志村けんの死去
コメディアンの志村けんが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で東京都内の病院で29日、死去した。70歳だった。若すぎる死という印象はないが(いかりや長介は72歳だった)、今年のNHKの朝ドラにも録画となって出演する。誰もがまだまだ健在と思っていたことだろう。私も驚いた。伝えるところによれば、肺炎診断は20日。3日後に新型ウイルスが陽性と判明。感染したのが1週間前くらいなら、感染は16日ごろだっただろうか。COVID-19の驚異を身近に感じさせることになった。もちろん、彼を慕う人の追悼も話題になった。
私は、あまり志村けんには関心がなかった。これは単純に関心がなかったというだけ。好きでも嫌いでもない。では彼について何も知らないかというと、そうでもない。彼のデビューから知っているし、東京郊外の土地勘からわかることも多い。そのあたりは、この機にNHK Plusで放映された、『ファミリー・ヒストリー』でもいろいろ思った。いつの収録だったかググってみると、2018年5月28日とのこと。合わせて地上波でも昨日放映されたことを知る。見た人も多いのではないか。私は「けん」の由来を始めて知った(父の名)。来日ビートルズの前座のドリフターズとは遭遇していなかったことも知った。
志村けんが『8時だョ!全員集合』に出たのは、1974年。私は16歳ですでにこの番組は見てなかったはずだが、彼が出た回はなんとなく記憶にあるから、横目で見ていたのではないか。その時の印象は、騒ぐだけでつまらないなというものだった。荒井注のほうが面白かったのに。当時そう思った人は少なかったように思う。
私にとってドリフターズは基本コミカルな音楽バンドで、クレージーキャッツの後輩なんだなというくらい。メンバーが演奏していた時代も覚えていて、そうしたなかで24歳でコメディアンとして登場してきた志村けんには少し違和感もあった。
志村けんがようやく人気を得るようになったのは、1976年の少年少女合唱隊で改変された東村山音頭のネタだったようだが、私はその当時をもはや知らない。少年少女合唱隊は知っているし、今思うと昭和だなあと思う。そして世の中にあの改変された東村山音頭が流行したことも知っている。『ファミリー・ヒストリー』でも指摘していたが、その人気を支えていたのは、当時の小学生のようだ。すると、私より10歳くらいの年代ではないか。現在なら、アラフィフといったあたりだろう。
当時の思い出で印象に残るのは、孫悟空である。正式には、『ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空』。けっこう見ていた。歌が楽しかった。1977年10月から1979年3月というから、私の20歳をまたぐ。私はピンク・レディーのファンではなかったが、同い年の共感を持っていたのだろう。その後、同じような感じで同い年の夏目雅子の西遊記も見ていた。あれが1978年である。大学一年生だった。
その後の志村けんについては、世間の話題を介して知るというくらいである。バカ殿様とかアイーンとかきちんと見た記憶はない。その関連でいうと、艶福家という言葉が思い浮かぶ。昭和の言葉だろうか。今の若人は知らないだろうなと思う。その語感もあまりないだろう。
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