健康栄養研究所では公式に次のように注意を促している。

ビタミンDがインフルエンザに対して限定的な予防効果を示した論文を用いて、ビタミンDやビタミンCが新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) に対しても効果があるように謳う宣伝が見受けられますが、現時点ではそのような効果は確認されていません。

具体的には、ビタミンDのインフルエンザ予防に対する有効性を検討した論文では、1報がA型インフルエンザ罹患率低下を示していましたが、同論文でB型インフルエンザ罹患率は有意差はないものの増加していました。また、1報は発症リスク等に影響は認められませんでした。
ビタミンDの上気道感染症予防に対する有効性を検討した論文では、2報は発症リスク等に影響は認められず、もう1報は発症リスクの増加、症状の持続期間の延長が認められたという内容でした。
現時点では、インフルエンザに対して「ビタミンDが効く」といえる十分な情報は見当たりません。ましてや、新型コロナウイルス感染症に対して検討した論文は見当たりませんので、情報の拡大解釈にはご注意ください。

新型コロナウイルスに対しては、手洗いなど、正しい予防を心掛けましょう。

 ただ、厳密に言えば、先のBMJ研究は急性呼吸器感染症についてであり、国立健康栄養研究所の参照データはアップデートが望まれるだろう。そもそも現実問題として、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は最近のことで、ビタミンD関連の研究そものがまだ存在しない。
 こうした医学研究は単純に政策に結び付けられないものだ。余談だが、一般にビタミンDの有効性として、国立健康栄養研究所も《「骨を強くする」「カルシウムとリンの吸収を助ける」「血液中のカルシウム濃度を一定に保つ」などと言われている。ヒトでの有効性については、ビタミンD欠乏の予防と治療に対して有効性が示されている》としているが、これも将来的に否定される可能性がないわけではないだろうが、政策的なレベルでの変更はまた別の話になる。
 さて。
 とはいえ、ビタミンD不足が身体の健康によいわけではないし、加えて、だからといってサプリメントで補えばいいというわけでもないなら、食品から摂取するか、太陽光に当たるかである。
 具体的にどのくらい太陽光にあたるといいか。環境省から指針が出ている(参照PDF)。

(「健康な食生活ならビタミンD不足にはなりにくい」という文脈から)。しかしながら、実際はカルシウム代謝の点では食事から摂取するビタミン Dだけでは不足気味です。やはり、日光による合成もうまく利用することが必要です。皮膚で作られたビタミンDはビタミンDの運び役(ビタミンD結合蛋白質)によってすぐに運ばれるため、消化管から吸収されるビタミンDよりもからだの中で使われやすいと考えられています。とはいっても日焼けをするほどの「日光浴」が必要なのではなく、日本が位置する緯度を考えると、両手の甲くらいの面積が 15 分間日光にあたる程度、または日陰で 30 分間くらい過ごす程度で、食品から平均的に摂取されるビタミンDとあわせて十分なビタミンDが供給されるものと思われます。介護の必要な高齢者や妊婦さん、授乳中て十分なビタミンDが供給されるものと思われます。介護の必要な高齢者や妊婦さん、授乳中たる時間をもうけることが望まれます。

 というわけで、「不要不急」の外出が禁じられ、2mの「社会的距離」が求められている昨今、お日様の出ている日には、一人、2mの「社会的距離」に留意して散歩をするといいんじゃないだろうか。
 というわけで、私も早朝、散歩に出た。土筆がまだ残っていることを発見した。八重桜が満開で美しかった。

Yaesakura 

 

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2020.04.06

明日、緊急事態宣言が出るらしい

 いろいろ噂はあったが、NHK『安倍首相「緊急事態宣言」あすにも出す方向で最終調整』(参照)を読むと、どうやら明日、緊急事態宣言が出るらしい。

安倍総理大臣は、6日午後、特別措置法を担当する西村経済再生担当大臣や、「諮問委員会」の尾身茂会長と会談し、今後の対応を協議したうえで、宣言の前提として「諮問委員会」に意見を求めるものと見られます。

