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2020.02.24

嫌うことの自由

 『嫌われる勇気』という本がベストセラーだったのは、2013年ころだろうか。今でも書店でも見かけるのは、今でも、人に嫌われるのはやだなあと悩む人が多いからではないか。と、考えてみて、ちょっと、変な感じがした。
 「嫌われる勇気」というのは、ちょっと考えると、変な日本語だなと気がつく。「嫌われる態度」「嫌われる男」といった語法が自然に思えるので、その語法からすると、「勇気もいろいろあるが、うんたらの勇気は人から嫌われる」という意味になりそうだが、まあ、同書のタイトルではそうではない。「嫌われてもいいやという勇気を持て」といったところである。
 そもそも、嫌われることに勇気が要るのか、というと、要るというのが、うっすら社会の常識になっているからだろう。日本社会だけとも限らないだろう。人の行動を抑制するのは、こんなことをしたら他者から嫌われるだろうなという感覚ではあるだろう。
 そうした感覚を否定するものでもないし、今更ながらにアドラー心理学を持ち出してうんたら言いたいわけではない。中島義道先生の『ひとを<嫌う>ということ』も当たり前に既読だが。
 思ったのは、人が何かを嫌うことは、普通に自由の範囲なのではないか?ということだ。嫌うことの自由、とでも言いたい。
 人というのは、自由に何かを嫌っていいのではないか?
 問題となるのは、嫌うという内的な心情を外的な言動に表出したときではないか。
 もうちょっと言うと、嫌うという言動が、他者に理解されて当然のような様式で言動として表すことの問題ではないか?
 私が言いたいのは、人は何を嫌っても自由だが、嫌いだということを言動に表現したら、その言動による責務は負うだろうということだ。
 というようなことを思ったのは、そういう思う機会が増えたからだ。
 例えば先日、かつやのカウンター席でカツカレーを食っていたのだが、その席が角席で、視線の先に他の人が食っているのが見えるのだが、その人もカツカレーを食っていて(その人は私の後に座ったので、私の注文を見て、あ、私もカツカレーとか思ったのかもしれない。ちなみに、私よりも大きなサイズで)、それが、美しくないのだ。美しくカツカレーを食えとは思わない。それは、醜いのだ。おもむろにぐっちゃぐっちゃに混ぜるあたりは我慢した。そういう彼を混ぜて食う一群の人々の存在は大学で知った。が、そこに割干し大根までまぜこんで……うわーきたない、こいつ嫌いだなあと、私は思ったのだ、平然と、表情にも出さずに。そして、私はというと、まだ食べている途中だったが、まあ、このくらい食べたらいいくらいは食べたし、そのまま黙って静かにすっと席を立った。嫌うことの自由である。
 私にこっそり嫌われたその人としても、こっそりと私を嫌っていたかもしれない。かつやでカレー食っれる爺いは嫌いだぜ、ふんっ的な。それも、嫌うことの自由である。
 話はここでまとめに入るのだ。
 私たちは、もっと他者を嫌ってもいいんだろうと思う。嫌う感情自体に倫理的な罪責感を持たなくていいんだろうと思う。
 でも、それを社会的に見える言動にしたら、社会的な責任を負うことになる。
 それと、そうした、誰かを嫌うことで、他者と共感を得ようとすること(嫌うことの連帯)は、できるだけ、やめたほうがいいだろうとも思う。嫌うことの自由は意外にもろいものかもしれないし、自分の個人的な嫌うという大切な感覚を他者の感覚と調整することで、自分の感覚というもの自体を傷つけやすい。

 

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