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2020.02.29

[書評] おしゃべりな糖 第三の生命暗号、糖鎖のはなし(笠井献一)

 専門家は別として、医学や生物学、さらに栄養学などに関心を持つ人にとって、一番注目される話題とまでは言えないかもしれないが、現在気になる話題は、糖鎖だろう。
 ごく簡単に言えば、生命現象の解明はその暗号コードの解明になってきていて、20年前であれば、遺伝子、つまり核酸に集約されていた。ゲノム解析に期待されていたと言っていいだろう。が、その後解析が終わっても生命暗号の謎は残り(というか謎ばかり)、次にタンパク質構造に関心が移り、現在さらに糖鎖に向かっている。
 そうした糖鎖に注目が集まるなか、市民レベルで糖鎖の基本と糖鎖研究の現状を解説した書籍はないだろうかと、ブルーバックスの新刊などを見ていたのだが、昨年末、岩波科学ライブリーから、それに適した『おしゃべりな糖 第三の生命暗号、糖鎖のはなし(笠井献一)』が出た。糖鎖について極力わかりやすく書かれていることと、実際身近な生活などで触れる生命現象との関連も説かれていて興味深い。ただ、それでも糖鎖はむずかしいなと思うし、同書を読んで、「ああ、そこは現代科学ではまだわからないか」という率直な共感を覚えた点もいくつかあった。
 例えば、リシン。その名前を聞いてピンとくるのは、洋ドラ・ファンだろうか。『ブレイキング・バッド』でも話題のあれだ。猛毒薬。だが、どのような毒薬で、どのような機序なのかというのを理解するには、糖鎖の理解が重要になる。本書はその点がかなり詳しく書かれている。特にそれほどの毒薬なのにサリンほどには一般に危険視されていないのはなぜか? 答えは、本書にもあるように、揮発性がなく、病原体のように増殖・感染もしないからだ。つまり、暗殺には使いやすいが、生物化学兵器としては使い勝手が悪い。
 このリシンなのだが、リシンとはなにかというと、レクチンなのである。日本ではそれほど話題になっていないが、レクチンを避けるダイエットは米国でけっこう話題になっていた。食品に含まれているレクチンが引き起こす可能性のある問題は、よくわかっていない。いずれにせよ、レクチンが何かということは、イオンとは何か、というレベルで市民社会の常識になっていくだろう。
 リシンに関連した疑問で、そもそもリシンをなぜ植物が生み出すのか? 普通に考えると、進化論的な説明が付きそうなものだが、本書は率直にこう書いている。《こんな物騒なタンパク質をなんの目的でつくるのか、よくわかっていません。ウイルスの増殖を抑える、種子が動物に食べられるのを防ぐ、動物に下痢を起こさせて未消化の種子を撒き散らさせるなど、諸説ありますが、決定打はありません。》つまり、わからないのだ。わからないのだということがわかって、私などはある種の安堵も覚えた。
 その他に身近な生命科学で糖鎖が関連することとして本書が取り上げている興味深い事例には、血液型と乳糖の話題がある。そもそも血液型とは何か?というのを理解している市民はどのくらいいるだろうか。これは糖鎖の差なのだが、この糖鎖の差は何を意味しているかという点はかなり難しい。そして、これもつまるところ、よくわかっていない。
 乳糖の話題はかなり面白い。人間というのは、ただ、食物を食べて栄養を摂取し、残りを排泄しているという単純なメタボリズムというモデルで考えがちだが、この過程は実際には腸内菌と共生している。その起源などにも乳糖が大きく関わっている。
 そもそも本書の「おしゃべりな糖」というのが興味深い概括だ。残念ながら、一般社会に受け入れれるほどではないだろうが、糖鎖の本質が、そのメッセージ性にあることを上手に表現している。しかも、このメッセージ性は、遺伝子や免疫システムとは大きく異なる。
 本書を読んで、なるほどと蒙を啓かれたのは、糖鎖がどのようにできるかに関連した特質である。曰く。

 ①設計図がない
 ②オートメーションの合成装置がない
 ③何百種類もの酵素が必要になる
 ④品質が揃った製品がつくれない
 ⑤細胞内の隔離された区画でつくらる

 これはいったいどういうことなのか。そもそもデザインされていないなら、統制された生命現象にならないのではないか、というと、なるのである。そして、その実態がよくわかっていない。
 さて、読後、奥付を見てから気がついた。笠井献一さんは、以前、このブログで書評を書いた、《[書評]科学者の卵たちに贈る言葉――江上不二夫が伝えたかったこと(笠井献一)》ではないか! 
 そして、趣味が、《合唱、オペラ鑑賞、外国語会話(仏、伊、独》練習など》 わーお!! まさに先達はあらまほしき。あと、「献一」というお名前はクリスチャン家庭に由来するのではないかと察した。

 

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2020.02.28

「COVID-19」をどう読むか?

 「COVID-19」をどう読むか? 読み方がわからない。
 そもそも、「新型コロナウイルス」という名称は、「新しい型のコロナウイルス」という、どちらかというと一般名称であって、固有のコロナウイルスの名称ではない。
 2003年に大きな問題になったSARS(サーズ;重症急性呼吸器症候群;Severe Acute Respiratory Syndrome)もコロナウイルスによるものである。病原体はSARSコロナウイルス。当初、SARSは日本では、新型肺炎や非定型肺炎と呼ばれていた。
 その10年後に話題のMERS(マーズ;中東呼吸器症候群;Middle East Respiratory Syndrome)も病原体はコロナウイルスである。記憶にあたってみるが、これ、報道上「新型肺炎」と呼ばれていたか定かではない。韓国ではアウトブレイクしたが、日本ではどうだっただろう。いずれ身近なニュースでもなく、報道上の呼称が思い出せないのかもしれない。が、このMERSという呼称には問題があった。「中東(Middle East)」という地域名が含まれていたことだ。これらの呼称には、今後、アウトブレイクの初発生地名は避ける方針になった(後述)。
 コロナウイルスは、「冬風邪」と呼ばれる原因になりやすい。冬にはRSウイルスも目立つ。一般的な風邪の多くはライノウイルスが多い。
 風邪を引き起こすコロナウイルスはすでに4種類あり、日本社会にも日常的に存在している。1960年代に発見されたHCoV-229E、HCoV-OC43、2000年代に入って発見されたHCoV-NL63、HCoV-HKU1がある。冬風邪が多い。感染しても、日常的にも知られているように軽症が多い(だからといってケアしなくていいわけではないが)。
 コロナウイルスの名称、例えば、HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1などは、ウイルス分類委員会(ICTV)が決める。では、「新型コロナウイルス」の正式名称は何か?
 SARS-CoV-2である。
 ところで、SARSの病原体名は何だったか?
 SARS-CoVである。この「新型コロナウイルス」はSARSの病原体の一種なのである。
 つまり、普通に考えて、普通に日本語で言うと、「新型コロナウイルス」ではなく、「SARS2」「新SARS」となっていてもおかしくはない、というか、そのほうが言葉の都合上は普通だが、まあ、さすがにそれは、まずいというか、そうでなくても不用意な社会パニックを招くだろう、という思惑があったのだろう、関係者に。
 ICTV自体も、病原体名は、学問上、SARS-CoV-2だが、感染症名はCOVID-19として、SARSを連想させる名称を避けた。
 ここでわかることがある。
 SARS(サーズ)やMERS(マーズ)という呼称で報道してきたなら、「新型コロナウイルス」ではなく、「COVID-19」として報道すべきなのではないか。
 というわけで、「COVID-19」をどう読むか?
 日本での報道を見ると、その読み方がわからない。そもそもそういう読み方を、NHKなどは音声メディアで発信してないみたいだ。
 命名の経緯というか、その国際的な報道の起点は、WHOのテドロス事務局長(Tedros Adhanom Ghebreyesus)の発言である。

