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2020.03.31

志村けんの死去

 コメディアンの志村けんが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で東京都内の病院で29日、死去した。70歳だった。若すぎる死という印象はないが(いかりや長介は72歳だった)、今年のNHKの朝ドラにも録画となって出演する。誰もがまだまだ健在と思っていたことだろう。私も驚いた。伝えるところによれば、肺炎診断は20日。3日後に新型ウイルスが陽性と判明。感染したのが1週間前くらいなら、感染は16日ごろだっただろうか。COVID-19の驚異を身近に感じさせることになった。もちろん、彼を慕う人の追悼も話題になった。
 私は、あまり志村けんには関心がなかった。これは単純に関心がなかったというだけ。好きでも嫌いでもない。では彼について何も知らないかというと、そうでもない。彼のデビューから知っているし、東京郊外の土地勘からわかることも多い。そのあたりは、この機にNHK Plusで放映された、『ファミリー・ヒストリー』でもいろいろ思った。いつの収録だったかググってみると、2018年5月28日とのこと。合わせて地上波でも昨日放映されたことを知る。見た人も多いのではないか。私は「けん」の由来を始めて知った(父の名)。来日ビートルズの前座のドリフターズとは遭遇していなかったことも知った。
 志村けんが『8時だョ!全員集合』に出たのは、1974年。私は16歳ですでにこの番組は見てなかったはずだが、彼が出た回はなんとなく記憶にあるから、横目で見ていたのではないか。その時の印象は、騒ぐだけでつまらないなというものだった。荒井注のほうが面白かったのに。当時そう思った人は少なかったように思う。
 私にとってドリフターズは基本コミカルな音楽バンドで、クレージーキャッツの後輩なんだなというくらい。メンバーが演奏していた時代も覚えていて、そうしたなかで24歳でコメディアンとして登場してきた志村けんには少し違和感もあった。
 志村けんがようやく人気を得るようになったのは、1976年の少年少女合唱隊で改変された東村山音頭のネタだったようだが、私はその当時をもはや知らない。少年少女合唱隊は知っているし、今思うと昭和だなあと思う。そして世の中にあの改変された東村山音頭が流行したことも知っている。『ファミリー・ヒストリー』でも指摘していたが、その人気を支えていたのは、当時の小学生のようだ。すると、私より10歳くらいの年代ではないか。現在なら、アラフィフといったあたりだろう。
 当時の思い出で印象に残るのは、孫悟空である。正式には、『ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空』。けっこう見ていた。歌が楽しかった。1977年10月から1979年3月というから、私の20歳をまたぐ。私はピンク・レディーのファンではなかったが、同い年の共感を持っていたのだろう。その後、同じような感じで同い年の夏目雅子の西遊記も見ていた。あれが1978年である。大学一年生だった。
 その後の志村けんについては、世間の話題を介して知るというくらいである。バカ殿様とかアイーンとかきちんと見た記憶はない。その関連でいうと、艶福家という言葉が思い浮かぶ。昭和の言葉だろうか。今の若人は知らないだろうなと思う。その語感もあまりないだろう。

 

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2020.03.30

スマホによる時間感覚の変化

 スマホの普及で世界はいろいろ変わったが、時間感覚も変わったのだと思った。これは電波時計の普及もあるのだろうが、秒単位で正確な時刻がわかるようになり、人々はそれを前提に生活している。
 自分はちょっとそれになじめないでいた。いつからか正確な時刻を気にしないようにもなっていた。だいたい1分くらいの誤差は気にしない。定刻に集合というときは、ざっと10分前くらいに到着するようにしていたので不都合もない。
 なので、基本的にアナログ時計を使う。秒針のない腕時計にしたら、さらに合う。ついでに文字盤に数字もないほうがいい。シンプル。という腕時計にしていたが、先日、止まった。電池切れだろうか。電池交換する費用を考えるとその分、新しい時計購入に当てるかと考え、そういえば、チプカシがいくつもあったなと思い出す。というとき、ビンラディン・モデル(F-91W)がテーブルに置いてあり、あれ?と思ったら、息子のだった。私のはゴールドなので色違いかと思い出し、自分のを取り出してその息子に見せると、もにょっていた。
 しばらくこれもいいかとデジタル時計をしていると、妙になじむ。自分ってこういう人だったっけと考え込む。そしてこれしていると、秒針というか秒表示が気になるんだよなと思い、ああ、実際気になる。
 さて、何で時刻合わせをするかというとき、ふと、昭和なご老人である私は家電(家の電話)に目が泳いでいて、苦笑した。平成生まれでもこれ知らないんじゃないか。
 いつからかテレビで時刻合わせをすることもなくなった。デジタル放送になり、データ処理の遅延で秒単位で合わなくなった。年末の『行く年くる年』でも正確なカウントダウンができなくなった。
 では何で時刻合わせをするかと悩む間もなく、スマホを取り出す。スマホの時刻は正確である。秒単位で正確なはず、というところで、これ、NPTだったなと思い出す。インタネットの時刻合わせの仕組みである。そして、あれ?NPTって、ディレイ(遅延)は起きないなんだけっとふと思う。というのは、衛星放送やネット配信されているNHKの「リアルタイム」は、秒ズレがあるからだ。というところで、苦笑する。NTPってディレイの対応がしてあったなと思い出す。このあたり、自分の知識構造が他人の記憶を探っているような違和感がある。
 NTPプロトコルかあと思う。別段、そんなもの普通の人が知らなくてもいいのだが、普通の人がそのおかげで、それとスマホの普及で、秒単位で正確な時間を生きるようになったのだなと奇妙な感慨がある。
 そういえば、部屋の時計はもう10年以上も前の、非電波時計なので、たいてい正確な時間を示さない。この正確な時刻を示さない部屋の時計というにむしろ昭和な私は慣れているのだが、とぼんやり文字盤を見ていると概ね、正確。エコー(アマゾンのエコー)と合わせても正確。これは、先日やってきた社会人の息子が調整していったのだろうな。

  

 

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2020.03.29

法と道徳の境界:リクライニングと横断歩道

 このところ、ぼんやりしていると、いつの間にか、法と道徳の境界について考えている自分がいる。難しい話ではない。具体的な2つの事例で書いてみたい。

1 飛行機や長距離列車の座席の背もたれを自由に倒してよいか?
 飛行機や長距離列車の座席の背もたれ(リクライニング)を、後ろの人に配慮せずに自由に倒してよいものだろうか? 常識的に考えれば、後ろを確認して、人がいたら「席、倒していいですか?」と声をかけるというものだろう。それで大抵は問題とはならない。だから、深刻化しないとも言えるかもしれないが。
 それで、もし、後ろの人が、「やめてください」と答えたら、どうなるだろうか? 常識的には、しかたないなと、背もたれを倒すのを諦めるものだろう。ただ、その時でも、変な人の前の席になっちゃったなあ、アンラッキーくらいには思うだろう。
 逆に自分がその後ろの席だった場合はどうか。常識的には、「どうぞ」と答えるだろう。が、そのときの相手の行為の源泉を自分はどう認識しているのだろうか。つまり、背もたれを倒すのは、予約席に含まれるサービスの一部でありその行使は料金が支払われた権利、ということだろうか?
 法的に考えるなら、おそらく、そうなのではないか? つまり、制度的にリクライニングの機能があり、その席の指定に対価が払われているなら、リクライニングは普通に購入された権利だろう。では、そのまま権利をこうしてよいかというと、まあ、そうもいかない。
 さて、以上の、「常識的」というのは、日本社会の常識であり、日本社会だと、それほど長時間席に座るこということもない。これが国際線の飛行機だったり、米国内でニュースからロスアンゼルスだったらどうだろうか? 問題になるだろう、というか、これは米国社会で近年やっかいな問題になっていた。
 どう解決したらいいか? 法的に考えると以上のとおりなので、それで問題が起きるというのは、「常識的」とか「人としてのマナー」といった道徳の部分が微妙にやっかいに関わる境界であるのが問題の起源なのだから、そもそもリクライニングを固定するとか、リクライニング幅をわずかに限定してしまえばいい。ということで、実際、その流れになりつつあるようだ。ニューズウィークの記事『航空会社のリクライニング制限は、乗客の敵か味方か
』にその話題がある。だが、同記事に顕著だが、結局は「マナー」という道徳との境界は生き残る。
 どうしたらいいのか?
 というか、これはどうしても、法的なものと道徳的なものには境界が残るのは仕方がないものだということかもしれない。

2 横断歩道を歩行者が渡りたいがバイクや自動車が止まらない 
 信号機のない横断歩道を渡ろうとしても、オートバイや自動車が止まらないというのは、日常的に見かける。少なくとも、一部の都市域を除いては。
 この話題はNHKが取り上げていた。「横断注意!そこは “無法地帯”」である。

信号のない横断歩道で車両が一時停止しました。「さあ渡ろう」でも、その後ろからバイクや車がやってきてひかれるかもしれません。だって、法律を守っているのは、17%だけだから…。

 この問題だが、法的には明確である。道路交通法第38条をもとに、横断歩道で歩行者を優先しなければならならず、歩行者が横断歩道を渡ろうとするのであれば、車両はその前で停止しなければならない。というか、免許を取るときに学ぶはずだが、それが守られているのは、17%ということ。実質、無法である。
 どういうことなのか? 簡単に言うなら、無法である状態を警察が事実上認可しているということだろう。おそらくその遵守は、法の意識より、道徳に課せられているのではないか。
 そう思えるのは、横断歩道の規則の遵守に地方差があることだ。

▽一時停止する割合が最も低かったのは三重県3.4%、
▽次いで青森県4.4%、
▽京都府5.0%でした。
 一方、一時停止する割合が最も高かったのは長野県で68.6%。
都道府県の中で唯一、6割を超えました。

 長野県は、交通法規が事実上、道徳によって遵守されていると言っていいのだろう。
 なぜ長野県が?という点については、信州人の末裔である私にはよくわかる部分があるのだが、それはさておき、この状態を国はどうすべきか? 原理的には厳罰化すべきなのだろうが、そうはなっていない。
 これも、法的なものと道徳的なものには境界が残るのは仕方がないものだということかもしれない、という例なのだろうか?

 こうしたことを、私は時折考えるのだが、この曖昧な境界が、「正義」の生息域なのではないかとも思う。
 市民にとって正義の源泉は法であるべきだと私は思うのだが、道徳に依存する部分が大きい社会ほど、道徳の側に「正義」が引き寄せられてしまうのではないか。

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2020.03.28

令和2年3月28日土曜日

 暗がりのなかで時計を見たときは4時台だったが、もう6時は回っているだろうと思った。カーテンを少し開くと外は存外に明るい。が、昨日の天気予報どおり、曇りのようだ。外の気温は肌寒いくらいだろうかと気になり、軽装に着替えて家を出て、軽く体操をする。生暖かいとまではいえないが、十分春になったと思える空気だ。
 3月下旬、それも土曜日。しかも、この週末は、「不要不急」の外出は自粛せよということもあり、家人は寝ている。私一人朝食を取るのに物音を立てるのもどうかと思い、モーニングのある喫茶店に向かう。いつもなら7時には開いていたはず。今朝は、休業であってもしかたあるまい。あるいは開店時間が変わっているかもしれない。はずれならそれはそれでいい。この朝、少し散歩してみたいのだ。少し遠回りに桜の見える道を選び、公園を回って出かける。
 歩きつつ、さて、喫茶店のモーニングを食べに行くというのは、「不要不急」に反するだろうかと、ぼんやり考える。都知事の言うところでは、それは4つ。「特に用事がないのに外を出歩くこと」「密閉された場所に出向くこと」「人と接触するような行動」「大人数で集まったりすること」。よくわからないな。「人と接触するような行動」というのは何であろうか。不倫はいかんというのも含まれるのだろう。
 桜は満開である。いや、もう盛りを過ぎたころだろう。ちらほらと花びらが風に舞っている。風が強くなれば、花吹雪となるだろう。今年の花見は、先週に済ませておいた。花見といっても花を見つつの散歩であった。青春の思い出詰まる古刹を訪れ、川沿いに続く四部咲きの桜並木をとぼとぼと歩き続けた。
 今朝は街に、さすがに人は少ない。広い車道に出るが車の通りも少ない。空っぽのようなバスがすーっと抜けていく。お盆で東京が空っぽになるときよりも少ないだろうか。死んだ街というほどでもないが、異質な静けさが味わえる。鳥の声がよく聞こえる。この異質さは、昔、国鉄ストライキで延々と続く線路を歩いた時に似ている。あれは秋の終わりではあった。
 そして公園が見える。そこ運動場があり、入り口に、同じユニフォームの若者が6人ほど集まって喋っている。円陣を組むというほどでもないが、随分と身を寄せている。開場時刻を待っているのだろうか。練習か試合か。いずれにせよ、中止にはならなかったのだろう。よかったな。それにしても、若者というは、あんなふうに、実はなんの目的もなさそうに、つるんでいるものなのだ。全世界どこでもそうだ。そういうものだ、と思い、欧州での感染状況を想像する。
 喫茶店はすいていた。先客は二人。モーニングを取ってる中年男たち。休みの日という雰囲気もない。私が注文を待っていると、間もなく二人とも席を立つ。これから仕事だろうか。比較的広く、明るい喫茶店を私が貸し切りということになった。
 サンドイッチをつまみ、コーヒーをのみ、手帳に思いつくメモを書きながら、外の駐車場を見ていると一台白い車が入り、若夫婦らしき男女が出てくる。私の貸し切り状態は終わりかと見ていると、彼らは注文後、所在なくその椅子に座り、それから呼ばれて紙袋を受け取った。テイクアウトである。出ていった。そういえば、「スーパーや薬局などに食品や日用品などを、買いに行くこと」は自粛されていなかったのだ。彼らは車で家に戻って紙袋を開き、朝食とするのだろう。
 私も長居する気はないが、気がつくと小一時間過ぎていた。同じ道を通って帰る。陽がふと差して曇る。運動場前にたむろっていた若者の姿はなく、中も閑散としていた。中止だったのだな。さて、今日はどのような日になるのだろうか。

