[書評] おしゃべりな糖 第三の生命暗号、糖鎖のはなし(笠井献一)
専門家は別として、医学や生物学、さらに栄養学などに関心を持つ人にとって、一番注目される話題とまでは言えないかもしれないが、現在気になる話題は、糖鎖だろう。
ごく簡単に言えば、生命現象の解明はその暗号コードの解明になってきていて、20年前であれば、遺伝子、つまり核酸に集約されていた。ゲノム解析に期待されていたと言っていいだろう。が、その後解析が終わっても生命暗号の謎は残り(というか謎ばかり)、次にタンパク質構造に関心が移り、現在さらに糖鎖に向かっている。
そうした糖鎖に注目が集まるなか、市民レベルで糖鎖の基本と糖鎖研究の現状を解説した書籍はないだろうかと、ブルーバックスの新刊などを見ていたのだが、昨年末、岩波科学ライブリーから、それに適した『おしゃべりな糖 第三の生命暗号、糖鎖のはなし(笠井献一)』が出た。糖鎖について極力わかりやすく書かれていることと、実際身近な生活などで触れる生命現象との関連も説かれていて興味深い。ただ、それでも糖鎖はむずかしいなと思うし、同書を読んで、「ああ、そこは現代科学ではまだわからないか」という率直な共感を覚えた点もいくつかあった。
例えば、リシン。その名前を聞いてピンとくるのは、洋ドラ・ファンだろうか。『ブレイキング・バッド』でも話題のあれだ。猛毒薬。だが、どのような毒薬で、どのような機序なのかというのを理解するには、糖鎖の理解が重要になる。本書はその点がかなり詳しく書かれている。特にそれほどの毒薬なのにサリンほどには一般に危険視されていないのはなぜか? 答えは、本書にもあるように、揮発性がなく、病原体のように増殖・感染もしないからだ。つまり、暗殺には使いやすいが、生物化学兵器としては使い勝手が悪い。
このリシンなのだが、リシンとはなにかというと、レクチンなのである。日本ではそれほど話題になっていないが、レクチンを避けるダイエットは米国でけっこう話題になっていた。食品に含まれているレクチンが引き起こす可能性のある問題は、よくわかっていない。いずれにせよ、レクチンが何かということは、イオンとは何か、というレベルで市民社会の常識になっていくだろう。
リシンに関連した疑問で、そもそもリシンをなぜ植物が生み出すのか? 普通に考えると、進化論的な説明が付きそうなものだが、本書は率直にこう書いている。《こんな物騒なタンパク質をなんの目的でつくるのか、よくわかっていません。ウイルスの増殖を抑える、種子が動物に食べられるのを防ぐ、動物に下痢を起こさせて未消化の種子を撒き散らさせるなど、諸説ありますが、決定打はありません。》つまり、わからないのだ。わからないのだということがわかって、私などはある種の安堵も覚えた。
その他に身近な生命科学で糖鎖が関連することとして本書が取り上げている興味深い事例には、血液型と乳糖の話題がある。そもそも血液型とは何か?というのを理解している市民はどのくらいいるだろうか。これは糖鎖の差なのだが、この糖鎖の差は何を意味しているかという点はかなり難しい。そして、これもつまるところ、よくわかっていない。
乳糖の話題はかなり面白い。人間というのは、ただ、食物を食べて栄養を摂取し、残りを排泄しているという単純なメタボリズムというモデルで考えがちだが、この過程は実際には腸内菌と共生している。その起源などにも乳糖が大きく関わっている。
そもそも本書の「おしゃべりな糖」というのが興味深い概括だ。残念ながら、一般社会に受け入れれるほどではないだろうが、糖鎖の本質が、そのメッセージ性にあることを上手に表現している。しかも、このメッセージ性は、遺伝子や免疫システムとは大きく異なる。
本書を読んで、なるほどと蒙を啓かれたのは、糖鎖がどのようにできるかに関連した特質である。曰く。
①設計図がない
②オートメーションの合成装置がない
③何百種類もの酵素が必要になる
④品質が揃った製品がつくれない
⑤細胞内の隔離された区画でつくらる
これはいったいどういうことなのか。そもそもデザインされていないなら、統制された生命現象にならないのではないか、というと、なるのである。そして、その実態がよくわかっていない。
さて、読後、奥付を見てから気がついた。笠井献一さんは、以前、このブログで書評を書いた、《[書評]科学者の卵たちに贈る言葉――江上不二夫が伝えたかったこと(笠井献一)》ではないか!
そして、趣味が、《合唱、オペラ鑑賞、外国語会話(仏、伊、独》練習など》 わーお!! まさに先達はあらまほしき。あと、「献一」というお名前はクリスチャン家庭に由来するのではないかと察した。