法と道徳の境界:リクライニングと横断歩道
このところ、ぼんやりしていると、いつの間にか、法と道徳の境界について考えている自分がいる。難しい話ではない。具体的な2つの事例で書いてみたい。
1 飛行機や長距離列車の座席の背もたれを自由に倒してよいか?
飛行機や長距離列車の座席の背もたれ(リクライニング)を、後ろの人に配慮せずに自由に倒してよいものだろうか? 常識的に考えれば、後ろを確認して、人がいたら「席、倒していいですか?」と声をかけるというものだろう。それで大抵は問題とはならない。だから、深刻化しないとも言えるかもしれないが。
それで、もし、後ろの人が、「やめてください」と答えたら、どうなるだろうか? 常識的には、しかたないなと、背もたれを倒すのを諦めるものだろう。ただ、その時でも、変な人の前の席になっちゃったなあ、アンラッキーくらいには思うだろう。
逆に自分がその後ろの席だった場合はどうか。常識的には、「どうぞ」と答えるだろう。が、そのときの相手の行為の源泉を自分はどう認識しているのだろうか。つまり、背もたれを倒すのは、予約席に含まれるサービスの一部でありその行使は料金が支払われた権利、ということだろうか?
法的に考えるなら、おそらく、そうなのではないか? つまり、制度的にリクライニングの機能があり、その席の指定に対価が払われているなら、リクライニングは普通に購入された権利だろう。では、そのまま権利をこうしてよいかというと、まあ、そうもいかない。
さて、以上の、「常識的」というのは、日本社会の常識であり、日本社会だと、それほど長時間席に座るこということもない。これが国際線の飛行機だったり、米国内でニュースからロスアンゼルスだったらどうだろうか? 問題になるだろう、というか、これは米国社会で近年やっかいな問題になっていた。
どう解決したらいいか? 法的に考えると以上のとおりなので、それで問題が起きるというのは、「常識的」とか「人としてのマナー」といった道徳の部分が微妙にやっかいに関わる境界であるのが問題の起源なのだから、そもそもリクライニングを固定するとか、リクライニング幅をわずかに限定してしまえばいい。ということで、実際、その流れになりつつあるようだ。ニューズウィークの記事『航空会社のリクライニング制限は、乗客の敵か味方か
』にその話題がある。だが、同記事に顕著だが、結局は「マナー」という道徳との境界は生き残る。
どうしたらいいのか?
というか、これはどうしても、法的なものと道徳的なものには境界が残るのは仕方がないものだということかもしれない。
2 横断歩道を歩行者が渡りたいがバイクや自動車が止まらない
信号機のない横断歩道を渡ろうとしても、オートバイや自動車が止まらないというのは、日常的に見かける。少なくとも、一部の都市域を除いては。
この話題はNHKが取り上げていた。「横断注意!そこは “無法地帯”」である。
信号のない横断歩道で車両が一時停止しました。「さあ渡ろう」でも、その後ろからバイクや車がやってきてひかれるかもしれません。だって、法律を守っているのは、17%だけだから…。
この問題だが、法的には明確である。道路交通法第38条をもとに、横断歩道で歩行者を優先しなければならならず、歩行者が横断歩道を渡ろうとするのであれば、車両はその前で停止しなければならない。というか、免許を取るときに学ぶはずだが、それが守られているのは、17%ということ。実質、無法である。
どういうことなのか? 簡単に言うなら、無法である状態を警察が事実上認可しているということだろう。おそらくその遵守は、法の意識より、道徳に課せられているのではないか。
そう思えるのは、横断歩道の規則の遵守に地方差があることだ。
▽一時停止する割合が最も低かったのは三重県3.4%、
▽次いで青森県4.4%、
▽京都府5.0%でした。
一方、一時停止する割合が最も高かったのは長野県で68.6%。
都道府県の中で唯一、6割を超えました。
長野県は、交通法規が事実上、道徳によって遵守されていると言っていいのだろう。
なぜ長野県が?という点については、信州人の末裔である私にはよくわかる部分があるのだが、それはさておき、この状態を国はどうすべきか? 原理的には厳罰化すべきなのだろうが、そうはなっていない。
これも、法的なものと道徳的なものには境界が残るのは仕方がないものだということかもしれない、という例なのだろうか?
こうしたことを、私は時折考えるのだが、この曖昧な境界が、「正義」の生息域なのではないかとも思う。
市民にとって正義の源泉は法であるべきだと私は思うのだが、道徳に依存する部分が大きい社会ほど、道徳の側に「正義」が引き寄せられてしまうのではないか。
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