“We had to find a name that did not refer to a geographical location, an animal, an individual or group of people, and which is also pronounceable and related to the disease. Having a name matters to prevent the use of other names that can be inaccurate or stigmatising. It also gives us a standard format to use for any future coronavirus outbreaks.”

「私たちは、地理的な場所、動物、個人、または人々のグループを指さない名前を見つけなければなりませんでした。そしてその名前は、発音可能で、病気に関連していなければなりません。名前を持つことは、不正確であったり汚名を着せる可能性のある他の名前の使用を防ぐために重要です。これはまた、将来のコロナウイルスのアウトブレイクのために使用する標準的な形式も提供することになります。」

 余談だが、「Covid-19をどう読むか?」なんていうのもくだらないネタだと思う人もいるだろう。でも、感染症名の話題は重要で、しかも、「発音可能」でなくてはいけないから、どう読むかはけっこう重要だと思うんですよね。余談終わり。

 さて、「COVID-19」の命名の意味だが、BBCも伝えていたが、《"corona", "virus" and "disease", w」ith 2019》ということで、さらにWHOは、《I’ll spell it: C-O-V-I-D hyphen one nine – COVID-19"》とtweetしていた。
 が、実際の読み方はわからない。英語単語として、"COVID"は、日本語のカタカナだと「コビッド」か「コービッド」にしかならないだろう。が、「19」は、「じゅうきゅう」なのか「いちきゅう」、「ワンナイン」か? 
 英語圏はどうか? 調べてみた、「コーヴィッド・ナインティーン」のように発音していた。
 フランス語ではどうか? 最後のDはdeとして発音されるか? 調べてみた。「コヴィド・ディズヌフ」のように発音していた。
 類推すると、日本語だと、「コビッドじゅうきゅう」でよさそうに思える。あるいは映画の邦題のように、「コビッド・ナインティーン」とか。
 NHKはいつ頃から、呼称を変えるだろうか?
 ちなみに、COVIDという言葉を聞いて、どういう印象を持つか想像してみた。まんまの語があるか調べると、古い長さ単位名にある。米国にその名称の会社がある。似た音声の語には、Corvid(カラス科)がある。カケスもこれに含まれる。
 で、Corvidという言葉を見ていて、ああ!と思った。covertとovertではないが、Cを落とすと、Ovid になる。あれです、オウィディウスですな。神曲にもでてくる。このダジャレの感覚を日本語的にいうなら、「人麻呂(ひとまろ)」から「キトマロ」みたいな感じだろうか。
 話はそれだけなのだが、この名称由来でわかることだが、つまり、今後、COVID-22とか出てくる予想が含まれている。ちなみに、「コヴィッド22」とか、なんだか、どうあがいても身動きの取れない的な語感があるなあ(なぜかわかりますか?)「コヴィッド5」とかいう名前だと、悪い冗談になりそうだ(なぜかわかりますか?) (ヒント

 

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2020.02.27

マイナスの生産性に取り込まれているかもしれないこと

 録画したままだった『東京ブラックホールⅡ』を見た。NHKのドラマのような、ドキュメンタリーのような1時間ものの映像作品である。話は……タケシこと山田孝之が演じる30代の現代人が、東京オリンピックを控える1964年の東京にタイムスリップする。興味深いのは、現存する1964年の実映像に最新のデジタル映像技術で入り込むところだ。映画館のカットでは、山田がもぎりの従業員にチケットを渡し半券を受け取るシーンもあるが、合成であるという。
 背景は、リアルに1964年の東京なのである。ただし、白黒ベースからカラーにしたシーンもある、風俗シーンとか。
 1964年の東京の春。私は6歳。小学校に入学し、授業でオリンピックを見た。あの時代の記憶はある、この話は、自著にも書いたが。
 録画を放置していたのは、少し怖かったからだ。見たら、まじで意識がタイムスリップするだろう。あれは、暗い、つらい時代だった。春ごろは、人はまだそれほど東京オリンピックに関心もなく、ライシャワー事件が印象的だった。売血の時代だった。空気は汚く、電車は満員、町にはバキュームカー。雨上がりの水たまりは漏れたオイルで虹色に輝いた。あまりリアルには思い出したくないという思いもあったが、思うところあって、見た。予想通り、意識はタイムスリップした。
 懐かしさは当然あるが、所々、あれ?そうだったかと戸惑うこともあった。1964年の時点で日本の若者がビートルズを熱心に聞いていただろうか? 彼らの来日は翌年で、そこの少し前から加熱した人気もあったが、前年時点はどうだっただろう。小雪という若い女性からの手紙には、きちんと句読点が打ってあったが、あの時代の手紙に句読点は普及していただろうか。
 作品を見る気になったきっかけは、稲垣えみ子『寂しい生活』である。彼女は、原発事故以降、朝日新聞の記者を辞め、極力電気を使わない生活を始めた。電気を使わないというのは、家電品を使わないということだ。冷蔵庫を廃し、洗濯機を廃し、電子レンジを廃した。1964年のオリンピック知っているだろう彼女の親世代はといえば、最新の高機能家電が使いこなせない。

 つまり、もはや家電は「家事を楽にする道具」ではなくなっているのです。
 買ってもらうためには世の人の欲を喚起しなければならない。新しい機能がこれでもかと搭載された製品は、もはや、最も切実に家事を楽にしてほしいはずの老人には複雑すぎて手に負えないのです。これが「豊かさ」を追求してきた我々の成れの果なのだろうか? そう思うと、持って行き場のない怒りと悲しみを嚙み締めざるをえません。

 モノは結局のところ人を救うことはできないではないでしょうか。(中略)
 これが戦後、懸命に働いて経済成長を成し遂げた日本の姿だったのか。いったいどうなってこんなことになってしまったのか?

