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2020.03.06

[書評] デイヴィッド・ルイスの哲学 ―なぜ世界は複数存在するのか― (野上志学)

 デイヴィド・ルイス(David Kellogg Lewis)は、およそ哲学的な感覚を持つ人間にとって魅惑的な哲学者だろう。それは、文芸の世界で比喩的に語られるヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein)より魅惑的なのではないだろうか。例えば、本書出版社の解説はその魅力を上手に捉えている。

 現実ではないけれど現実でもありえた、複数の世界がたしかに実在する、とデイヴィッド・ルイスは考えた――。
 私たちが後悔をすることの意味は何か。フィクションとは何か。別様な世界の可能性など、あるのだろうか。
 緻密に論証された可能世界論を解きほぐし、可能性や必然性をとらえ直すことで、
私たちの日常はいまよりもクリアに見えるようになる。その哲学の魅力と明晰さをとらえる革命的入門書。

 この魅惑に十分堪能して本書を読むこともできるだろう。私はそれを否定しないのだが、読後の印象からは、そうした魅惑的な、あえていえば薄暗い蠱惑的な問いに答える書籍というより、デイヴィド・ルイスの様相実在論を結果的にプレーンに叙述した明瞭な書籍であった。「結果的に」というのは、こうした魅惑に付随しがちなレトリックが、大森荘蔵のようにどこか人を狂気に誘い込むのとは逆の方向であったということだ。そこを「革命的入門書」といってもいいのかもしれないが、どこか学参的な雰囲気も感じられた。そうえば、浅田彰『構造と力』は戦略的に学参的であったが、その逆でもあるように思えた。
 その明瞭さは例えば、次のような部分で受け止められる。

 (前略)様相実在論はルイスの理論のうち、最も論争的で、最も支持者の少ない理論だろう。本書ではこうした様相実在論の論争的な側面に踏み込むことは避けた。これは、ルイスの理論の魅力はむしろ様相実在論の応用分野にあるというのが理由だ。

 著者がそして提示するのは、ゲーム理論などの「モデル」を扱うとき、それをいちいち私達の実在のあり方に並べた「可能なもの」としていない、のではないか、という視点である。そしてこう続く。

もし認識論や因果の哲学がこのような仕方で「可能なもの」を用いることができるのであれば、論争の余地のある様相実在論それ自体を支持することもなく、様相実在論の多大な応用分野を享受することができる。楼蘭が楽園から移築できるとすれば分析哲学者にとってこれほど好ましいことはない。すなわち、様相についての哲学と、「可能なもの」を用いて何かを分析するということは切り離せるということだ。知識は因果に関心を持つ哲学者は、経済学と同様、様相の哲学をひとまずは脇に置いておくことができる。

 そして、そうした実践的な明晰性にこう筆者の「私」は提示される。

本書ではルイスの哲学の紹介に集中し、とくに様相それ自体についての私の見解を述べることは避けてきた。哲学書にはしばしば論証を省いた信仰告白が含まれる。

 そした実践的な明晰性に対して、著者の「私」は「錯誤論」が好みだとする。その厳密な論証ができていないからとも言う。
 このブログを書いている「私」の感覚の逆であり、この私は、「ひとまずは脇に置いて」いかれたことになる。それは、アイロニカルに私にとっての「革命的入門書」でもある。
 とはいえ、脇目で読みながらも、所々楽しい議論であった。特に二点。一つは因果論の問題は様相実在論の「可能なもの」で議論できること。もう一点は、実在についての懐疑論は未決であること。むしろ、「応用的に」それらは知識論となりうることだ。
 さて、本書の価値とは関係ないが、著者履歴を見て、1990年生まれというのに、少し驚いた。随分若いものだなということだが、それでも今年は30歳になるわけで、30歳の哲学者を若いというのも奇妙なものだ。

 

 

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