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2020.03.14

アニメ『けいおん』を全部見終えて

 人は知らず、呪いの言葉を抱えて生きていることがある。私のその一つは、「第三発目の原子爆弾はまた日本の上に落ちると思います」という言葉だ。
 エッセイ集『思索と経験をめぐって』の『木々は光を浴びて』の最後に、次の文脈に続いて唐突に現れる。

どういう話のきっかけだったか忘れたが、というのはその時かの女が言ったことばに衝撃をうけて、何の話の中でそうなったのかよく記憶していない。かの女は急に頭をあげて、殆ど一人言のように言った。

 場所は国際基督教大学。森は1969年から同大の教授であった。時代は1970年代に至るあの空気のなかにあった。「かの女」というのは、当時の若いフランス人である。 森はこう続ける。

とっさのことで私はすぐには何も答えなかったが、しばらくしても私はその言葉を否定することが出来なかった。それは私自身第三発目が日本へ落ちるだろうと信じていたからではない。ただ私は、このうら若い外人の女性が、何百、何千の外人が日本で暮らしていて感じていて口に出さないでいることを口に出してしまったのだということが余りにもはっきり分かったからである。

 森らしいもったいぶった深刻さの修辞を読み解くことはそう難しいわけではない。それに曖昧な深刻さのなかでその言葉を受け止めてしまえば、ただの呪いになることもわかりやすい。なのに、その呪いを若い日の私は受けて、その後を生きてきた。抗うこともなく、直感的に若い日の私は森の言葉に共感してしまったからだ。それはどういうことなのか。私は長い期間のブログを通して、あるいはcakesの連載などを通して語れるものかと悩み続けたが、表現にならなかった。ただ、憎悪と敵意を生み出してしまう何かが日本の社会と伝統のなかにあるという呪いに耐えていた。それはときに正義の仮面をかぶっていた。
 森は、端的に言えば、フランスかぶれと言っていい。フランスの知と情念の伝統のなかに溶け込んだ。日記ですらフランスで書くしかなくなっていた。彼は、その呪いを日本語で残しながらも、そっち側にいた。日本の精神性の外部にあり、また外部に立つ重要性をキリスト教の伝統のなかで説いていた。
 他方、ここで私は吉本隆明を思う。彼は、こっち側にいようとした。日本の内在的な精神性の内部にあり続けようとした。未来の萌芽が現在を乗り越えていくことに、マルクスのように期待を賭けていた吉本だが、その思索はマルクスやヘーゲルとは逆方向に、日本の内在的な精神性の内在性のなかに可能性を――人の幸福な生き方を導く精神性――を見出そうともしていた。彼はヘーゲルを借りた「ヨーロッパ的段階」と「アジア的段階」の、その関係の逆の方向に人類の未来を甘く夢想してもいた。アジア的段階から『天皇」を除去しようとしていたのかもしれない。
 彼は後年、その延長で「アフリカ的段階」の可能性を構想した。いや、ここで私は吉本の後期思想をまとめようとしているのではない。彼がヘーゲルやマルクスを認めながらも、転倒する意志をもったのは、おそらく甘美なビジョンがあったからだろう。彼の初期詩集に見られる憧れのような。
 そうした吉本が求めた日本の内在的な精神性を、簡明なイメージで言うなら、議論を省くが、宮沢賢治の文学世界であったと言っていいはずだ。それは、《雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル》にも見られる。が、通常この詩は、その「負けない」に焦点が置かれがちだが、ここに潜む至高は「笑っている」にある。人を優しく気遣いながら笑っている人たちの光景である。賢治の理念の突き抜けたところにある聖なるもの――日本の内在的な精神性の極点――は、苦しみや悲しみを脱したところにある。賢治が描ききれなかった明るい世界の方向にある。
 日本人は戦後を超え、戦後の終わりを超え、その大きな無意識的な内在的な、明るい精神性のビジョンを静かに模索してきたのだろう。そしてそれは、今どのような光景として、私たちに迫るのか? 冒頭の呪いを想起するなら、その美しく微笑ましい精神性の光景はどのようにして呪いを解くだろうか。
 私がアニメ『けいおん』――映画を含めて――を見て震撼したのは、その聖なる光景だった。日常の細部のなかに寄せる、宝石箱を覆したような精神性がささやかに聖なるものを顕現させていく。その光景が、ゆたかなアジア的な笑いのなかに描かれていた。そして、アフリカ的なリズムで活性される。なにより笑いがある。「ごはんはおかずだよ」
 それを特徴的に『けいおん』の文脈でいうなら、中野梓が、「4人の」軽音部・新歓ライブに出くわしたその衝撃である。聖なる空間が向こう側から彼女に開けた。
 つまり、梓はこちら側――作品を見る側――にあることの、一つの作品装置なのである。「4人の」というのは、「4人の天使の」である。天使の聖性は、日常を装った向こう側にあった。そして、この物語は、天使の聖性が、梓(私たちの現在という視点装置)を代表するように、「あなたが天使であった」と、天使の側が告げることで終わる。
 吉本隆明が求めた日本内在の精神性の、その聖性は、あたかも、ようやく新しい次元に到達したかのようだ。が、それでは、森有正の、あの呪いは解けたのだろうか。

   

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