 日本の戦後の家電は人々の暮らしを豊かにしただろうか。人々を幸せにしただろうか。
 逆に問うなら、家電のない時代、人々の暮らしは豊かだっただろうか。あの頃人々は幸せだっただろうか?
 と、そうだ、と思い出して、録画したままだった『東京ブラックホールⅡ』を見たのである。
 で、どうか?
 私がリアルに知っている1964年の日本は、ひどい時代だった。汚く、臭かった。
 家電は人々を豊かにし幸せにしてきたかといえば、概ね、そうだろう。だが、矛盾もあった。
 稲垣さんの現代の家電なし生活は、まあ、趣味というだけで、文明的な意味はないだろう。
 それでも、「いったいどうなってこんなことになってしまったのか?」という問いは残る。
 「生産性」を上げようとするプロセスは、そこからは見えにくいマイナスの生産性も上げている。
 マイナスの生産性、と、ここで言うのは、生産性を下げる要因というだけではなく、そもそも生産性に逆行する産物を作り出すことだ。ただ、その逆行は微妙な迂回路を取る。
 例で言おう。スマホを支える技術は人々を豊かに、幸せにしているが、スマホ自体は個人の生活でマイナスの生産性にも寄与している。睡眠時間を奪い、人々はスマホを手にしたゾンビになって町をさまよっている。
 電子書籍は軽量で文字サイズも変えられて便利だ。著作権が切れた数百冊は200グラム満たない板に収められる。それで読書が便利になったかといえば、なったが、かつて本という物に抱いていた愛着は失った。
 手紙が消えた、電話が消えた、電子メールが消えた、それで、SNSツールは便利だろうか。便利だろう。ただ、何にとって便利なのかという迂回路の先に、マイナスの生産性がいる。

 

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2020.02.26

果たされなかった夢の残骸を人生の後半でどうするか?

 『死者の記憶をもつ子供たち』という番組をアマゾンプライムかHuluで見た。最初、ナショナル・ジオグラフィックも奇妙な番組を作るなあと思ったが、勘違い。ナショジオではなかった。
 前世の記憶を持つ子供というのは、いつの時代も話題になる。かく言う私も前世の記憶のようなものがわずかにあり、なんだろと不思議に思っている。死後の生まれ変わりみたいなものを期待するのは、天国を期待するのと同じだし、天国を期待する人間には地獄が待っているだろう。生まれ変わりを期待する人間には果てしない退屈が待っているのだ。
 番組は、つまらなかった。タイトルを勘違いしていた。前世の記憶から生まれ変わりの真相、という話というより、前世で悲劇的な死を迎えたというトラウマを抱えた子供たちというテーマだった。番組は興味を誘うように前世や生まれ変わりをほのめかすが、普通に見ていると、トラウマを抱えた子供が、歴史的に有名な悲劇事件を借りてそのトラウマを表現しているようにしか見えない。それもつらいことだろうし、こうした事例は少なくないのだから、頭ごなしに前世も生まれ変わりもないと言ったところで、当のトラウマは解消されない。
 さて、つまんないもの見ちゃったなと思ったのだが、前世や生まれ変わりはさておき、それを望んでしまうのはなぜだろうと思った。まあ、天国とか望んでもいいのだろうが。
 生まれ変わりとかを望むのは、Re:ゼロとかなろう系のラノベじゃないが、人生をリセットしてやり直せたらという思いがあるからだろう。若いといろいろ、転生的な夢も楽しいのだろうが、そう、人生の後半になると、これはしんどい。
 果たされなかった夢の残骸を人生の後半でどうするか?
 そんなの、諦めるしかないんですよね。
 答えは出ているのだが、感情とかがそれで落ち着くわけでもない。ああ、自分の人生ってなんだろうとか悔やむ。
 こうしたとき、いつも思いうかべてしまうことが2つ。秋葉原無差別殺人事件で殺害された若い女性が、「え?私の人生これで終わってしまうの?」と言ったという話だ。それと、北海道だったか、ヘリコプターで見たらSOSと石を並べたところに降りたら白骨死体というあれだ。
 普通にある朝起きて、普通に街を歩いていたら、突然人生は終了しました、とか、誰か助けに来てくれないかなと希望をもちながら死にましたとか、人生の真実というのはそういうものなのだろう。
 うー、暗くなるなあ。
 明るく考えるなら、とりあえず、生きているなら、できる範囲で果たされなかった夢の残骸を人生の後半で回収というか再構築してもいいだろうし、むしろ、そういうふうに考えたほうがいいのだろう。(で、多くの人にとって、それは「本当の恋愛」、とかいうものだったりするのだろうな。)
 でもまあ、限界はあり、最初のほうの話に戻るが、多くの人が人生を終えるとき、いろいろ悔いを残してしまうから、前世だとか転生だとかいうことになるのだろう。『100万回生きたねこ』は思いを遂げて死ねたわけだし。
 前世も転生も、実際はないわけだが、こうした残念な思いは、文化遺伝子とでもいうのか、文化に刻まれていて、そうした文化的に継承された情念・情報で人は人格を形成するわけだから、広義に言うなら、現在生きている人間というのは、そうした過去の時代の人々の悔しい思いが結実した産物かもしれない。天国も前世も信じないマルクス主義者も、今生の悔いを残しても、人類の未来に幸福な共産主義の実現を夢見て、死ぬのだろう。
 世の中には、我が人生悔いなしとかいう人もいるし、それが何か良いことのようにも受け止められているふうでもあるが、それも、それほどいい話でもないような気がする。
 普通の人間だと、人間も生物だから、人生とかいっても、子供を産んで育てれば、それなりに役割は終えた感があるものだが、それも、それほど答えにはなっていない。子供をもてば人生の意味は充足されるというものでもないだろう。
 で、どうしたらいいか?
 果たせなかった夢や後悔をできるだけ、小さくしていくのが後半生の課題かもしれない。とりあえずは、一日一日の充足があればそれ以上のことはなかなか望めもしないものだ。ということは、今日を精一杯生きようという陳腐な話になるのだが、そうくさしたものでもなく、人は一日を漫然と生きてしまう。気をそらすものに溢れているからだ。
 ということで、あるなら、一日の気をそらすものを整理していくというのが、いい、ということになる。(スマホ見てんじゃねーよ。)

