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2020.03.03

[書評] ほんとうの「哲学」の話をしよう - 哲学者と広告マンの対話(岡本裕一朗・深谷信介)

 『ほんとうの「哲学」の話をしよう - 哲学者と広告マンの対話』は対談集なので、読みながら、そして読み終えても、本を読んだという感触は残らなかった。雑談を聞いている、あるいはテレビ番組を見ているという感覚に近い。
 それで、面白かったのか、というと、おもしろかった。とても、おもしろかったと言っていい。

 

 話題と対話の展開は刺激的だった。それでいいじゃないかと思うのだが、奇妙な、そして否定的と言えないこともないのだが、全体で何を言いたいのかは、私にはよくわからなかった。なんの対談なのか了解できない自分がいた。「雑談」に意味を求めるのがそもそも間違いだろと言われれば、そうなのだが、微妙な肩透かし感というか、おかしいな、いちご大福を食べたはずなのに、いちごはなかった……みたいな奇妙な感じが残った。
 もちろん、というべきだが、かなり正確にこの対談書を評価して、「広告の今」として提起されている問題意識は広告業界的には意味があるだろう。特に、メディアというものへの再考察である。また、「哲学」を、日本のこの40年間の受容のありかたとして総括するという点での総括として読んでもよく出来ていると思う。
 個別にはとても面白い。たとえば、岡本に擬されている「哲学者」のこのシンプルな発言は共感できる。

 (前略)哲学書は訳されるときに漢語が多く使われていて、これがわたしたちの日常会話からかけ離れた堅苦しさを感じさせてしまうのでしょう。ハイデガーもサルトルもカントもヘーゲルも、本当は日常のなかで感じたり見たりすることを問い直すことから出発しているので、彼らの話はどれも実は非常にシンプルなんですよ。そのシンプルさがなかなか伝わりませんね。

 これは、私も本当にそう思う。50歳過ぎてフランス語を学び直し、若い頃にならったギリシア・ラテン語の知識、それと、なんとなく実用性もなく人生によりそってきた英語と組み合わせたとき、そのシンプルさにむしろ唖然とした。
 余談めくが、ごく簡単な例で言えば、「不条理」。カミュの l'absurde であり、たとえば、Wikipediaですら、簡素にこう表現する。

En philosophie et en littérature, l'absurde se traduit par une idée ou un concept dont l'existence paraît injustifiée. Il résulte donc de la contradiction d'un système par le fait.

哲学や文学では、l'absurde はそのあり方が不公平に思われるという思いや考えかたとして理解される。だから、それは現実とシステムの矛盾をもたらす。

 超訳すれば……「バカじゃねえの」という感覚は、現実が不公平でひどいもんだなという感じのことだ。あるべきはずの世界と現実の矛盾だ。
 哲学史的に言えば、これは理性や本質の合理的な発現である歴史観や倫理に対する反論でもある。だからカミュは、ヘーゲル的マルクス史観を実存主義で補完しようとしたサルトルと対立したのだし、それこそが、あの時代のフランスの、戦後世界の理性への「バカじゃねえの」という感覚だった。
 さて、とはいえ、l'absurde も…ラテン語の歴史を背負っている。

 L'étymologie du mot absurde vient du latin absurdus qui signifie « dissonant » (cf. Cicéron, De oratore, III, définition)

 つまり、語誌的には「不協和音」ということ、神やイデオロギーの調和・ハーモニーへの反対から来ている。ラテン語では、ab- +‎ surdus で、surdus はフランス語の sourd で、《C'est qui ne peut entendre ou qui n’entend pas bien.》である。「よく聞こえない」ということで、もとの語はだから、ちょっと現代日本語にすると語弊がありそうだ。ab-は属格的にする接頭語で、由来するということ。「あーあー、聞こえない」である。
 余談が長くなったが、近代日本語と西洋哲学を日常のレベルでつなぐには、日常の感覚の語誌と文脈化が重要になるはずだが、本書に戻って、そこまでは食い込んでいない。それが目的の対談書でもないだろうし。ただ、「広告」を問い直すなら、それも意味あるんじゃないかとも思うが。
 個別の興味深い話題の他の例では、「人間はこれから二つに分かれていく」もある。動物化と超人化である。動物のようにただ生きている人間と、向上を目指す人間、と言ってもいい。もっと現在の文脈でいえば、SNSという餌に軛されているのが動物化であり、TOEIC970点が超人化だろうか、と、戯画化したのは、実際のところ、現在日本の超人化とは動物化の変種でしかない。YouTuberを目指すとかも。
 本書は、その二分化について対談から考察を深め、単純な分化でも、支配と被支配でもないとする。なぜなら、「超人化する人たちにとっては絶対的に動物化する人たちが必要ですし」と言及される。だがそこで、このテーマは途切れてしまう。あれ?という奇妙な中断である。その先が知りたいのに。
 そこは、中盤の広告論・哲学論を経て、暗黙裡に、AIの問題につながっているように読める。
 というのも、そこで、「誰が社会を支配するのか」という問いで対談が終結していくからだ。
 その答えだが、まず、概ね古典的なマルクス史観的な枠組みは否定されるのだが(これはこの対談にあるように人間主体の終焉の帰結でもある)、ではどうなるかという求心的な問いかけはなく、常に問いかける態度が必要という、しかたないのだろうが、凡庸なオチになっていくように読める。あるいは、AIによる「哲学者の死」という帰結もあるにはあるが、その具体的なイメージは、ヘーゲルのコーパス解析くらいしか語られていない。
 よくわからない。
 正直なところ、私が、この対談書のよい読者ではないことは認めざるを得ない。
 あと、個別に哲学の文脈で思ったことは、「コギト(cogito)」の扱いである。ハイデガーは、人間存在を世界内存在としたが、粗い言い方だが、コギトとは世界情報との統合なのか? そこで、私が今考えているのは、コギト、つまりデカルト的な意味でのコギトというのは、世界情報から分離された純粋な自己意識なのではないか、というのは、『方法序説』でデカルトがこだわっているのは、神が我々に見せている世界がただの幻影でありコギトが騙されているということは、神を信頼するならありえないだろうという、1つの信仰とみるからなのだ。だが、デカルトが暗に、おそらくカントも暗に、疑念をいだき続けたのは、夢と現実という世界の差異はない、ということだろう。
 なろう系のラノベは安直に異世界を持ち出すが、実は、それこそが、コギトのより自然的な機能なのではないだろうか。
 というあたりから、AIとコギトの差があるのではないか。つまり、AIこそ、世界内存在だが、私たちの自意識は原初から世界を超えているんじゃないだろうか。

 

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