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2019.12.05

『失われた時を求めて』翻訳という日本文化

 よく「日本すげー(すごい)」という話題がネットにあがる。いろいろすごいものがあるというのだ。そうしたなかで、おそらくあまり挙げられてないんじゃないかと思うが、私が密かに日本すげーと思っているのは、『失われた時を求めて』翻訳という日本文化である。フランス語圏を除いてこれほどプルーストが研究され翻訳され読まれている国はないのではないか。
 そうしたなか、岩波文庫の吉川一義訳が11月15日に14巻で完結した。即重版になったというのも、すごいことだ。最初の巻が2010年11月16日なので訳業に9年を要したことになる。もちろん、これが最初の翻訳ではない。

 


 日本で『失われた時を求めて』の全訳が現れたのは、1953年3月から1955年10月の新潮社の共訳である。これが1958年に新潮文庫13巻に収められ、ほぼそのまま1974年に再刊された。1970年代の国際的なフランスブームで語られたプルーストは日本ではこの共訳と一部、次に述べる井上訳がもとになっていた。
 井上究一郎訳が筑摩書房から出版され始めたのが1973年。1988年に完結。プルースト学的には1987年のプレイヤッド新版がぎりぎり参照されている。1992年にちくま文庫に入った。井上訳やプルーストの文体をその長さの面でも日本語に移し取ろうとしているところに特徴がある。
 井上訳の完結を追うように、1992年に鈴木道彦が全2巻の抄訳本を集英社から出す。これがけっこう評判となった。とりあえずこれで『失われた時を求めて』を読んだことにする風潮もあったようだ。これはもとから鈴木の本意でもあったと言っていいだろう。難攻不落の名著にするのではなく、普通の小説として読んでほしいという願いもあったからだ。作中の重要なシーンを訳しその間をあらすじで追うという仕立てになっている。2002年には全3巻として文庫版になっている。
 その後、1996年から鈴木道彦の全訳が刊行が始まり、2001年に完了。2006年から翌年にかけて集英社文庫に入った。狡噛慎也が読んでいたのがこの最初の巻である。
 大体定評のある2つの新訳があれば翻訳書は安定するのではないだろうか。そう思っていたのは私だけでないだろうが、2010年9月になって、光文社古典新訳文庫から高遠弘美訳が出現した。現在も完了していない。高遠訳の背景には、1986年代に発見された原稿を基にした2008年の訳書『消え去ったアルベルチーヌ』がある。この延長として全訳に向かった。この訳書の位置づけは難しい。

 


 高遠訳の出現とほぼ同時期の11月に吉川一義訳が現れ、先行して今回完結した。現状、もっとも完成された訳業なのでこれが現状のスタンダードとなるだろう。
 なお、この間の2015年、芳川泰久の訳と抜粋をもとに作家・角田光代が日本語らしくリライトした 『失われた時を求めて 全一冊』が新潮社から出る。全体の十分の一の量になっている。現代作家の文体なので読みやすいことと、鈴木抄訳とは異なり、全体像を紹介するというより、アルベルチーヌ物語といったまとめ方になっている。芳川泰久はこの作業の後、同年、新潮選書として『謎とき「失われた時を求めて」』を出している。

 


 さて、今、プルーストをどう読むか?
 結論は単純で、吉川訳が第一候補となるだろう。上述の経緯もあるが、注が詳しく、また、各巻巻末に事実上の見出しまとめがある。現代人は、見出し中心に読書する傾向があるので、見出し的なものがあると随分と読みやすくなる。
 抄訳あるいは、十分の一訳はどうかというと、実際、自分も読んでみたが、よいのではないかと思う。
 『失われた時を求めて』にはいろいろな読み方があり、高遠は予断なく読み進めてほしいとしているし、それもわかるが、全体を俯瞰してから、読むということでもよいのではないか。その意味で、漫画的な趣向でもよいだろう。

 


 もう一点、『失われた時を求めて』読解の難しさは、プルーストの死後刊行で決定校がない第6篇『消え去ったアルベルチーヌ』から最終部分だろう。『失われた時を求めて』は未完作品ではないが、決定校がないことから全体像の捉え方は難しい。
 最後になるが、そもそも『失われた時を求めて』は面白いのか?
 これは、『失われた時を求めて』という魅力の圏内に捉えれるかという問題でもある。どこで捉えられるかというと、読書体験を通して、世界や人生についてのある感覚が変容することではないか。小説読むことで自分の感性が変わっていくというのは、体験してみると、奇妙極まりものだった。
 もちろん、多様な読み方が可能な小説だが、一つの焦点には、スノビズム批判もある。スノビズムのデコンストラクションとも言えるかもしれない。その点、『失われた時を求めて』が文学的なスノビズムで読まれてしまうとすれば、アイロニカルすぎる。むしろ、この小説はとんでもなくスキャンダラスな小説でもあり、おそらく現代ですら、スキャンダラスな危険性を持ち続けているところに魅力がある。

 

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