 

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2020.02.25

嫌うことの自信

 昨日、「嫌うことの自由」という話を書いたあと、少し心に引っかかっていたことがあった。「嫌うことの自由」ということと、「誰かを嫌うことで、他者と共感を得ようとすること」の差異のようなものである。
 単純に言うなら、「誰かを嫌うこと」と「誰かを嫌いだと言うこと」の違いである。
 言うまでもないが、ネットの世界は、「誰かを嫌いだと言うこと」に溢れている。嫌いなら嫌いでいいじゃないか、嫌うのも自由だし、勝手に一人で嫌っていたらいい、はずなのに、ネットでは(ネット以外でもそうだろうが)、「誰かを嫌いだと言うこと」に溢れている。どういうことなのか?
 何かが嫌いだという自分の思いに承認を求めているのだろう。
 なぜ、個人的な嫌悪に承認が必要なのだろうか? そんなの個々人の自由でいいじゃないかというのが昨日の話であったが……
 実際は、そうした個人の沈黙の思いで閉じていなくて、嫌いであることの承認が求められている現状がある。なぜか?
 嫌うということに、ある種の不自由を感じているからだろう。
 嫌うということに、自信がもてないから、といってもいいだろう。
 人は、心のなかで、何かを嫌うとき、「それを本当に嫌っていいんだろうか?」というためらいの感覚を持つのだろう。だとするとそれはなぜか?
 親とか先生に「好き嫌いをもってはいけない」と言われてきたからだろうか。「自分が嫌われる立場になるといやだから、自分もそうしようにしよう」とするのだろうか? はて?
 と、ぼんやり考えて、もしかしたらと思ったことがあった。
 好き嫌いというのは、雑食と関係があるんじゃないだろうか?
 人間とか豚とかは、雑食である。
 雑食というと、なーんにも考えずになんでも食うおバカみたいな印象があるが、実際は、逆で、何が食えるか食えないかをいちいち判断して食って生き延びるという動物である。
 人間や豚は、食い物みたいなものがあるとき、これ食えるか、食えないか、自問するのである。まずは、くんっと臭いを嗅ぐだろう。
 そして、うっ、これは食えない、という感覚を持つことがあるのだが、そのときの感覚の根は、これは嫌い、いやな臭い、だということではないだろうか?
 ただ、そうやって自分で食えるか食えないか判断している豚と人間の差は、人間のほうは、文化的に、これは食えるという観念体系を継いで来ているのだろう。納豆とか食えるのも、これは食えるという伝統と教育だろう。
 話を戻すと、嫌いということに承認を求めるのは、この雑食と文化の枠組みにあるんじゃないかということだ。
 これをどう裏付けていいかよくわからないが、こう考えると1つ明確になってくることがある。2つといっていいかもしれない。

 1 人間や豚は雑食性ゆえに好き嫌いを区別する動物である
 2 人間は文化的に食えるものを、最初嫌いでも受け入れる

 嫌いであることに承認を求める心性というのは、この2の残存ではないか?
 そうであれば、この2の文化性をネットとかの承認ではなく、きちんと文化のなかで見直せば、あらかた十分なのではないか。
 どういうことかというと、これは嫌いだなという自分の感覚があり、でもそこに、嫌うことの自信がなければ、人間の文化のなかで、それを嫌う根拠性を理解すれば足りるということだ。承認は概ね不要。
 具体的にどうか? 例えば、ワーグナーの音楽。好きな人もいるが、嫌いな人もいる。嫌いな理由はすでに文化的に積み上がっている。その嫌いな理由に合意できれば、「ねえねえワーグナーの音楽は嫌いだ!」という必要はなくなる。
 こういうふうに考えると、好き嫌いということと、善悪ということは、分離できるんじゃないだろうか。何かが潜在的に悪であるという感性は、最初は嫌いということに根を持つだろうが、そこで承認を広げていくより、悪の構成要素を理性で訴えたほうがいいだろう。

 

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2020.02.24

嫌うことの自由

 『嫌われる勇気』という本がベストセラーだったのは、2013年ころだろうか。今でも書店でも見かけるのは、今でも、人に嫌われるのはやだなあと悩む人が多いからではないか。と、考えてみて、ちょっと、変な感じがした。
 「嫌われる勇気」というのは、ちょっと考えると、変な日本語だなと気がつく。「嫌われる態度」「嫌われる男」といった語法が自然に思えるので、その語法からすると、「勇気もいろいろあるが、うんたらの勇気は人から嫌われる」という意味になりそうだが、まあ、同書のタイトルではそうではない。「嫌われてもいいやという勇気を持て」といったところである。
 そもそも、嫌われることに勇気が要るのか、というと、要るというのが、うっすら社会の常識になっているからだろう。日本社会だけとも限らないだろう。人の行動を抑制するのは、こんなことをしたら他者から嫌われるだろうなという感覚ではあるだろう。
 そうした感覚を否定するものでもないし、今更ながらにアドラー心理学を持ち出してうんたら言いたいわけではない。中島義道先生の『ひとを<嫌う>ということ』も当たり前に既読だが。
 思ったのは、人が何かを嫌うことは、普通に自由の範囲なのではないか?ということだ。嫌うことの自由、とでも言いたい。
 人というのは、自由に何かを嫌っていいのではないか?
 問題となるのは、嫌うという内的な心情を外的な言動に表出したときではないか。
 もうちょっと言うと、嫌うという言動が、他者に理解されて当然のような様式で言動として表すことの問題ではないか?
 私が言いたいのは、人は何を嫌っても自由だが、嫌いだということを言動に表現したら、その言動による責務は負うだろうということだ。
 というようなことを思ったのは、そういう思う機会が増えたからだ。
 例えば先日、かつやのカウンター席でカツカレーを食っていたのだが、その席が角席で、視線の先に他の人が食っているのが見えるのだが、その人もカツカレーを食っていて(その人は私の後に座ったので、私の注文を見て、あ、私もカツカレーとか思ったのかもしれない。ちなみに、私よりも大きなサイズで)、それが、美しくないのだ。美しくカツカレーを食えとは思わない。それは、醜いのだ。おもむろにぐっちゃぐっちゃに混ぜるあたりは我慢した。そういう彼を混ぜて食う一群の人々の存在は大学で知った。が、そこに割干し大根までまぜこんで……うわーきたない、こいつ嫌いだなあと、私は思ったのだ、平然と、表情にも出さずに。そして、私はというと、まだ食べている途中だったが、まあ、このくらい食べたらいいくらいは食べたし、そのまま黙って静かにすっと席を立った。嫌うことの自由である。
 私にこっそり嫌われたその人としても、こっそりと私を嫌っていたかもしれない。かつやでカレー食っれる爺いは嫌いだぜ、ふんっ的な。それも、嫌うことの自由である。
 話はここでまとめに入るのだ。
 私たちは、もっと他者を嫌ってもいいんだろうと思う。嫌う感情自体に倫理的な罪責感を持たなくていいんだろうと思う。
 でも、それを社会的に見える言動にしたら、社会的な責任を負うことになる。
 それと、そうした、誰かを嫌うことで、他者と共感を得ようとすること(嫌うことの連帯)は、できるだけ、やめたほうがいいだろうとも思う。嫌うことの自由は意外にもろいものかもしれないし、自分の個人的な嫌うという大切な感覚を他者の感覚と調整することで、自分の感覚というもの自体を傷つけやすい。