 それでどうなるか?
 NHK Plusで今朝の『あさイチ』を見てみると、一般向けの解説があり、こうまとめられていた。

 しかし…
 ”心理的な効果”
 ⇨「一定の強制力はある」
 と言える

 つまり、実質、心理的な効果しかない。
 他国で実施されているような『ロックダウン』とはほど遠い、と言ってもよさそうだ。NHK『緊急事態宣言でロックダウンは』(参照)を読むと、こうある。

緊急事態宣言が出されると、小池都知事が述べていたロックダウン=都市の封鎖は、そもそもできるのでしょうか。
【ロックダウン】。
厚生労働省などによりますと、日本で「ロックダウン」=都市の封鎖を行うには、根拠となる法律が必要ですが、施行された「新型コロナウイルス対策特別措置法」には、「ロックダウン」という言葉はどこにも書かれておらず、明確な定義もないということです。

 罰則などの観点から見て、どうかというと、それは、こう。

【強制的にできること】。
緊急事態宣言が出たときに、行政が強制的に出来ることは、都道府県知事が、臨時の医療施設をつくるために必要がある場合に、土地や建物を所有者の同意を得ないで、使用できることと、知事が医薬品や食品など必要な物資の保管を命じることです。
命令に従わず物資を隠したり、廃棄したりした場合は、6か月以下の懲役または30万円以下の罰金が科されます。
保管場所の立ち入り検査を拒否した場合も、30万円以下の罰金となります。
罰則があるのはこの2つだけです。

 法的には、緊急事態宣言は、ほとんど意味がなさそうにも思える。
 とは言え、いろいろな社会機能が「忖度」的に中止になるだろう。それはいたしかたない。あとは、個々人が心理的にそれをどう受け止めるかということになりそうだ。今日みたいに天気のいい日は「社会的距離」を留意しつつ、日中、太陽光に15分くらいあたるように散歩するとよいのではないかと思う(ビタミンDのため)。
 さて、緊急事態宣言を明日に控えて、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の現状はどうか、というのを、自分なりの注目点からまとめておこう。
 重要なことは、医療崩壊をもたらさないこと。まだ現状は医療崩壊がないと言っていいのだろう。これは、重症患者と死者数でわかる。東洋経済のまとめ(参照)ではこう。

Toyokeizai
  医療崩壊がないせいか、重症患者の推移は、3月に入って特段の変化はない。死者数についても大きな変化はなく、だいたい1日に3人程度で推移していて、すでに実質収束しているようにも思えたが、4日に6人、さらにこのグラフにはないが、昨日東京だけで7人の死者、と突出も見られるようにはなっていて、確かに今後は懸念される。
 具体的にどの層が重症になり死亡しているかというと、概ね、70代と80代に集中している。日本人全体について80歳あたりを平均寿命として見ると、そこに至らない70代の死者が懸念されるということになるだろうか。おそらくこの年代だと合併症も多いだろう。今後はこの層の死者数のピークがどうなるかということと、50代60代の勤労層の重症者数の推移が気になるところだ。トルコのように、65歳以上(それと潜在的キャリアの関係だろうが20歳以下)の外出禁止という推奨も検討されていいかもしれない。

 

