教養というか知識のありかたでふと気になった
今朝の読売新聞の編集手帳を読んで、教養というか知識のありかたでふと気になったことがあった。まあ、些細なことと言えば、些細なことなのだが、最近というか、いつからか、教養というか知識の「国境線」が変わったような気がするのである。まあ、一例として上げるだけで、該当コラムを批判したいわけではないので、そこは誤解なきよう。
気になったのは以下の部分である。
編集手帳
時間は時計で計れる何かではない。その身で経験するものだ。昔、批評家の前田英樹さんがそんな趣旨の一文を本紙で綴っていた◆さる哲学者の言葉が添えてあった。<砂糖水をこしらえようとする場合、とにもかくにも砂糖が溶けるのを待 たねばならない。この小さな事実の教えるところは大きい>。どのくらいの時間で溶けるか、皆知っている。けれど、それは単なる計算結果で、待つ間の気持ち次第で短くも長くも感じるものだと◆
いい文章である。達文と言っていいだろう。ただ、あれ?と心に引っかるものがあった。
最初に引っかかったのは、「さる哲学者」である。「砂糖水が溶ける」という話を聞けば、すぐに、そして疑いようもなく連想されるのは、アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson)の『創造的進化』の挿話である。そしてそれ以前に、「批評家の前田英樹さん」が「一文を本紙で綴っていた」の基本は彼の著作、『ベルクソン哲学の遺言』であり、そこでは書名自体に「ベルクソン」が明記されている。それをなぜ、「さる哲学者」にしたのだろうか? どういう修辞的な意図なのだろうか。編集手帳の読者には、ベルクソンはなじみのない哲学者だと想定していたのだろうか。これもそれ以前に思うのだが、その読者は「砂糖水が溶ける」という挿話を知らないと想定していたのだろうか? どこかに、教養というか知識の「国境線」が変わったのだろうか? もともと、そのような線はなかったのか。
その引っかかりはまさにどうでもいいことなのだが、連続して、あれ?と心に引っかった。ここの箇所である。「どのくらいの時間で溶けるか、皆知っている。けれど、それは単なる計算結果で、待つ間の気持ち次第で短くも長くも感じるものだと」。
つまり、編集手帳の記者は、砂糖が水のなかで溶ける時間というは、「待つ間の気持ち次第で短くも長くも感じる」としているわけだ。これは、時間の感覚は、主観的・相対的、と言い換えてもいいだろう。
ところで、『創造的進化』の該当挿話では、こう説明されている。(世界の大思想 第3期〈10〉ベルグソン)
私が待たなければならない時間は、私の待ちきれなさの感情と、すなわち、思いのままに伸ばしたり縮めたりできない私自身の持続の或る一部分と一致する。それはもはや思考される時間ではなく、生きられる時間である。それはもはやひとつの関係ではなく、絶対的なものである。
ここをどう読むだろうか? 「私が待たなければならない時間は、思いのままに伸ばしたり縮めたりできない」と言っている。
まあ、この編集手帳の記者が原典を誤読していると批判したいわけではない。おそらく、原典にはあたっていないだろう。ただ、この解釈が、前田英樹『ベルクソン哲学の遺言』に由来するものかあたってみたが、前田も同書で「それは、私のじれったい思い、言い換えれば、任意に伸ばすことも縮めることもできない、私における持続のある一部分と合致する。」としていた。たぶん、編集手帳の記者は、前田の同書ではなく、「一文を本紙で綴っていた」を読んでの理解だろうと思うが、その一文までは、私はわからない。
誤解なきよう繰り返すが、私は今朝の編集手帳を批判したいわけではない。この編集手帳が間違っているとか、ベルクソンや前田を誤読していると追求したいわけではない。その逆である。
つまるところ、一番、心が引っかかったのはそこだ。つまり、この編集手帳は「さる哲学者」という枠組みがベルクソンと特定されない時点で、全く無謬なのだ。以上私が述べたことはそもそもが批判にすらなりえないのだ。
これを安易に拡張してはいけないのだろうが、教養というか知識のありかたが、いつからか、どこかしら、無謬の修辞になってきているような気がする。
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