 

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2020.02.23

人を呪縛する内的な為替ともいうべきものについて

 話のネタとしてよく知られていることだが、都道府県で世帯あたりの預貯金の現在高(定期性預貯金)がもっとも多いのは、香川県である。香川県民は、貯金しまくっているらしい、とネタは続く。統計局で詳細を見ると、定期性預貯金の割合では秋田県がもっとも高いので、やたら貯金するのは、秋田県民と言えるかもしれない。が、貯蓄年収比で見ると、香川県がトップに出てくる。統計年の差や統計の見方の差はあるだろうが、概ね香川県民には貯金する傾向があるとは言えそうだ。なぜなのか?
 香川県にはなにか秘密があるのだろうか?
 他に、香川県の奇妙な特徴といえば、糖尿病が多いことだ。糖尿病死亡率が2018年にワースト3位。香川県の糖尿病は安定的に上位をキープしている。なぜなのか?
 うどん、だろうか?
 うどんの消費がもっとも多いのが香川県だと言われている。「言われている」というのは、「うどん・そば」の消費は統計値があるが、うどん単独はよくわからないからだ。だが、概ね、そう見てよいだろう。
 うどんの食べ過ぎで糖尿病というのはわからないでもない。どうやって因果関係を導くはわからないが。
 だが、うどんの食べすぎで貯金しがちだ、というのは、わけがわからない。もし関連があるとすれば、うどんは比較的安価だから、食費が減った分だけ、貯金するのではないか?ということだ。
 そう、説得力はぜんぜんない。
 そもそも、そうした考え方自体がおかしい。間違っていると言ってもいいだろう。偉そうに言えば、疑似相関とかになるのだろうか。
 だが、気にはなっていたのだ。
 なので、稲垣えみ子さんの『魂の退社―会社を辞めるということ。』でこの問題の解答案が提示されていたのを読んだときは、ある種、衝撃だった。

 

 彼女の考えだとこういうことらしい……何か買いたいものがあるというとき、人はそれぞれ、この価格なら買えるという基準のようなものを持つ。偉そうに言えば、行動経済学的な行為である。
 で、あるものの価格を見て、稲垣さんの洞察によるだのだが、香川県民は、「この価格なら、うどん何杯食えるかなあ」と考える、らしい。うどんで換算するらしい。で、「この価格なら、うどんを何杯か食ったほうがいいな」と考えて、買わないことに至りやすい。
 もちろん、話のネタではあるが……マジに受け取るなよ。
 だが、うどん換算の信憑性はネタとして、行動経済学的にも、人は、「内的な為替」とでも感覚を持つとは言えるだろう? というか、行動経済学にこの概念がなさそうなのが、不思議にも思える。ある?
 で、人はどのように、「内的な為替」を形成するか? と考えを延長していて、はっと気がついたことがあった。「内的な為替」は、「内的な複式簿記」とでもいう感覚と結びつきやすいのではないか。例えば、本好きが、学術書買って散財したら、少し食費を削っておこう、といった(痛い話ではあるな)。これは、通常は、なけなしのお金のやりくりと理解されているが、むしろ、「内的な複式簿記」の感覚ではないか。
 そこで、話は飛ぶ。
 私は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通常、プロ倫)という小難しい本を愛読書としているのだが、この本の要諦を卑近に言うなら、どけちになって金を貯めるほど、天国に行けると思っていた人が、結局、金を貯めて資本主義を導いた、ということだ。いや、正確には、どけちになるのではなく、散財で満たせる世俗の快楽を抑制できることで、その人が神から天国行きに選ばれていることの心理的な証になるのではないか、ということだ。まあ、いずれにせよ、貯金が強いられる心性になる。これがプロテスタントの倫理である。これが資本主義の精神(ガイスト)に史的に変化する。資本主義という幽霊(ガイスト)と言ってもいいかもしれない。
 と、いうのが、プロ倫の理解ではあるというか、私も生前にお会いした大塚久雄先生的な理解でもあるのだが、実際に同書を愛読しててひっかかるのは、複式簿記の脅迫観念なのである。この点については、30年も前になるが、同じくプロ倫愛読者と徹底議論して、だよねと、合意した点でもあるが、複式簿記の歴史とは別だが、これをある宗教的な熱狂(つまり倫理)で行ったのはプロテスタント商人ではなかろうか?
 自身が義人である(天国に行ける人である)ことは、倫理の複式簿記の結果として内的に理解され、それは内的な為替感覚につながっていたのではないか? つまり、例えば、「ここで劇場に行くと、娯楽として悪人性を出費してしまうだろうな、やめとこ」的な。
 まあ、お前は何が言いたいんだといったブログ記事になってしまったが、人というのは、なんらかの内的な為替感覚を持っていて、それが単一システマティックに、複式簿記的に整理されていると、消費行動から生き方(倫理)まで呪縛してしまうのだろうなという話である。
 (あともうちょっというと、現代日本人は長期にデフレ生活をしていて、この内的な為替感覚が変わってしまったんだろうな。)

 

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2020.02.22

新ミニマリストの時代か?