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2020.04.05

レジに並ぶ人たちと「社会的距離」

 ラジオ深夜便で聞いた話だ。聞き違いか記憶違いがあるかもしれない……ポーランドでは、スーパーマーケットでのショッピングで、老人だけが利用できるという時間帯の制限があるそうだ。なぜかというと、若者をその時間帯に排除することで、若者から老人への感染を防ぐためらしい。老人も安心してショッピングできるとも言っていた。
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)では、若者の感染が軽く、無症状の傾向もあるらしく、さらに若者と限らないが無症状でいても感染を広げる可能性もあるらしい。他方、老人は重症化しやすいということで、ポーランドでのような社会対応があるのだろう。
 話を聞いていて日本はどうなるだろうかと思った。こうした社会的な対処はポーランドに特有なのか他国でも実施されているのか、私は知らない。
 アメリカでは、ニュースだったか映像で見たのだが、店舗内での人数制限があり、入れない人は路上に並ぶのだが、それも2m置きくらいの「社会的距離」を取っていた。ちょっと見には不思議な光景だが、政府機関の指示に従うならそうなるべきだろう。
 かえりみて日本はどうか。
 不要不急以外の外出は控えるこということだが、生活必需品の購入はそれに含まれない、ということで私もスーパーマーケットやその他の店舗に出かけるのだが、レジ前ではけっこう人がぎっしり並んでいる。つまり、「社会的距離」はどう見ても保たれていない。店名を出すのは控えるが輸入品中心の小さな食品店舗でレジ前にぎっしり人が並んでいるのを見て、これはさすがにここでの買い物はやめようと思った。
 スーパーマーケットや小店舗のレジに並んでいる人の大半はマスクをしている。(無症状のキャリアの可能性を考慮してのことではないんじゃないかとは思うが。)
 さて、と考えた、これはいったいどうことなんだろうか?
 そういえば、ツイッターで日本について「トップからの指示・許可がないと、誰も行動出来ない」という意見を見かけたが、多くの日本人が市場で品薄になるほどフェイスマスクを購入したのは、トップからの指示・許可があったからというわけでもないし、他方、「社会的距離」が政府側から推奨されているけど、レジ前では従って行動しているわけでもない。余談だが、行政機関ならそもそも「トップからの指示・許可がないと、誰も行動出来ない」ほうがいいとも思う。
 さて、の続きだが、レジ前のぎっしりつまった行列については、誰が制御したらよいのだろうか? 各人の自覚に任されているのか? 店舗側の努力義務なのか? 店舗側でレジ前の社会的距離に配慮しているという店舗があるだろうか? 私はこの間、見かけたことがない。
 ここで私は、エスカレーターの片側空けない推奨を思い出す。
 エスカレーターでは立ち止まる。歩かないほうがいいし、片側を空ける必要はない。これについてだが、片側が空いていたら私のような人がそこで立ち止まれば後ろの片側空けはなくなる。レジの場合でも、例えば私だけ前の人とで「社会的距離」を取るとしたらどうなるだろうか? 想像するに、まあ、想像できそうだ。
 社会的にあるべき行動的な規範があるとき、人がそれをどのように守るか、守らないか、あるいは人々が独自に統一的な行動(正しいかどうかは別として)を取るというのは、いったいどういうことなのだろうか?

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2020.04.04

30秒でマスクを作るときの2つのコツ(重要な追記あり)

 ウイルスが身体に入ることを市販のマスクで防げるかという点について医学的なエヴィデンス(証拠)もない状態が続いているが、①ウイルスのキャリア(すでにウイルスに感染してウイルスを持っている人)がウイルスを口から撒き散らすことは抑制できるだろうという推測と、②CDC(米国疾病予防管理センター)によると、どうやら新型コロナウイルス感染症(COVID−19)には無症状の感染者が、4人に1人はいそうだ(参照)ということ、③シンガポールで無症状者から感染拡大が疑われるということ、というようなことから、「だったら、もう全員にマスクを推奨したらいいんじゃね」ということがCDC関係者から聞かれるようになり、CDCに医学基礎を依存しているWHOとしても、「じゃあ、検討しようか」ということになってきた。(追記 この点について重要な追記事項があります。記事末を参考にしてください。)
 私はWHOの勧告は従う人なので、全員マスクせよ、というなら、するつもり。
 それはいいのだが、マスク、売ってない、というほどではないが、現状、購入が難しい。というか、ドラッグストアに列を作るならソーシャル・ディスタンスがと思うが。
 じゃあ、作るか。
 布マスクはどうたらという議論があるが、医療関係者でなく、しかも潜在的なキャリアの抑制ということなら、布マスクでもいいだろう。つまり、ハンカチでできる。
 作ってみた。
 30秒でできた。
 作ってみて、コツが2点あるなと思った。ので、役立つ人もいるかもしれないので書いておく。
 まず、作り方。
 私は以下のイスラエルの動画で知ったけど、ハンカチで作るマスクとかで検索すると日本語解説も山ほど出てくる。のでそこにもそれぞれコツがあるだろうとは思う。

 それでは私が感じた作成のコツ、2点。 

コツ1 輪はゴム紐を結べばいい
 ゴム紐は、既存のヘアバンドだと少し狭いかもしれない。ヘアバンドに使えるゴム紐が百均行ったら、2メートルので売ってた。これを35cmで切って、輪っかに結ぶ。子供や人によってはもっと短くていい。