 

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2020.03.27

東京都と隣接4県での不要不急の外出の自粛の、この時点の感想

 昨日26日、小池東京都知事は、隣接する4県、神奈川、埼玉、千葉、山梨の知事とともに市民社会に向け、人混みへの不要不急の外出自粛を要請した。
 私はどう思ったか。まあ、週末は気温も下がり雨模様なので最後の桜を楽しむといった天候でもないから、おうちにいるのも無難だろうかとは思った。
 もちろん、買い物や散歩(ランニングとかも)まで自粛せよというものではない。一人静かに雨の花見もよいものだろう。俳句の季語でいうなら、「花の雨」「雨の花」といったところだ。
 日本国政府に目を向けると、安倍首相は、今日27日の参院予算委員会で東京都内の新型コロナウイルス感染者急増を問われ、「仮にロックダウンのような事態を招けば、わが国の経済にもさらに甚大な影響を及ぼす」と答えたようだ。つまり、彼にはロックダウン(都市封鎖)は避けたいという思いはあるらしい。なにより、日本は緊急事態宣言にも至っていない。
 さて、「東京都内の新型コロナウイルス感染者急増」なのだが、いろいろと報道されている。昨日は、NHK7時のニュースも時間枠を拡大し、こってりこの話題をやっていた。
 なぜ、「東京都内の新型コロナウイルス感染者急増」となったか?だが、個人的には、PCR検査を増やしたからではないかと思い、厚労省のデータ(参照PDF)にあたってみたが、18日までのデータしかなく、現状ではよくわからない。
 ただ、報告された感染者数が急増していても、死者が急増している印象は受けないので、そのデータを探したが、一見するとよくわからない。という過程で、札幌医大のデータを見かけた。これはあとで示す。
 基本的に、死者数が急増しなければ、感染者が多くても致死率は低いことになる。ドイツを例にした報道がテレ朝にあったので借りる。《ドイツ 新型コロナ致死率低い理由「大量検査で…」[2020/03/27 08:05]》より。

 ドイツで新型コロナウイルス感染者の致死率が低い理由について、現地の専門家は「大量の検査で感染者を早期に発見しているため」との見方を示しました。
 ドイツでは約4万人の感染者に対し、死者は229人にとどまっています。致死率は0.6%程度で、イタリアの10%、スペインの7%などに比べて低くなっています。この理由について、ドイツの専門家は「週50万件の検査による感染者の早期発見がある」と指摘しました。

 概ね、COVID-19については検査数が多ければ感染者数が増大するだろうと見てよさそうだ。
 この問題は、COVID-19への対応の基本にも関わる。ざっくり書けば、日本の対応は、医療崩壊を起こさないように重症患者をよりわける、ということで、その前提となる爆発的な感染を引き起こしうるクラスター感染に着目することになっている。クラスターの管理をしていると言っていい。
 修辞に隠れている点を言えば、それ以外の対人感染については重視されてはいないし、そもそも軽微な症状は実質自宅療養に任せている。さらにその背後にあるのは、一定の感染者数を容認し、集団免疫を獲得させることだろう。
 その意味で、現状、クラスター管理が難しくなってきているため、人混みに集まることを自粛させ、今後は検査体制を強化するという移行になるのだろう。
 現状は、おそらく危機とはいえないまでも、危機になりうるという状況なのではと思うが、そのあたり、報道を雑見するとすでに危機というふうな雰囲気が感じられもする。
 さて、この過程で見つけた、人口100万人あたりで見た、札幌医大のデータ(参照)が興味深いものだった。そもそも「人口当たりの推移のグラフがなかなか見つからなかったので作成してみました」とあるが、なぜかほかにこのデータがまとまっているところがなかったみたいだ。
 まず、感染者数の推移だが。

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 感染者数の推移を見ると、中国が先行し、世界全体の平均値はあまり意味がないが、他、まず韓国が先行して、一種爆発し、日本以外の先進国でもまるで時限爆弾のように急速に増加している。他方、日本は世界とまったく異なる推移を示している。
 これをどう見るかだが、個人的には先にも述べたように、主要因としては検査数および検査体制に比例しているからではないかと思う。
 私が重視したのは死亡率で、これはこうなっている。

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 日本ではCOVID-19による死者数まで隠蔽されているという意見もネットでは見かけるようだが、まあ、それはありえないだろう(ということで、その手の前提で罵倒コメント寄せないでね)。
 いずれにせよ、日本は圧倒的に死亡率を抑制していることは見て取れるし、他先進国のような爆発的な急増はまだ見られない。
 死亡率については、中国と韓国が、爆発的な増加を抑制しているようにも見えるので、日本はさらにそれを上回って抑制しているか、これらのアジアの国に別の要因があるか(いくつかあたりはあるが現状では判明しない)だが、いずれにせよ、抑制は可能のように思える。
 気になるのは、現状、イタリアとフランスのように天井突き破りでなければ、2.5のあたりに、ピーク地点があるかもしれない。というか、それがピークなのか、というのが、今後、興味深いことだ。仮に、そのあたりにピークがあるなら、日本での死者はまだまだ増えそうだということにもなる。そしてそうなら、それが爆発的な増加になるかだが、イタリアやフランスでの急増に医療体制崩壊という要因が強いのであれば、日本の体制はまだ強固であるようにも思える。
 さて、何が言いたいのか? いや、特にない。お前は危機感がないのかというと、経済的な危機感はあるし、外出自粛についても欧米を見ているとそれもありかなと同意はする。ただ、危機を、緊急事態宣言やロックダウンの文脈で語るなら、もう少し先になりそうだなという印象を持っている。
 というわけで、経済的な影響面からすると、米大統領や仏大統領が「戦争」のレトリックで語っているように、戦時経済的な様相にはなりそうだ。そうであれば、戦争の歴史を省みると……まあ、これもいろいろ思うことはある。このまま日本の感染状況が推移すれば、第二次世界大戦というより第一次世界大戦に近い状況下かなあ、など。ただ、それについても、現状まだ言えることはなさそうだ。

 

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2020.03.25

絶対分詞構文をめぐって

 今期の『まいにちフランス語』応用編は面白かった。初心者向けの講座が多いという印象の清岡智比古先生だが、今期はきっちりと内容の濃い中級の講義だった。テキストの挿絵の、じゃんぽ〜る西さんも素晴らしかった。これ、元絵がカラーならカラーの画集にしてほしいな思えるほど。
 いい講義だったので、終わってテキストを合本に製本しなおすかなと思っていたら、来期というか4月から再放送するらしい。じゃあ、またこのまま使うかなと思った
 で、講義中に、絶対分詞構文が出てきた。

Le premier moment de surprise passé, les habitants sont en général très amiables et nous accueillent bien.

 文法説明的には、passéの前にétantがあるけど、これは省略できるので、上の文のようになるということで、むしろ省略したほうが自然。もう一例はこれ。

Le courage me manquant, je n'ose pas lui parler.

 で、そういえば、「絶対分詞構文」って英文法では「独立分詞構文」と言ってたなと思い出す。まあ、仏文法用語と英文法用語の違いというだけで、文法的には同じものと言っていいのだろうがと思い、上の2文を英語にするとどうかなと思った。直訳的だと、こうなるかな。

The first moment of surprise passed, the inhabitants are in general very friendly and accommodate us well.

The courage laking me, I dare not speak to her.

 これが英語として自然なのかというと、用語の選び方と構文の選び方を考慮する必要があるだろう。
 というあたりで、Google翻訳とDeepLで試してみた。ついでにBing翻訳も。

【Google】
The first moment of surprise passed, the inhabitants are generally very friendly and welcome us well.

I lack the courage, I dare not speak to her.

【DeepL】
After the first moment of surprise, the inhabitants are generally very friendly and welcome us well.

I miss the courage, I don't dare to talk to him.

【Bing】
The first moment of surprise passed, the locals are generally very friendly and welcome us well.

I don't dare talk to him about the courage.

 翻訳機としての優劣はよくわからないが、英語ネイティブ的にはDeepLが達意なのではないかと思う。ただ、DeepLは構文を変えているのと、このb)は非文(非文法文)なのでないか。
 他が、非文なのか、というのもよくわからない。
 独立分詞構文について『実践ロイヤル英文法』を見ると、その下位項目に「独立分詞構文」と「懸垂分詞構文」を載せている。違いは、主語を省略すると懸垂分詞構文ということのようだ。
 同書で独立分詞構文はというと、「分詞構文の主語が本文の主語と違う場合には、分詞の前に主語を主格のまま置く」とある。
 これはどうなのだろうか?
 というのは、主格の名詞と動詞の分詞を結合した句をそのまま従属文のように使って英文法として文法的なのだろうか? 例えば、次のような文章は、英文法的なのか?

Japan being a very volcanic region, there are a lot of hot springs in Japan.

 なお、補足にもなるが、先の同書では、「これを独立分詞構文というが、さらに文語的になる」とある。疑問に思うのは、この構文はラテン語の翻訳から、ラテン語文法が、英文法の規範として残っている歴史的な残存なのではないかということだ。
 というのは、これは、ラテン語文法の絶対奪格(ablativus absolutus)の構文で、フランス語の絶対分詞構文(structure participiale absolue)という用語の元になっているのではないか、と思えた。
 もしそうなら、英語の独立分詞構文の「主格」に見えるものは、元来は、ラテン語の奪格の構文を正しい文法として直訳的に写し取ったのではないか?
 あるいは、ラテン語文法の絶対奪格の構文や古典ギリシア語では属格を取るので、これも英語に移されて、分詞の主語を示す所有格となっているのではないか?

 

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2020.03.24

「開け、ゴマ」って、そういう意味だったの?

 長いこと疑問にも思っていなかったけど、実はとんでもない勘違いをしていた、ということは誰もあるのだろうと思う。「こんだら」とか。まあ、それに類することなのだが、びっくりしたのだった。「開け、ゴマ」である。60年以上生きていて、ずっと誤解していたのだ。
 「開け、ゴマ」
 もちろん、それが何かは知っている。『千夜一夜物語』(アラビアンナイト)の『アリババと40人の盗賊』に出てくる、呪文だ。岩戸に盗賊団が隠した宝物をアリババという少年が、潜み聞き及んだこの呪文で岩戸を開いたというあれだ。
 英語だと、Open Sesame (オープン・セサミ)である。「セサミストリート」もこれに由来しているはずだが、どのような由来だったか。おとぎ話の世界で、呪文で夢が開けるといったイメージで捉えていたのだ。というところで、Wikipediaを見るとこうある。

「セサミストリート」とは、番組の舞台となっているニューヨーク・マンハッタンにあるとされる架空の通りの名である。アラビアンナイト(千夜一夜物語)の『アリババと40人の盗賊』の中に出てくる呪文「開けゴマ(open sesame)」からきており、「宝物が隠されている洞窟が『開けゴマ』の呪文によって開いたように、この番組によって子どもたちに新しい世界や知識の扉をひらいてほしい」という願いが込められているとされる。

 僕もそう思っていたのだが、英語版にはざっと読んだが由来の話はなかったみたいだ。探すと、40 things you didn't know about Sesame Streetというページにこうある。

Why the name Sesame Street? After a long search for a catchy name, one of the show’s writers suggested “Sesame Street.” The word “sesame,” an allusion to the fabled command from The Arabian Nights, “Open, Sesame!,” suggested excitement and adventure. Since the show was set in an urban street scene, “Sesame Street” seemed an ideal combination.

なぜセサミストリートという名前なのか? グッとくる名前を探していたあげく、番組脚本家の一人が「セサミストリート」を提案しました。「セサミ」という言葉は、アラビアンナイトに出てくる「開け、ゴマ(セサミ)!」という有名な命令を連想させるもので、興奮と冒険を連想させるものでした。ショーの舞台が都会のストリートシーンであることから、「セサミストリート」は理想的な組み合わせのようでした。

 これが由来なら、つまりは、詳しく由来はわからないということだろう。後付けかもしれないし。
 さて、話戻して、「開け、ゴマ」を自分が勘違いしていたんじゃないかと思ったのは、フランス語の講座で、"Il espère pouvoir obtenir ce précieux sésame qui lui permettrait de s'installer en France"という文があり、そこに「貴重なゴマ(précieux sésame)」という語があり、これはフランス語では、「成功の鍵」の比喩らしい。もしかすると、「セサミストリート」も、アラビアンナイトに由来するとしても、近くはその意味合いでは?とも思った。
 という関連で、講座で、「開け、ゴマ」のフランス語も出てきた。

Sésame, ouvre-toi !