 「ミニマリスト」という言葉が少し前に流行っていたような気がする。音楽や芸術のそれではない。簡単にいえば、倹約生活といったものだ。貧乏暮らしを楽しくと言ってもいいのだろうが、それだと昭和っぽすぎるのだろう。新時代のミニマリストの御教組もいろいろいる。そうした御教組ニーズ、というのも変だが、あるのだろう。

 確かに、身の回り、いろんなものが増えすぎた。そしてそれらは結局のところ、人の時間と関心を奪っている。カール・マルクスの時代は、人々から搾取するものは労働だったが、現代では時間と関心だろう。どんな金持ちでも、1日の時間は限られているし、一人の人が持ちうる関心対象にも限度がある。つまり、時間と関心こそが希少性でもある。そういうふうに思い至る人が増えているのも、新ミニマリストの背景かもしれない。

 先日、スマホ・アプリを減らす話を書いたが、これらの機器は新しい搾取の道具でもある。実際少し減らしてみたら、退屈が増えて、ぼんやり静かに物を考えるようになったというか、こんなものの無い時代を思い出した。

 朝日新聞の記者だった稲垣えみ子さんも、昨今のミニマリストの御教組の一人と言っていいんじゃないか。彼女は、震災・原発事故をきっかけに電気を減らす生活を始め、つまるところ残ったのは4つ、電灯とラジオと携帯電話とパソコンだったらしい。携帯電話はスマホと同じ、というかガラケーもなくなったから、要するにミニマリストでもスマホは手離せないし、パソコンはライター業務用だろう。ラジオはだらだらとうるさい道具にもなる。

 とあげつらうようだが、彼女としては、冷蔵庫も洗濯機も要らないことに気がついたというのが天啓であったようだ。炊飯器も要らない。おおよその家電機器は要らないという気づきが新ミニマリストたるところだろう。

 僕も歳取ったなと思うのだが、冷蔵庫の無い時代を知っている。夏のある日、父と一緒に自転車をついて氷屋に行った。氷屋というものがあった。洗濯機のない時代も知っている。思い出すと異世界だな。風呂も薪で焚いていた。

 昭和の三種の神器とも言われていたなと思い出し、冷蔵庫と洗濯機ともう一つは何だっけ。度忘れ。白物家電だったが、と。

 答えは、白黒テレビ。白物家電とも言いがたい。私の家に来たのは5歳ころだったろうか。鉄人28号のアニメ見た。小学生前だった。幼稚園の帰りのバス待ちで地面に並んで座らされたので、地面に鉄人28号の絵を描いていたのだ。それから、鉄腕アトムのアニメを見た。オバQも。などなど。

 当時の評論家・大宅壮一はテレビが家庭に普及する以前に一億白痴化と言った。1957年。私が生まれた年だった。私自身も一億白痴化時代の申し子だったな。

 

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2020.02.21

あなたの時間を吸い取る「果てしないプール」

 世の中がおかしなことになってきた気がする。というとき、おかしいのは自分のほうかもしれない、とも思う。が、とりあえず自分にとっては、世の中がおかしいという感じはする。
 具体的には、2つ思う。1つは、新型コロナウイルス騒ぎである。感染症自体より経済的な波及や社会心理の側面が大きな問題になってしまった。もう1つは、ネットである。端的な例でいうと、Twitterが気持ち悪い。
 とかいうと、おまゆう、の類だが、これもそう感じる自分がいる。これに関連していることだと自分では思うのだが、街なかで中年から初老スマホゾンビが増えたと思えることも、気持ち悪い。なんでこんな爺さんがスマホ見ながらぼんやり歩いているのだろう、危ないなあと。スマホ見るのはいいけど、立ち止まるか、座れよ。
 この2つをあえて1つの問題意識にまとめる必要はないのだが、それらの根にあるのは、情報のありかたではないだろうか。スマホ経由で入ってくる情報というもの自体が大きな問題なんじゃないか。
 というあたりで、自分を振り返ってみて、「Twitterが気持ち悪い」ということはどういうことか考えてみた。いや、考えてみようとして、なにか思考がぼんやりとする。一体全体、これはどういうことなのだろうか? この状態がけっこう長く続いていた。
 その出口のヒントのように思えたのは、『時間術大全――人生が本当に変わる「87の時間ワザ」』という本だった。
 これは、一昔前のGTD、Getting Things Done(仕事を完遂)の本だろうと思って敬遠したのだが、読んでみたら、読み方にもよるのだろうけど、その正反対な内容だった。この本については、別途書評を書きたいと思っているのだが、まず印象的だったのは、SNSアプリをやめなさいということだ。ここまでの文脈でいうなら、 Twitterをやめなさいということだ。気持ち悪いなら見ることないじゃないか。とも言えるのだが、現実そういかないでいたのはなぜか? そしてどうしたら、やめられるのか?
 同書の答えは、前者についてはそれが「無限の泉」だからというものだ。無限に人の時間(人の関心といってもいいだろう)を食っているものだというのだ。だらだらとSNSをすることで一日の時間とエネルギーが消費されている。ああ、それだね。
 やめかたについては、同書は的確に示唆していた。意志でやめるのは無理だ、というのが大前提。であれば、その先は、システム的に対応する。簡単にいえば、スマホからTWitterを削除する、である。え?!と思ったが、まさにそれだ。スマホの電源は通常切っておくという提言もあった。
 ただ、同書は、こうした一見極端な提言をしつつ、極端にこだわることもないとしている。要は、こうしたものは意志でやめるのは無理なので、簡単にやらないようにする仕組みが必要ということだ。
 「無限の泉」はTwitterと限らない。SNSツールは全部それだし、ネットサーフィンもそうだろう。同書には触れていないが、Amazonのショッピングもそうだろう。そして、同書では、Netflixも「無限の泉」に入れていた。
 ところで、「無限の泉」というのは変な日本語である。原語はどうなっているのか、原書にあたったら、”Infinity pool” だった。「インフィニティ・プール」である。日本ではそれほど普及していないのではないかと思うけど、ビルの屋上とかにある縁が見えないプールである。そのプールのなかにいると、まるで端のない海でもいるような錯覚をもたらす。井の中の蛙、大海を幻視する。
 つまり、そういう錯覚をもたらす仕組みが”Infinity pool”であり、『時間術大全』がこの言葉で言っていることは、時間の縁が見えないようにする仕組みとしてのSNSアプリやオンライン動画である。こうしたアプリは、時間的に終わりがわからないような錯覚をもたらすのであ る。
 さて、Twitterをやめるかな? と考えてみた。
 まず、インフィニティ・プールとしての使用はやめることにした。同書が勧めるように、スマホの画面から外した。ついでにいろいろアプリを削除した。通知を重要な連絡以外はオフにした。やってみてわかったのだが、電池の保ちが改善した。そろそろスマホも買い替えかと思ったが、使う頻度が下がれば買い換える必要もないな。
 同書の提言は、インフィニティ・プールを排除することで、気力のある時間を作る点にあるが、実際に、インフィニティ・プールを減らしてみて思ったことは、退屈だった。我ながら、スマホやiPadをいじらないと退屈なのである。
 で、どうしたか?
 本を読んだり、音楽をまとめて聞いたりした。散歩もした。そして、「ああ、高校生時代とかこうだったな」と思い出した。40年以上も昔、スマホとかなかったしな。
 情報やコミュニケーションを自分の主体の側に取り戻していく必要があると思う。どう取り戻すかは難しいが、奪うものの阻止には着手できた気がした。