Masque
 結び目の部分はハンカチの内側へ。

コツ2 折位置はトライ・アンド・エラーで 
 折位置は、ゴムの輪のサイズとハンカチのサイズと顔のサイズで決まる。これは人それぞれ条件が異なるので、トライ・アンド・エラーで決めるといい。というか、それしか方法がない。

 というわけで、WHOがマスクしろという勧告を出しても、あの列に並ばなくてもいいだろう。

追記(同日)

 CDCが公式に、布製マスクの着用を推奨するようになった(参照)。

Cover your mouth and nose with a cloth face cover when around others
・You could spread COVID-19 to others even if you do not feel sick.
・Everyone should wear a cloth face cover when they have to go out in public, for example to the grocery store or to pick up other necessities.

Cloth face coverings should not be placed on young children under age 2, anyone who has trouble breathing, or is unconscious, incapacitated or otherwise unable to remove the mask without assistance.

・The cloth face cover is meant to protect other people in case you are infected.
・Do NOT use a facemask meant for a healthcare worker.
・Continue to keep about 6 feet between yourself and others. The cloth face cover is not a substitute for social distancing.

 あくまで参考としてほしいのですが、試訳を添えておきます。(なお、cloth face coverは「布製のフェイスマスク」としましたが、マスクだけには限定されません。口と鼻を覆う布製でなら他のものでもよいでしょう。)

周りに他の人がいるときは、口と鼻を布製のフェイスマスクで覆いなさい
・あなたの気分が悪くなくても、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を他の人に伝染させる可能性があります。
・食料品店に行ったり、その他の生活必需品を入手するなど、公共の場所に出かけるときは、誰もが布製のフェイスマスク着用するべきです。

布製のフェイスマスクは、2歳未満の幼児、呼吸困難な人、意識不明の人、動けない人、または介助なしでマスクを外すことができない人には使用しないでください。

・布製のフェイスマスクは、あなたが感染した場合に、他の人を保護するためのものです。
・医療従事者用のフェイスマスクは使用しないでください。
・自分と他の人の間に約2メートルの距離を取り続けなさい。布製のフェイスマスクは社会的距離(ソーシャル・ディタンシング)の代わりにはなりません。

 さらに詳しくはこちら。CDC自らが、簡易な布マスクの作り方を動画で説明している。

 

 

 

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2020.04.03

このご時世、NHK Plus、いいんじゃないの

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大防止のため、みんな家に引きこもってなさいということになったが、さて、家で何する? ゲーム?
 それはけっこうありそうだ。先日のブログ記事でも書いたが、世界の人々の健康のために政府機関に指針を出す世界保健機関(WHO)も推奨している。WHOは以前の推奨の方向性とは別に、米国などのゲーム関連事業者と連携して#PlayApartTogether(みんなおうちでヴィデオ・ゲームしましょう)イニシアティブを示している。
 おかげさまなのか、私がほぼ中毒といっていいTwoDotsでも無料で時間制限なしプレイができるようになってきている。で、ちょっと困った。私がTwoDotsが好きな理由は、非課金だとライフ5つ(5回失敗するとゲームができなくなる)で終了になることだ。この手のものは、『僕らはそれに抵抗できない』(この本、書評まだだがお勧めですよ)ではないけど、そもそもストップしにくいようにできている。だから、ストッパーが必要。TwoDotsも非課金にこだわっていたのはそのせいだったのだが……ということで、せっかく無料で時間制限なしだけど、通常通りやっている。ちなみに、これだけTwoDotsを楽しませてもらっているので、絵探しゲームには課金している。あれは一種のアート(芸術)でもあるし。

 

