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2020.03.11

羽生結弦選手に出会って人生が変りたいか

 信じる者は救われる。昭和の言葉と言っていいだろうか。近年とんと聞かない。が、NHK『ねほりんぱほりん』のアンコール番組、「羽生結弦選手に出会って人生が変わった人」を見ていて、その言葉を思い出した。
 羽生結弦選手のファンになって人生が激変したという女性3人のインタビューである。灰色だった世界がピンク色になったという。暗くつらかった人生が、ぱーっと明るく開けたのだろう。
 新約聖書に描かれるイエス・キリストの逸話も羽生結弦選手に出会った人たちのようなものだったのだろうか。番組では「救世主」という言葉も出てきたように思う。
 山ちゃんさんという司会者は「自分のすべてを捧げられる愛すべきものが見つかった人間って1番勝ちよね。本当そう思う」と言っていた。はあ。
  僕にはないなあ。たぶん、一生そういう出会いはないだろう。とはいえ、そう予感するような出会いがなかったわけではないから、なんだろ、不燃焼というか、人によるのだろうか。そういえば、イエス・キリストの話でも、聖書をよく読むと、熱狂して救われたかの人々も磔刑時には彼を見捨てていた。ペテロですら見捨てていたものだから、人生概ねそんなものかもしれない。
 番組で気になった言葉がある。「生命維持費」。曰く、羽生結弦選手を応援するために遠征でかけるなどの多額の出費は、自分の生命を維持するための最小限の出費だから、生きているなら、実質タダだというのだ。
 それも、新興宗教信者が多額のお布施をする心理と同じで、つまりは、救われちゃった人にありがちなものかもしれない。
 とはいえ。
 「生命維持」で、なんとなく、連想してしまった。チューブが繋がれた病床の人。
 「救われる」というのは、ああいう植物状態に延命装置がつながった状態でもあるのだろうな。いや、それがいけないとかむずかしい話がしたいわけではない。
 実際のところ、羽生結弦選手が生命維持に欠かせないというのは比喩で、その熱狂や会館なしでは生きられない、ということだよ。あれ?

 それは、麻薬のようでは?
 というか、マルクス曰く(『ヘーゲル法哲学批判 序説』)

 宗教的な惨状は、現実的な惨状の表現に、そして現実的な惨状に対する抗議に存在する。宗教は窮迫した生き物のうめき声であり、それは精神なき状態の精神であるように、無情な世界の心情である。それは国民の阿片である。
 国民の幻覚の幸福としての宗教の廃止は国民の現実的な幸福の要求である。国民の状態に関して幻覚を捨てるよう要求することは、幻覚を必要とする状態をやめるよう要求することである。ゆえに宗教の批判は萌芽では、神聖な光が宗教である涙の谷の批判である。

 うーむ。読み返してみて思ったのだが、「幻覚を必要とする状態をやめるよう要求すること」というのは、むしろ、宗教をやめて、羽生結弦選手に熱中することでいいんじゃないか?
 というか、羽生結弦選手と限らず、人はなにか、それをもって生きる糧とする快楽の源泉をもってよいのではないか?
 つまり、自分に快楽を与えてくれるものを是認してよいというのが、人生の原理であり、それが、麻薬であると社会的にまずいし、宗教であるとマルクスが批判するように幻想だという批判も成り立つかもしれない。
 さて、顧みて、自分にそういうものはあるかというと、まあ、ないな。
 この、「まあないな」という人が、普通の人かもしれない。
 「極めて楽しいことは特にない」というのが、人間の存在なのだろう。ハイデガーは『存在と時間』で普通の人間(das Man)の状況を「頽落(Verfallenheit)」としたが、これは3つの要素を持っている。お喋り(Gerede)、好奇心(Neugier)、どっちつかず(Zweideutigkeit)。SNSだな、つまり。
 してみると、SNS的な凡人の地獄から脱出するには、羽生結弦選手への熱狂のようなものが必要か、なのだが、実際のところ、羽生結弦選手への熱狂も、Gerede、Neugier、Zweideutigkeitから成り立っているような気もする。
 あれか、社会と自分との折り合いの先は、社会齟齬がなければ、個人個人の趣味の問題ということなのだろう、人生の意味というのは、だ。

 

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