 え?
 私は、「開け、ゴマ」というのは、岩戸に向けた言葉で、「ゴマ」はパスワードだと思っていた。違うのだった! 日本語や英語ではわからなかった。
 開けって言われているのは、ゴマだ。しかも、「セザムよ、お前〜」という親しい言葉使いなので、あれれれ、それって、普通に言ったら相当に、あれれれれ、いいのか? 私は、マルドリュス版の『千夜一夜物語』を読んだことがあり、「荷担ぎ屋と三人の娘の物語」の話とかうっすら覚えているからして……ああ、なんてこった。
 それにしても、なんでよりによって、"ouvre-toi"なのかと調べたら、この話というのは、アラビアンナイト起源ではなく、アントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)の創作っぽい。いずれにせよ、このフレーズについては、元から、フランス語だったようだ。Wikipediaにはこある。

Malgré d'intenses recherches menées depuis le XVIIIe s., on n'a jamais pu trouver de sources arabes et orientales à ces histoires "orphelines".

18世紀以降の熱心な調査にも関わらず、これらの「孤立」物語についてアラビア語や東洋語でのソースは見つかっていません。

 考えてみるに、歴史(histoire)というのは、こういう構造の物語(histoire)なんだろうな。

 

 

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2020.03.23

アニメ『ゆるキャン』

 アニメ『ゆるキャン』が面白かった。が、どう面白かったのかと言うために、実に、奇妙な感覚を強いられる。
 優れた作品か?と問い直して、やはり、もにょる。それほど優れた作品ではないけど魅力的、とでも言いたい気もするが、そうでもない。絵もそこそこきれいだし、コンセプトとかキャラもいい、と言えばば、それもそうなのだが、それでも、もにょる。友情? 女子トーク? まあ、そういう何かではない。
 学習漫画『キャンプ入門』というのでもあれば、それに近い気もするし、特段、深いコンセプトがあるわけでもない。
 なんというのだろうか。
 まず……、私はびっくりしたのだった。
 女子高生が一人で冬にキャンプってするのか? 昭和な私には、ありえねーと思ったのだが。危険じゃないのか。いや、危険じゃないし、別に女性高校生が一人キャンプに行ってなにが悪いわけでもない。ただ、昭和時代にはそれは実質無理だったのではないか。いい時代になったなあと思った。私は老いたな。
 次にびっくりしたのは、キャンプ場というのは、ようするに民宿みたいなものだなということ。知識としてはさすがに知っていたが、まざまざまとチェックイン・チェックアウトとか、トイレと水場とか、風呂まであるのだなあというのは、ため息が出る。私のイメージのキャンプというのは、もっと、なんだろ、なんか、原始時代のような何かだ。トイレとか水場とか、ないというか。
 そう、いろいろびっくりしたのだった、このアニメで。
 そもそも、なんでキャンプに行きたいのか。答えは、行きたいから、それだけなのだ。なぜ山に登るか?そこにうんたらとかいう修辞すら、もう要らないのだ。
 そしてキャンプで何をするかというと、おいしい飯を作って、きれいな風景を見て、遊んで、うーむ、キャンプみたいじゃないかというか、それがキャンプなんだなあ。
 用具も、ホームセンターとか洋ドラとかで見てて、ある程度は知っていたが、いろいろ進歩しているものだなとも思った。
 つまり、見ている私も、ソロキャンプに行きたくなった。山梨もいいなあ。
 で、まあ年齢とか病気とかでまあ無理だろうなとも思った。
 アニメというか、物語のほうに戻すと、志摩リンという少女のソロの感覚がとてもよかった。自然に向き合って、一人でいたいというのは、なんだろ、痛いほど共感する何かだった。ぼうっと焚き火もしたいなあ。

 

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2020.03.18

米津玄師「Lemon」の”意味”をなんで人は知りたいと思うのだろうか?

 米津玄師「Lemon」でちょっと気になることがあって(それは後で述べるけど)、ネットでちょっと調べようとしたら、どうも少なからぬ人が、米津玄師「Lemon」の”意味”を知りたいと思っているような様子を見かけて、不思議な気持ちになった。
 いあ、まあ、気になる作品や、世の中で大ヒットした作品をより深く知りたいと思うことはなんら不思議でもないだろうとも思うのだが、この件について、私は、当初、そんなことも考えていなかったのだった。「Lemon」の”意味”? 考えたこともなかった。
 私は何を言いたいのか? ちょっと例を出して補足してみたい。例えば、こういうWebページの記事があった。《課題『この曲が売れた理由分析レポート – 米津玄師「Lemon」》(参照)。

なぜこの曲が売れたのか。生徒の皆さんから提出された分析レポート、そして一郎先生による分析も紹介していきます。

 ということで、「生徒」さんの分析レポートをもとに話題が展開される。必ずしも解答というわけではないだろうが、結語的なメッセージはこういうことのようだ。

音楽っていうものの役割が、ちゃんと映画の世界観の中に入り込んでいたし、ドラマもちゃんと内容がマッチすることが前提だったのが、音楽的業界システムとして、タイアップになるとヒットするとか……主題歌になると売れる、CMで流れるとヒットするからっていう政治的な要因が強くなってきたと。つまり、ミュージシャン側っていうよりもレーベル側が強くなっていったから、その曲を聴くとその商品が思い浮かぶとか、この曲を聴くとあのドラマを思い出す……要するに、関連づける。目で見えないし手で触れない音楽だから、その曲を聴くことでその曲に関連していることを思い浮かばせるツールとして音楽が使われることになっていったことによって、内容とぶつけるっていうより、政治的な内容が強くなってきていた中で、この「Lemon」が象徴的にあったんじゃないかなって。
(中略)
でも、彼はその感覚をドラマの主題歌の中でやったっていうのはすごくパーソナルなことだし、勇気がいることだと思うんです。だから曲に込める本気度が違うというか、狂気にまで込めたと思う。いろんなタイミングがあったんだと思いますね。でも、この彼の才能がヒットを生み出したということはすごく健全なことなのかなっていうのがあるね。だから、曲のメロディーと歌詞のエネルギーみたいなものも変わってきていて、よりロック的になっている。

 つまり、音楽業界の通例を打ち破る、創作の「本気」や「狂気」が曲のメロディーと歌詞のエネルギーになった、ということらしい。
 私としては特段に異論もない。が、長い引用のわりに、さほど関心もない。ただ、こういうふうに考えるんだなという例として、手短な引用ができなかった。
 他の引用は避けるが、他にネットでは、PV映像の解釈や歌詞の解釈、それから、コード進行の解説といった話題が多かった。
 さて、私が当初疑問に思ったのは、この曲が、嬰ト短調だったことだ。そしてそれに続く疑問は、YouTubeなどで見かけるこの曲のピアノ演奏が、同じく嬰ト短調が多いことだ。そもそも私自身、この曲をピアノで練習していて、へえ、嬰ト短調なんなんだと思った。

Gsharp
 嬰ト短調である必要はなんだったのだろうか?
 特に理由もないかもしれないし、嬰ト短調がもっともよい調だったということかもしれない。ショパンの『マズルカ第22番Op.33』や『前奏曲第12番 Op.28-12』みたいに。
 ただ、ピアノ弾きながら、これ半音ずれせば、イ短調ですよね、というのはすぐにわかる。嬰ト短調なら黒鍵だらけになるが、イ短調ならそうでもない。一見すると、イ短調のほうが弾きやすい印象もある。
 「移動ド」の考えなら、つまり、音程なら、嬰ト短調でもイ短調でも同じ。たぶんだが、米津玄師はこれピアノなど器楽で作曲したのではなく、歌うメロディーのラインで作成して、自分の声に合わせて、嬰ト短調としたのではないか。あれだ、カラオケで自分の音域に合わせて、半音さげるということ。
 と、すると、こういう曲を原調でピアノ演奏する意味があるのだろうか。元が元だし、歌に合わせていいんじゃね的な絶対音感の感覚だろうか。
 あるいは、先にふれたように、ショパンのように意図的にこの調性を選んだか。というのも、嬰ト短調は、ピアノで弾きにくいかというと、そうでもない。弾いていて思ったのだが、これ、「ねこふんじゃった」に似ているなあという印象があった。
 Wikipediaにもこうある。

ピアノでは黒鍵を多用するため運指が比較的容易な調といわれている。一方、ヴァイオリンでは開放弦がほとんどなく、Fダブルシャープも使われるため、大変弾きづらい調である。

 嬰ト短調はピアノで弾きにくいわけでもない。だから、ピアノ演奏でもそのままなのかもしれない。とはいえ、ピアノから離れても、つまり、黒鍵を多用する的な曲というのは、ペンタトニックっぽい。民謡っぽい。と思ったら、Wikipediaにはこうもある。

演歌に多い音調。現在の電子楽器の普及により歌手の肉体条件(高い音程で歌える能力の有無)にあわせ、簡単に調整できることが反映している。読譜しやすいイ短調の曲譜面で半音下げた嬰ト短調を演奏することは容易である。

 ここで、私はちょっと自分なりに腑に落ちたのだった。
 それと、米津玄師「Lemon」って、演歌や民謡が本質なんじゃないだろうか? 飛躍するが、米津玄師というミュージシャンは演歌とか民謡ジャンルに近いんじゃないだろうか? というあたりが、日本人、というかアジア人的な琴線だったんじゃないか?

 

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2020.03.17

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で心がけていること

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で心がけていることをまとめてみた。あくまで個人的な見解で異論もあるだろうとは思うし、デマと批判されるかもしれないなとは思う。いちおうそれぞれに理屈はつけておくので、繰り返すけど、あくまで、ご参考までに。(あと、身近に感染者がいる場合は、話は別です。)

マスクをしない
 市販のマスクには、インフルエンザや新型コロナウイルス感染症(COVID-19)などの予防効果のエヴィデンス(科学的根拠)は、ない。「水への伝言」と同じ。ただ、今後今回の騒ぎののち、効果が検証されるかもしれないが。
 マスクは花粉症の人や抗がん剤治療の日常生活に必要とする人もいるので、そういう人が入手しやすい状況を支援したい意味でも、市販マスクの購入はしない。(参照)
 マスクをすることで病原体が口に触れるのを防ぐという人がいるが、これらのウイルスは目からも感染するので、だったらなんでメガネしないのかよくわからない。それとマスクはけっこう手で触れることがあるので、むしろマスクが感染源になりがちだと思う(特に使い捨てでないと)。

アルコール消毒は適時に(石鹸でいいから)
 他人と行動するとき、屋外に入るとき、なんとなく「みんなアルコール消毒しましょうね」みたいな雰囲気のときは、適当に従っている。それくらい。強迫観念行動形成にしないように。
 そもそもなぜアルコール消毒をするのか?
 ウイルスの脂溶性のエンベロープを壊すため。なので、アルコール消毒でなくても、石鹸でもよい。石鹸で手もみ洗い。手の甲も。爪にも注意。20秒ほど。流水で流す。(参照)
 ただ、アルコール消毒のほうが速乾で簡便なのでよく利用されるのは了解している。

ニュースを見るのを控える、特にSNS情報
 ニュースを見るのを控えることにしている。なぜ?
 WHOも推奨しているのですよ(参照)。

Minimize watching, reading or listening to news that causes you to feel anxious or distressed;
不安や動揺をあなたに感じさせるニュースの見たり、読んだり、聞いたいすることを最小限にしなさい。

 ついでなんで、もう少し引用。

Seek information only from trusted sources and mainly to take practical steps to prepare your plans and protect yourself and loved ones. Seek information updates at specific times during the day,once or twice. The sudden and near-constant stream of news reports about an outbreak can cause anyone to feel worried. Get the facts; not the rumors and misinformation. Gather information at regular intervals, from WHO website and local health authorities platforms, in order to help you distinguish facts from rumors. Facts can help to minimize fears.

情報は信頼できる情報源からだけ求め、重点的に、計画を立て、自分と愛する人を守るために、実践的な手段を講じなさい。最新情報については、1日に1回か2回、特定の時刻に知るようにしなさい。爆発的な蔓延についての、突発的でひっきりなしのニュース報道は、誰だって不安させます。噂や誤報ではなく、事実を知りなさい。事実とうわさを区別するのに役立てるには、WHOのウェブサイトや地元の保健当局から定期的に情報を収集しなさい。事実は恐怖を最小限に抑えるのに役立ちます。

 SNS情報は、事実かどうかはっきりしない情報源なので、避けておくほうがいい。

なにげに人と距離を取る
 もともと、私はなにげに他人と距離を取る人なのだけど、最近は意図的に他人と1m以上の距離を取るようにしている。特に、コンビニのカウンターとか。理由は、飛沫感染のきっかけを減らすため。

散歩をする・部屋の換気
 空気のよいところを散歩する。空調のいい大きなショッピングセンターへも行く。気分転換と、運動不足解消のため。
 適時、部屋を10分ほど換気。散歩中、家が無人になるなら、窓を開け放って換気する。換気は一般的な感染予防だし、カビ予防になるため。


 あと、なんかあったか。思い出したりしたら、追記するかも。


追記

 マスクの件については、疑問に思う人もいるかもしれないと思うので、3月15日付のテレグラフ紙を参考までに引用しておきたい(参考)。この記事にあるように、むしろマスクは予期せぬ害の可能性もある。

Do face masks work?
 They are not recommended by Public Health England (PHE), the NHS or the World Health Organisation (WHO), or the American Centers for Disease Control and Prevention (CDC) because there is no solid evidence they work and quite a lot of worry they may do unforeseen harm.
 Dr Jake Dunning, Head of Emerging Infections and Zoonoses, Public Health England, says: "Face masks play a very important role in clinical settings, such as hospitals. However, although there is a perception that the wearing of face masks may be beneficial, there is in fact very little evidence of widespread benefit from their use outside of these clinical settings.”