 で、話が横にそれるのだが、ライフ5個で連想したのだが、Duolingoも同じしくみになっていて、これが学習のストッパーになっている。ここは、TwoDotsとは逆で学習をストップさせないほうがいいんじゃないかと思うのだが、とか思っていたら、無料で無制限ではないものの、Plusコース年間料60%オフキャンペーンをやっていた。前回クリスマスのときにこれに悩んで見逃し、次回は申し込もうと思っていたので申し込んだ。現状、Duolingoは400日を超えている。二度ほどなんだか失敗したが、通算すれば軽く1000日はやっていると思う。
 冒頭の話の関連で言うと、こうしたお家で楽しめるコンテンツを出しましょうというのがいろいろ増えて、METですらやっている。日本はというと、うーん、どんなんだろう。相も変わらず新聞各社の有料Webコンテンツには変化はない。日本って、マスコミが率先してこういう旧態依然で柔軟性のない国だよなあと思っていたら、NHKが、新型コロナウイルス云々のためというわけでもないのだが、ネットで見れるPlusを出していた。
 いや、NHKがネットで見れるっていったって、もともとワンセグで見られるのだからスマホで見られるわけで、意味ねーとか思っていたが、このPlus、以前のNHKオンデマンドの見逃しコース1000円くらいが実質無料になったわけだ。これ、先日まで有料で使っていたのだからPlusも使おうかと思って開くと、登録せいという。それはそれでいいかと思って正式登録した。はがきでコードが送られてくるというお役所みたいな感じ。ついでマスクが一枚ついているとか、ないない。
 ただ、このNHK Plusだが、非登録でもうざい注意書きは出るけど、それなりに見られるし、音声は聞ける。私なんか全デジタル放送化以前はFM音声で聞いていたくちだから、これだけでもけっこう便利。ちなみに、はがきで正式に登録する間の仮登録でも問題なく閲覧できた。ブラウザで見られるからから便利。以前の見放題のほうが専用アプリで業者に支払いしたからめんどくさかった。
 実際、NHK Plusを開けてみると、けっこう新型コロナウイルス関連の情報が多く、内容もしっかりしている。なるほどねえ、NHK、頑張ってるじゃんと思った。
 ついでにそういえば、NHKオンデマンドのもう一つアーカイブはというと、これは従来通り、NHKとしては統合してお得とか言っているけど、内容はさして以前と変わらない。それで思い出したのだが、これAmazon Primeの有料チャネルで見れたな、ということで、こっちに切り替えた。切り替えてみると、普通にAmazon Primeのコンテンツとフラットになるので便利だ。さーて何見るかとリスト見ていたら、見逃していた『腐女子、うっかりゲイに告る。』がある。2話くらい見たが、これサイコーだな。

   

 

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2020.04.02

2020年、冬アニメ感想

 一時期よりアニメは見なくなったが、2020年の冬アニメもいくつか見ていたので、簡単に感想を。

『PSYCHO-PASS サイコパス 3 FIRST INSPECTOR』
 これは冬アニメと言っていいのかよくわからないが、『PSYCHO-PASS サイコパス 3』の続きで、私はアマゾンPrimeで見た。一言でいえば、すごい、に尽きる。とはいえ、本気でというか、その哲学まで考えつつ見るとなると、かなり複雑な作品でもあるだろう。
 というのも、『PSYCHO-PASS サイコパス 3』自体、『PSYCHO-PASS サイコパス 2』との間にある劇場版3部作『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System』に続いているし、時系列的にはその前になる劇場版のほうも前提になっている。さらに最初の『PSYCHO-PASS サイコパス』は当然として、『PSYCHO-PASS サイコパス 2』の難解な命題も引き継いでいだうえ、吉上亮『PSYCHO-PASS GENESIS』の貴重も濃い。総じて、吉上的PSYCHO-PASSの総仕上げになっている。
 人間ドラマとしても面白い。梓澤廣一という古臭い屈曲した人間は、征陸智己のヴィランのようでもある。
 『PSYCHO-PASS サイコパス 3』のストーリー自体は完結していない。劇場版ではそのほのめかしもあるようだが、その未完成部分が、過去の物語となるか、さらに未来の物語となるか、どちらか。未来なら最終的なヴィランが必要になる。法斑静火は関係してくるだろうし、慎導灼も関係するだろうが、ヴィランそのものではないだろう。なんとなくだが、マカリナ(AI)が善意で悪となるのではないか。現状わかる基本線では、シビュラが裁かれること外務省行動課の意義(花城フレデリカの物語)など、日本が外の世界を排除した「罪」も関係している。
 で、テーマは何か? 比喩的には日本の共同幻想の罪だろう。

『ちはやふる3』
 2クールあるので冬アニメとも言い難いが、面白かった。何が面白いかというと、変なことを言うようだが、エロいと感じる。昆虫を連想させる相貌の綾瀬千早は別段エロくない。若宮詩暢も。では何がどこがエロいのかというと、真島太一の醸し出す鬱屈と汗だろうか、これに綿谷新が呼応するあたりもエロいがBL仕立てというわけではない。
 まあ、お前はこのアニメのどこを見ているのかという話になりそうだが、恋愛とも違う、エロスの尖ったところが時折ぐさっとくるシーンがたまらない。