 

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2020.02.20

坪内祐三とまついなつきの死のこと

 坪内祐三とまついなつきの死のことが、ちょっと、でもずっと、喉に引っかかるような感じがしていて、これはブログに書いておくことだろうと思いつつも、どことなくブログを書くことの重さのようなものにも沈んでいた。でも、まあ、少し書いてみよう。二人について個人的に知ることも会ったこともない。熱心な読者というわけでもない。同時代人ではあるが、と、そういうあたりの思いである。
 「つぼうちゆーぞーが亡くなった」と、1月13日、人づてで聞いたとき、一瞬、誰?と思った。伝えてくれた人は、私がその人をよく知っているではないかという感じだったので、誰?の間抜け感は際立った。私の脳裏には、一瞬、「壺内」という漢字が浮かび、それから、「坪内逍遥」が浮かんで、そんなわけねーじゃんとツッコミながらプチパニックっていた。もちろん、ほどなく「坪内祐三」という文字になり、それから、え?!と、あらためてパニっくった。同い年か、一つ年上だったはずで、死因は何?という思いと、神蔵美子の『たまもの』の表紙とその写真を思い出した。
 死因はNHKの報道では急性心不全だった。もう少し死んだときの状況が知りたいと調べて、生年は1958年と確認する。私より、一歳年下であった。死因については、今報道を見返してもそれ以上の情報はなさそうなので、これも特に書くべきでもないだろう。
 雑誌SPAに連載されていた福田和也との世相放談「これでいいのだ!」は、いつ頃まで読んでいただろうか。定期的に読まなくなっても折に触れて目を通していたと思う。そして、いつも思ったことは、坪内さんの感覚は私に近いこと、福田の感覚は私の下の世代であり世代的なズレをそこで確認すること、だった。
 振り返ってみるに、坪内さんの感覚は私に近かったと思う。性格はかなり違うだろうから、そこでの共感はなかったし、文芸についての感性も根幹で異なっていたこともあり、あまり著作を読んだわけではない。ただ、同時代人が死んだという思いは強い。
 まついなつきが死んだのは、1月21日。入院したのは人づてで知っていた。というか、そのおり、重篤なのではないかとも聞いたが、私は、大丈夫じゃないか、中村うさぎも神足裕司も日垣隆ももちなおしたしと添えた。が、死んだ。死因はよくわからない。糖尿病は抱えていたような気がする。1960年の生まれで福田和也と同じ、つまり、世代感覚としては私とは異なるのだが、『笑う出産』の1994年は、私の初子が妊娠した時期で、そもそもそれがきっかけで同書を読んだものだったので、その同時代感はある。面白いし、よい本だった。読みつがれるとよいと思うが。その後も、彼女の出産・育児本はよく読んだ。彼女は3人産み、私は4人の子持ちにもなった。彼女の死で思ったのは、残された子どもたちの思いだった。
 まついなつきが離婚したときは、少し驚き、占い師に転身してからは、関心を失ったが、いつか、彼女に占いでもしてもらう気でいたので、死なれてみて、奇妙な空白感はある。
 坪内祐三が満年齢で享年61、まついなつきが59。私の父が亡くなったのは62歳。昨年は自分の生の終わり感を思ったがそこを超えてのうのうと生きている(でもないか)なか、不意を疲れたように、この年代で死んでいく人を見る。直接の知り合いでも、入れ込んで読んだ著作家でもないが、同時代の経験者が死者となっていく後ろ姿なのようなものが哀しい。

 

   

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2020.02.19

ラノベをkindleで読むことについて

 アニメをきっかけにラノベを読むことが多くなり、読み終えたラノベが貯まるということになってきた。それが何か? ということだが、これが私にとっては微妙に問題なのである。前提がある。基本私は紙の本が好きで、それと一度読んで終わりかなという本は読み捨てることが多い。捨てても、そういう本はたいてい公立図書館とかにあるので、気になったら行って該当箇所を見ればいい……それでこのエコロジーは完結していたはずなのだが、ラノベが微妙な辺獄にいる。読み捨て本なのか微妙だし、公共図書館とかにはないことが多い(あるものもある、というか増えているのだが)。どうしたものか、というか、その問い以前に答えはわかっていた。電子書籍である。Kindleである、つまり。

 ラノベはKindleで読む。それでいいじゃないかということだが、文明の発達は必ずしも予期した良い影響だけをもたらすものではない。とほほ。ラノベを読む量が増えてしまった。これも、それが何かが問題?といった類ではあるが、こうなるとは思っていなかった。例えば……

 アニメが1期で終わってしまい、2期は多分ないだろう(話が先回りするが、原作読んでみると1期は必ずしも忠実でなく、しかも上手に1期で完結的にまとまっているのでつなげにくいというか、アスキーさんは「とある」以外にしょっぱい印象がある)。で、Kindleで読み出したのだが、6巻めの次に17巻を買ってしまった。『はたらく魔王さま!7』を17と勘違いしたのである。うっぷす。どうしたものか? どうしたか。7巻から16巻をまとめて買った。ついでに、残り全巻買ったのである。どうせ読むからなあ、と。実際、読んだのである。書評は別途書こうかと思うが、名作だった。最新刊が2018年ってどうよという状態である。