一般的なマスクは機能しますか?
  イングランド公衆衛生(PHE)、国民保健サービス(NHS)、世界保健機関(WHO)、または米国疾病管理予防センター(CDC)では推奨されていません。それらが機能しているという確固たるエヴィデンスがなく、それらが予期せぬ害を及ぼすかもしれないという非常に多くの懸念があるからです。
  イングランド公衆衛生の新興感染症および人獣共通感染症の責任者ジェイク・ダニング博士は、次のように述べています。「一般的なマスク(フェイスマスク)は病院などの臨床現場では非常に重要な役割を果たします。しかし、フェイスマスクの着用は有益であるとの一般認識があるとしても、 実際、これらの臨床環境以外での使用による広範な利点についてエヴィデンスは、ほとんどありません。」

 

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2020.03.16

オカリナを3つ買った話

 オカリナを3つ買った。結局、という感じ。どれもプラスチックのオカリナなので、オカリナをきちんとやる人には参考にならない話が、以下である。
 なぜ、オカリナ?
 合唱の音取り用である。この用途にはすでに小さい電子キーボード(SA-46)を買って使っていたのだが、それでも持ち運びというか、気楽に持つには大きい。ので、小さな笛のようなものがあればいいかなと考えていた。それで、オカリナ、ということになったかというと、そうでもない。私はオカリナがあんまり好きではないのだ。小学生のころ学研の学習という雑誌の付録についてきたプラスチックのオカリナを使っていたことがある。面白いなくらいには思ったが、中学生以降吹いた記憶がない。それと、オカリナが好きな人というのに微妙な抵抗感があったりもした。なんだろ、トトロみたいな。
 リコーダーはどうか?というと、リコーダーには小学生のときのトラウマ記憶がくっついているのでやりたくない。音を聞いても、いやな記憶が蘇る。
 で、一巡して、オカリナか、とりあえず、となった(実はこの間フルートも買ったがその話はいずれ)。高価なオカリナは必要ない。というか、マジもののオカリナでなくていいと思っていたが、さて選ぶとなると、悩む……ということがなかったのである。どうやら、NIGHT by Nobleというのがすごい人気で、YouTube見てもお勧めは多い。まあ、無難にそれなんだなと思って買った。韓国製、無問題。

 

 NIGHT by Nobleは、へーと思った。本物のオカリナというのをまともに吹いたことはないが、音色は美しい。プラスチックなのだけど、しっかりとした重みもあり、安物感はない。というわけで、これでいいんじゃねと思っていたのだが……。 自分がオカリナをよく知ってなかったせいもあるが、高音部のときには、オカリナは呼気を増やす必要がある。つまり、呼気の扱いが難しい。フルートなんかだと低音が難しいのだけど(高音も難しいが、ちょっと感じが違うなあと思った。「虹の彼方に」(Over the Rainbow)だと、しょっぱなからオクターブ上がる。これが気を抜くとかすれる。あと、中盤の半音階も安定しにくい。
 オカリナも楽器なのだから、きちんと向き合うべきだし、それでもNIGHT by Nobleは扱いやすいほうなんじゃないかとも思うが、さて。
 というあたりで、なぜかソプラノ管がなんとなく欲しくなった。小さいもの大好きクラブ的な感覚もあるのだ。魔笛のぴろろろろをやりたいような感じもある。悩むほどの価格でもない。オオサワオカリナのソプラノ管を買った。台湾製、無問題。

 

 これは吹きやすい。オカリナってこれでいいんじゃないかと思いつつ(もちろん音は高い)、ふと、もしかしたら、オオサワオカリナのアルト管も扱いやすいんじゃないか、呼気も楽なんじゃないか、と思った。このあたりのことは、ネットの評を見てもわからないから、買ってみた。
 なるほどね。NIGHT by Nobleより呼気が楽だ。音色はNIGHT by Nobleのほうがいいけど、気楽な感じは、オオサワオカリナのアルトでいい気がしてきた。

 
 かくしてオカリナ3つ。
 オカリナって、マジでやるなら、陶器のきちんとしたのがいいのだろう。それと、安価帯ではNIGHT by Nobleもそれなりにいいんだろうと思うが、小学生以降初めてというなら、オオサワオカリナのアルト管が吹きやすい。
 話が雑駁になるが、オカリナのアルトC管でも、ドの下のシとラまで出る。特に、NIGHT by Nobleのこの2音は安定していて美しい。フルートだと初心者には下のドを出すのが難しいので、オカリナのこの音域は嬉しい。
 プラスチックオカリナの欠点はいろいろあるのだろう(楽器というのはつまるところお値段であるし)。なかでも、プラスチックのオカリナの特性らしいが、呼気の水滴がたまりやすく、音がつまりやすい。NIGHT by Nobleよりオオサワオカリナのアルト管のほうがつまりやすい感じがする。が、私の場合、演奏会みたいのをするわけでもないので、それほど致命的な欠点でもない。
 それと、どのオカリナを始めるにせよ、個人的に思うのだが、全指を離して、最高音のファを出してみるといい。この音が安定的に出せる呼気がオカリナを吹くときの基準になるだろう。
 当初、オカリナについては、合唱の音取り用を思っていたが、なんであれ楽器というのは楽しいので、適当に曲を吹く。気楽である。オカリナは比較的ハードルが高くないので、ほんと気が楽だ。

 

 

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2020.03.15

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応では先進国間の差はあまりないだろう

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応について、ジャーナリズムとしては、政局の文脈、つまり、現政権批判という文脈で語りたくなってしまうものだろうなとは思っていたので、たまたまだが、Yahooブログの木村正人・在英国際ジャーナリストさんの記事『新型コロナで浮き彫りになる安倍首相の“独り相撲” 英首相は科学主導の三人四脚 どちらが立派?』(参照)を見かけたときは、まあ、そういう記事を書きたくなるものだろうなとは思った。こういう話にしていた。

 イギリスではパフォーマンス好きのジョンソン首相でさえ医学と科学に頭を垂れ、チームプレーに徹しています。欧州連合(EU)加盟国とは異なるアプローチをとるホウィッティ主席医務官とヴァランス政府首席科学顧問からは科学に基づく確固たる自信がのぞきます。
 不安を覚えるのは安倍政権の政策決定にどれだけ科学的知見が生かされているか、です。新興感染症の流行に対する行動計画のフェーズと目標が首相、厚労省、自治体、病院、現場の医療従事者、市民の間で共有されているか――という点です。
 安倍首相は新型インフルエンザ等対策特別措置法を改正して緊急事態宣言を行い、新型コロナウイルスをねじ伏せて五輪開催にこぎつけたいのでしょうか。首相がこれまで以上に“独り相撲”を取り出すと、戦いの最前線である医療現場が大混乱してしまう恐れがあります。

 安倍首相が「独り相撲」をしているかについては、そうでもないのではないかと思うが、その議論はさておき、イギリスの対応が「欧州連合(EU)加盟国とは異なるアプローチをとるホウィッティ主席医務官とヴァランス政府首席科学顧問からは科学に基づく確固たる自信」というのは、どうなんだろうかとは思った。簡単に言えば、「安倍政権は非科学的だが、イギリスは科学的だ」となりそうだ。また、「欧州連合(EU)加盟国とは異なるアプローチをとる」という修辞も少し考慮したほうがいいのではないか。
 イギリスでの対応については、BBC記事『なぜイギリスは学校を閉じないのか 新型ウイルス対策で独自路線の理由』に説明もあり、さらに追記もあるが、イギリスでも日本と同じというかEUと同じ対応を取ろうとしていることは、別記事『Coronavirus: UK could ban mass gatherings from next week』(参照)にもある。
 加えて、イギリス政府の対応にイギリス国内での異論があることは、ブルームバーグ記事『U.K. Says Virus Needs to Infect 60% of Britons to Save Lives』(参照)などにもある。

“I’m very worried in the U.K. that we’re not acting quickly enough,” Devi Sridhar, a professor of global public health at the University of Edinburgh in Scotland, said by phone. “Speed is of the essence. That’s what we’ve learned with this virus and how contagious it is.”

「英国において私たちが十分迅速に行動していないことを非常に憂慮しています」と、スコットランド、エジンバラ大学グローバル公衆衛生学教授デヴィ・スリダールは電話で言った、 「スピードが最重要です。 それがこのウイルスで私たちが学んだことであり、またどれほど伝染性があるのかということです。」

Former Health Secretary Jeremy Hunt questioned the government’s position Thursday, saying he was surprised the U.K. hadn’t moved to stop all mass gatherings. There was evidence of other countries like Thailand that have been “strikingly successful” at stopping the spread of the virus by taking “social distancing” measures, he told Channel 4 News.

ジェレミー・ハント元保健医療相は木曜日、政府の立場に疑問を呈し、英国がすべての集会を停止させなかったことに驚いたと述べた。 タイのような他の国々だが、「社会的距離」戦略を講じることでウイルスの拡散の阻止に「驚くほど成功した」エビデンスがある、と彼はチャンネル4のニュースに語った。

 また、ボリス・ジョンソン首相がこの件で英国民に強く支持されているわけでもない(参照)。
 とはいえ、ホウィッティ主席医務官とヴァランス政府首席科学顧問が医学的に間違っているというわけではない。基礎となるのは、BBCが保健医療省のソースをまとめた次のグラフ表現である。

Corona1

 実は、日本の有識者会議も2月時点で同じ見解を示していた。

Corona2

 英国と日本と異なるグラフのように見えないでもないが、医学的な基盤は同じであるがゆえに、本質的には同じものであり、力点と時期評価の表現に差があるだけにすぎない、と見ていいだろう。そして当然、どちらも、終息は集団免疫によることを想定している(これは会議議事録からもわかる)。
 英国のグラフ表現では、終息時期が夏と明記されているが、日本のグラフではそこまで明確な時期は明記されておらず、また、対応しない場合の終息が早いとしてもそれほどの差を見ていない。
 他方、日本のグラフでは、患者数と医療機関との対応の差を重視し、非対応の患者を減らすことに重点を置いている。
 一見すると、日本政府のほうが患者を重視しているかのようだが、現実的に考えるなら、どの国であれ、患者数が増えれば医療機関での対応は不可能になり、一定の死者が出てくる。この点について、ジョンソン首相は「より多くの家族が、彼らの愛する人たちを寿命の前に失うことになるだろう("many more families are going to lose loved ones before their time.")」と明瞭に述べている。この点については、それを言うか言わないかに関わらず、患者数に比例して死者は増えることになる。
 以上をまとめると、医学的な知見の根幹は英国でも日本でも他国でも基本的に同じであり、基本的な対応の限界も同じであり、あとは政治的な修辞の差しか存在していない。
 個人的な意見を加えるなら、そうであるならば、それを政局の文脈に置き換えた「ニュース」を作り出すことはあまり適切なことではないだろうと思う。
 さて、個人的な意見をもう一つ加えておくと、英国の資料で、感染拡大を事実上放置して得られる集団免疫の成果を夏に想定しているのは、おそらくCOVID-19も他の4種のコロナウイルスによる風邪のように冬風邪の想定があるからではないか。

 

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2020.03.14

アニメ『けいおん』を全部見終えて

 人は知らず、呪いの言葉を抱えて生きていることがある。私のその一つは、「第三発目の原子爆弾はまた日本の上に落ちると思います」という言葉だ。
 エッセイ集『思索と経験をめぐって』の『木々は光を浴びて』の最後に、次の文脈に続いて唐突に現れる。

どういう話のきっかけだったか忘れたが、というのはその時かの女が言ったことばに衝撃をうけて、何の話の中でそうなったのかよく記憶していない。かの女は急に頭をあげて、殆ど一人言のように言った。

 場所は国際基督教大学。森は1969年から同大の教授であった。時代は1970年代に至るあの空気のなかにあった。「かの女」というのは、当時の若いフランス人である。 森はこう続ける。

とっさのことで私はすぐには何も答えなかったが、しばらくしても私はその言葉を否定することが出来なかった。それは私自身第三発目が日本へ落ちるだろうと信じていたからではない。ただ私は、このうら若い外人の女性が、何百、何千の外人が日本で暮らしていて感じていて口に出さないでいることを口に出してしまったのだということが余りにもはっきり分かったからである。