『ダーウィンズゲーム』
 いや、これは最初無理かと思った。個人的にはキャラがつまらないというか、なんか既存パーツを集めた感じだし、展開もありがちというか、話芸はジョジョみたいだし、とけっこうネガティブな感じだったのだが、結局、楽しみにして見てしまった。ある種の残酷性のようなものが自分に結果的に合っていたんだろう。このあたり『鬼滅の刃』と逆になるだろうか。こっちのべったりした残酷性は個人的な趣味として好きではない。

『宝石商リチャード氏の謎鑑定』
 面白いのか面白くないのかよくわからないうちに、なんだかんだ見てしまったので、面白かったのだろうと思う。どこがと改めて問われると、早稲田の風景だろうか。後半、合成風景が増えたが、思い当たる風景が多くて面白かった(そこかよ)。美貌の英国人男子リチャードと柴犬的男子正義の、これはどうもてもBL元ネタ狙いでしょ的な話で、表層的な人間劇にそれほど深みはないなあと思っていたのだが、そこが逆で、このなんとも言えない奇妙な表層性が特に花澤香菜演じる谷本晶子という女子によく表現され、気がつくと誰もが微妙な虚無に覆われそこに宝石の怪しさが映えるような趣向があった。
 ストーリーはよく練られている。二期はあってもかなり先になりそうだ。期待はしている。

『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』
 ああ、結局見ちゃったなあという負け感が半端ないが、面白いかというと面白いと思う。なんかここまでくだらないのはそれなりに、面白い。前期でいうと、『私、能力は平均値でって言ったよね!』である。ただ、「平均値」のほうが小学生向けだが、防振りのは、なんだろう、悪意にも近い虚無のテイストがないでもない。
 あと、このアニメ、途中の戦闘シーンの息抜き音楽というか環境映像が結構好きだった。

『斉木楠雄のΨ難 Ψ始動編』
 これ冬アニメか?とも思うが、見た。 NETFLIXの謹製だが、TVとかとさして変わりない。特段に面白いわけでもない。『銀魂』もそうだが、こういう『サザエさん』的な安定感は、ちょっと苦手ではある。

『22/7』
 おっと、いけない。もっと先に書くべきだった。これは、私の押しなのである。よかった。何が良かったか。2点ある。
 滝川みうが狙い通りに壺過ぎた。西條和の声がたまらない。他は、まあ、女子図鑑的なもので定番的な展開というか、ありがちな女子のヒストリーではある。つまり、物語構成は凡庸。
 もう1点は、秋元康の本気を見た。秋元康という人は、なんだろ、毀誉褒貶が多い人で、確かに、そんな優れた才能あるのかとか、えげつなとかネガティブな評もあるだろうし、そうかなとも思うのだが、というか、私も同年代でずっと見てきて思うのだが、ただ、一つ、こいつには、絶対に勝てない、なぜなら、こいつは本気だ、というのがある。秋元という人は、するっと本気をむき出しにする。そこはそれほど天才の裏付けがないから、俗っぽくも見えるけど、本気っていうもののパワーをほんとにわかっている人なのだ。これがアニメになったかと思ったよ。

『へやキャン△』
 数点見た。まあ、つまらないなあと思った。それが悪いとも思わない。『ゆるキャン△』の志摩リン(東山奈央)が中心に来ないとなあと。

 

 まあ、今期の冬アニメはそんな感じでした。

 

