トロフィー・ワイフ的な何かから考えたこと
ウオーレン・バフェットがこう問いかけたという。
世界一すばらしい恋人なのに、他人からひどい恋人と思われるほうがいいか、それとも、実はひどい恋人なのに、他人からは世界一の恋人だと思われるほうがいいか?
『Think Clearly』からの孫引きである。同書では、こんなの当然、自分がすばらしいと思う恋人がいいに違いないという前提で、《この質問でバフェットが伝えようとしているのは、よりよい人生を手にするためのきわめて重要な意識のあり方だ》とつなげる。
さらに、こう教訓する。《自分の内側にある自分自身の基準が大事か、それとも周りの人の基準が大事か》と。
そう問われると、よりよい人生に「自分自身の基準が大事」ということになりそうだが、同書もそう簡単に割り切らず、《残念なことに、他人からよく思われようとするのは、私たちの中に深く根ざした「本能」なのである》と展開し、このあたりの文脈で、世界一の恋人の話は薄れてしまう。
が、きちんと考えれば、人は、他人からは世界一の恋人だと思われるほうがいい、と本能的に決めるものだ、ということになる。
ちなみに、とうのバフェットの離婚と再婚の話もなんとなくそっちに近い気がしないでもない。
というわけで、トロフィー・ワイフ(Trophy wife)という言葉がある。英辞郎をひくと。
Trophy wife
〈話・侮蔑的〉トロフィーワイフ◆金や権力のある男性が自分の社会的地位を誇示するために迎えた(と世間から思われている)若くて美人の妻のこと。◆【語源】勝利または成功を収めたことを示すトロフィーを誇示するイメージから。
社会的に成功した男が、若くて美人の妻を得ると、周りからこっそり〈侮蔑的〉に「トロフィーワイフ」と言われるわけで、現実よく言われているのは、トランプ米大統領の妻についてである。まあしかし、侮蔑的というより、羨望の裏返しというのが実際なのではないか。
宇多田ヒカルの詞に「俺の彼女はそこそこ美人」というのがある。まあ、男はそう思いがちなのだろうし、同詞は、「あなたの隣にいるのは私だけれど私じゃない」と続くが、これも微妙にトロフィーワイフに割り切れない屈曲でもあるかもしれない。
で、何が言いたいのか。
なんだかんだ言っても、トロフィー・ワイフやトロフィー・ハズバンドみたいなものから人は免れない。Trophy wifeに相当する言葉はラテン語の時代からもあるらしい。Tropaeum uxorである。
ようするに、曖昧な他者たちの評価は自意識に組み込まれている。
というか、そもそも経済活動自体がケインズのいうように「美人投票」的な仕組みでできていて、誰が美人かというより、美人と思われているのに投票することで、価値や評価の幻影が生じている。
そもそもその幻影こそが、個人の評価の源泉でもあるのだろう。
つまり、世間や社会の価値観から自由に人は生きられるものでもない。
すると、そこの折り合いをどうするか?ということになる。
と、思っていたのだが、この展開、バグがあるかもしれない。
要は、折り合いをつけたかのように振る舞えばいいだけのことだ。
社会の価値や評価を考慮しているかのように、振る舞うだけで、内面はまったく異なる価値観を持って生きていても問題ないし、たぶん、幸せとかいうものは、そういうものなんじゃないか。
美人投票で言えば、人が美人だと思うのはこの人なんじゃね、僕はぜんぜんそう思わないけど、で無問題。
というわけで、トロフィー・ワイフという言葉は侮蔑的に使うとしても、逆に、内面で主体的にトロフィー・ワイフを求めてもいい。その結果、それが得られないのも止む得ないというのも自分の価値観の結果としてこっそり受け入れてもいいだろう。受け入れないとなると、また、それなりに、社会的な齟齬にはなるだろう。
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