 森らしいもったいぶった深刻さの修辞を読み解くことはそう難しいわけではない。それに曖昧な深刻さのなかでその言葉を受け止めてしまえば、ただの呪いになることもわかりやすい。なのに、その呪いを若い日の私は受けて、その後を生きてきた。抗うこともなく、直感的に若い日の私は森の言葉に共感してしまったからだ。それはどういうことなのか。私は長い期間のブログを通して、あるいはcakesの連載などを通して語れるものかと悩み続けたが、表現にならなかった。ただ、憎悪と敵意を生み出してしまう何かが日本の社会と伝統のなかにあるという呪いに耐えていた。それはときに正義の仮面をかぶっていた。
 森は、端的に言えば、フランスかぶれと言っていい。フランスの知と情念の伝統のなかに溶け込んだ。日記ですらフランスで書くしかなくなっていた。彼は、その呪いを日本語で残しながらも、そっち側にいた。日本の精神性の外部にあり、また外部に立つ重要性をキリスト教の伝統のなかで説いていた。
 他方、ここで私は吉本隆明を思う。彼は、こっち側にいようとした。日本の内在的な精神性の内部にあり続けようとした。未来の萌芽が現在を乗り越えていくことに、マルクスのように期待を賭けていた吉本だが、その思索はマルクスやヘーゲルとは逆方向に、日本の内在的な精神性の内在性のなかに可能性を――人の幸福な生き方を導く精神性――を見出そうともしていた。彼はヘーゲルを借りた「ヨーロッパ的段階」と「アジア的段階」の、その関係の逆の方向に人類の未来を甘く夢想してもいた。アジア的段階から『天皇」を除去しようとしていたのかもしれない。
 彼は後年、その延長で「アフリカ的段階」の可能性を構想した。いや、ここで私は吉本の後期思想をまとめようとしているのではない。彼がヘーゲルやマルクスを認めながらも、転倒する意志をもったのは、おそらく甘美なビジョンがあったからだろう。彼の初期詩集に見られる憧れのような。
 そうした吉本が求めた日本の内在的な精神性を、簡明なイメージで言うなら、議論を省くが、宮沢賢治の文学世界であったと言っていいはずだ。それは、《雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル》にも見られる。が、通常この詩は、その「負けない」に焦点が置かれがちだが、ここに潜む至高は「笑っている」にある。人を優しく気遣いながら笑っている人たちの光景である。賢治の理念の突き抜けたところにある聖なるもの――日本の内在的な精神性の極点――は、苦しみや悲しみを脱したところにある。賢治が描ききれなかった明るい世界の方向にある。
 日本人は戦後を超え、戦後の終わりを超え、その大きな無意識的な内在的な、明るい精神性のビジョンを静かに模索してきたのだろう。そしてそれは、今どのような光景として、私たちに迫るのか? 冒頭の呪いを想起するなら、その美しく微笑ましい精神性の光景はどのようにして呪いを解くだろうか。
 私がアニメ『けいおん』――映画を含めて――を見て震撼したのは、その聖なる光景だった。日常の細部のなかに寄せる、宝石箱を覆したような精神性がささやかに聖なるものを顕現させていく。その光景が、ゆたかなアジア的な笑いのなかに描かれていた。そして、アフリカ的なリズムで活性される。なにより笑いがある。「ごはんはおかずだよ」
 それを特徴的に『けいおん』の文脈でいうなら、中野梓が、「4人の」軽音部・新歓ライブに出くわしたその衝撃である。聖なる空間が向こう側から彼女に開けた。
 つまり、梓はこちら側――作品を見る側――にあることの、一つの作品装置なのである。「4人の」というのは、「4人の天使の」である。天使の聖性は、日常を装った向こう側にあった。そして、この物語は、天使の聖性が、梓(私たちの現在という視点装置)を代表するように、「あなたが天使であった」と、天使の側が告げることで終わる。
 吉本隆明が求めた日本内在の精神性の、その聖性は、あたかも、ようやく新しい次元に到達したかのようだ。が、それでは、森有正の、あの呪いは解けたのだろうか。

   

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2020.03.13

これは東京オリンピック中止(延期)かな

 ああ、これは東京オリンピック、中止かなと思った。物騒なので書かなかったが、以前からその想定もしていた。が、まあそろそろ言ってもいいレベルになってきたなあと思った。その一番の要因は、トランプ米国大統領が12日、その意見を表明したことだ。
 もちろん、「中止」という言葉は修辞的に「延期」とされていたし、実際のところ、まったく中止で以降はなし、というわけにもいかないだろうから、延期にはなる。インディペンデント紙のリードでは、"Olympics should be cancelled amid coronavirus outbreak, Donald Trump suggests"(ドナルド・トランプは、コロナウイルスの発生中にはオリンピックをキャンセルすべきだと示唆した)とあるが、「キャンセル」という言葉も響く。修辞的には「キャンセル」は「中止」とは違うとも言えるが、実質同じだろう。
 「キャンセル」という修辞は、そもそもトランプ米大統領の公式発言にあった(参照)。

“I think if you cancel it, make it a year later, that’s a better alternative than doing it with no crowd.”

「キャンセルして、1年後にするなら、そのほうが、大勢の人がいないままやるよりは、よい代案だと思うよ」

 で、面白いのは、この発言の文脈である。前半も含めて引用しよう。ちなみに、「They’re very smart.」は「日本人だってバカじゃないから」と訳したいところだ。

Q Would you make that recommendation to your friend, Shinzo Abe?
PRESIDENT TRUMP: No, no. They’re very smart. They’re going to make their own. But, you know, I like that better than I like having empty stadiums all over the place. I think if you cancel it, make it a year later, that’s a better alternative than doing it with no crowd.

Q あなたの友人である安倍晋三にそのことを推奨しますか?
トランプ大統領:いやいや。 彼らはとても賢い。彼らは自分たちでするだろ。でも、僕としては、あちこちのスタジアムを空っぽにしておくより、そのほうがましだ。キャンセルして、1年後にするなら、そのほうが、大勢の人がいないままやるよりは、よい代案だと思うよ。

 修辞を取り払うなら、本当に日本人をおバカだとトランプ米大統領が思ってないなら、そもそもこんな発言はしない。それどころか、少し利口になってくれ、というシグナルを出したということだ。もっとぶっちゃければ、ここで日本がオリンピックを強行したらこっち(米国)は困るんだよということ。そしてトランプさんらしいが、儲け話の線で、来年やればそれなりにビジネスもなんとかなるだろうというのだ。
 さて、こうして見ると、いかにもトランプさんらしい感じだし、文脈的には、NBAの話からオリンピックに流れているので、オリンピック・キャンセルの話は彼一流の話がすべったようにも感じられる。
 が、そもそもNBA中止の決断の背景だが、当然、米大統領としての決断ではあり、その決断材料がある。ドラマ"State of Affairs"でもあるように、米大統領が毎日、日例指示のブリーフィングを受ける。これだろう。この情報は吟味、総合されているのだが、この件での最大ソースはCDCのオフレコではないか。WHOも実際にはCDCに依存している。CDCとしては政治的な発言はできないが、基本的に国益のための機関だから、CIAとはつなぐ。いずれにせよ、トランプ米大統領のこの気楽げに見える発言の裏はCDCではないだろうか。
 実は、2月2日の時点でCDCはパンデミックの想定をしていた(参照)。当然、その想定の延長線上にはオリンピックの中止もその時点で想定されていたはずだ。というか、この間、その想定を受け取っていたのはCIAだろう。日本のジャーナリズムは官僚主義なのでWHOの公式見解を待つことを重視するがこれらの動向はCDCとCIAの動向が先行する。
 ここから先は推測は難しい。医学的には、COVID-19が季節性ウイルスのようになるかという点だ。つまり、実際には他の4種のコロナウイルスによる冬風邪で収まるかということ。この点については、熱帯での感染が目安になる。シンガポールでアウトブレイクがあれば、ほぼ確定(冬風邪とは異なる)になる。結論から言うと、現状ではよくわからない。現状、シンガポールはよく抑えている。ただ、マレーシアやさらにオーストラリアなど南半球にも感染が広がっている。
 南半球の地域はこれから冬なので、感染拡大が懸念される。現状、南米大陸への感染は目立っていないが、そこまで広がれば、仮に日本でコロナウイルスを抑え込んだとしても世界の側で、東京オリンピックにダメ出しをするだろう。
 中国当局側の予想では、中国国内では6月までに終息とのことだが(参照)、良い予想でもおそらく7月までは終息宣言はできないだろうし、その場合でも、8月のオリンピック前までに終息宣言が出せるかは、日中関係の政治的な駆け引きになるかもしれない。中国はこれから内政的に厳しい時代になるので、日本がオリンピックのためとはいえ、長期的な国益を毀損する妥協がないといいとは思う。

 

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2020.03.12

トロフィー・ワイフ的な何かから考えたこと

 ウオーレン・バフェットがこう問いかけたという。

世界一すばらしい恋人なのに、他人からひどい恋人と思われるほうがいいか、それとも、実はひどい恋人なのに、他人からは世界一の恋人だと思われるほうがいいか?

 『Think Clearly』からの孫引きである。同書では、こんなの当然、自分がすばらしいと思う恋人がいいに違いないという前提で、《この質問でバフェットが伝えようとしているのは、よりよい人生を手にするためのきわめて重要な意識のあり方だ》とつなげる。
 さらに、こう教訓する。《自分の内側にある自分自身の基準が大事か、それとも周りの人の基準が大事か》と。
 そう問われると、よりよい人生に「自分自身の基準が大事」ということになりそうだが、同書もそう簡単に割り切らず、《残念なことに、他人からよく思われようとするのは、私たちの中に深く根ざした「本能」なのである》と展開し、このあたりの文脈で、世界一の恋人の話は薄れてしまう。
 が、きちんと考えれば、人は、他人からは世界一の恋人だと思われるほうがいい、と本能的に決めるものだ、ということになる。
 ちなみに、とうのバフェットの離婚と再婚の話もなんとなくそっちに近い気がしないでもない。
 というわけで、トロフィー・ワイフ(Trophy wife)という言葉がある。英辞郎をひくと。

Trophy wife
〈話・侮蔑的〉トロフィーワイフ◆金や権力のある男性が自分の社会的地位を誇示するために迎えた(と世間から思われている)若くて美人の妻のこと。◆【語源】勝利または成功を収めたことを示すトロフィーを誇示するイメージから。

 社会的に成功した男が、若くて美人の妻を得ると、周りからこっそり〈侮蔑的〉に「トロフィーワイフ」と言われるわけで、現実よく言われているのは、トランプ米大統領の妻についてである。まあしかし、侮蔑的というより、羨望の裏返しというのが実際なのではないか。
 宇多田ヒカルの詞に「俺の彼女はそこそこ美人」というのがある。まあ、男はそう思いがちなのだろうし、同詞は、「あなたの隣にいるのは私だけれど私じゃない」と続くが、これも微妙にトロフィーワイフに割り切れない屈曲でもあるかもしれない。
 で、何が言いたいのか。
 なんだかんだ言っても、トロフィー・ワイフやトロフィー・ハズバンドみたいなものから人は免れない。Trophy wifeに相当する言葉はラテン語の時代からもあるらしい。Tropaeum uxorである。
 ようするに、曖昧な他者たちの評価は自意識に組み込まれている。
 というか、そもそも経済活動自体がケインズのいうように「美人投票」的な仕組みでできていて、誰が美人かというより、美人と思われているのに投票することで、価値や評価の幻影が生じている。
 そもそもその幻影こそが、個人の評価の源泉でもあるのだろう。
 つまり、世間や社会の価値観から自由に人は生きられるものでもない。
 すると、そこの折り合いをどうするか?ということになる。
 と、思っていたのだが、この展開、バグがあるかもしれない。
 要は、折り合いをつけたかのように振る舞えばいいだけのことだ。
 社会の価値や評価を考慮しているかのように、振る舞うだけで、内面はまったく異なる価値観を持って生きていても問題ないし、たぶん、幸せとかいうものは、そういうものなんじゃないか。
 美人投票で言えば、人が美人だと思うのはこの人なんじゃね、僕はぜんぜんそう思わないけど、で無問題。
 というわけで、トロフィー・ワイフという言葉は侮蔑的に使うとしても、逆に、内面で主体的にトロフィー・ワイフを求めてもいい。その結果、それが得られないのも止む得ないというのも自分の価値観の結果としてこっそり受け入れてもいいだろう。受け入れないとなると、また、それなりに、社会的な齟齬にはなるだろう。

 

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2020.03.11

羽生結弦選手に出会って人生が変りたいか

 信じる者は救われる。昭和の言葉と言っていいだろうか。近年とんと聞かない。が、NHK『ねほりんぱほりん』のアンコール番組、「羽生結弦選手に出会って人生が変わった人」を見ていて、その言葉を思い出した。
 羽生結弦選手のファンになって人生が激変したという女性3人のインタビューである。灰色だった世界がピンク色になったという。暗くつらかった人生が、ぱーっと明るく開けたのだろう。
 新約聖書に描かれるイエス・キリストの逸話も羽生結弦選手に出会った人たちのようなものだったのだろうか。番組では「救世主」という言葉も出てきたように思う。
 山ちゃんさんという司会者は「自分のすべてを捧げられる愛すべきものが見つかった人間って1番勝ちよね。本当そう思う」と言っていた。はあ。
  僕にはないなあ。たぶん、一生そういう出会いはないだろう。とはいえ、そう予感するような出会いがなかったわけではないから、なんだろ、不燃焼というか、人によるのだろうか。そういえば、イエス・キリストの話でも、聖書をよく読むと、熱狂して救われたかの人々も磔刑時には彼を見捨てていた。ペテロですら見捨てていたものだから、人生概ねそんなものかもしれない。
 番組で気になった言葉がある。「生命維持費」。曰く、羽生結弦選手を応援するために遠征でかけるなどの多額の出費は、自分の生命を維持するための最小限の出費だから、生きているなら、実質タダだというのだ。
 それも、新興宗教信者が多額のお布施をする心理と同じで、つまりは、救われちゃった人にありがちなものかもしれない。
 とはいえ。
 「生命維持」で、なんとなく、連想してしまった。チューブが繋がれた病床の人。
 「救われる」というのは、ああいう植物状態に延命装置がつながった状態でもあるのだろうな。いや、それがいけないとかむずかしい話がしたいわけではない。
 実際のところ、羽生結弦選手が生命維持に欠かせないというのは比喩で、その熱狂や会館なしでは生きられない、ということだよ。あれ?