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2020.04.01

この夏、東京オリンピック2020eの実施に向けて

 来年に延期が決定された東京オリンピック2020だが、国際オリンピック委員会(IOC)は、これとは別に東京オリンピック2020eとしてこの夏、eスポーツの大会を実施する検討に入ったようだ。これには、世界保健機関(WHO)の#PlayApartTogether (みんなおうちでヴィデオ・ゲームしましょう)イニシアティブも、最後のひと押しとして影響したらしい。
 「東京オリンピック2020e」のeは、eスポーツのeである。すべての競技をコンピューター・ゲームで再現し、しかも、パラリンピックの壁もなくして、多様な障害者の参加を可能にするという。
 eスポーツとは、「エレクトロニック・スポーツ(electronic sports)」の略称で、コンピューター・ゲーム(モバイル・ゲームなど含む)を複数の参加者で競技することだ。そもそも「スポーツ(sport)」という言葉は身体スポーツに限定されない。チェスなどボード競技も含まれる。
 スポーツという言葉は語源的には、運搬することを意味するラテン語のdeportareに由来する。なお、ラテン語の継承言語の一つである現在のスペイン語でスポーツがdeporteとなっているのはこのためだ。また、語頭のsが脱落したのは、英語のschoolが同じくラテン語系のフランス語でécoleとなっているのと同じ変遷過程による。
 スポーツという言葉は、16世紀には精神的な意味合いを強めた。結果、気分転換・気晴らしを意図した各種ゲームがスポーツと呼ばれるようになった。こうして見るとわかるが、eスポーツはむしろ、スポーツという言葉の歴史的な意味を継承している。日本でこの意味合いが十分に継承されていないのは、富国強兵の明治時代に、教育が知育・徳育・体育とされ、スポーツがこの体育に統括されたことによる。
 東京オリンピックが新たにeスポーツとして実現されることに、古い世代の人は違和感を覚えるかもしれない。しかし、オリンピック競技としてeスポーツを含めることは、IOCでも3年前から検討に入っていたようだ。2018年の平昌冬季オリンピックで、その開幕に合わせ現地でeスポーツの世界大会である『インテル・エクストリーム・マスターズ』が開催されたが、これが原点になっている。この時のeスポーツ大会の成功から、eスポーツをオリンピックに統合する検討が進められ、今回のオリンピック延期決定直前には、インテルが主導して、eスポーツの国別対抗戦である「インテル・ワールド・オープン」の開催も決定された。この時点ですでに、オリンピックに含まれるゲームとして、対戦格闘ゲームの『ストリートファイターV AE(ストV)』と、クルマでサッカーを行う『ロケットリーグ(ロケリ)』の2つも検討されていた。
 eスポーツとしてさらなる発展もある。東京オリンピック2020e開催を契機に、3Dモデリング技術である「3Dアスリート・トラッキング(3DAT)」を5Gのインフラストラクチャー・プラットフォームで拡張し、従来からある身体的スポーツをヴァーチュアルに再現することになったのである。これらの実装では、すでに実績のあるコナミ・デジタル・エンタテインメントの『ウイニングイレブン PRO EVOLUTION SOCCER』やライアットゲームズの『リーグ・オブ・レジェンド』なども参考にされたらしい。またパラリンピックとの統合では、各種の障害に合わせた専用ギアの開発も着手されている。
 東京オリンピック2020eの実現には大きな期待がもたれるが、思わぬ障害もある。それは、ウイルス、つまりインターネット・ウイルスだろうか。そうではない。セキュリティ対策は十分に行われているし、この過程で、中国政府から5G技術に潜むバックドア公開も取り付けている。
 最大の問題は、身体的スポーツにおいてドーピングが問題となっているように、eスポーツにおけるドーピング問題ともいえるAI偽装である。eスポーツの参加者が本当に、人間なのかAIなのか、これをどう判定したらよいのだろうか。
 IOCおよびインテルからの公式アナウンスはないが、組織委員会の古宮カリナ氏の記者会見によれば、AIと人間との判定の基本技術であるチューリング・テストを拡張したものになるらしい。AI技術も投入される。例えば、ピアノ演奏を聞いて到底人間の10本指で演奏できないと思われる際、AIなら瞬時にそれは人間の手を使った演奏ではないと判別できる。つまり、AIによる演奏か、あるいはエルトン・ジョンや結城真吾のように足まで使った演奏であることも判別可能なのである。加えてこの判定には人間の技能も応用される。IOCの対策特設チームでは、すでに極秘プレーヤーが専用の高度eスポーツAIと対戦を繰り返し、その対戦パターンをディープ・ラーニングで解析中とのことだ。ただし、これでは結局のところ、AIをAIで判定するということでもあり、AI間のイカサマを防ぐという点では、根本的な矛盾解決には至っていないとも言える。

 

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