 と、ここで余談だが、長編ラノベなると、Amazonの読者評がしょっぱくなる傾向があるなあと思う。何巻までは良かったのに、もうダメだとか、駄作になってしまった、もう読まないとか。『はたらく魔王さま!20』もけっこう悪評がついていたが、メインストリー全部読んだがとりわけ破綻してないというか、伏線が緻密に構成されていると思った。まあ、しかし、ラノベというジャンルの読書というのは、こういうことなのだろう、こういうこというのは、すでにSNS的なものなのだと。

 本は紙で読みたいものだと思っているし、古書は紙しかないものが多い。それでもKindle化は進み、読み捨てでなく貯めている本すら、Kindleで買い直して捨てることさえある。なんてこったと思う。

  

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2020.02.18

自粛のやーな感じ

 一般参賀が中止になったという話を小耳にしたときは、一瞬、はて?と思い、そういえばその前のことだが、2月のカレンダーで「今年は閏年だったな」と確認したおり、24日月曜日の祝日に、はて?と一瞬疑問に思ったことを思い出した。まあ、この手の行事が中止になるのは日本の国の形うんたらといったところかと思い、それ以上気にもとめなかった。それからほどなく、願望から聞き間違えたのだろうが、東京オリンピックが中止になると聞き間違えて、そりゃいいと思い、いやまさかそりゃ大事件だと気がつく。東京マラソンの、一般参加の中止らしい。それもいいと思ったが、そのあとで新型コロナウィルスかと気がついて自分のうかつさにあきれた。一般参賀もマラソン大会も、僕は嫌いなんで、基本世の中から消えちゃえば好ましいが、いやいや、世の中というのは、そして自由な市民というのは、他者の不快に苦虫を噛みつつ、気の利いた皮肉で笑い飛ばすものであったなと考え直すのだが……そう、嫌な感じがしてきた。

 嫌な感じ。世の中に「自粛が蔓延」する感じ。じわじわと、間抜けな尾行者が迫っている、あの感じが、自分にとって姿を現したのは、墨田区「5000人の第九コンサート」中止の連絡であった。ニュースで知ったのでもなく、小耳に挟んだというのでもない。しかたないですよねというメッセージも添えられていた。僕は昨年秋から第九の合唱を練習しているので、こうした連絡ももらうようになったのだ。墨田区のこれには参加しないが、気には留めていた。

 ニュースを見るに、5000人余という登録数より、全国から募ったことを懸念したようだ。そう言われてみれば納得しないでもないし、先のメッセージもそうしたトーンであった。が、これはこのくらいで留まるだろうか。

 と懸念して「自粛」のキーワードでニュースを探ると、政府開催の、新型肺炎についての専門会議では、感染拡大を防止するために集会やイベントを自粛すべきだという見解は示されなかったとの話があった。それをいうなら、非感染者のマスクに感染予防の効果があるという意見もないだろう。そして政府としては、消費税の経済波及を抑えたいところだろう。

 自粛の空気はこのあたりで留まるだろうか。新型コロナウィルスの死者が増えれば、また空気は勢いつくだろう。どうなるかといえば、あまり明るい展望は見えない。

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2020.02.17

新コロナウィルスでわかったこと

 新コロナウィルスでわかったこと、いや、正確に言えば、新型コロナウィルス騒ぎでわかったことだが、どうやら世の中にはニュースと言うものはないんじゃないだろうか。

 もう何日前からだろう。あるいは数週間前からだろうか、毎日見るNHK7時のニュースが、ほとんどニュースと言えるものではなくなってしまった。30分間のニュースだが、新型コロナウィルスの騒ぎとスポーツニュースと天気予報を除くと、残りはあと5分ほどだろうか。そこでは地方の話題やスケジュール通りの出来事の報告といった話で終わる。逆に言うのなら、新型コロナウィルス騒ぎとスポーツニュースと天気予報がなければ、いったいNHKのニュースは30分間に何を伝えるのだろう。

 もちろん、新型コロナウィルスの話題が重要であることは間違いない。経済活動などに波及する要素についても重要だろう。横浜寄港のクルーズ船は各国でも重要な話題にもなっている。しかし、あえて言うのだが、国内の新型コロナウィルスの騒ぎそれ自体には、それほどニュースの価値があるとは思えない。新型コロナウィルスの危険性を過小評価したいのではないが、例えばマスク不足に関する騒ぎなど、新型コロナウィルス予防という観点では科学的にほとんど意味がない。かなり大雑把な意見になるが、現状では市民がこの伝染病に対して予防できることといえば、通常の季節型インフルエンザの予防と変わりがない。新型コロナウィルスと季節型インフルエンザが同じものであるとは言えないが、市民にできる対応は同じであると言っていいだろう。殊更に「正しく恐れる」といった表現をしたところでニュース的な意味があるとも思えない。

 こうしてみると、実は私たちの社会にはもうニュースが不要になっているんじゃないだろうか。と、言ってみて、そんなはずはないのになぁと思う。では、一体何が本当のニュースなんだろう。

 そういえばこの間、追いやられたニュースの中で比較的目立った話題と言えば、米国民主党の大統領選挙候補の話題があった。本来なら、このブログでは、その辺をもう少し詳しく書けば良いだろうし、これまでは書いてきたのだが、結論だけ先に言えば、話題が先行するだけの大統領候補は選挙戦の最終的な場面まで生き残ることができない。言うまでもないが、大統領選挙には資金や組織が必要になる。つまり、民主党の総力戦になるのだが、すでに前回の大統領選挙の時点で米国民主党はこの点で割れている。同じことが日本の政局の野党勢力についても言えるのだが、まぁつまりはそういうことだ。米国の政局に話を戻せば、トランプ大統領の弾劾についても、放言になるが茶番だった。重要性は、市民社会ではなく、党派性に帰着するだけだ。

 いったいどうしたことなのだろうともう一度考えてみると、私たちの社会が必要とするニュースとは何かと言う合意が見えなくなりつつあるのだろう。ここに分断された私たち個人個人について言えばその職業柄や専門領域において重要なニュースは発生している。そしてそうしたニュースは、テレビでなくてもインターネットを主体的に検索すれば、十分に得ることができる。そうしてみれば、ニュースと言うものが、ブロードキャスティングのメディアにもはや対応しないと言う時代になったのだろう。

 市民社会の分断化が、ある種の話題の重要性の中において統合されることはもう無いのかもしれない。

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