 それは、麻薬のようでは?
 というか、マルクス曰く(『ヘーゲル法哲学批判 序説』)

 宗教的な惨状は、現実的な惨状の表現に、そして現実的な惨状に対する抗議に存在する。宗教は窮迫した生き物のうめき声であり、それは精神なき状態の精神であるように、無情な世界の心情である。それは国民の阿片である。
 国民の幻覚の幸福としての宗教の廃止は国民の現実的な幸福の要求である。国民の状態に関して幻覚を捨てるよう要求することは、幻覚を必要とする状態をやめるよう要求することである。ゆえに宗教の批判は萌芽では、神聖な光が宗教である涙の谷の批判である。

 うーむ。読み返してみて思ったのだが、「幻覚を必要とする状態をやめるよう要求すること」というのは、むしろ、宗教をやめて、羽生結弦選手に熱中することでいいんじゃないか?
 というか、羽生結弦選手と限らず、人はなにか、それをもって生きる糧とする快楽の源泉をもってよいのではないか?
 つまり、自分に快楽を与えてくれるものを是認してよいというのが、人生の原理であり、それが、麻薬であると社会的にまずいし、宗教であるとマルクスが批判するように幻想だという批判も成り立つかもしれない。
 さて、顧みて、自分にそういうものはあるかというと、まあ、ないな。
 この、「まあないな」という人が、普通の人かもしれない。
 「極めて楽しいことは特にない」というのが、人間の存在なのだろう。ハイデガーは『存在と時間』で普通の人間(das Man)の状況を「頽落(Verfallenheit)」としたが、これは3つの要素を持っている。お喋り(Gerede)、好奇心(Neugier)、どっちつかず(Zweideutigkeit)。SNSだな、つまり。
 してみると、SNS的な凡人の地獄から脱出するには、羽生結弦選手への熱狂のようなものが必要か、なのだが、実際のところ、羽生結弦選手への熱狂も、Gerede、Neugier、Zweideutigkeitから成り立っているような気もする。
 あれか、社会と自分との折り合いの先は、社会齟齬がなければ、個人個人の趣味の問題ということなのだろう、人生の意味というのは、だ。

 

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2020.03.10

「ちゅうちゅうたこかいな」

 今年、2月ごろだったか、弥生時代の硯の話題をよく見かけた。紀元前2世紀末から前1世紀ころに日本ですでに国産の硯があったらしい。昨年の吉野ケ里遺跡展示室「むかしむかしの文房具」展でも展示されたと聞いた。硯があれば、文字もあったと考えるのは自然なことで、すると、弥生時代に日本で文字が使われていたか?
 当然、その文字は、当時の漢字であるには違いない(どう音価を与えていたかはわからない)。そしてもし弥生時代に文字があれば、以降の歴史を探るための文書・文献も出てくるのではないかと期待が膨らむが、その後続報も聞かない。古代史と文字の関連で言えば、稲荷山古墳出土鉄剣銘が5、6世紀。それ以前の、現状最古の日本の文字というと、4世紀ごろの短甲に書かれた「田」とされるらしいが、これは定説には至っているともいえないだろう。
 とはいえ、概ね、従来説でも5世紀の日本には文字があっただろう。これが弥生時代の硯から推測すると3世紀には普及していても不思議ではないが、文字が書かれた遺物が出てきているわけではない。そもそも出てこないかもしれない。
 考古学的な、事実に基づく推測はその程度で行き止まるが、視点を変えると、そもそもなぜ文字を書くのか?という問題は考えるに値する。稲荷山古墳出土鉄剣銘は史実を残すという史的な意味もあるが、名前を残すという意味もある。れいの短甲も、使用者特定の名前ではあっただろう。つまり、名前を書きたいというのは、文字の使用の第一の必要性ではあるだろう。ほかに?
 数を記す、さらには交易の記帳というのも、文字を必要とする大きな要因だろう、と考えて、そもそも日本古代、どう数を数えていたのかと考えた。
 数のやまと言葉は、「ひーふーみーよーいつむーななーやー」というあれである。そして、これは、「ひー」に対して「ふー」、「みー」に対して「むー」というように、fi-fu、mi-muという、数学的な構造がある(徂徠が指摘したとされている)。随分以前にこの話はこのブログに書いたことがあるが、日本語の数詞というのは、概念的な計算機となっているのだろう。
 では、どのような計算機? もしそうなら、その使い方がよくわからないのだが、今朝がた、「ちゅうちゅうたこかいな」が降りてきたのである。
 「ちゅうちゅうたこかいな」知ってる? その辺の平成人に聞いてみると、知らないとのこと。まあ、知らないだろう。
 Wikipediaに載っている。説も2つある。どっちの説でも、「ちゅう」は「重」であり、「たこ」は「蛸」のようだ。「重」は、重水素のdeuteriumであり、つまり話を端折るが、「2」だ。すると、「ちゅうちゅうたこかいな」は、「2ー2−8」であり、2の3乗のようでもあるが、2プラス2は4でその2倍が8というふうな理解のほうが自然であるだろう、実際には、2つ置きに数えるので、8に当たるのは「蛸」ではなく「かいな」にあたる。とすると、「蛸腕(たこかいな)」で一語と見てよさそうだが、そうなると最終が8なのだが、この数え言葉の最終は10である。うーむ。
 それはさておき、このように2つ置きで数えるというのは、昭和時代にはよくやっていた。ふと思い出したのだが、私は高校生のとき新聞部にいて、印刷屋さんとの上がりの確認で、業者や先輩が「ひーふーみーよーいつむーななーやー」とやっていたのを思い出す。「ちゅうちゅうたこかいな」と同じだ。
 古代において、この2置きの数え言葉があったかはわからないが、日本語の古代語を想定するに、通常に数えても、「やー」のところで、「4の2倍」という意識は生じるだろう。分配の便宜に役立ったのだろうか、と考えて、そういえば、以前も思ったが、そもそもこの「ひーふーみーよーいつむーななーやー」は、素朴な数詞というより、当時ですら交易など数値を扱う際に必要とされた特殊な語の体系だったかもしれない。当然だが、いわゆる上古にはこの意識は消えてしまっていただろう。現存の日本国家の起源は言語のあり方も変えたには違いないだろう。
 弥生時代に日本語が漢字という文字を使って書かれていたかは別としてだが、音声言語としての数詞の起源はそれより古いだろうから、巨大建造物の設計構築にこの数詞は使われてはいたのだろう。

 

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2020.03.09

新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)についての、たぶん奇妙な予想

  新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)について、詳細かつ最新のニュースを追っているわけではなく、今日のNHKの報道で知っただけなのだが、イタリアでは新たな死者が1日で100人以上増え累計366人、感染者も7000人を超えたらしい。大変な事態である。

 その報道を聞いて、個人的にかつさしたる根拠もなく、その勢いから予想したことがある。地続きの欧州大陸ではさらなる蔓延となるのではないか、と。

 同時に、これも根拠はないのだがもう一つ予想したことがある。というわけで、以下の話は、ブログにありがちな、当てずっぽうの話ではある。が、悪質なデマなることもないだろうとも思うので、事態の渦中でこんなのんきなことを思っていた日本人もいたのかという、一つの証言として書いておきたい。

 当てずっぽうで思ったそののんきな予想は、日本のこの感染がある時期に急速にかつ他国に類もない収束を迎えるかもしれない、ということだ。他国と比較してという意味である。

 その兆候がすでに見られるかというと、わからないが、1日ごとの発表数では、3月6日から、この2日は減少している。ただし、これが全体の減少の兆候にはならないだろうとは思う。というのも、おそらく、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の発症数は現状では、検査数と検査手法によって変わる段階だからだ。

 それなのに、なぜ、日本で収束するのではないかと当てずっぽうだが思ったかというと、世間を見るに、日本人がまるで一致団結したように感染防止の行動を取っているからだ。こんなふうに全体として指定された規律通りの行動をする国民をもった国家は、実は、日本だけなのではないか、と思ったのである。

 誤解なきよう補足すれば、全体として指定された規律通りの行動をする国民の国家が好ましいとも思わないし、また、安倍政権の対応が対応が正しいと主張したいわけではない。むしろ、結果的に奇妙な国家という特性を示す事例になってしまうのではないか、と。

 話はそれだけなのだが、もしこの当てずっぽうの予想が正しい結果になってしまえば、世界保健機関(WHO)や米国疾病予防管理センター(CDC)にとっても貴重な研究データを提供することになるのではないかというだけだ。

 もちろん、こんなのんきすぎる予想は外れるかもしれない。

 あと、一点補足すれば、「収束するのではないか」というのは現在の事態であって、COVID-19が撲滅されるかというと、逆の予想を、これもまた医学的な根拠はないのだが、個人的にはもっている。致死率は下がっても、人間に日常的に感染する、HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1に次ぐものになるのではないかと思うのだ(加えて、COVID-19という年代のナンバリングのようにさらなる新型コロナウイルスも出現するだろう)。この補足の予想と先の予想は、「事態の収束」をどう捉えるかで、矛盾することにはなるかもしれない。日常的に感染がひどければ、収束とはそもそも言えなくなるからだ。

 

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2020.03.08

教養というか知識のありかたでふと気になった

 今朝の読売新聞の編集手帳を読んで、教養というか知識のありかたでふと気になったことがあった。まあ、些細なことと言えば、些細なことなのだが、最近というか、いつからか、教養というか知識の「国境線」が変わったような気がするのである。まあ、一例として上げるだけで、該当コラムを批判したいわけではないので、そこは誤解なきよう。
 気になったのは以下の部分である。 

編集手帳
 時間は時計で計れる何かではない。その身で経験するものだ。昔、批評家の前田英樹さんがそんな趣旨の一文を本紙で綴っていた◆さる哲学者の言葉が添えてあった。<砂糖水をこしらえようとする場合、とにもかくにも砂糖が溶けるのを待 たねばならない。この小さな事実の教えるところは大きい>。どのくらいの時間で溶けるか、皆知っている。けれど、それは単なる計算結果で、待つ間の気持ち次第で短くも長くも感じるものだと◆

 いい文章である。達文と言っていいだろう。ただ、あれ?と心に引っかるものがあった。
 最初に引っかかったのは、「さる哲学者」である。「砂糖水が溶ける」という話を聞けば、すぐに、そして疑いようもなく連想されるのは、アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson)の『創造的進化』の挿話である。そしてそれ以前に、「批評家の前田英樹さん」が「一文を本紙で綴っていた」の基本は彼の著作、『ベルクソン哲学の遺言』であり、そこでは書名自体に「ベルクソン」が明記されている。それをなぜ、「さる哲学者」にしたのだろうか? どういう修辞的な意図なのだろうか。編集手帳の読者には、ベルクソンはなじみのない哲学者だと想定していたのだろうか。これもそれ以前に思うのだが、その読者は「砂糖水が溶ける」という挿話を知らないと想定していたのだろうか? どこかに、教養というか知識の「国境線」が変わったのだろうか? もともと、そのような線はなかったのか。
 その引っかかりはまさにどうでもいいことなのだが、連続して、あれ?と心に引っかった。ここの箇所である。「どのくらいの時間で溶けるか、皆知っている。けれど、それは単なる計算結果で、待つ間の気持ち次第で短くも長くも感じるものだと」。
 つまり、編集手帳の記者は、砂糖が水のなかで溶ける時間というは、「待つ間の気持ち次第で短くも長くも感じる」としているわけだ。これは、時間の感覚は、主観的・相対的、と言い換えてもいいだろう。
 ところで、『創造的進化』の該当挿話では、こう説明されている。(世界の大思想 第3期〈10〉ベルグソン)

私が待たなければならない時間は、私の待ちきれなさの感情と、すなわち、思いのままに伸ばしたり縮めたりできない私自身の持続の或る一部分と一致する。それはもはや思考される時間ではなく、生きられる時間である。それはもはやひとつの関係ではなく、絶対的なものである。

 ここをどう読むだろうか? 「私が待たなければならない時間は、思いのままに伸ばしたり縮めたりできない」と言っている。
 まあ、この編集手帳の記者が原典を誤読していると批判したいわけではない。おそらく、原典にはあたっていないだろう。ただ、この解釈が、前田英樹『ベルクソン哲学の遺言』に由来するものかあたってみたが、前田も同書で「それは、私のじれったい思い、言い換えれば、任意に伸ばすことも縮めることもできない、私における持続のある一部分と合致する。」としていた。たぶん、編集手帳の記者は、前田の同書ではなく、「一文を本紙で綴っていた」を読んでの理解だろうと思うが、その一文までは、私はわからない。
 誤解なきよう繰り返すが、私は今朝の編集手帳を批判したいわけではない。この編集手帳が間違っているとか、ベルクソンや前田を誤読していると追求したいわけではない。その逆である。
 つまるところ、一番、心が引っかかったのはそこだ。つまり、この編集手帳は「さる哲学者」という枠組みがベルクソンと特定されない時点で、全く無謬なのだ。以上私が述べたことはそもそもが批判にすらなりえないのだ。
 これを安易に拡張してはいけないのだろうが、教養というか知識のありかたが、いつからか、どこかしら、無謬の修辞になってきているような気がする。

 

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2020.03.07

アニメ『TARI TARI』

 NHKの7時のニュースの終わりの、アナウンサーたちの締めの言葉だったと思う。外出を避けて家で何をしましょうかという話題で、海外ドラマの一気見と言ってた。一瞬、私は、え?と思ったので記憶に残っている。NHKのアナウンサーがそれ言っていいのかと瞬時に疑問に思ったからだ。もちろん、NHKでも海外ドラマはやっているが、一気見となると録画であり、NHKとしては録画を奨励してないのではないか、という以前に、海外ドラマの一気見となれば、オンラインのストリーミングであり、端的にNetflixが連想されるのが自然だろう。まあ、そういうことなのだが……
 かく言う私も見ようと思っていた洋ドラはないわけではないが、あまり重たいのもなんだし、軽いアニメはないかという思いと、合唱関係のドラマかアニメはと思っていたら、自動的なお勧めに、『TARI TARI』が出てきた。以前、第一話の途中くらいまでは見ただろうか、絵が受け付けなかった。ストリーもゆっくり過ぎた。けっこう古いアニメだなと年代を見ると、2012年でそう古いわけでもないのだが、そういえば、この時期の『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』も最初、絵が受け付けなかった。京アニの『氷菓』あたりから絵が受け入れられるので、そのあたりか、と思い、シャフトの『物語シリーズ』は2008年でもokなので単に様式の差だろうか。と、『TARI TARI』を再確認すると、P.A.WORKSで、そういえば、あとから『色づく世界の明日から』に似ている感じもした。
 さて、『TARI TARI』だが、面白かった。普通にアニメ作品の傑作といっていいのではないだろうか。いわゆる「日常系」の作品とも言えるが、同じ、P.A.WORKSでも『色づく世界の明日から』のような微妙な非日常性というか、『天気の子』でもそうだが、アニメでなければ表現しづらい表現性のようなものはなかった。『TARI TARI』は普通に実写化のドラマにしてもいいんじゃないかと思ったが、が、と連想したのは、同じく合唱系のドラマ『表参道高校合唱部!』である。似ているといえば似ているが、連想してみて、『TARI TARI』の実写化のイメージがわかないことに気がつく。
 『TARI TARI』の良さは多面的でそれぞれきちんと語ることができるだろう。湘南・鎌倉の風土をその地域の内面性を含めて違和感なく描いていたこと、脚本がじっくりとしたペースで進んで人の内面を繊細に描くこと、映像のカットが美しいことなどだが、特筆されるのは、歌の美しさだった。主役の5人とも上手でしかも、個性的なのによく声が合っている。他、「声楽部」や吹奏楽などの音楽も美しかった。
 作品全体の印象だが、高校生と未来という点では、『orange』を連想するように、その後が気になる作品だった。続編はノベライズで出ているようだが、続編としてまとまるほどでもなそうなので、いずれ読みたいと思う。

  

 

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2020.03.06

[書評] デイヴィッド・ルイスの哲学 ―なぜ世界は複数存在するのか― (野上志学)

 デイヴィド・ルイス(David Kellogg Lewis)は、およそ哲学的な感覚を持つ人間にとって魅惑的な哲学者だろう。それは、文芸の世界で比喩的に語られるヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein)より魅惑的なのではないだろうか。例えば、本書出版社の解説はその魅力を上手に捉えている。

 現実ではないけれど現実でもありえた、複数の世界がたしかに実在する、とデイヴィッド・ルイスは考えた――。
 私たちが後悔をすることの意味は何か。フィクションとは何か。別様な世界の可能性など、あるのだろうか。
 緻密に論証された可能世界論を解きほぐし、可能性や必然性をとらえ直すことで、
私たちの日常はいまよりもクリアに見えるようになる。その哲学の魅力と明晰さをとらえる革命的入門書。

 この魅惑に十分堪能して本書を読むこともできるだろう。私はそれを否定しないのだが、読後の印象からは、そうした魅惑的な、あえていえば薄暗い蠱惑的な問いに答える書籍というより、デイヴィド・ルイスの様相実在論を結果的にプレーンに叙述した明瞭な書籍であった。「結果的に」というのは、こうした魅惑に付随しがちなレトリックが、大森荘蔵のようにどこか人を狂気に誘い込むのとは逆の方向であったということだ。そこを「革命的入門書」といってもいいのかもしれないが、どこか学参的な雰囲気も感じられた。そうえば、浅田彰『構造と力』は戦略的に学参的であったが、その逆でもあるように思えた。
 その明瞭さは例えば、次のような部分で受け止められる。

 (前略)様相実在論はルイスの理論のうち、最も論争的で、最も支持者の少ない理論だろう。本書ではこうした様相実在論の論争的な側面に踏み込むことは避けた。これは、ルイスの理論の魅力はむしろ様相実在論の応用分野にあるというのが理由だ。

 著者がそして提示するのは、ゲーム理論などの「モデル」を扱うとき、それをいちいち私達の実在のあり方に並べた「可能なもの」としていない、のではないか、という視点である。そしてこう続く。

もし認識論や因果の哲学がこのような仕方で「可能なもの」を用いることができるのであれば、論争の余地のある様相実在論それ自体を支持することもなく、様相実在論の多大な応用分野を享受することができる。楼蘭が楽園から移築できるとすれば分析哲学者にとってこれほど好ましいことはない。すなわち、様相についての哲学と、「可能なもの」を用いて何かを分析するということは切り離せるということだ。知識は因果に関心を持つ哲学者は、経済学と同様、様相の哲学をひとまずは脇に置いておくことができる。

 そして、そうした実践的な明晰性にこう筆者の「私」は提示される。

本書ではルイスの哲学の紹介に集中し、とくに様相それ自体についての私の見解を述べることは避けてきた。哲学書にはしばしば論証を省いた信仰告白が含まれる。

 そした実践的な明晰性に対して、著者の「私」は「錯誤論」が好みだとする。その厳密な論証ができていないからとも言う。
 このブログを書いている「私」の感覚の逆であり、この私は、「ひとまずは脇に置いて」いかれたことになる。それは、アイロニカルに私にとっての「革命的入門書」でもある。
 とはいえ、脇目で読みながらも、所々楽しい議論であった。特に二点。一つは因果論の問題は様相実在論の「可能なもの」で議論できること。もう一点は、実在についての懐疑論は未決であること。むしろ、「応用的に」それらは知識論となりうることだ。
 さて、本書の価値とは関係ないが、著者履歴を見て、1990年生まれというのに、少し驚いた。随分若いものだなということだが、それでも今年は30歳になるわけで、30歳の哲学者を若いというのも奇妙なものだ。

 

 

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2020.03.05

[書評] 大宅壮一の「戦後」(阪本博志)

 三島由紀夫が一風変わった自殺したのは、1970年11月25日のことだった。自著にも書いたが私はその日のことをよく覚えている。中学一年生なのだからということもあるし、『潮騒』はすでに小学校6年生のときに既読で、彼のことをすでに知っていたせいもあるだろう。そして中1のときの若い国語教師は三島のファンでもあった。
 その日の3日前、大宅壮一が死んでいる。その前月、テレビ対談収録後、息苦しさから入院し、心不全で亡くなった。70歳である。つまり、1900年の生まれだった。葬儀は28日、青山葬儀所で「マスコミ合同葬」であった。67年に「大宅壮一東京マスコミ塾」を開き、8期で480名の塾生を送り出していた。つまり、彼こそが戦後から60年代までのマスコミそのものだった。
 三島の死から、大宅の死から、今年で半世紀になる。50年。どうなったか。
 鶴見俊輔はこう言っていた(本書孫引き)。

 五十年たってからの学者たちは、昭和時代を研究するのに今日の学者の学問的評論でなく大宅のエッセイを利用するだろう。

 しかし、そうはならなかった。本書『大宅壮一の「戦後」』はこう受け止める。

 それから五〇年になる今日、彼がつくったとされる「一億総白痴化」「駅弁大学」といった流行語を除いては、鶴見が予測した事態にはなっていない。この状況のなかで顧みられることさえ少ない。戦後昭和とくに三〇年代に対する近年の注目の集まりを考え合わせると、これは不思議にすら思える。

 なぜだろうか?
 私は、人々は、三島を忘れ、大宅を忘れたのだと思う。
 それがいいことか悪いことかわからない。私が本書を読んだのは、本書の指摘に反して、私が最近大宅壮一をよく回顧するからであり、そして、本書の言う「不思議」を思うからだ。
 こう言ってもいいだろう。なぜ、私たちは大宅壮一を忘れたのか?
 その命題は、本書では、私が読んで受け止めた範囲では含まれていなかったように思う。本書にはある種の求心性は感じられなかった。既出の多元的な論考をまとめたものだからかもしれない。むしろ、その言葉を借りれば、《新たな大宅壮一研究を志向するものである》ということで、本書の三分の一を占める注もその意義でもあるだろう。
 だが、大きなテーマ性は感じ取れた。 
 少し迂回したい。私が大宅を思い出すのは、まさに現代こそが、「一億総白痴化」「駅弁大学」の完成形態だからということもあるが、ただの完成というより、その結果、まるで戦後のような物言いづらい言論の空気が満ちていることだ。なんでも軽薄なイデオロギーに帰着して正義を偽装し、次には他罰に勤しむことが強いられる、この息苦しい言論の空間のなかで、大宅的な「無思想の思想」とでもいったものが、どうありうるのかという問いかけである。
 それこそが、本書としての表題である《大宅壮一の「戦後」》であろう。それは、日本的と冠したいのだが、知識人というものへの違和感が関連しているだろう。

 (前略)大宅が「自分の歩んできた道を真剣にかえりみて慄然とした」のは、「前衛的知識人」からの転向のみによるのではないであろう。転向だけではなく、プロパガンダにかかわったという事実も含めて、大宅は慄然としたのではないだろうか?

 本書は、大宅の戦後期の沈黙を「したたか」とする。確かに、そうした面はあるだろう。が、それは戦争賛美的なプロパガンダのみならず、そもそもが、思想の表現をイデオロギーに還元してしまうありかたそのものへの違和感もあるだろう。

 

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2020.03.04

トイレットペーパーとティッシュペーパー

 「ドラッグストアでもコンビニでもティッシュ、売ってなかった」と子供に言われ、「じゃあ、書道の半紙でも買ってきて、手頃な大きさに切るといい」と言うと、話にならないという顔をされた。そうか? 僕の子供の頃は、ティッシュペーパーもトイレットペーパーもなかったぞ、茶道でも、ティッシュペーパーは使わないぞ、と思ったが、それは言っても詮無いので黙っていた。
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が広まるにつれ、世間とニュースがおかしくなってきたので、できるだけ、不合理な情報は耳に入れないようにしているが(医療用マスクと簡易マスクを同次元で報道しているんじゃないかな)、それでも、トイレットペーパーが品薄という話は自然、耳に入り、驚いた。まさか。どこの馬鹿が。と一瞬思って反省した。昭和48年(1973年)のトイレットペーパー騒動をリアルに知っている自分には思い当たることがある。あの時代の渦中の空気を知らない人はこの馬鹿騒ぎを笑うだろうが、渦中で感じたのは、世の中がそうなっちゃうと誰も止められるものでもない、ということ。それと、あの頃、トイレットペーパーが普及したのだったということ。というか、水洗化したトイレで、以前のちり紙に戻れない(戻りたくない)という心理も背景にあっただろう。
 なので、現代でまたトイレットペーパー騒ぎが起きても、そう不思議でもないなとは思っていた。たまたま、喫茶店で語学の復習していたら、近くの婆さんがトイレットペーパー買い占めの武勇譚をしていたので、落胆した。
 1970年代の半ばまではまた水洗トイレがそれほど普及してなかったと思う。資料にあたっていないし、地域差はあるだろうが。それ以前は、便所は汲み取り式でちり紙を使っていた。トイレ用のちり紙と日常に使うちり紙は別だった。ちなみに、60年代にはまだお尻を拭くのに新聞紙とか置いてあるトイレもあった。
 私が小学校一年生のとき、戦争未亡人の担任は、トイレの使い方をきちんと指導した。男子は事後よく水気を切ること、女子は事後ちり紙で拭くことと言っていた。覚えている。ちり紙。僕の幼稚園時代でもすでに「洟紙」はあった。これは懐紙の由来であろう。というわけで、冒頭、書道の半紙を連想したものそこからである。
 ティッシュペーパーも品薄っぽい。そういえば、いつ頃ティッシュペーパーを持つようになっただろうか。高校生時代にはあったし、中学生時代にもあったから、トイレットペーパーと同じ時代だろうか。もう少し早かったかもしれない。英語でも以前はkleenexを普通名詞で使っていたが、クリネックスとスコッティはあったように思う。今思うのだが、あれは寝室用だっただろうか。
 さて、個人的には、ティッシュペーパーがないと困るということはない。懐紙を工夫すればいいし、ハンドタオルも使えばいい。稲垣えみ子さんも「私、もう一生ティッシュを買わないかも」と言っていた。とはいえ、もトイレットペーパーのほうはどうか。稲垣さんはどうされているのだったか。
 さすがに、トイレットペーパーはないと困るかと思ったが、ウォシュレットなら乾くまで待てばいいだろうか。そうだなあ、インドを旅行したとき、お尻洗いのビーカーのような柄杓を見かけたが、あれがあればいいかとも思った。そう言えば、禅の公案に「乾屎橛」というのがあるが、現代の禅林でも使っていないのではないか。

 

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2020.03.03

[書評] ほんとうの「哲学」の話をしよう - 哲学者と広告マンの対話(岡本裕一朗・深谷信介)

 『ほんとうの「哲学」の話をしよう - 哲学者と広告マンの対話』は対談集なので、読みながら、そして読み終えても、本を読んだという感触は残らなかった。雑談を聞いている、あるいはテレビ番組を見ているという感覚に近い。
 それで、面白かったのか、というと、おもしろかった。とても、おもしろかったと言っていい。

 

 話題と対話の展開は刺激的だった。それでいいじゃないかと思うのだが、奇妙な、そして否定的と言えないこともないのだが、全体で何を言いたいのかは、私にはよくわからなかった。なんの対談なのか了解できない自分がいた。「雑談」に意味を求めるのがそもそも間違いだろと言われれば、そうなのだが、微妙な肩透かし感というか、おかしいな、いちご大福を食べたはずなのに、いちごはなかった……みたいな奇妙な感じが残った。
 もちろん、というべきだが、かなり正確にこの対談書を評価して、「広告の今」として提起されている問題意識は広告業界的には意味があるだろう。特に、メディアというものへの再考察である。また、「哲学」を、日本のこの40年間の受容のありかたとして総括するという点での総括として読んでもよく出来ていると思う。
 個別にはとても面白い。たとえば、岡本に擬されている「哲学者」のこのシンプルな発言は共感できる。

 (前略)哲学書は訳されるときに漢語が多く使われていて、これがわたしたちの日常会話からかけ離れた堅苦しさを感じさせてしまうのでしょう。ハイデガーもサルトルもカントもヘーゲルも、本当は日常のなかで感じたり見たりすることを問い直すことから出発しているので、彼らの話はどれも実は非常にシンプルなんですよ。そのシンプルさがなかなか伝わりませんね。

 これは、私も本当にそう思う。50歳過ぎてフランス語を学び直し、若い頃にならったギリシア・ラテン語の知識、それと、なんとなく実用性もなく人生によりそってきた英語と組み合わせたとき、そのシンプルさにむしろ唖然とした。
 余談めくが、ごく簡単な例で言えば、「不条理」。カミュの l'absurde であり、たとえば、Wikipediaですら、簡素にこう表現する。

En philosophie et en littérature, l'absurde se traduit par une idée ou un concept dont l'existence paraît injustifiée. Il résulte donc de la contradiction d'un système par le fait.

哲学や文学では、l'absurde はそのあり方が不公平に思われるという思いや考えかたとして理解される。だから、それは現実とシステムの矛盾をもたらす。

 超訳すれば……「バカじゃねえの」という感覚は、現実が不公平でひどいもんだなという感じのことだ。あるべきはずの世界と現実の矛盾だ。
 哲学史的に言えば、これは理性や本質の合理的な発現である歴史観や倫理に対する反論でもある。だからカミュは、ヘーゲル的マルクス史観を実存主義で補完しようとしたサルトルと対立したのだし、それこそが、あの時代のフランスの、戦後世界の理性への「バカじゃねえの」という感覚だった。
 さて、とはいえ、l'absurde も…ラテン語の歴史を背負っている。

 L'étymologie du mot absurde vient du latin absurdus qui signifie « dissonant » (cf. Cicéron, De oratore, III, définition)

 つまり、語誌的には「不協和音」ということ、神やイデオロギーの調和・ハーモニーへの反対から来ている。ラテン語では、ab- +‎ surdus で、surdus はフランス語の sourd で、《C'est qui ne peut entendre ou qui n’entend pas bien.》である。「よく聞こえない」ということで、もとの語はだから、ちょっと現代日本語にすると語弊がありそうだ。ab-は属格的にする接頭語で、由来するということ。「あーあー、聞こえない」である。
 余談が長くなったが、近代日本語と西洋哲学を日常のレベルでつなぐには、日常の感覚の語誌と文脈化が重要になるはずだが、本書に戻って、そこまでは食い込んでいない。それが目的の対談書でもないだろうし。ただ、「広告」を問い直すなら、それも意味あるんじゃないかとも思うが。
 個別の興味深い話題の他の例では、「人間はこれから二つに分かれていく」もある。動物化と超人化である。動物のようにただ生きている人間と、向上を目指す人間、と言ってもいい。もっと現在の文脈でいえば、SNSという餌に軛されているのが動物化であり、TOEIC970点が超人化だろうか、と、戯画化したのは、実際のところ、現在日本の超人化とは動物化の変種でしかない。YouTuberを目指すとかも。
 本書は、その二分化について対談から考察を深め、単純な分化でも、支配と被支配でもないとする。なぜなら、「超人化する人たちにとっては絶対的に動物化する人たちが必要ですし」と言及される。だがそこで、このテーマは途切れてしまう。あれ?という奇妙な中断である。その先が知りたいのに。
 そこは、中盤の広告論・哲学論を経て、暗黙裡に、AIの問題につながっているように読める。
 というのも、そこで、「誰が社会を支配するのか」という問いで対談が終結していくからだ。
 その答えだが、まず、概ね古典的なマルクス史観的な枠組みは否定されるのだが(これはこの対談にあるように人間主体の終焉の帰結でもある)、ではどうなるかという求心的な問いかけはなく、常に問いかける態度が必要という、しかたないのだろうが、凡庸なオチになっていくように読める。あるいは、AIによる「哲学者の死」という帰結もあるにはあるが、その具体的なイメージは、ヘーゲルのコーパス解析くらいしか語られていない。
 よくわからない。
 正直なところ、私が、この対談書のよい読者ではないことは認めざるを得ない。
 あと、個別に哲学の文脈で思ったことは、「コギト(cogito)」の扱いである。ハイデガーは、人間存在を世界内存在としたが、粗い言い方だが、コギトとは世界情報との統合なのか? そこで、私が今考えているのは、コギト、つまりデカルト的な意味でのコギトというのは、世界情報から分離された純粋な自己意識なのではないか、というのは、『方法序説』でデカルトがこだわっているのは、神が我々に見せている世界がただの幻影でありコギトが騙されているということは、神を信頼するならありえないだろうという、1つの信仰とみるからなのだ。だが、デカルトが暗に、おそらくカントも暗に、疑念をいだき続けたのは、夢と現実という世界の差異はない、ということだろう。
 なろう系のラノベは安直に異世界を持ち出すが、実は、それこそが、コギトのより自然的な機能なのではないだろうか。
 というあたりから、AIとコギトの差があるのではないか。つまり、AIこそ、世界内存在だが、私たちの自意識は原初から世界を超えているんじゃないだろうか。

 

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2020.03.02

Googleが英単語の語源を図解表示してくれるようになっていた

 先日、NHK Eテレのボキャブライダーで「面接」を英語でなんて言うか?というネタがあり、「ああ、それなあ」と思ったのだった。答えは、interview で、番組では説明がなかったかと思うが、つまり、Job interview である。
 日本の「インタビュー」というと、ジャーナリストが要人と対談するみたいな意味合いが強いが、英語だともう少し広義、と、考えやすいが、Longmanなどを当たるとわかるように、「面接」の意味が最初で、ジャーナリストとかによるインタビューは、意味としては別項目になっている。
 語源にあたっていくと、1540年に entreveuという語があり、これが「個人面談」の意味になっている。ジャーナリズム的な意味合いは、1869年とある (NED)。
 entreveu は見てもわかるように、フランス語なのでフランス語語源を探るのだが、まず、フランス語辞典で interview にあたると、「面談」としての entrevue の意味が1889年とある。つまり、フランス語では、そこまで entrevue だったのだろう。そして、ジャーナリスト的な意味は英語からの借入とある。つまり、日本人が「対談」と「インタビュー」を分けているような感じなのだろう。
 フランス語辞典で entrevue に当たると、当然、entrevoir に飛ばされるのだが、se voir l"un autre つまり、「面会」の語義は、1100年とある。フランス語が確立した時点では、entrevue は普通に「面会」として使われていたのだろう。
  entrevue の語源は見るからにラテン語になるのだが、手持ちの資料ではわからなかった。おそらく俗ラテン語で成立して曖昧にフランス語化したのではないだろうか。それと関連していえば、英語の interviewという単語も近代ラテン語化の反映ではないかとも思う。このあたりの、フランス語や俗ラテン語を交えた語義と近代語形成史については、個別言語の語源関連の資料を見てもいつもよくわからないところだ。
 さて、なぜ、この語 interview にこだわっていたかというと、現代フランス語でもフランス語らしい語彙としては、この語がないからだ。いちおうだが、interview はない。entrevue のほうはあり、「面会」の意味になっている。つまり、ボキャブライダーの指摘の「面接」は語義的にはフランス語を継承しているのだろう。
 フランス語では、interview は、entretien という。語義的に英語に移すと、interkeep になるだろうか、そんな語はないと思うが。と思いつつ、entretien を仏英辞書で調べると、upkeep が出てきた。maintenance の意味だ。ふと気になって、ドイツ語にあたるとInstandhaltung が出てきた。印欧語には、近代造語も共通的な発想法があるのだろうか。
 entretien の次の意味は、cleaning なので、interviewという意味合いは近代造語的な印象を受ける。おそらく、フランス語は interview という語を嫌って、entretienを当てたのでないだろうか。現代フランス語で、interviewがどのくらい使われているかはよくわからないが、フランス語ニュースを聞いていてもよく出くわすので広く使われているように思う。
 さてと、まあ、そんなあたりかと、思いつつ、google で、《interview word origin》と検索したら、おやっ! 図解が出てきたのである。こんな機能がいつの間に。

Intv1

 もしかして、と、school を検索したら、やはり図解が出てきた。

Intv2

 なんかすごい便利だなと思った。
 『英語の語源図鑑』にもこういう図解があったらよかったのに

 

 

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2020.03.01

理想のボールペンについて

 理想のボールペン、という話題は危険だ。国際紛争に発展する可能性すらある、とまではないにせよ、不毛な結論にはなりがちだ。つまり、理想をどこに求めるかによって、理想のボールペンは異なるから、議論は不毛になりがち、だが、がである、それでも、個々人は理想のボールペンを希求してやまない。
 私にとって、近世におけるボールペンの革命は、ジェットストリームである。この点についてはけっこう賛同者が多いだろう。で、そこは議論する気もない。フリクション派と争う気もない。
 私にとって重要なのは、ジェットストリーム自体ではなく、0.38mmである。0.28mmもである。これは相模オリジナルに迫る……じゃない、が、すごい。細字がすらすら書けるということは、小さい字が書ける。私は60歳過ぎて気がついたのだが、私の字は小さいのである。マルクスなみである。筆記具が許す限り、どんどん小さくなる。我ながら、なんでこんな細かい字を書くのだろうと思うが、とにかくそうなのだ。老眼でないせいもあるんだろうが。
 この細字はいい、と思っていたが、ただ、細字になるだけだと、紙質も問われてくる。実際のところ、0.5mmのジェットストリームでもいいやと思うようになった。青字が好きな私は、そのくらいが色の映えもいい。
 ということで、我が理想のボールペンは、0.5mmのジェットストリームの青、ということになっただが、がである、強いていえば、赤と青の2色がいい。黒はいらない。別途単品で、パワータンクのがいい(おっと、突然パワータンク登場)。
 だが、0.5mmのジェットストリームの青と赤の2色ってないのな。あればいいのに。で、あっても、太いのはいやだ。三色ボールペンの何が嫌かというと、太いことだ。私は細いペンが好きなのである。
 で、0.5mmのジェットストリームの青と赤と黒の3色を見つけた。しかもそこそこ細い。これだ、な、と思ったのである。

 


 だが、そうもいかなかった。
 手にしたら、あれ、あれれ、なんか変だ。指先のところにゴムがないのは、まあ、それほど気にしない。で、変にすぐに気がついたのは、重心である。安倍首相のようには、私はペン回しとはかできないし、する気もないし、まして箸回しなんか言語道断なのだが、このボールペンの重心感が微妙なのには耐えられない。うひゃー、書いてて船酔いみたいに気持ち悪い。
 そういえば、私が使っているカトラリーは米国から個人輸入したものだが、決め手となったのは、重心である。まあ、探せば日本でも見つかるのだろうし、レストランとかの銀製も悪くないのだけど、日本製のは手にしたときの重心感に納得いかないものが多かった。
 腕時計もそうだな。以前、というか、アップルウォッチが出たころ、アップルの人に聞いたのだが、これ、重心感がいいですよ、と。私はそのとき、なんか重くてダサいなあと思って、それとなく、ちょっとつけ心地がと疑問を呈しての返答だった。強弁ではなく、なるほど腕時計の重心感というのはけっこう重要だなと思う。ちなみに、私は結局、重心感をあまり問わない小さい腕時計がいい、ので、レディースである。女性がメンズするのはおしゃれの部類だが、男性がレディースの時計でいいのかとちょっとためらうが、まあ、好みだ。
 というわけで、理想のボールペンは難しいなと思う。

 

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